そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

『山信』を読む

2008-03-06 09:16:32 | Weblog
ラグビーの選手あつまる桜の木

 静かでみずみずしいが、その奥に混沌が見え隠れしている。そんな世界を映し出した句集だ。綺麗な言葉、なつかしい景色、口当たりは淡く、確かに古風めいているところは否めないが、一句一句の奥行きが深い。それは、作者の持つ優しい視線に支えられるところも大きいと言えよう。

紅梅や人の少なき地鎮祭
水澄むや梯子の影が草の中
傘さして庭に出てゐる実南天

 上に挙げた句は、どちらかと言うと景色のはっきり分かるものたちだ。光の量が多かったり少なかったりするが、どれもなつかしい写真の中のように、あるいは8ミリで撮った映画の中のように、どこか手の届かない夢のような趣をたたえている。

 「人の少なき地鎮祭」というのは、普通であればその場の情景をただ説明しているだけで何の情感もたたえ得ないような措辞であるのに、「紅梅」と取り合わせられることで、春の日のおだやかな郊外の一日、始まりの予感でもありながら、どこか景色に溶け込みすぎている不思議さを覚える。

 そう、不思議、なのだ。季語があまりにしっくりはまりすぎている。地鎮祭に紅梅なんてそれほどトリッキーな取り合わせではない、実際に地鎮祭をしているそばの旧家に紅梅が咲いていたっておかしくない。なのに、ありがちだとは思わない。ひたすらに目をひくように作ってあるわけでもないのに、目をひかれてしまう。

コスモスの花粉を吹けり黒表紙
末枯に屈みゐる人大きな穴
長夕焼旅で書く文余白なし

 これらの句を並べれば、この句集の「古風に過ぎる」、という批判はやわらかく否定できよう。そして、このような句には、「水澄むや」などには見られなかった混沌が淡く渦巻いている。それはたとえば「黒表紙」「大きな穴」といった言葉に顕著だ。

 「旅で書く文余白なし」とは、誰もが実感するようでいて、なかなか言えないものだ。彼の「旅」は、故郷とつながっている。漂泊ではないのだ。そこに、胸を焦がす長々とした夕焼けが、安心感とかなつかしさ遠い切なさとか、一つの言葉にはまとめられないそういった感情を覚えさせてくれる。

 全く、この句集をひもとかなければたどり着くことの出来ないある国が、確かに存在しているように思えてくるのが不思議だ。それはこの句集の前書きで時折出てくるような「熊野」とか「鞍馬」とか「木曾」とかではない。現実の土地ではないが、我々の心に最も近い土地。

口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし
ゑんどうや網戸が水に浸りをり
戸を閉めて人すぐ座る山清水

 この国は、ある種の理想郷のようだ。句が些細な出来事を詠めばそれだけ、なぜか現実感が薄れてゆく。しかし、そう感じた同じ句に、またはっと現実のにおいを感じて立ち止まる瞬間がある。読み込むほど、句と自分との距離感が揺れて、くらくらしてくる。

 冒頭に挙げた句は、ラグビーというがちゃがちゃした、男臭い、戦闘的なものを詠みながら、少しもさわがしくない。正しく言えば、おそらくうるさいのだが、ざわめきがどこか遠い。ぶつかりあっている瞬間ではなく、試合前か、タイムの間か、そういったものを詠んでいるということが分かる。そして、ラグビーという冬のものに取り合わせられた桜の木。

 まだ咲いていないこのごつごつした桜の木に、この世のざわめきを統べるような不思議な力を感じる。たぶん、この句は一瞬なのだ。一瞬、ざわめきが遠くなった、そのときなのだ。この句の次の一瞬には、ラグビーの力強さがまた戻ってくる。それを予感させる桜の木。

 我々の心に近い土地。それはどこにも偏在し、いつでも静けさを与えてくれる。

木蓮は開ききつたり犬を抱く
大学も葵祭のきのふけふ

作者は田中裕明(1959-2004)