そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

新作五句23 おだやかな檻

2008-02-29 12:13:35 | Weblog
蝶の昼胸ポケットの深からず
春駒のごとし口笛吹くくちびる
ざうざうと風通るなり春の塵
雲越しの日のあかるさよ春炬燵
大いなる乳房の前の干鰈

『不稀』を読む

2008-02-28 23:33:45 | Weblog
案山子立ついざ鎌倉の構にて

 僕の頭の中にあるのは、すこし傾いだ案山子。農作は、今も昔も国のかなめだ。鎌倉時代の昔には、武士はいばりくさって農民の上に君臨しているのではなかった。普段は農作業をしていた御家人が、大事があった際に鎧兜を身につけ、鎌倉へ馳せ参じた。秋、金色の稲穂の海、時は儚くも一瞬でさかのぼり、まるでこの現代が夢であったかのように・・・。

 やすやすと時代を超えてしまう句は、これだけではない。

胴塚は首塚を恋ひ日短
道鏡の塚の裏なる霜柱
昔男ありける寺の扇風機

 人は群れる。村をつくる。社会を作る。国を作る。そして、歴史を作る。この作者の句には、一人の人間というちっぽけで限られた場所を越えて大きく広がっていこうとする意思を感じる。

 それが空間的な方向に向かう場合、海外詠という形でなされる。しかし、この句集においては雰囲気の統一のために海外詠は収められていない。つまり、ここでは、広がっていこうとする意思は、空間的に、というよりも時間的に発露されているのだ(ただし、海外詠がなくても、空間的な広がりは国内のさまざまな土地が詠み込まれている点に見られることには注意が必要だが)。そこで、この句集を読むと、時間を越える跳躍力に自然と目が向くことになる。

 ただし、時間・空間を越える、というのは、そんなふうに言ってしまえば耳障りは良いものの、それがいつでもうまくいくわけではもちろんない。跳躍力の唯一の源は、言葉である。ある時代を表す言葉、「いざ鎌倉」「首塚」「道鏡」「昔男ありけり」。あるいは、ある土地を表す言葉、

長崎の坂動きだす二日かな
浅草の赤たつぷりとかき氷
風の盆男踊は鳥に似て

 これらの句の中の「長崎」「浅草」「風の盆」。しかし、このような時代・土地の言葉を礎石として組み上げられた句は、ややもすると教科書的になり、上滑りし、単なる教養の強要(洒落ではない)になり勝ちである。この句集にも、その謗りを免れない句は多くある。

 人は自分の身に及ばないことは想像するしかない。自分の生きていない時代、自分の住んでいない土地。そこへ血の通った想像を広げてくれる句こそが、時代・空間を越えて我々のこころを飛翔させてくれるのだ。

 血の通った想像。そのためには、まずは自分の身辺から始めなければならないのは真理であろう。

夏休み来る真青な時刻表
あればつい何でもたたく蠅叩

 その人の血を感じさせてくれる句があるからこそ、空間的・時間的に広がっていく句も、ただの観光ガイドや教科書に陥らずに済む。

水鉄砲古稀となりても面白く

 素直で、平明で、読んで直ちに了解できて、この古稀の句は、僕の好きな句だ。しかし、このような個人的な感慨を詠んだ句と「案山子立つ」のような蠢く歴史の中に分け入っていく句が共存できる句集というのは、裏から言えば、この個人的な感慨が、さほどあくの強いものではない、最大公約数的な、共感を呼びやすいその分だけ淡いものであるとも言えることを、指摘しなければならないだろう。

作者は有馬朗人(1930-)

『平遠』を読む

2008-02-26 08:26:22 | Weblog
紅い父青い母走馬灯かこむ

 ふと目覚めると、右に寝ていた父も、左に寝ていた母もいない。心細くなって暗い部屋のあちこちに眼をやっていたら、隅の方から何かの色彩が鮮やかに流れているのを感じる。ぼそぼそと何か話す声も聞こえるようだ。寝ている体の向きを少し変え、そちらを見ると、父と母が回り灯篭を囲むようにして坐っている。父の顔も母の顔もしんみりとしていて、今までに見たこともないような表情を浮かべている。ぼそぼそ呟く声は聞き取れない。寄る辺ないさびしさで、わたくしは声もかけられずにそのまま眼をつむった。・・・

 この句集では、作者がさびしい幻想に遊んでいることがある。

枯芦の西は太陽のほか行かず
火を焚けば火はいづこにも原爆忌
雪女郎枕の中を通りけり

 枕の中を通っていった瞬間の彼のおののきよりも、枕の中を通っていかざるを得なかった雪女のさびしさに身をつまされてしまう。だが、実は「幻想に遊んでいる」と言っても、無理な言葉遣いをしているのではなく、地に足の着いた表現の中に巧みに幻想的な雰囲気をしのばせているのだ。

 しかし、そのやり口で成功している例はあまり多いとは言いがたい。たとえば、この句集では蛍の句が大変多い。蛍というただでさえ幻想的なものを扱うのは、よほど地に足が着いているかよほど幻想に飛んでいるかしないとおもしろくないと思うのだが、僕におもしろいと思えた蛍の句は、わずかに次の二句である。

蛍籠提げて横断歩道の縞
杣の小屋一升瓶を蛍籠

 ほかは、どうにも中途半端なところで言葉が組み合わされてしまっているような印象を受ける。陳腐な比喩などに代表される常識的な判断の範疇での言葉の操作が多いのだ。たとえば

放流のごとし蛍を川に撒き
流されて蛍の言葉つながらず
石の橋経て火の海の蛍沢

 「放流」「言葉」「火の海」という比喩は、決して下手ではない。むしろ、このような使い方であれば大変上手な部類に入るだろう。きれいですね、とは思うだろう。しかし、新しく見出された蛍の手ごたえを、たとえば宮本輝の『蛍川』のようなえもいわれぬ美しさを、これらの句は獲得できているとは言い難いのではないか。これらに比べれば、なんでもない横断歩道の縞を、蛍籠という普段とは違った光源のもとで見ていたり、一升瓶の中に蛍を放したりしていることに僕は今まで自分の知らなかった美しさを感じる。

 大事なのは、言葉ではなく感覚なのだと思う。言葉だけでは、我々は生きていることを実感できない。この体に触れる全てをいとおしみ、まだ語られていない何かに到達する。走馬灯のような幻想に飛んでいけるのは、そのような下地があるからだろう。それを感じさせてくれた句を、最後に挙げておくことにする。

桜鯛料(つく)りきし手をまだ拭かず
暑き日がはじまる鶏の脚の毳(けば)

作者は鷹羽狩行(1930-)

『蜜』を読む

2008-02-25 22:40:52 | Weblog
兄嫁は甘き南瓜をえらびけり

 楽しいことは儚いこと。それが過ぎ去った後で切なく思い起こされることを、夢を見ているその間にどこかで意識してしまうということ。それが彼女の生きているいろいろな場面でとらえられていると感じた。

ゴールデンウィーク寝巻のままで屋根にゐる
森の方から短夜が来るんだよ
一週間くらい夜だといいな花火する
初雪やキミ明日クル明日クル

 「キミ明日クル」だけではちっとも面白くないが、「明日クル明日クル」と繰り返すことによって、なんだかそれは彼女の中にあるただの願望で、本当はそんな明日なんて永久に来ないんだと、そしてそれは彼女自身が一番よく分かっているのだと、僕には思えてしまう。醒めると分かっている夢をつかの間祝福するかのような残酷さで、初雪が見えている。

 「一週間くらい夜だといいな」なんて、馬鹿馬鹿しい、かわい子ぶっちゃって、なんて言うと実も蓋もないが、それが馬鹿馬鹿しい夢である分、なんだか泣けてくる。ああ、誰かと花火をしている今この瞬間が、彼女にとってはとても大切な時間なのだな、と思えてきて。

 率直で平明な言葉遣いが、幸せというものにさびしさというものが入り込んでくるにおいを的確に見定めてしまって、かなしい。

囀や抱きかかへゆく捨てるもの
夏の雨ままごとの椀みたしをり

 しかし、そんなふうに切ない幸せばかりが彼女の句の魅力ではない。

こんちきしやうこんちきしやうと牛蒡引く
筍の一頭二頭とかぞへたき

 ほほえましいユーモアセンス。ここに切なさを読み取るのはどう考えても言い過ぎであろう。人間以外に彼女の目が向くとき、それはユーモアと言う形で幸せな光を捕まえるらしい。

 冒頭に挙げた句には、日常の幸せの中にひそむ、本当に些細な、ちょっとした淡い影のようなものを感じる。兄嫁と二人で青果を買いに来ているのであろう。「兄嫁は」の「は」という助詞に、「自分には選べなかったが、兄嫁は選べた」という比較を感じる。実際に甘かったのだから文句はないのだけれど。わだかまり、とまで言葉に出して言ってしまうほどでもない、心の中のささやかな淡い影。すっと通ってしまってもいいくらいの。

 きっと楽しそうに言っているのだ。「兄嫁は」なんて。歌うように。とっても仲も良いし、いつも一緒に笑い合ったりしているのだ。それでも、心中のどこかにはあるのだ、指にできたささくれくらいのひっかかりが。あるいは、これくらいに淡い影を含んでいるからこそ、本当に安心して幸せだと思えるのかもしれない。「一週間くらい夜だといいな」なんて呟かずにすむ。

作者は如月真菜(1975-)

『遠岸』を読む

2008-02-24 02:00:02 | Weblog
薔薇の束貰ひ機席を狭くせり

 海外詠って、ひょっとしたら、極力、カタカナを使わずに書いた方がむしろ雰囲気を出せるのかもしれない、などとこの句集を読みながら考えた。これはおそらく故のないことではないと思う。

 単に、カタカナで海外のことを詠むのでは言葉が日本語に消化しきれていない印象があるから、というのもある。もっと大きな理由としては、カタカナは表音文字であるため、そこから外国の持つ特異な雰囲気をかもし出すのはむつかしい。逆に、表意文字である漢字の方が異国の地のイメージを頭の中でふくらませるのに適当な場合が多いと言えるかもしれない。「フランス」と「仏蘭西」の違い、のようなものだろうか。

 掲句も、海外詠なのであるが、「コックピット」と言わず、「機席」という硬い文字を使うことで、計器類のごちゃごちゃ並んだ、あの機械のイメージが立ち現れる。そんな無機質な空間に闖入してくる香りの強い花束、そのコントラストは明瞭でくきやかである。

 この句集の一番目に付く特徴は、海外詠の多さである。

大瀑布翼あるものは直に見る
金髪は冷え易くして滝を去る
摩天楼より新緑がパセリほど

 新緑がパセリほど、という見立ては、この句の誇る圧倒的な知名度に比してそれほどまでうまい措辞だとは僕は思わない。車がおもちゃみたいだ、と言うのとあまり変わりがないように思う。

 むしろ僕が惹かれるのは、金髪が冷え易いという嘘か本当か分からないけれど妙に納得させられてしまう言い方であったり、コックピットを満たす薔薇の香りであったり、というところ。既成の俳句の価値観をやすやすと越えていけるのは、むしろ既成の俳句の作法を深く身につけているからであろう。

 また、この句集にもう一つ特徴的なのは、生命、主に母性を内包した女性性への敬慕だ。そこにはみずみずしい女性が生きて動いており、単に「母」なるものだけが注目されているのではないあたりも興味深い。

産んで来て白高靴にまたも載る
母の日のてのひらの味塩むすび
香水の中より言葉子を諭す

 母性は、母と子のつながりを表し、生命の連鎖への目を開く。その観点からの生命観は、いろいろな生き物がかなり人間の感覚に引き寄せてとらえられる結果につながる。

ねむたくて殻を曇らす蝸牛
枯るる前眼がよく見えて蟷螂
一湾の縁のかなしみ夜光虫

 このような句に見られる人間および生命へのやわらかい視線を意識すると、冒頭に挙げた句も、直接には描かれていない操縦士のにこやかな笑顔が見えてくる。空を飛ぶという人類の叡智、操縦士や機長といった勇ましい男たち、彼らをたたえる美しい薔薇ー。彼の句は、基本的にまっすぐな生命讃歌、人間讃歌になると思う。それは、草田男とはまた違った形での。草田男よりも主情が前に出ないぶん、一見クールに見える。野暮ったくない。さらりとしている。それはおそらく、表現技法にとどまらぬ、草田男と彼との本質的な違いでもあろう。

豊年よ改札鋏もてあそび

作者は鷹羽狩行(1930-)

『ヤマト19』を読む

2008-02-23 09:49:20 | Weblog
十三年生きて夜店の金魚なり

 彼の句には若さが横溢している。それは、ほとんど稚気と呼ぶにふさわしいほどの。無邪気、とは違う。おさない、とも違う。世界の全てを表現できると思っているような、傲慢で放胆、才気走った表現技法、そのくせ繊細で、ときに叙情が洩れ出てきてしまうのだった。

手袋の欲しくて大気圏の底
うさぎ啼くほどの図星でありにけり
事務長の作る助宗鱈の鍋
オウム特別立法や蟇あるく
草の花夕日が鬼の缶を蹴る

 手袋の句は、「手袋の欲しくて」という措辞が新見南吉の「てぶくろをかいに」を思い起こさせるが、「大気圏の底」という大きなスケールの取り方が、さびしい気流の流れ、冷たい夜の闇を思わせて魅力的だ。書かれていなくても、豊かな白い息が見えてくる。

 とにかく何かやってやるぞ、という意気込みが句集全体にあふれていて、それが対象への大胆な踏み込みを可能にしていることもあれば、うまく機能せずに才気が鼻についてしまうことがあるのもまた確か。わざと固有名詞(オウム特別立法)とか自分に近いところにあるトリビアルな言葉(事務長)をいくつも出してくることで、総体として一人の学生の見たもの、経験したもの、といった生活が浮かび出てくるところが、句集として読んだときの一番の魅力だろうか。

 また、時には肩の力の抜けたようなナチュラルな句もあって、ほほえましい。

花見茣蓙ラジオを置けば倒れけり
水曜のゴミの日以来朝寒し

 特に、「ゴミの日」の句は実感が出ている。実感を損なわないような自然な措辞、「以来」なんて俳句ではむしろ出しづらいような日常的な言葉を使うことが、かえって危ういところでうまく効果を出している。あたかもコップいっぱいの水をしずかにこぼさぬように運んできたみたいに、人間の生活臭さが俳句のぎりぎりのところで読者まで運ばれている。・・・あ、それも「何かやってやろう」という意気込みの、さっきとはまた違う形での発露、と言えるのかもしれない。

 掲句は、「十三年」という具体的な数字の示し方が効果的、なんだかユーモラスで、その分かなしい。「なり」という見得の切り方が妙にはまっているだけに、尚更おかしみが生まれる。このような対象の見出し方が、彼の心のひだにあったものであろう。

 この異様に長生きの金魚は、夏の夜しか知らない。大きくて緩慢で、夏の夜に浮かび出たどこか不恰好な赤い色のまぼろしのようだ。

 作者は森川大和(1982-)

犬の会4

2008-02-22 02:07:57 | Weblog
 THCの句会に参加するのは久しぶり。夕方の高田馬場のビッグボックス前には見たことのある顔がいくつか並んでいて、顔を合わせるなり「明けましておめでとうございます」とか「はじめましてよろしくお願いします」とか言う。

 ルノアールに落ち着く。初めは二・一・二の句を出す。これは、五・七・五ではなく、より決然として短く、新たな韻律で作られる俳句。たとえば

ピザに森
鳥の駅

など。今日作った自作なのだが、うーん、挙げた例が微妙かも・・・。

 こういう五七五の定型以外の韻律を指定して行なう句会というのは初めてだったが、やってみるといろいろ発見があって楽しめた。

 一つには、この短さだと五七五に増して意味のブレが大きくなりがちであるということ。と言うよりは、五七五ならば、まあ、意味のブレはどちらかと言うとない方が好ましい、というのが暗黙の了解のように僕は思っているのだが(違う意見の方もいらっしゃるかもれない)、全部で五文字という短さで、意味のブレがないようなものを持ってきても何も面白くない場合が多い。むしろ、言葉に屈折を起こしていくつかの意味が乱反射してくるような作り方がなされることが多いようだった。

 拙作を例に挙げて恐縮だが、たとえば先程の

鳥の駅

の場合であれば、「鳥」に重点を置いて読む(鳥の立ち寄る木を読んだものだと捉える)か、「駅」に重点を置いて読む(駅に鳥が集まっていると読む)か、大きく分けてこの二つの読み方が可能であろう。

 二一二だと、必ず要素が二つになるので、原始的な、屋台骨を丸見えにしたような取り合わせの手法が使われることが多く、その場合、取り合わせられた二つの要素のうちどちらに重点を置いて読むかによって読みが分かれることになるようだった。

 もちろん、一物仕立てとして読める句には、以上のことはあてはまらない。そちらの場合、五七五で一物を詠むよりもハードルが高くなるようだ。つまり、措辞で工夫することがほぼ不可能に近いので、本質的に面白いと思えるような景を再現する必要性に迫られるからである。

 もう一つ感じたことは、読みがぶれるという指摘と相反するようではあるが、五七五の俳句に比べて全体的によりコピーに近いものになるのではないかということ。この短さになると、インパクト重視で句が作られることが多くなるため、かもしれない。

 その後は普通の句会も行なう。いや、普通、と言っていいのか・・・。最初に季語以外の十二文字をそれぞれで考えて、その後、主催者のユースケから発表される五文字の季語を埋め込む、という方式。十二音技法の発展版、といったところであろうか。今日は「冴返る」と「猫の恋」だった。

 面白い試みではあるが、いい句が生まれるかは今のところ疑問を呈しておく。現に、季語の合っていない句が多かった。だが、それは出席者の経験値が足りないだけで、そういう作り方に慣れればもっといい句が生まれるのかもしれない。その可能性は否定できない。なにしろ、こういう作り方に日常的に慣れ親しんでいる人はそうそういないであろうから。十二音のフレーズは、自分で考えてみると思ったよりもたくさん出てきたので、自分が俳句に深く犯されていることを再認識する。

 句会の評の際に、「この十二音の場合、「冴返る」よりは確かに「猫の恋」が合うよね」というように、季語のフィッティングが相対的に評価されるのも若干違和感を覚えた。しかし、逆にこの際そういうやり方でぐんぐん突っ走っていく俳人がいてもいいのかもしれない。

 ってか、今度自分ひとりのときにも十二音を考えまくって後からいろいろ季語をつけていくというやり方を試してみようと思った。

『誕生』を読む

2008-02-21 09:01:31 | Weblog
馬小屋の一頭で満ちクリスマス

 ちょっとほかには見られないんじゃないかな、というくらいにドラマティックな句集。みずみずしい硬質な青春、結婚、妻の出産。人生の中で起こる幸福な事件が、巧みな描写と確かな詩情を持ってとらえられている。その全てが優しいまなざしで描かれているため、安心して読み進めていける。ふかふかとして、いい気持ちになれる。中には人口に膾炙した句も少なくない。

スケートの濡れ刃携へ人妻よ
落椿われならば急流へ落つ
みちのくの星入り氷柱われに呉れよ
天瓜粉しんじつ吾子は無一物

 第一句集にして、タイトルが「誕生」。これ以上ないくらいかっこいい滑り出し。かっちりとはまっていて、男性的、うつくしくたくましい、まるでギリシャ神話のような俳句群。そう思えるのは、かなり西洋的な価値観を意識しているから、ということも無関係ではなかろう。

鳥雲に西暦で老ゆ神父等は

 しかし、中にはそういう筋骨隆々としたものでない句もあるのが、なんとなく読者との距離を縮める働きを持つようにも思える。時として、情けなく、呆けてしまうような姿も見せている。それは、まだ守るべき者のいなかった、青春時代の句だ。

勤め憂し涸河に毬今日も見え

 さて、掲句は幾度もさまざまな人によって『誕生』に特徴的であると指摘されてきた、新妻・吾子を読んだ句ではない。出てくるのは馬のみ。しかし、この句にあふれるような幸福感と言ったらどうであろうか。その源泉は、新妻・吾子俳句と同一のものであろう。

 やはり注目すべきは措辞である。馬が一頭馬小屋にいるというだけの情景に対して「満ち」という言葉を使うことにより、充足感が生まれる。一日の労働を終えたあとでふと覚えるような充足感。この馬小屋はなんだか夜らしい。表には星もまたたく。

 クリスマスという季語の選択には、もちろん、キリストが馬小屋で生まれたという伝説がベースにあるのであろう。しかし、そういう意味のつながりを度外視して、ただただ満ち足りた気持ちで読みたい句だ。クリスマスとは、そういう日のはず。

霧の枕木終点過ぎてなほつづく
夜の蛙婚家へ父が来給へり
人妻の爪たてけぶる夏蜜柑
まだ馴れぬこの世の寒さ乳を欲る
乳児が噎せ緑蔭たちまち乳臭し
吾子を抱く外套のまま手套のまま

 「外套のまま手套のまま」という句には、どこか決然とした様子がうかがわれる。『誕生』は幸福の予感に満ちた句集だが、それはだらけきった、弛緩した幸福ではない。この句集にあるドラマ性は、一人の青年がただ一人きりで世界に対峙していた初期の句群から、愛する者を得ていくことによって逞しく成長していく過程としてとらえ直すことができよう。

 それがただの超人的な神話というのみに終わってしまわず、一人の生身の男の物語として立ち現れてくるのは、以下のような印象的にナルシシズムを感じさせる句が吾子俳句の句群の中にほほえましくも差しはさまっているからかもしれない。

揚羽蝶わが指紋もち何処までも

 作者は、鷹羽狩行(1930-)

『海鳴り』を読む

2008-02-20 20:33:28 | Weblog
突然でごめんね夏の蝶になる

 彼女の俳句はフットワークの軽さが魅力だ。走り回り、恋をして、おいしそうにお菓子を食べる。その端々から俳句がこぼれ出る。

12秒91風の輝きぬ
告白やりんごの皮を長くむく
たんぽぽやポンデリングを頬張りぬ

 これらの句はどれも若々しい、女の子らしい、初々しいような、つまり、くすぐったい叙情をたたえている。まぶしいほどの青春。

ぱんぱんの白衣のポケット梅開く
天高し目次でやめる基礎化学

 「目次でやめる基礎化学」という言い方はとても面白いし、正直、学生なら誰でも経験があるような風景だ。「天高し」という季語は、書を読むよりも外で遊びたいという若々しい気持ちを代弁するようで、共感しやすい。しかし、共感を呼びやすいということは、一歩間違えば彼女でなくても書くことができるという危険も持ち合わせている。

 掲句を読むと、黒い揚羽蝶がぱっと視界に入る。驚いている暇もなく、蝶は高々と舞い上がって消えていく。その一瞬の華やかさは、男を困惑させるような、女の突然の言動に重なる。女には、前触れとか準備とか、そういうものに構っていられないときがある。それはたとえば、別れのとき。

 その「突然」のことを、男女の別れだと読めるのは、真夏の光の中をゆく小さな黒い影、見えたと思った瞬間に飛び去る蝶、それを思うからである。「突然でごめんね」女はこの言葉を相手に向かって言っているのではなく、ひとり呟いているということになるであろう。その呟きは、確かに、彼女自身の中から出てきた声だと言える。

作者は、藤田亜未(1985-)