そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

『あめふらし』を読む

2008-03-09 10:21:47 | Weblog
夕立の母を見つけぬ車窓より

 いた!いたのだ。半病人の家の者が、白いガーゼのマスクを掛けて、下の男の子を背負い、寒風に吹きさらされて、お米の配給の列の中に立っていたのだ。(『父』太宰治)

 彼の句は、かっこいい。それは、かっこつけているからだ。

やはらかく鯛と西日を煮てをりぬ
煮凝の経て来し夜のしじまかな
寒鴉やさしき屍より翔てり

 「西日を煮」る、煮凝に「夜のしじま」を見る、「屍」に「やさしき」という形容をつける。どれも、一歩間違えば鼻について仕方がないくらい、かっこつけた措辞ではあるが、箸の先でほぐれる鯛の身のやわらかさだとか、しんと皿に立つ煮凝のしずけさだとか、鴉にむさぼり喰われ、捨てられる死体の物言わぬ様子だとか、表現技法が表現しようとする核にきっちりはまっているため、「かっこいいなあ」とほくほくしていられる。

 あるいは、次の句のように、自分を出して、まぶしいような詠みぶりを見せる。その背景には、別れがベースにあることを思わせる。

出航の船見て日記買はうと思ふ

 手紙ではなく、「日記」。誰に見せるあてもない言葉の群れ。ところで、この「日記買ふ」は、季語として機能しているのだろうか?

 季語ならば、船を見ることとは独立に、年末だから日記を買う、という行為があるはずだから、船を見たことと日記を買うことのつながりが淡くなる。知り合いの乗っていない、通りすがりの船かもしれない。「出航の船見て」という割合に淡い言い種は、その可能性を示唆するものであろうが、僕は敢えて、恋人の乗った船だと読みたい。あまりに情が入ってしまっているため、「別れ」などの言葉は逆に使わずに、「船見て」などと他人事のように言っているのだ、と。

 そうすると、この「日記買ふ」は、季語としては淡い。季語にならないとまでは言わないが、立ち位置としてはちょっと危ういところにあるのではないか。このように、句の内容の中で、あるがままのものが彼の作家性によって歪められているのが彼の句の特徴と言えよう。季語を季語以外の領域に踏み出させる、といったような。それは、つまり「かっこつけている」というところにも通じる。

 作家性によってモノが歪められるというのは多かれ少なかれどの作家にもあるものだ。ただ、大雑把に言うと、伝統派は自らを黒子として消す方が多いようである。

鳥の巣に鳥の入つてゆくところ 波多野爽波

 彼の場合、たとえば前衛的な作家たちのようにそのゆがみを特別に強く押し出されているものではない。むしろ、詠みぶりや素材は伝統派に通じるものが大きい。

霜月のしづかな粥となりにけり
みちのくの箪笥の重き冬座敷

 しかし、彼の句は伝統的な世界を素材として扱いながら、そこに「かっこつけ」の要素が入ってくるのを否めない。つまり、彼の句を読むと、その詠まれている素材の存在感を彼の視線を通して感じることになる。なぜ、粥を食べずに、「しづかな粥」を見ているのか?「箪笥の重き冬座敷」と言いながら、そんな室内の様子のどこに「みちのく」を感じているのか?そのような微妙に伝統とずれた感覚が、彼の句の一つの魅力であろう。

 時には影になり、時にはやや強く表に出て、彼の視線は必ず彼の伝統的な句にまとわりつく。あるいは、それ自体は彼の句に限った特徴ではなく、むしろ創作者としては当たり前なのだろうか。しかし、僕がそれを彼の句集を読んで感じたこと、そして「かっこつけている」と表現したくなったことは、確かなことだ。

葉桜となり山の木となりてゐし
糠床の胡瓜の穴の曲りたり
敬老の日の喉仏喉仏

 そこにあるのは特別な誰かや、ドラマとなるような設定ではない。しかし、この句の向こうには、こういう言葉を口にした男の嘆息が聞こえてくる。そこにナルシシズムが見える。彼の句を読むと、むしろ、そのナルシシズムが味わえて、楽しい。

 それは、太宰に通じるものがあるかもしれない。つまり、冒頭の句のようなことになる。このような文脈の中で、次のような句が出てくると、おどけて見せているところなんかが、逆におどけ終わったあとのため息まで聞かせるようだ、とまで言ったら、鑑賞過多だろうか。

マヨネーズかけすぎてゐるプチトマト

 あるいは、次の句を彼がはにかみながら差し出してくる様子も、目に浮かぶようで、素直に好きだと思う。

草いきれ胸の中まで幼き日

作者は坊城俊樹(1957-)