そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

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『森林』を読む

2008-09-13 11:21:44 | Weblog
谷底に日ざしもどらぬきりぎりす

 彼の俳句には声高なところがない。苦悩や歓喜は語られない。主体性はもとより感じさせない。大方は情景描写にとどまる。

 俳句という詩形は、ときにそのような静かな世界を描くことがある(一般的には客観写生と言うのだろうか)から、そのこと自体は彼の独自性を表しはしない。この句集の特徴は、題名通りに「森林」をほぼその主要な舞台としていること、そしてその森林やあるいは山間の村のさまざまな風景が、「みずみずしい詩情をもって」、「五感をいっぱいに使って」、「繊細にあるいは大胆に」描かれているということだろうか。

雪催松の生傷匂ふなり
いちまいの鋸置けば雪がふる
風ゆるむ雪の文目の見ゆるほど
至近より雪の降りくる夕まぐれ
日照のかぎりもの干す斑雪村
トラックが婆拾ひ去る雪間かな
風花や石の小臼を束子置

 試みに、心惹かれた雪の句を引いてみた。雪が降りそうな天気に「松の生傷」を配することでその匂いを立ち込めさせる手腕。「鋸置けば」で軽く一拍置き、「雪がふる」で林の底から空を見上げる視点の鮮やかな切り替え。「雪の文目」という美しい言葉を使い、風のゆるみを触覚ではなく視覚で立ち上がらせる感覚。「夕まぐれ」の設定によって、ふつうはあり得ない「至近から雪の降りくる」の措辞を納得させる言葉の芸の冴え。見たそのままを言いとめているのだが「日照のかぎり」の「かぎり」で明暗の対比をある悠然とした時間性の中に現出させる技。トラックが過ぎた後には婆もいなくなり、「雪間」のみが残る、という一瞬の何気ないさびしい変化を表す季語の選択の確かさ。「風花」の季語に絶妙に呼応する、「石の小臼を」の「を」という助詞の使い方の繊細さ。(ちなみに「束子」は「たわし」と読む)

 実に芸が冴えていると思う。目をつむれば雪のちらつきが眼前にあり、それが凍るような肌寒さを引きだしてくる。つまり、このような山間の村を自分が追体験し得てしまうほどの、言葉の巧みさ。

 しかし、僕は今回の原稿を書くのに大いに苦労している。僕は「鑑賞者」という立場を持ってしてこの「句集を読む」というシリーズに臨んでいるつもりなので、できるだけレトリックの話は持ち出さないことを自分に課してきた。「この作者は上手だ」とレトリックの妙を書いてゆくことで句集の分析や批評を行うことはできると思うし、そのようなアプローチは同じ実作者の立場で言うととても有用だとも思うのだが、僕がここで試みているのはあくまでも鑑賞であり、鑑賞という以上は、句集を通して見えてくる作者の息遣いやその一句に込められた情感、美しさを引き出し、語ってゆくことで作者の独自性を何かしら表すことはできないだろうか、というスタンスで臨んでいる(だからと言ってもちろんまるでレトリックの話をしないというわけではない。レトリックの使い方やその巧拙をもって句集あるいは作者を規定し、描くことを避けてきた、ということだ)。

 その句集に見え隠れする作者の態度や心の在りようを見ようと思ってきたのだ。しかし、この句集について言えば、どうやら僕の力量では彼の心の全貌にまで肉薄することが非常に難しい。そのことがこの句集の独自性、と言えるかもしれない(若干、逃げっぽい言い方だとは思う)。

 「みずみずしい詩情をもって」、「五感をいっぱいに使って」、「繊細にあるいは大胆に」。これらの措辞に全部かぎ括弧を施したのも故のないことではない。全部、手垢にまみれた惹句であることは承知の上なのだ。しかし、なかなかそこから先に踏み込めない。彼が踏み込ませてくれないのである。

みづうみに辺境ありて鴨の陣
後の月養鶏千羽めつむるも
眼力をゆるめてはちす漂はす
水に声あり青胡桃くぐるとき
冬に入る糸引雲の切れて峡
雁ゆきてしばらく山河ただよふも
紅梅や谷隣より雲が来て

 しかし、そのことと彼の句のそれぞれに心惹かれることとは、正直、あまり関係がない。一句一句が素晴らしい山の情景を展開し、正にこういう俳句こそ、僕の思うところの「俳句の王道」ではないかとすら思えてくるのだ。彼の句に通う情感は淡い。彼自身の個性は、彼自身の言葉の中にくるみとられて、どこかに消えかかっている印象がある。だからこそ、我々は彼の俳句を読んで、容易にその情景を「追体験」することができる。言葉の美しさが、追体験する我々の心持を「陶酔」させてくれる。それは、あるいは決して彼を裏切ることのない季語の力によるところが大きいのだろう。つまり、「季語との親和」が、並の俳人に比べてとても高いようだ。
 
「季語との親和」によって「追体験」を可能にし、それが読者をして「陶酔」の境地に呼び込むという「俳句の王道」を進む。個性が希薄であることは咎だとは思わない。淡くても情感は確かに感じられる。もちろん、「みづうみに辺境」を感じる心持は、どこかに寂しさを漂わせるし、「水に声」を感じる心持は、どこかに心の弾みを感じさせる。それが全体と通してひとつの言葉にまとめられないからと言って、それが何だと言うのであろう。

 目をつむって、「ああ、いいなあ」と思うだけで事足りる俳句。人間が描かれることが少ないため、どこか人を避けてひたすら自然と向き合っているような印象もあるが、そこにはさびしさも喜びもいろんな感情が通い得ている。人に向き合うときの生の感情に比べると、それらは淡く思えるのだ。

黒姫に黒の図体のどやかに

 僕も黒姫山に行ったことはあるが、なかなかこうは詠めなかったなあ、と思う。「黒の図体」を目を細めて見ている彼の姿は、人間社会で日々を送るわれわれの目からすると、どこかふわりと浮世離れしているようだ。

 冒頭に挙げた句は、それらの俳句とはまた少し異質のようにも思う。「谷底に日ざしもどらぬ」というのが、まず意味としてつかみづらい。そして、「日ざし」と言っているにも関わらず季語は「きりぎりす」だ。この句に一瞬戸惑ったのち、どうやらこの「もどらぬ」という言い切りは、実景ではなくて、彼の心の襞の暗さをはからずも映し出してしまったものではないかと思われてくる。

 谷底、日暮、暗がり。そこに早々と鳴くきりぎりす。他の句に対するよりもどこか濃い情感として、彼の寂しさが身にしみる思いがした。

 作者は上田五千石(1933―1997)
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