
【 2025年5月22日 記 】
今年の4月22日にフランシスコ教皇が亡くなったことが伝えれた。直ぐに思い出すのは映画「2人のローマ教皇」だった。ベルゴリオ枢機卿が前教皇の生前退位を受けてフランシスコ教皇が誕生する過程を描いた映画だったが、深く印象に残っていた。折しも映画『教皇選挙』が昨年制作され、時を選んだように日本では今年の3月22日から公開されている時だった。それも見に行ったが...。

【 フランシスコ教皇 】
フランシスコ教皇は、前教皇のベネディクト16世の姿勢と対比されることが多い。ドイツ出身の前教皇が、どちらかというと《保守的》と目されていたのに対し、フランシスコ教皇は《革新的》で「庶民の味方」という見方が強かった。
映画『2人のローマ教皇』の中で、この2人の間にどんな関係とやりとりがあって、教皇の地位が引き継がれたのかが映画の核心なのだが、お互い《相容れないような立場》を乗り越え、バトンを引き継いでいく様は、感動的だった。
以前のブログにも書いた事だが、
《ヒトは複雑な生き物だ。いろいろな問題に対し様々な考えを持っている。しかし、人は往々にしてその一面だけを取り出し非難し合っている。
全く違う立場の人間と思っていた人でも一致点はある。共感できるところはともに喜び楽しむ心が必要だ。人を一面だけでみてレッテル張りで済ましてはいけない》
ということを、改めて感じさせてくれた記念すべき作品だった。
ベネディクト16世は、映画の中でアンソニー・ホプキンスが演じるような《個性的で魅力的な》様相ではなかった。学者肌で堅物のように思われ、かつてヒトラー・ユーゲントに所属していたこともあったことから、映画の中ではドイツ出身の彼を《ナチスの教皇》と罵倒する場面も出てくる。監督のフェルナンド・メイレレスは、そんな教皇と当時まだ枢機卿だったベルゴリオの出身国アルゼンチンの状況を織り込みながら、二人の交流と対話を映画の中に織り込んでいく。
外見だけで人を判断してはいけないし、一面だけを取り出してその人物を全否定してはならない。

【 葬儀にサンピエトロ広場に集まった信者と葬儀を伝える記事 】
それにしても、フランシスコ教皇が果たしてきた世界平和に対する役割は圧倒的だった。世界を駆けまわっていた。プーチンやネタニアフの行っている非人道的な人間破壊行為は許されるべくもなく、トランプの無知で傲慢で傍若無人な振る舞いも世界を混乱させ、何の解決にならないことが明らかなだけで、信者であるかそうでないかにかかわらず、現在ローマ教皇の果たしている役割が光り輝いて大きく見える。

【 ガザに毎日電話するフランシスコ教皇 】
葬儀の様子を伝える映像と共に、教皇が生前いかに精力的に世界を駆け巡り、世界平和と人々の幸福のために働きかけを行なっていたかの報道を見るとさらに勇気づけられる。
日本も含め、今の世の中は戦争前夜のような不安に満ちている。身近な仲間にも多くを語り、敢えて政治的論議をしなければならないと思うのだが、二の足を踏んでしまう。
そんな時、ふと以前聴いた《詩の言葉》を思い浮かべた。『・・・わたしは声を上げなかった。・・・』 マルティン・二―メラーの言葉だ。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
二―メラーは、ナチスによる支配がドイツに拡大する時代の神父だったが、《自己の悔恨の情》を正直に吐露して、この言葉を発した。
今、自分にはこの二人の人間《フランシスコ教皇と二―メラー牧師》の言動が重なり合う。
〇 〇 〇
一方、もうひとつの映画『教皇選挙』の方は、あくまでフィクションであり、どちらかというと『コンクラーベ』を舞台とした《ミステリアスな映画》だ。
登場する人物=枢機卿の数が多すぎて、誰が誰だか、それぞれがどんな主張をして、誰が中心人物かが分からないし、最後の《どんでん返し》も推理小説を読むような現実感のない幕切れで、心に落ちるものがない。
娯楽映画として楽しむ分には、よくできた映画だがそれ以上のものでは無い。

【 教皇選挙のポスター 】
見るなら断然、『2人のローマ教皇』だ。

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