そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

『光陰』を読む

2008-03-10 09:59:13 | Weblog
帰りなさい雲林院町青葉風

 不思議な句だ。句の構成としては、上五、中七、下五でそれぞれ切れているので、三句切れということになる。これは、俳句の構成では通常、失敗とされるものだが、この句では気にならない。むしろ、そこに魅力のある句と言えよう。

 三句切れというだけではなく、「雲」「林」「町」「青葉」「風」と、景色を構成するさまざまな文字が中七・下五に詰め込まれている(もちろん、単語としては「雲林院町」と「青葉風」だが)。これらが何かの説明を加えられることなく、並べられている。なので、文脈がない。しかし、この句の中では、「林」があって「青葉」がある「町」に「雲」が浮かび、「風」が出ている。これら漢字の羅列が、不思議と初夏の爽やかなイメージを喚起する。意味上は切れている「雲林院町」と「青葉風」だが、下手に助詞を用いてつながなかったことで、一連の漢字の羅列となり、つながって感じられているのだ。

 さらに、冒頭に置かれた「帰りなさい」という措辞。これは、梶井基次郎が丸善の平積みの美術の本の上に置いた檸檬のように、中七・下五の爽やかなイメージを統べている。誰の声だろう。母性を感じさせる、懐の深い優しげな声。「帰りなさい」と「雲林院町」の間には、明確で深い切れが存在する。どこに帰れと言うのか、私は今どこにいるのか、あなたは今どこにいるのか。一切説明はされずに「雲林院町青葉風」という措辞が連なる。

 私がどこにいても、あなたがどこにいても、「帰りなさい」という声は聞こえてくるのだろう。そのとき、私は思い出すに違いない。雲林院町という不思議な名前の町と、そこに吹いていた、あの爽やかな青葉風を。

 地名の句というのは難しい。行ったことのない土地だと、なおさらである。僕は雲林院町というのが京都市北区紫野に存在し、そこにある雲林院(うりんいん)というのが、平安時代に建てられた寺で、謡曲「雲林院」の舞台になり、また、「大鏡」の冒頭で二人の翁が話している菩提講というのも、ここが舞台になっている、という知識は持っている(そのくらいネットですぐに調べられる)。しかし、訪れたことはない。上記のようなただの知識を元に鑑賞するのは、僕の性に合わないので、知っていながら、すべて無視して鑑賞してみた次第である。

 食べ物の句の評価軸として「おいしそう」と思えるかどうか、というものが挙げられるとしたら、地名の句の評価軸として「行ってみたい」と思えるかどうか、というものを挙げることもできよう。僕は、この句の「雲林院町」になら、行ってみたい、と思った。

 彼女の句は、不思議だ。

カリフラワーかざす八月十五日
狂わねば秋の河原で影を追う
半身は男のままで春暮れる

 「帰りなさい」がどこから聞こえてくるか分からなかったように、なぜカリフラワーをかざすのか分からないし、秋の河原で影を追う行為はすでに狂っているように思えるし、どこの半分が男のまま(しかも、「まま」ということは、もともとは男だった、ということだ)なのかも分からない。そして、この謎の中にこそ、彼女の句の飛翔力が隠されている。

 高く高くかざされた白いカリフラワーは、きらきらと降ってくる真夏の光を受けて輝くだろう。彼女は、おいしそうなカリフラワーを無邪気に喜んでいるに違いない。それがたまたま終戦記念日だっただけだ。ここには戦争を暗喩する何ものも描かれていない。そこがすがすがしい。キノコ雲とカリフラワーの類似?それは、考えたくない。光の中のカリフラワー、それを掲げる彼女、その生命力こそが、反戦の旗印だ。意図されない無邪気な平和の享受こそが、力強い反戦のメッセージを持つ。

 あるいは、影を追って走る彼女、鬱勃とした男のエネルギーを身のうちに感じている彼女。どの句を鑑賞する際にも、彼女の行為が二重写しになる。それは若さと言えば若さ。あがきと言えばあがき。

電線を切りたくなりぬ夏茜
着やせした夏雲ゆるやかに動く
愛されて生きる人と言われ雪
蜂の巣を横切るバレンタインデー

 彼女が世界に対してどのように働きかけているのか、逆から言えば、彼女の行動の中にどのように世界は入り込んでいるのか、その物語として、この句集は存在している。不思議に思える句が多いのは、それが彼女の行動と彼女を取り巻く世界との新たな出会いだからだ。

 しかし、それは必ずしも全ての句において新たな出会いになっているとは限らない。世界とすれ違ったまま折り合いがついていなかったり、ありきたりの世界になっていたりする句も少なくないことは、指摘しなければならない。あるいは、世界を呼び寄せる技術が不足していたりする点も否めないだろう(たとえば、「愛されて生きる人」の中六はどうにかならなかったものか、と悔やまれる)。

 新奇ではないが、落ち着いて見ると新たな出会いと思えるものには、次のようなものがある。いずれも僕の好きな場面だ。

おやすみと言いおやすみと言われ萩
桜咲くかみそり一本買い足して

 ここで冒頭の句に戻ってみることにしよう。「帰りなさい」という声。これは、句集のほかの句から見えてくるある個性的な「彼女」(夏の夕暮に電線を切りたくなってしまうような)の声に聞こえるだろうか?もちろん、「彼女」の声なのだろうが、「彼女」の中の女の部分、母性の部分がより純粋に蒸留されて出てきた声のような気もする。それが、「雲林院町」という新たな世界に響き合っているのだ。

 つまり、この句はほかの句とは違って、彼女自身の個性が薄れている分、彼女がいままで踏み込めなかった新しい、広い世界が彼女の前に開けていると感じられるのである。個性が前に出るものと、新しい世界に踏み込むもの。どちらの作り方がいいのか、ということは誰にも分かるものではない。どちらもそれぞれに魅力的だし、それは彼女自身がこれから選び取ってゆくものだ(別に選ばなくても、両方作ってもいいと思うが)。ただ、僕が言えるのは、「帰りなさい」の句に流れているおおらかな時間こそ、「光陰」というタイトルにふさわしいのではないか、ということだ。

 いずれにしろ、彼女がどんな行動を取ろうとも、世界はそれを受け入れてくれよう。だからこそ、「愛されて生きる人」といわれるのだろうし、その安心感が、句集全体を包む明るい雰囲気にもなっている。

初空や花が咲く木と知っている

作者は江渡華子(1984-)