そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

誰に向けて俳句を作るか

2008-03-31 09:07:08 | Weblog
 僕は、表現活動が誰に向けて行なわれるか、ということは非常に大事な問題だと思っている。それは、表現活動というものが、常に自己から他者へのなんらかのアプローチであり、自分の胸の中に他者を招き入れることで自分を世界へ開いてゆく手段として、あるいは、逆に世界の描像を更新してしまうかもしれないものとして存在すると考えるからである。誰が自分を見ていてくれるのか、ということはさびしさの気流に巻かれながら言葉を吐き出してゆく僕らにとって大変重要な問題と言わざるを得ない。

 誰に向けて書くか、と問う場合、「一人でも多くのいろいろな人に」と考える人もいるだろうし、「たった一人の尊敬あるいは信頼あるいは愛情を持っている人に」と言う人もいるだろう。俳句の場合には、僕の身の回りを見渡した結果、主に2パターンの考えがありそうだ。「俳句をやっていない人にも開かれた俳句を」という考え、「俳句を読める人にいいと思われる俳句を」という考えの2つである。

 こんなことが起こるのも、「俳句を作る人」=「俳句を読む人」という図式が(ごくごく一般的な話として)成り立つからである。俳句を作らないけど読んでいる人、を見つけるのは、小説を読んでいるけど作らない人、を見つけるよりは確実にむつかしい。そして俳句を作るけど他の人の作品を一切読まない人、というのも、やや考えづらい。

 つまり、世間一般の人々を俳句の観点で二分すると、「俳句に携わる(読みもするし、書くこともする)人」と「俳句に興味を持たない人」に大きく分けることができ、そして圧倒的大多数を占めるのは後者であろう。このどちらをターゲットにしたいか、で先に述べたような2パターンの考えが生まれてくると言えそうである。

 なぜ俳句は小説のようには多くの人に読まれないのか。おそらく、俳句というものに世間一般の人が考えるドラマツルギーが通いづらいからではないだろうか。僕は世間一般に好まれる流行歌が嫌いではないが、みなが感動するというその歌詞に、何かが新しく発見された手触りを感じることは大概困難であることが多い。

さくらさくら 今、咲き誇る
刹那に散りゆく運命と知って(森山直太郎『さくら(独唱)』)

 俳句は十七音の短さに閉じ込められているものだから、そこに使われている言葉の組み合わせ自体に新しいにおいがなければならない。歌は手垢まみれの言葉でもメロディーに載せることで新しく再発見されるところがある。森山直太朗の声で聞けば、桜に対する最大公約数的な固定観念を述べたに過ぎない上記の歌詞も、説得力を持つ。小説やドラマは人間関係を描くことになるから、全ての言葉にこまごまと注意を払わなくても共感しやすくなる(それでも三島由紀夫などはめちゃくちゃ細部の言葉遣いにこだわっているように見えるが)。

 俳句は、十七音の言葉、それっきりである。そこに言葉の新しい関係性を見出すものだ。つまり、ほかの一般に受け入れられている文藝がこちらの胸に飛び込んでくるところがあるのに比べて、俳句はこちらからまずは飛び込んでいって言葉をかみ締めたり舐めまわしたりしなければ、胸襟を開いてくれないのだ。ある程度言葉そのものに興味を持つ人でなければ、わざわざそんな面倒なことをしようとも思わないだろう。

 だから、俳句を読まない人からすると、虚子の
防風のここ迄砂に埋もれしと
という防風そのものを描き、それを通じて防風の埋まっていた場所に思いをめぐらす句よりも、単に類想的で分かりやすい
囀りや風少しある峠道
という句の方がいい、ということになるのだ。(桑原武夫「第二藝術」より)

 では、俳句を読む人に認められるのがいいのか。そう言い切ってしまうのも、どこか硬直した印象を与える。俳句を読む人の中にある定まった評価軸に自分の身を任せるべきかどうか(ただし、多くの俳人は結社に属し、主宰の選を受けるという形で俳句を読む人に認められようとしている)。

 僕自身は、俳句を読む人に認められるか、俳句をしない人に好かれるか(この二つは両立しないわけではないが、ここまでの議論からすると両立することを前提としないほうが良さそうだ)、ということは実はどちらでもいいような気がしている。ただし、誰かの俳句を評価するとき、「俳句をしない人にも分かるから」という理由で評価しようとは思わない。大高翔の『キリトリセン』について、そのような評価があるようだが、僕自身は、このブログでこの句集を扱うとき、全く違う評価の方向性を見出すことに腐心したのをおぼえている。

 俳句に対して僕が持っている評価軸は、僕にとって新しいかどうか、僕が好きかどうか、ということしかないと思うのだ。誰に向けて俳句を書くか。それは、結局、僕自身に向けて。僕が楽しいと思える句を。・・・なんていうふうに言うと、聞こえが良すぎて恥ずかしいが、実際にそう思っているので仕方がない。僕自身は「俳句をする人」なので、俳句をする人に向けて句を書いている、ということにもなるであろう。

 しかし、ここで一つ問題がある。自分自身だけが楽しくて、他の人に通じないような句ならば、それは表現活動である意味がないということだ。ジレンマである。このジレンマを克服するために、僕は、俳句に対する自分の鑑賞を言語化し、人目にさらすことを思いついた。自分がどういうものが好きなのか、どういうふうに好きなのか、自分自身を発見することになるし、俳句に対するさまざまな観点を自分の中に用意することにもなる。それをほかの人に伝えることで鑑賞を交流させることができる。

 それを狙って書かれているのがこのブログにおける「句集を読む」シリーズなのだ。どこまでうまく行っているかは分からないが、とりあえず前回の「菊子」を読んだ時点で20回を数えたので、一応、僕が何を考えているのかをここらで示しておくことにした。

 四月以降は大学院に進むこともあって、あまりこれまでのように頻繁に更新することはできないかと思うが、それでも最低週に一回は「句集を読む」の鑑賞文を書こうと思うので、おつきあいいただければ幸い。