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酒と音楽とPC

血は酒で出来ている(某声優談)。他の趣味はPC組み立てるのと音楽聴くのしかない。

トランプとバイデンの討論会

2024-07-02 07:46:05 | 日記・エッセイ・コラム
バイデンが醜態を晒してしまい、次期大統領職が務まらないであろうことがはっきりしてしまった。あの表情と喋りは認知症患者のものである。認知症の大統領なんてあってはならないであろう。

それでなくてもバイデンは外交で失策に失策を重ねている。トランプ時代より平和は遠のき戦争が継続している。バイデンの政府支出拡大の成果が本格的に出てくるのは皮肉にも次期大統領時代になってからだろう。そうなるとバイデンの統治には今のところ評価するところは殆どなく、選挙戦では有権者の反トランプ感情だけが頼みとなる。

ここからが主題だ。では、トランプで良いのか。トランプの政策を見ていると橋下徹氏を思い出さずにはいられない。その場、その場で民衆にウケることを言っているだけで論理的整合性がなく、話の辻褄が全く合わないのだ。

確かに低金利、ドル安、株高、好景気を実現できるのであればアメリカ人にとって結構なことだ。しかし、彼の政策をよくよく検討するとインフレ方向に向かう政策、さもなくば相矛盾する政策ばかりである。例えば関税を原資にする減税。関税を高くすれば輸入コスト・プッシュ・インフレが不可避である。減税も流通する貨幣を増やしインフレを呼び込む政策である。彼の言う通りに所得税減税の原資を全て対中国の関税に求めるなら貿易は麻痺し、途轍もない輸入インフレからの不況は不可避である。移民の抑制もインフレにつながる。アメリカは現在慢性的な人手不足である。この状況で移民を減らせば賃金の急上昇は避けられない。賃金の上昇は即インフレにつながる。常にインフレなので稼いだ分はすべて使うか投資する、何なら借りてでも買い物する、投資するのがアメリカ人のライフスタイルだからだ。待てば待つほど欲しいものは高くなっていくし、仮に高金利で借金してもすぐに貨幣価値の下落で実質圧縮されていくのだ。アメリカ人の消費行動には合理性があるわけである。デフレに慣れすぎてすぐに貯金してしまう日本人とは違うのだ。デフレ下では貯金の価値は上がっていくのだから日本人の行動も合理的だったのである。関税だけでは彼の約束する巨額の所得税減税はできない。そこで政府支出の圧縮を公約しているにも関わらず所得減税の原資として国債発行額が増大するのは不可避と見られている。討論会後に米国金利が急上昇し、債券が暴落したのはこの認識が広まったからに他ならない。国債発行額が拡大すれば当然インフレになる。悪性、慢性インフレ下で低金利なんて実現できるわけがない。

こうしてみるとトランプの経済政策は全く辻褄が合わない、論理的整合性がないものなのだ。関税を増やし、所得税を大幅に減税し、移民を抑制しながら低金利、ドル安、好景気の全てを実現なんて出来ないのである。

これらの政策をトランプが打ち出したのは数年前である。その胸中を覗いてみるならFRBの高金利政策によって自分が大統領に就任する頃にはインフレは収まっているだろう。そこから多少インフレ誘導の政策を行っても民衆にバレはしない。インフレは本来好景気の証拠なのであるから多少物価が上がろうとそれ以上に好景気、高賃金、株高になれば誰も文句は言うまい。インフレ退治でFRBの手柄を横取りし、更にそろそろ出てくるであろうバイデンの公共投資の成果を横取りして好景気を実現することができれば支持者が望む政策(本来不景気、インフレになる)を実現出来た上に手柄は自分が独占できる。こんなところではないか。しかし、FRBは未だにインフレを退治できておらず、次期大統領就任までにインフレ退治が完了する可能性はない*。現在のトランプが掲げている政策をそのまま実行したならば悪性インフレの進行は不可避である。トランプの青写真は既に絵に描いた餅になってしまっているのだ。

*改めて言うまでもないだろうが、インフレが沈静化しない一因はバイデンの公共投資拡大政策に伴う国債発行額の増大である。皮肉にもトランプはバイデンと同じ轍を踏もうとしている。好景気とインフレは本来一体なものであるからコロナ後にアメリカの経済崩壊が起こらなかったのはインフレ進行を覚悟の上で財政支出を拡大したからである。トランプの場合は関税によってコスト・プッシュ・インフレになるのであるからバイデンの施策(デマンドプルインフレ誘導)よりもインフレ退治は困難になるであろう。日本も他人事ではない。今後積極財政を取るのであればアメリカのようなインフレが恒常化した社会になるのだ。積極財政論者にその覚悟があるのか大いに疑問である。裏を返せば今の日本の物価が他国と比較して安定しているのは民の不満を承知で緊縮財政を敷いているからである。アベノミクス以降の日本のように金融緩和しながら緊縮財政を敷くのはアクセルとブレーキを同時に踏む行為であるといえばその通りである。アベノミクスが不成功に終わったのは積極財政に踏み出せなかった上に消費増税したからであるが他国のように財政支出拡大に舵を切っていたら物価高騰はこんなものでは済まなかったであろう。

トランプはポピュリストであるから都合が悪いことがあってもとぼけるだろうし公約の変更に罪悪感なんてないから政策を変更する柔軟性を持っているとも言える。そもそもトランプは頭が悪いわけでもなんでもなく実現不可能であったり論理的整合性がなくても気にせずにその場その場で支持者が喜ぶことを言っているだけなので今掲げている政策をそのまま実行するとは思えない。ただし、高関税、移民抑制はやらなければ岩盤支持層を失うので強行するのではないか。そう考えるとトランプ大統領時代はインフレ、低成長は避けられないように思える。

バイデンが大統領選から引いてくれたら多少はトランプの大統領就任を阻止する可能性はあがるのだが・・・。政治家としての資質が疑問視されている岸田翔太郎氏を岸田文雄の後継者にすることを譲らない岸田夫人同様にバイデン夫人も引くような人ではないらしい。内心バイデン本人も辞めたがっているように思うのだが嫁には頭が上がらないようだ。有権者ももう見ていられないぐらい衰えを隠せないバイデンよりは問題があっても頭が働いているトランプを選んでしまうだろう。民主党の大統領候補がバイデンのままでは反トランプ票を結集できずトランプ大統領就任を阻止することは不可能であろう。
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川口市、蕨市のクルド人問題について

2024-06-19 09:34:24 | 日記・エッセイ・コラム
左派の方々はこれを移民、難民差別の問題と捉えてクルド人擁護の姿勢を取っている。しかし、この問題は移民、難民や差別の問題であろうか?

フランスやイタリア、ハンガリー等EUの国々で極右勢力が台頭し、ブレグジットが論じられるのは何故か?EUに強制的に割り当てられてる移民、難民に社会保障費を食いつぶされていると感じているからであろう。それだけではなく、移民は世代を重ねると無頼漢、犯罪者に成り果てることが多い。移民一世は確かに移住先に適応して懸命に働く人が大半だ。それだけの覚悟を持って移住してきているからだ。しかし、世代を重ねると移民の問題点が顕在化する。移民二世以降の世代は一世のような覚悟を欠いている。好きでここにいるわけではないという意識と私は何者なのかというアイデンティティーの危機と少なからずある差別に耐えられず教育を受けることを放棄し、現地の言葉も学ばず社会保障に頼って生きるか無頼な生活に陥りそのうちに犯罪者に成り果てる、このコースを辿ることが多すぎるのだ。

移民、難民は言葉のハンディを持つがゆえに生活保護受給家庭以上の金銭を国から与えられている。移民一世はそれに甘えないのだが二世以降はそれに甘えるようになってしまう。それだけならまだ良いのだが更に無頼漢化して治安を悪化させるとあってはその者をその場所に居させることが正義であろうか?私はそうは思わない。国籍を持つ日本人であっても犯罪者、無頼漢は世の中から白眼視されて居場所を失う。移民、難民であればそれを見逃されるということがあってよいはずがない。日本国籍を持ってない以上、日本がその者たちの面倒を見る謂れは本来ないのである。犯罪者に堕ちてしまった日本国籍を取得していない移民は直ちに強制送還し、再入国を阻止する措置が必要であると思う。これは差別や移民問題、難民問題ではなく、単に犯罪者の処理の話なのだ。移民であるから、難民であるから犯罪行為を問われないなどということがあってはならない。何の咎もない周囲の人が我慢するようなことがあってはならない。犯罪は習慣の違いなどでは正当化されないのだ。その反面、普通に社会に溶け込んでいる移民、難民を差別することがあってはならない。この2つは全く別問題なのだ。左派はそれを混同しているのである。
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WBPC問題とパーティー券裏金問題の間

2024-02-22 22:16:09 | 日記・エッセイ・コラム
領収書を提出していないので何に使ったのかわからない。この点でパーティー券裏金問題とColaboの問題に違いがあるのだろうか?確かに政治家が裏金を私用に使えば雑所得となり、無税の政治資金と話は変わってくる。自己申告では政治資金として使いました。しかし、領収書はだせません(笑)。それが通るわけがない。しかし、それを通してしまったのがColaboである。Colaboに東京都から助成金が出されていたのは若年の困難女性を助けるための支出だからという建前である。しかし、領収書が東京都にも裁判所にも提出されていないのであれば何に使ったのかわからない。Colaboの周囲は領収書の提出を要求されていることについて女性全体への攻撃だとか、女性の社会進出へのバックラッシュだとかごちゃごちゃ言っているが、そんな問題だろうか?裏金同様にただ単に領収書を提出すればそれだけで白黒ついて終わる話なのだ。なぜ出せないのか。出せない=やましいことがあるからと見られても仕方がないのではないか。

政治家の裏金問題はマスコミにあまり突っ込まれないが、マスコミではColabo問題を扱うのは裏金問題以上のタブーになっているのではないか。毎日、東京(中日)、神奈川新聞、週刊金曜日から見たらColaboは身内だろうからまだわかる。しかし、読売、朝日、日経、産経すらこの問題にあまり触れないのは理解できない。助成金の金額だって政治家の裏金に引けを取らない大きな数字なのにである。You-Tubeの左派系チャンネルも政治家の裏金問題に触れてもWPBC問題には全く触れない。取り上げていても問題を全く精査することもなく無条件でColaboを肯定するようなものばかりだ。これは納得できない。両者に本質的に違いがあるとは思えないからだ。Colaboには数億円の資産があるという。それが助成金(税金)をプールして蓄積した結果であったとして納税者が納得できるのであろうか。しかも助成金はWBPCの代表者が自治体や政府の諮問会議に入る形でお手盛りで毎年額が膨れ上がって行っていたのだ。助成金を受け取る当事者が諮問会議に入ること自体がおかしな話だ。団体代表はせいぜいオブザーバーに止め、第三者が金額を決めなければ助成金が青天井になるのは当たり前ではないか。BondとColaboは代表やスタッフが普段からかなりの贅沢をしているのは彼らが自ら公開している情報からもわかっている。WBPC問題に突っ込まず政治家の裏金だけに突っ込むのは私は納得しかねる。ちなみに私はどちらかと言わなくても政治的には左派に属する。しかし、左派だからといってColaboの味方をしなければならないなんて道理はない。理屈が通らないものに納得するような性格でもない。

ちなみに動物愛護系のNPOや一般社団法人も政府や地方公共団体の助成金や民間の寄付金を受けていながら代表やスタッフが贅沢している例が多々見られWBPC同様のどんぶり勘定なのではないかと疑っている。補助金を貰い、寄付金を募りながら贅沢しているとかどういう神経をしているんだろう。他に本業でたくさん稼いでいて傍らでNPOなり、社団法人の活動しているならまだわかる。しかし、こうした団体の代表や主要スタッフが他に贅沢できるような稼げる本業を持っているようには見えない。肩書を持っていても名前だけだったりする。反体制運動、社会奉仕、動物愛護活動を事実上の職業として金を得ているプロ市民なんて陰口を叩かれるのも仕方ないのではないか。もちろんすべての左派系団体、動物愛護系団体がそうではないが、そうした一部団体が目に余るのだ。大きな団体であっても相当な額の助成金や募金を受け取っておきながら仕事のほうが全くそれに見合わない。お金の使い道が検証されているようには見えないのだ。まあ、それは団体が無能だからと言う可能性もあるわけだが、もしそうしたお金を流用してスタッフが贅沢したり蓄財しているとしたら論外な話だろう。仮に団体が無能であって仕事ができてない場合も助成金や募金は打ち切られるというのが筋ではないか。他のちゃんとやってる団体に回すべきだろう。やはり助成金や募金が既得権益化していると疑わざるを得ないのだ。Webで大量の広告を打つような資金があるならどうしてそれを動物愛護活動や貧窮者の支援に回さないのか。私財を沢山持っているであろう黒柳徹子や杉良太郎みたいに手弁当で働けなんてことは言わないが、他人様のお金を雑に使うのは許せない。これでどうして右派の中抜き問題を批判できるのか?右派系のYou-TubeチャンネルではColabo問題について新・同和利権なんて厳しい言葉を述べている人すらいた。私もNPOや社団法人の一部は社会に不満を持つ人達が働かずに金を得るために作り上げたシステムではないのかと思うことが多々ある。これらの人たちは(私同様w)思想的、性格的に企業、役所で勤務が出来るとは思えないからだ。活動を派手にやっているならば企業、役所にも敬遠されるだろう。起業して稼ぐことができなければ最近亡くなった爆破事件の犯人のようにひっそりと質素に生きるしかないのである。体制や今の常識に逆らって生きる、彼ら風に言うならば硝子の天井を破る活動をするということはそれだけの覚悟が必要であると思うのだ。体制側から金を受け取っておいてその金を使って体制に逆らうなんて矛盾に満ちた行為は私には信じられない。目的(反体制活動)と手段(活動資金獲得)が逆転してしまっているのではないか。左派の人たちや動物愛護系の人相手の商売であっても起業して生活資金を得ている人はまだ結構。贅沢しなければ平凡な種銭の投資で生活することだって出来るのだ。現に私はそうしている。しかし、体制からの助成金、民間からの寄付金で生活するというのはどうなのであろう。縦しんば団体の仕事が忙しくて他に就業できず団体に入った助成金、寄付金で生活するとしても贅沢なキラキラした生活は許されないのではないのか。

政治家や財界人といった公人、役人に問題があるならば批判するのは当然だが、身内の問題にはこうも甘いダブルスタンダードでは左派系、動物愛護系の人たちが信用されないのも仕方のないことに思える。左派にシンパシーを感じて支援していた人が活動に参加した後こうした実態を見て落胆し、一気に反動化する例が多々見られるが宜なるかなと思う。
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セクシー田中さん脚本家問題

2024-02-05 09:48:35 | 日記・エッセイ・コラム
実写化に一切期待するな!ただそれだけ

これまでの失敗駄作アニメでもさんざんわかってることだけど局のお偉いさんやスポンサーに寵愛されてる脚本家様(何故かほぼ全員女性w)は原作者や監督、出演者より尊重されるのですよ。何度やらかして炎上しても起用され続けますから。テレビという狭い世界の中でね。漫画家だけでなく男性の脚本家やライター、制作スタッフといった業界関係者は件の脚本家と問題発言したシナリオ作家協会の理事を冷ややかな目で見てる人が多いのも面白い。

実写版を作る側は多くの場合原作を単なる素材としか思ってないのが現実。改変されたくなければ話を断るしかない。しかし、出版社が一儲けしようと勝手に話を進めている、こういうことなのだろう。だからこれからも漫画の実写化は失敗し続ける。漫画とは違う時間の流れの処理、役者の質(どうしても演技できない美形や役に合っていない大御所を使いたがる、または芸能事務所の圧力でキャストに押し込まれる)、原作に理解のある脚本家とプロデューサー、そんな条件が揃うのは奇跡だろう。そもそもが出版社が漫画家を舐めきっている。有象無象の中から出版社の力で拾い上げてやった感覚(芸能事務所とアイドルの関係と類似しているのではないか)なのだから余程の大御所に成長していない限り漫画家の意向なんてガン無視だろう。出版社の意識が漫画家を下請けの一人程度に見ているので編集者と漫画家の人間関係も最悪になってることが多そうだ。

進撃、テラフォーマーズ、地球へ(アニメだが改変映画化失敗の典型)、ヤマト。アニメ、漫画の実写化は失敗が運命づけられているとすら思える。るろうに剣心や銀魂は本当にたまたまなのだ。何も期待せずに見るのが精神衛生上良い。海猿みたいにヒットしても改変に原作者激怒で続編打ち切りなんてことも起こるわけだ。

今回やっぱり事件に関連付けて取り上げられていたがスタンリー・キューブリックや押井守みたいに原作改変して作品の質を上げてしまう天才が偶にいるからどうしてもそうなってしまうのだ。脚本家や監督、プロデューサーは成功例を目指してしまう。そしてその大半は天才ではないから当たり前のように失敗する。成功したとしても改変はいい気持ちはしないのに失敗された場合原作者とそのファンが不満を持たないわけがない。シャイニングでスティーブンキングはどうしても内容改変に納得できず脚本を買って出ようとして門前払いされている。しかし、キングが後に自らプロデュースしたキング版シャイニングがキューブリック版を作品的に越えているわけではない。キングは怖いヒューマンドラマとしてシャイニングを書いたのにキューブリックは完全なホラーに仕立ててしまった。押井守はアニメのオリジナルシナリオとビューティフル・ドリーマーで高橋留美子が確立した濃いキャラたちを独自な解釈で高橋留美子より上手く使ってみせた。いずれも失敗したらボロクソに叩かれただろう。最近はあまり良い作品を作れてないがシャフトの派手な演出だって相当なものだ。他社がアニメ化を担当してシャフト演出がなければ化物語もまどかマギカ(こちらは原作のないオリジナル作品だが)もあんなに長期間売れ続けるヒット作にはならなかっただろう。西尾維新や虚淵玄が優れた物書きであることは間違いないがアニメ人気は原作というよりシャフト演出あってのものだったと思う。そういえば改変しまくって人気が出た作品には実写ドラマのスケバン刑事なんてものもあった。原作者の和田慎二はかなり不快だったみたいだが。ただし、一番内容改変されまくってドラマスタッフのオリジナル作品に近いコメディになった3作目を原作者は気に入っているというのが面白い。中途半端に改変されるのが原作者は一番不快なのだろう。そういえば後々和田慎二は出版社と揉めまくってたなぁ。ほぼ別作品になっていたと聞く実写版ときめきメモリアルも原作を忘れて見たら結構いい作品だったらしい。榎本加奈子がヒロインという時点で全く見る気はなかったが(笑)。

製作の現場は結局は自分の表現を徹底したい人同士の我の張り合いなのだ。セクシー田中さんのドラマ化ではプロデューサーが自信家の脚本家を制御できなかったということだろう。彼女が関わったドラマは原作を知らない人には好評なのだから才能はあるのだろう。しかし、これまでの実績から原作者へのリスペクトが皆無なことには定評のある人物である。原作は自分がうまく料理するための素材としか思ってなかったのは間違いない。

関係者それぞれの言い分を噛み砕いて俯瞰して考えると小学館が原作者にドラマ化の話をする前からドラマ化の話が進んでいてその脚本家の起用が決まっていたようだ。脚本家から見たらもう製作が進み始めていてキャストも決まりシナリオ構想も練った後から無理矢理に原作者から原作尊重方針をねじ込まれた感覚なのだろうな。だから原作者の介入に猛然と腹を立てた。そしてその気分は現場スタッフに共有されていたのではないか。だから制作現場は敢えて原作者を無視する空気になっていたのだろう。よせば良いのにお気持ち表明してしまったから脚本家が矢面に立ったが実際は現場スタッフほぼ全員が介入に不快感を感じていたのだ。最後は製作スタッフに言い分を聞いてもらえない原作者が自ら脚本を書いて微妙な出来に終わり、気の強い脚本家はそれ見たことかとお気持ち表明してしまった。しかし、それでも原作者にはその権利があるはずだと思うのだ。

プログレッシブロックバンドCamelに白雁という名アルバムがある。このアルバムはポール・ギャリコの小説白雁に着想を得て作られている。小説にインスパイアされたコンセプトアルバムだ。しかし、当の小説家はこの名作を認めず最後まで否定し続けた。そして別のギャリコ公認の音楽家が作った白雁の演奏会に行っては悦に入っていたという。なお、作者公認の曲は多くの人から駄曲と評価されている。それでも作者が公認したのはその曲なのだ。おそらく小説家はロックバンドってのが気に入らなかったんだね(笑)。ロックバンドCamelのアルバムは名作であってもギャリコにとっては預かり知らぬところで勝手に作られたインスパイア作品に留まるわけだ。結果的に原作者の介入によって駄作になろうがなんだろうが原作者にその権利があり、アレンジャーや二次使用者にその権利はないのだ。だからいくら名作であろうがCamelの白雁は原作者公認アルバムではないのだ。田中さんでは原作者は原作を尊重するように何度も釘を刺しているわけである。現場が敢えて無視していたとしか思えないのだ。

話を聞く限り小学館がと日本テレビがドラマ化の話を勝手に進めていてドラマ化が事後承諾であった原作者は気の毒としか言いようがない。おそらく原作者にとっては実写ドラマ化が、いつも好きにやらせてもらっている脚本家にとっては原作尊重方針がどちらにも寝耳に水だったのだ。原作者は今更ドラマ化は止められないだろうからせめて原作を尊重しろと釘を刺したのだろう。後々面倒くさそうな話になりそうなのに日本テレビはどうして若い未経験に近いプロデューサーを起用し続けたのだろう*。降板させてベテランを起用すべきだったのではないか。我の強いクリエーター同士の軋轢をうまくやりくりするのがプロデューサーの役割のはずだ。プロデューサーは現場の空気に同調し、原作者と現場の意見を擦り合わせるという役割を放棄していたとしか思えない。そして責任は日本テレビとの間で勝手に実写化の話を進めていた節のある小学館にもあるよう思えてならない。何度も言われていたのに日本テレビに原作者の意見を正しく伝えられなかった小学館と現場に徹底できなかったプロデューサーは原作者を舐めていたとしか思えないのだ。原作者は部外者であり、部外者がごちゃごちゃ言うなが本音なのだろう。しかし、繰り返すが権利は原作者にあるのだ。スタッフは主観的には創造者であったとしても客観的には二次利用者に過ぎない。原作者の介入がどうしても嫌なら他人の看板を借りずにオリジナル作品で勝負すべきなのだ。

*ここは私の思い違いで総合プロデューサーは日本テレビのベテラン(?)プロデューサー三上絵理子となっている。しかし、日本テレビのプロデューサー「三上絵理子」は公表されている経歴が本当なら実績十分なプロデューサーなのだが正体が一切明かされていない謎の人物でアラン・スミシー(アメリカの監督、脚本で使われる名称で監督や脚本が正体を明かしたくない場合に使われる共有の仮名。ジェーン・ドゥみたいなもの)ではないかと疑われている。日本ではサンライズの「矢立肇」が公開されている共有名義として有名。三上絵理子は矢立肇同様に実在の人物にしては仕事量が多すぎるのだ。もし架空の人物で正体を隠すための共有名義であったとしたなら余計に責任の所在が分からない。三上絵理子プロデューサー名義のドラマでは以前も度々酷い原作改変が行われていたようだ。一応日本映画テレビプロデューサー協会の理事ということになっているのだが・・・。もしトラブルが発生しそうな場合に責任の所在を曖昧にするために架空の三上絵理子名義を使っているのだとしたら悪質だと思う。仮に三上絵理子なる人物が実在していたとしても実際に現場に関わっていない場合は同様に悪質だ。

シナリオ作家協会は謝罪文を出し、例の座談会(彼ら曰く密談)で出てきた意見は個人の見解でシナリオ作家協会の総意ではありません、みたいな感じで逃げ切ろうとしているようだ。しかし、原作者軽視のかなり手前勝手で強硬な意見を滔々と述べていたのはシナリオ作家協会の理事なのである。原作者が亡くなったその夜に出すような動画であろうか?それどころか、件の発言者は親団体の一般社団法人シナリオ作家協会でも理事をしており、実力はともかく(どうも脚本家の当該団体加入率は高くないらしい)協会での役職上は日本の脚本家の頂点に立っている一人なのだ*。これを公式見解と呼ばずして何なのか。しかも、その理事は件の脚本家と交流があるようだ。脚本家の代弁をしたと見てよいだろう。あそこで述べられていた意見が現場業界人の本音だろう。参加者の中の一人は無難な発言に終止し暴言など吐いてないのに悪く言われてSNSで批判の矢面に立たされるというハズレ籤を引いたのは気の毒であった。

*協同組合の親団体である一般社団法人シナリオ作家協会のHPから役員名簿等の情報が消されている節がある。説明責任を取らずに動画を消して逃亡するのであれば過激な発言などしなければよいのだ。協同組合のHPでも理事名簿から件のK氏の名前が消えている。
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いじめ芸の終焉

2024-01-24 11:55:28 | 日記・エッセイ・コラム
とんねるずに続いて松本人志もTVから消えそうである。とんねるずも松本人志もそれなりに見て笑ってきた私に彼らをどうこういう資格はない。ただ、世の中がそれを許さない時代になりつつある。石橋貴明は歳を取ったらダサい芸人の代表になってしまった感があって人気が落ちてしまったのだが、松本人志は生き残った。彼の毒舌や弄りには独特の毒があり、他人には真似の出来ないものであったし、勢いだけでいじめ芸をやっていたとんねるずと違って綿密に計算された技ではあった。ただし、もう初老になろうという男性が毒舌や弄りだけで人気を博し続けるというのはグロテスクな事態であった。ビートたけしや島田紳助はいじめ芸に限界を感じて活動の場を移していったのだ。裏ではいじめを続けていた紳助は逃げ切れなかったが(笑)。松本人志はいじめ芸が他の芸人より研ぎ澄まされていたがゆえに生き残ってしまった時代の遺物だったのではないか。彼らがTVから消えるのは時代の流れであって性加害がどうとかは切っ掛けに過ぎないのではないか。

今の流れを作ったのは米国のMe Too運動であろう。Me Too運動には理不尽な点がある。他人を断罪するに当たり、後の時代の新しい価値観を用いてはならない、つまり刑法学には不遡及の原則というものがあるのだが、社会的制裁はその限りではない。これにいたぶられて傷付いた人々が気づいてしまったのだ。厳密には犯罪と言えるか微妙であるが社会的地位を持つ他人に踏みつけにされた痛みをのちになって社会的制裁という形でお返しする事が容認されるようになったということだ。当時の価値観では当たり前であったことが遡及的に追及されるわけであるから当事者は主観的にはたまったものではないだろう。しかし、彼らが他人の尊厳を理不尽な形で踏みつけにしたのは事実なのだ。問題は冤罪が相次ぐのではないかということだが・・・。

それにしても松本人志は時代が移り変わっているのに昭和の価値観のまま裸の王様になっていた、それが容認されていたというのに驚きを感じる。ジャーニーもそうだが、もうアンタッチャブルになってしまっていたのだろう。ひろゆきの言うように「そういう場所に行ってしまうような女性は予め覚悟していたのではないか?」というのは一理あると思っている。ひろゆきは香川照之についても同じ理屈建てで擁護していた。おそらくひろゆきの言い分は理屈が通っているのだが、それが許される時代ではないということなのだろう。女性の覚悟の有無に関わらず優越的地位を利用しての他人への理不尽な扱いはモラルとして許されない時代になっているということだ。

芸能界はそうなっているが、リアル社会はどうだろう?いじめは社会的立場を確定させる行為であってそれなりに存在理由があると考えている(正しいとはいわないし、良いことでもない。ある意味必要悪として存在していると思っている)。そうでなければ社会は円滑に回らないのだろう。しかし、限度を越えたものや理不尽なものは容認されてはならない。芸能界や政界が浄化されても一般の社会が浄化されないのでは単なるガス抜きにしかならない。
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