エリック・ヒルマン
NPB時代の渾名は「ミスター違和感」「昼マン」
1966年生まれ。
アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリー出身。
1987年のMLBドラフト16巡目でニューヨーク・メッツに指名され入団。
208cmという身長はあのランディ・ジョンソンと全く同じであり、メジャーリーグでも稀有な高さから投げおろされる白球を期待され1992年5月にメジャー昇格を果たす。
――――――――――――
【エリック・ヒルマン】 MLB ニューヨーク・メッツ 92-94年
通算 49試合(先発36試合) 232イニング 4勝14敗 防御率4.85 左投左打
――――――――――――
49試合のうち36試合が先発としての登板だったことからメッツの期待の程が窺える。だが、変化球は多彩なもののいかんせん球威に欠けるためメジャーに定着は出来なかった。しかし、1994年メッツ傘下の3Aチームであるノーフォーク・タイズで16試合106イニング10勝01敗 防御率2.89という立派な成績を残す。
この時の3Aはノーフォーク・タイズを率いていたのがボビー・バレンタイン監督であり、そういった縁もあり翌95年にNPBは千葉ロッテマリーンズの監督に就いたボビー・バレンタイン監督がロッテ球団にヒルマン獲得を進言してNPB・千葉ロッテマリーンズのヒルマン投手が誕生することとなったのだ。
同年からロッテにやってきたフリオ・フランコ、ピート・インカビリア両助っ人選手に比べてメジャーでの実績が薄かった為―
契約金2000万円に年俸は約5000万円プラス出来高払いと28歳でメジャー経験のある選手としては比較的低い金額で契約。
「長年優勝から遠ざかっているロッテとともに僕も這い上がる」とヒルマンはハングリー精神をもって来日。
――――――――――――
【エリック・ヒルマン】 NPB・千葉ロッテマリーンズ
95年 28試合 12勝09敗 防御率2.87
96年 29試合 14勝09敗 防御率2.40
背番号42 左投左打
――――――――――――
ロッテ在籍時にはこの時代の助っ人選手としては珍しく球場に電車通勤。敗戦投手になったにもかかわらず海浜幕張駅前で子供達に囲まれたヒルマン投手が体を申し訳なさそうに折りたたんでサインをする姿が目撃されている。
そんな柔男だったが、グラウンドでも日本球界最長の2m08cmから投げおろす速球と得意のチェンジアップで緩急をつける柔らかいピッチングを披露。初年度・95年は12勝・防御率2.87で先発ローテーションに定着しチームを2位に押し上げる大きな力となる、2年目・96年は14勝・防御率2.40と更に安定度を増した活躍をみせる。
伊良部、小宮山、ヒルマンのロッテ先発3本柱はそれぞれ個性がある投手であり当時のパリーグにおいて安定度抜群であったが、投手起用方針に疑問を感じたヒルマンは球団と衝突し96年オフにロッテを退団。
「日本一に出られるチームに行きたい」と発言して帰国。
読売ジャイアンツとダイエーホークスの間でヒルマン争奪戦が展開され、96年末に読売ジャイアンツのエリック・ヒルマンが誕生。
年俸は2億5千万円とヒルマン日本初年度の5000万円から5倍増、しかも2年契約という条件を読売は付けてしまったのだ。
明けて97年―
読売ジャイアンツの強力打撃陣を伴って更なる飛躍が期待されたヒルマン、自身も「15勝はする」と語って臨んだシーズンだったがいきなり左肩に違和感が発生。
――――――――――――
【エリック・ヒルマン】 NPB・読売ジャイアンツ 97-98途
97年 2試合 0勝01敗 防御率3.00
98年 ―
背番号42 左投左打
――――――――――――
2試合で6イニングにしか投げられず不甲斐無い成績を残すものの、意外にもヒルマンを責める声は聴かれなかった。というのも同年97年はNPB・阪神タイガースにあの4億円を5月に持ち帰ったグリーンウェル、そしてNPB・ヤクルトスワローズに史上最低助っ人・ホージーが共にボストン・レッドソックスからやってきてくれた記念すべき年であり「神のお告げ」「ホージーマジック」の影で「ミスター違和感」は静かに蠢きはじめていたのだ。
明けて98年―
左肩手術を行い万全の体制で再起を誓ったことになっているヒルマンは、
2月12日にキャンプフリー打撃に自ら志願して登板、打者8人に78球を投げ外野へ飛んだのはわずか1本という好投をみせミスターこと長島茂雄監督ら首脳陣が安堵の表情を浮かべる中、ただ一人苦悶の表情でマウンドからおりてくるヒルマン。
『pain!ويتوزع متحدثوها في المنطقة 』
ヒルマンの口から何度も吐きだされるその言葉を通訳に通してみると―
――――――――――――――――――――――――
『左肩に小錦が乗っている』
――――――――――――――――――――――――
前年の「神のお告げ」発言により少々の事ではびくともしなくなっていたNPB関係者だったが、流石にこれには度肝を抜かれた。
ギネスブックで「最も体重の重いプロスポーツ選手」として紹介されていた身長187cm・体重275kgの小錦関がヒルマンの左肩にのっていることになっているのだ。
すぐさまトレーナーが貴乃花2人分の負荷を確認にあたったが、所見は「筋肉のはり」であり小錦の小すら確認することは出来なかった。
だが、ヒルマンは「肩の違和感」を繰り返して強調することで緊急帰京を果し「ミスター違和感」の異名はついに全国区となったのだ。
その後、宮崎キャンプに合流したものの―
「オレに調整を任せてくれれば、レギュラーシーズンは必ず結果を出す」
「80球を超えたら肩が重くなる」
「寒い時期はドーム以外では投げたくない」
ノースロー調整の中、違和感だらけのコメントを首脳陣に投げつけ「ミスター違和感」の地位を不動のものとする。
こうして98年シーズン開幕を2軍戦でスタートさせたヒルマンは肩に小錦を乗せながらも「日光」へ観光へ赴くという大胆な行動に出たかと思えば、練習から細心の注意を払って抜け出して昼前に帰宅。
それらの事態が明るみに出て「昼マン」という渾名をも戴冠。
日光にはいくが一向にブルペンにいかないヒルマンに業を煮やした読売巨人軍は98年06月01日付で解雇通告。
ナベツネ球団社長は『金をやるから出ていけ!』と出場数0のヒルマンに太っ腹で言い放ち、年俸2億5千万円は満額ヒルマンの財布におさまることとなったのだ。
それに味をしめたか―
『2年後に肩が治ったらテストを受けて巨人に復帰する予定だ』
とヒルマンは何故か2年越しの巨人愛を違和感たっぷりにコメント。
押し寄せる報道陣には―
――――――――――――――――――――――――
『オレをミッチェルやグリーンウェルと一緒にしないでくれ』
――――――――――――――――――――――――
と4億円コンビのケビン・ミッチェル(95年・ダイエーホークス)やグリーンウェル(97年・阪神タイガース)を小物扱いしてから機上の人となった。
ヒルマンサイドによれば―
帰国後すぐに関節鏡視下手術を行ったところ―
左肩に乗っている小錦の正体は「左肩回旋筋腱板の全層断裂」であることが判明したとのこと。
――――――――――――――――――――――――
【エリック・ヒルマン】 NPB
千葉ロッテマリーンズ 95-96 読売ジャイアンツ 97-98途
95年 28試合 12勝09敗 防御率2.87
96年 29試合 14勝09敗 防御率2.40
97年 2試合 0勝01敗 防御率3.00
98年 ――
通算 59試合 26勝19敗 防御率2.64 奪三振243
背番号42 左投左打
――――――――――――――――――――――――
ロッテ時代におけるファンを大切にする選手のイメージは読売ジャイアンツに入団するや一転、「ミスター違和感」「昼マン」と書かれたい放題言われたい放題だったがそれも2年間でたった2試合しか登板していないのでは已む無しといったところでしょう。
しかもその2年間で5億円をも稼いだのだから―
97年に5月の2週間弱で4億円を稼ぎだしたグリーンウェルのようなハリケーン型ではなく、その陰に隠れて真綿で小錦関の首を絞めるようなジンワリ型の稼ぎ屋助っ人選手でした。
日本の各球団が助っ人選手との複数年契約に違和感を持つきっかけとなった選手とも書けるかもしれません。
勿論、2年後の読売巨人軍のトライアウトに違和感なくヒルマンの姿はありませんでした。
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NPB時代の渾名は「ミスター違和感」「昼マン」
1966年生まれ。
アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリー出身。
1987年のMLBドラフト16巡目でニューヨーク・メッツに指名され入団。
208cmという身長はあのランディ・ジョンソンと全く同じであり、メジャーリーグでも稀有な高さから投げおろされる白球を期待され1992年5月にメジャー昇格を果たす。
――――――――――――
【エリック・ヒルマン】 MLB ニューヨーク・メッツ 92-94年
通算 49試合(先発36試合) 232イニング 4勝14敗 防御率4.85 左投左打
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49試合のうち36試合が先発としての登板だったことからメッツの期待の程が窺える。だが、変化球は多彩なもののいかんせん球威に欠けるためメジャーに定着は出来なかった。しかし、1994年メッツ傘下の3Aチームであるノーフォーク・タイズで16試合106イニング10勝01敗 防御率2.89という立派な成績を残す。
この時の3Aはノーフォーク・タイズを率いていたのがボビー・バレンタイン監督であり、そういった縁もあり翌95年にNPBは千葉ロッテマリーンズの監督に就いたボビー・バレンタイン監督がロッテ球団にヒルマン獲得を進言してNPB・千葉ロッテマリーンズのヒルマン投手が誕生することとなったのだ。
同年からロッテにやってきたフリオ・フランコ、ピート・インカビリア両助っ人選手に比べてメジャーでの実績が薄かった為―
契約金2000万円に年俸は約5000万円プラス出来高払いと28歳でメジャー経験のある選手としては比較的低い金額で契約。
「長年優勝から遠ざかっているロッテとともに僕も這い上がる」とヒルマンはハングリー精神をもって来日。
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【エリック・ヒルマン】 NPB・千葉ロッテマリーンズ
95年 28試合 12勝09敗 防御率2.87
96年 29試合 14勝09敗 防御率2.40
背番号42 左投左打
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ロッテ在籍時にはこの時代の助っ人選手としては珍しく球場に電車通勤。敗戦投手になったにもかかわらず海浜幕張駅前で子供達に囲まれたヒルマン投手が体を申し訳なさそうに折りたたんでサインをする姿が目撃されている。
そんな柔男だったが、グラウンドでも日本球界最長の2m08cmから投げおろす速球と得意のチェンジアップで緩急をつける柔らかいピッチングを披露。初年度・95年は12勝・防御率2.87で先発ローテーションに定着しチームを2位に押し上げる大きな力となる、2年目・96年は14勝・防御率2.40と更に安定度を増した活躍をみせる。
伊良部、小宮山、ヒルマンのロッテ先発3本柱はそれぞれ個性がある投手であり当時のパリーグにおいて安定度抜群であったが、投手起用方針に疑問を感じたヒルマンは球団と衝突し96年オフにロッテを退団。
「日本一に出られるチームに行きたい」と発言して帰国。
読売ジャイアンツとダイエーホークスの間でヒルマン争奪戦が展開され、96年末に読売ジャイアンツのエリック・ヒルマンが誕生。
年俸は2億5千万円とヒルマン日本初年度の5000万円から5倍増、しかも2年契約という条件を読売は付けてしまったのだ。
明けて97年―
読売ジャイアンツの強力打撃陣を伴って更なる飛躍が期待されたヒルマン、自身も「15勝はする」と語って臨んだシーズンだったがいきなり左肩に違和感が発生。
――――――――――――
【エリック・ヒルマン】 NPB・読売ジャイアンツ 97-98途
97年 2試合 0勝01敗 防御率3.00
98年 ―
背番号42 左投左打
――――――――――――
2試合で6イニングにしか投げられず不甲斐無い成績を残すものの、意外にもヒルマンを責める声は聴かれなかった。というのも同年97年はNPB・阪神タイガースにあの4億円を5月に持ち帰ったグリーンウェル、そしてNPB・ヤクルトスワローズに史上最低助っ人・ホージーが共にボストン・レッドソックスからやってきてくれた記念すべき年であり「神のお告げ」「ホージーマジック」の影で「ミスター違和感」は静かに蠢きはじめていたのだ。
明けて98年―
左肩手術を行い万全の体制で再起を誓ったことになっているヒルマンは、
2月12日にキャンプフリー打撃に自ら志願して登板、打者8人に78球を投げ外野へ飛んだのはわずか1本という好投をみせミスターこと長島茂雄監督ら首脳陣が安堵の表情を浮かべる中、ただ一人苦悶の表情でマウンドからおりてくるヒルマン。
『pain!ويتوزع متحدثوها في المنطقة 』
ヒルマンの口から何度も吐きだされるその言葉を通訳に通してみると―
――――――――――――――――――――――――
『左肩に小錦が乗っている』
――――――――――――――――――――――――
前年の「神のお告げ」発言により少々の事ではびくともしなくなっていたNPB関係者だったが、流石にこれには度肝を抜かれた。
ギネスブックで「最も体重の重いプロスポーツ選手」として紹介されていた身長187cm・体重275kgの小錦関がヒルマンの左肩にのっていることになっているのだ。
すぐさまトレーナーが貴乃花2人分の負荷を確認にあたったが、所見は「筋肉のはり」であり小錦の小すら確認することは出来なかった。
だが、ヒルマンは「肩の違和感」を繰り返して強調することで緊急帰京を果し「ミスター違和感」の異名はついに全国区となったのだ。
その後、宮崎キャンプに合流したものの―
「オレに調整を任せてくれれば、レギュラーシーズンは必ず結果を出す」
「80球を超えたら肩が重くなる」
「寒い時期はドーム以外では投げたくない」
ノースロー調整の中、違和感だらけのコメントを首脳陣に投げつけ「ミスター違和感」の地位を不動のものとする。
こうして98年シーズン開幕を2軍戦でスタートさせたヒルマンは肩に小錦を乗せながらも「日光」へ観光へ赴くという大胆な行動に出たかと思えば、練習から細心の注意を払って抜け出して昼前に帰宅。
それらの事態が明るみに出て「昼マン」という渾名をも戴冠。
日光にはいくが一向にブルペンにいかないヒルマンに業を煮やした読売巨人軍は98年06月01日付で解雇通告。
ナベツネ球団社長は『金をやるから出ていけ!』と出場数0のヒルマンに太っ腹で言い放ち、年俸2億5千万円は満額ヒルマンの財布におさまることとなったのだ。
それに味をしめたか―
『2年後に肩が治ったらテストを受けて巨人に復帰する予定だ』
とヒルマンは何故か2年越しの巨人愛を違和感たっぷりにコメント。
押し寄せる報道陣には―
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『オレをミッチェルやグリーンウェルと一緒にしないでくれ』
――――――――――――――――――――――――
と4億円コンビのケビン・ミッチェル(95年・ダイエーホークス)やグリーンウェル(97年・阪神タイガース)を小物扱いしてから機上の人となった。
ヒルマンサイドによれば―
帰国後すぐに関節鏡視下手術を行ったところ―
左肩に乗っている小錦の正体は「左肩回旋筋腱板の全層断裂」であることが判明したとのこと。
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【エリック・ヒルマン】 NPB
千葉ロッテマリーンズ 95-96 読売ジャイアンツ 97-98途
95年 28試合 12勝09敗 防御率2.87
96年 29試合 14勝09敗 防御率2.40
97年 2試合 0勝01敗 防御率3.00
98年 ――
通算 59試合 26勝19敗 防御率2.64 奪三振243
背番号42 左投左打
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ロッテ時代におけるファンを大切にする選手のイメージは読売ジャイアンツに入団するや一転、「ミスター違和感」「昼マン」と書かれたい放題言われたい放題だったがそれも2年間でたった2試合しか登板していないのでは已む無しといったところでしょう。
しかもその2年間で5億円をも稼いだのだから―
97年に5月の2週間弱で4億円を稼ぎだしたグリーンウェルのようなハリケーン型ではなく、その陰に隠れて真綿で小錦関の首を絞めるようなジンワリ型の稼ぎ屋助っ人選手でした。
日本の各球団が助っ人選手との複数年契約に違和感を持つきっかけとなった選手とも書けるかもしれません。
勿論、2年後の読売巨人軍のトライアウトに違和感なくヒルマンの姿はありませんでした。
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