坂〇と土〇が書いてたananの記事、サラーと読んではみたんだけれど
これってなんだろう、激しく論点がずれてるような気がするんだけど。
自分がいないとか当たり前じゃないのかな。
だって、好きな二人をあれこれ頭の中で動かしてみて
グッとくる場面で感極まってる時点で
自分が登場する余地なんてないよね?
その極まってる世界では自分って空気か壁紙かテレビの裏のマイナスイオンか
猫足箪笥の下の綿ボコリとかせいぜい頑張って使用中のベッドのシーツくらいじゃねぇのかな?
それって腐だろうが男女の恋愛シミュレーションだろうが同じじゃないのかな。
なんで妄想ばっかりしてないで現実見なさいなのかな?
現実なんて毎日毎日きっちり8時間会社行ってるわな。
会社の人間模様がかなりジャンクな状態で
毎日大仏様を見習って半眼でお仕事してるわな。
会社行ってなくたって家の用事したりしてるわな。
猫のうんことおしっこだって毎日掃除してるわな。
日常=現実とするなら
映画を見たりライブ行ったり美術館廻ったり野外興行観に行って風邪引いたり(笑
同じ大きさのベクトルで妄想したり創作したりしてるんじゃないのかな。
日々のルーチンから離れて自分の好きなことをして
心を晴れやかにすること=非日常と言っていいと思う。
そう考えると、なんだかずいぶん浅ーい主旨の文章だな、って思ったの。
楽しいことって人の数だけ世界線があるんだよ。
自分が共有出来ないからって否定するのは全くもって文化的でないなぁ。
うーん、自分が久々にこの界隈に触れてみて
実にあやふやで表面的な見方をされたまま発信されちゃうことの怖さがわかってきた。
ちょっと、あまりにも不思議だったもので。
ananを手に取る創作系はいない、って認識なのかしら。
そんなことないと思うけどね。
ananも見る、薄い本も買う、週刊プロレスも前週の試合によっては買う、
コミックNewtypeはファイブスター物語がずーっと連載続いてるから定期購読してる(笑
これくらい当たり前じゃないのかしらね。
なんかちょっと、明らかに棲み分けが出来ていると思っていた世界線が
あら?平行だと思ってたのに存外くねくね曲がっててここからも根っこ出てるわよ、
みたいになってるな、と思ったのでした。
これってなんだろう、激しく論点がずれてるような気がするんだけど。
自分がいないとか当たり前じゃないのかな。
だって、好きな二人をあれこれ頭の中で動かしてみて
グッとくる場面で感極まってる時点で
自分が登場する余地なんてないよね?
その極まってる世界では自分って空気か壁紙かテレビの裏のマイナスイオンか
猫足箪笥の下の綿ボコリとかせいぜい頑張って使用中のベッドのシーツくらいじゃねぇのかな?
それって腐だろうが男女の恋愛シミュレーションだろうが同じじゃないのかな。
なんで妄想ばっかりしてないで現実見なさいなのかな?
現実なんて毎日毎日きっちり8時間会社行ってるわな。
会社の人間模様がかなりジャンクな状態で
毎日大仏様を見習って半眼でお仕事してるわな。
会社行ってなくたって家の用事したりしてるわな。
猫のうんことおしっこだって毎日掃除してるわな。
日常=現実とするなら
映画を見たりライブ行ったり美術館廻ったり野外興行観に行って風邪引いたり(笑
同じ大きさのベクトルで妄想したり創作したりしてるんじゃないのかな。
日々のルーチンから離れて自分の好きなことをして
心を晴れやかにすること=非日常と言っていいと思う。
そう考えると、なんだかずいぶん浅ーい主旨の文章だな、って思ったの。
楽しいことって人の数だけ世界線があるんだよ。
自分が共有出来ないからって否定するのは全くもって文化的でないなぁ。
うーん、自分が久々にこの界隈に触れてみて
実にあやふやで表面的な見方をされたまま発信されちゃうことの怖さがわかってきた。
ちょっと、あまりにも不思議だったもので。
ananを手に取る創作系はいない、って認識なのかしら。
そんなことないと思うけどね。
ananも見る、薄い本も買う、週刊プロレスも前週の試合によっては買う、
コミックNewtypeはファイブスター物語がずーっと連載続いてるから定期購読してる(笑
これくらい当たり前じゃないのかしらね。
なんかちょっと、明らかに棲み分けが出来ていると思っていた世界線が
あら?平行だと思ってたのに存外くねくね曲がっててここからも根っこ出てるわよ、
みたいになってるな、と思ったのでした。
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