案山子立ついざ鎌倉の構にて
僕の頭の中にあるのは、すこし傾いだ案山子。農作は、今も昔も国のかなめだ。鎌倉時代の昔には、武士はいばりくさって農民の上に君臨しているのではなかった。普段は農作業をしていた御家人が、大事があった際に鎧兜を身につけ、鎌倉へ馳せ参じた。秋、金色の稲穂の海、時は儚くも一瞬でさかのぼり、まるでこの現代が夢であったかのように・・・。
やすやすと時代を超えてしまう句は、これだけではない。
胴塚は首塚を恋ひ日短
道鏡の塚の裏なる霜柱
昔男ありける寺の扇風機
人は群れる。村をつくる。社会を作る。国を作る。そして、歴史を作る。この作者の句には、一人の人間というちっぽけで限られた場所を越えて大きく広がっていこうとする意思を感じる。
それが空間的な方向に向かう場合、海外詠という形でなされる。しかし、この句集においては雰囲気の統一のために海外詠は収められていない。つまり、ここでは、広がっていこうとする意思は、空間的に、というよりも時間的に発露されているのだ(ただし、海外詠がなくても、空間的な広がりは国内のさまざまな土地が詠み込まれている点に見られることには注意が必要だが)。そこで、この句集を読むと、時間を越える跳躍力に自然と目が向くことになる。
ただし、時間・空間を越える、というのは、そんなふうに言ってしまえば耳障りは良いものの、それがいつでもうまくいくわけではもちろんない。跳躍力の唯一の源は、言葉である。ある時代を表す言葉、「いざ鎌倉」「首塚」「道鏡」「昔男ありけり」。あるいは、ある土地を表す言葉、
長崎の坂動きだす二日かな
浅草の赤たつぷりとかき氷
風の盆男踊は鳥に似て
これらの句の中の「長崎」「浅草」「風の盆」。しかし、このような時代・土地の言葉を礎石として組み上げられた句は、ややもすると教科書的になり、上滑りし、単なる教養の強要(洒落ではない)になり勝ちである。この句集にも、その謗りを免れない句は多くある。
人は自分の身に及ばないことは想像するしかない。自分の生きていない時代、自分の住んでいない土地。そこへ血の通った想像を広げてくれる句こそが、時代・空間を越えて我々のこころを飛翔させてくれるのだ。
血の通った想像。そのためには、まずは自分の身辺から始めなければならないのは真理であろう。
夏休み来る真青な時刻表
あればつい何でもたたく蠅叩
その人の血を感じさせてくれる句があるからこそ、空間的・時間的に広がっていく句も、ただの観光ガイドや教科書に陥らずに済む。
水鉄砲古稀となりても面白く
素直で、平明で、読んで直ちに了解できて、この古稀の句は、僕の好きな句だ。しかし、このような個人的な感慨を詠んだ句と「案山子立つ」のような蠢く歴史の中に分け入っていく句が共存できる句集というのは、裏から言えば、この個人的な感慨が、さほどあくの強いものではない、最大公約数的な、共感を呼びやすいその分だけ淡いものであるとも言えることを、指摘しなければならないだろう。
作者は有馬朗人(1930-)