河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史31 明治――大深の一寸①

2022年12月18日 | 歴史

――歴史を考える時は当時の地形・地理を頭に入れておかんとあかん――
春やんがよく言っていた言葉である。
地形の変化は海や川・湖などの水の影響が大きい。
鎌倉時代までの大阪がそうだ。
上町大地の半島より東側は河内湖(後に河内潟)だった。
それが淀川や大和川が運ぶ堆積物によってゆっくりと縮小していった。
そして、江戸時代の大和川の付け替え工事(1703年)によってまた大きく変化する。

川面の浜の剣先舟の水運が盛んになったのも大和川の付け替え工事のお陰だ。
川面は東を流れる石川によって大きく変化する。
江戸時代の石川は西の河岸段丘沿いに流れていた。

明治の中頃に河南橋の上流に堤防が築かれ、石川は東寄りに流れを変えた。
新田開発が行われ「裏脇」と呼ぶ田畑ができた。
そして、石川に河南橋が架けられて新道(府道美原太子線)が出来たことで、石川西岸の新田が開発される。
現在は西条町となっているが、太子街道を挟んで「上の田」「下の田」と呼んでいた。

明治の末には、もう一本の堤防が東に築かれ、石川はほぼまっすぐな川になる。
そして、現在の中小企業団地にあたる広大な新田が開発された。
♪喜志の川面小在所なれど 浦に小舟がどんとつく♪
川面の浜の剣先舟はなくなったが、小在所の川面が少し大きな小在所になった。

裏脇の田んぼの中にぽつんと川面の墓があった。
河南橋の西詰を南に高さ2mほどの堤防を進み、100mほど行った所に細い道があって、西に曲がって50mほど行った所に墓はあった。
入口に六地蔵さんがあり、墓が並んだ奥に阿弥陀さんの石仏がまつられていて、その裏に焼き場があった。
その後ろに大きな楠の木があって、その横に余った遺骨が捨てられていた。
「夕方に、あこに行くな! 火の玉が出る!」と親たちは言っていた。


②につづく


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