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ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

バーデン、ヘレーネンタールのハイキング

2010-03-13 18:06:48 | ウィーン
バーデン Baden bei Wien



バーデンはもちろん温泉という意味です。ウィーンからSバーンに乗れば30分ほど。オペラの前からバーデナーバーンに乗れば、1時間のんびりローカル電車で行くことになりますが、そのかわりこちらは終点が街の中心地ヨーゼフスプラッツです。
そこからシュヴェヒャート川に沿って西におよそ30分も歩いて行くと写真の温泉プールに行くことができます。
わたしたちがウィーンに一年いた1983年は、なにしろロザーリウムはバーデンでどうしても見たい、聞きたい出し物があるときにだけ、日帰りで行って、深夜バスで夜遅くウィーンに戻ってきていました。要するにとんぼ帰りです。
私の方は、前にも書きましたが、そのころはウィーンそのものがなんとなく退屈で、暇になれば外国に行こうなんて思っていましたから、そもそもじっくりバーデンに行ってみようなんて思いませんでした。
わたしたちのどちらも、ウィーンの身近ないいところを知らないまま一年を過ごして、帰ってきてしまったというのが正直なところです。

でも、わたしも、バーデンに行くことは、行きました。
帰国間際の冬にオーストリアをぐるっと周回したことがあって、クラーゲンフルトへの途次バーデンで途中下車してみたのです。そのとき散歩していてこの温泉プールを見かけました。寒い時なので、湯けむりをあげている、という表現がぴったりで、また、やはり温泉ですからね、硫黄のにおいもたちこめていました。
実際にこのバーデンの温泉プールに出かけたのは、それから10年以上は過ぎてからだったと思います。水着着用ですから、まったくプールみたいなものです。

2000年に行ったときにもらったバーデン市温泉療法管理局のパンフレット(日本語)には、このように書いてあります。

「Thermalstrandbad
 シュトラントバード (*正しくはバートです、意味は砂浜での水浴ということです)
 温泉プール。ドナウ帝国崩壊後の1926年バーデン市はわずか16週間の建築工事期間を経て、アートデコ (*正しくはアール・デコです) 様式の温泉プール施設を完成させた。水面合計面積は、5000平方メートルにおよび、広い人工砂浜は、古きオーストリア時代のアドリア海岸を彷彿させる。1930年、施設は、隣接するヴァイブルク城の庭園の一部分を加え、オーストリアで最も大きなプール施設の一つとなった」

たしか、施設内の説明書きには、実際この写真にも写っている砂浜、これは本当にアドリア海の砂浜から取り寄せたものだと書いてあります。一時期それが大いに流行したようで、アドリア海の砂浜は、ウィーン近郊のあちらこちらのリゾート施設で見かけます。
ただ、このバーデンの温泉プール、冬は閉鎖してしまったのか、あるいはたまたま、出かけたときだけそうだったのか、次に冬に行ったときには閉鎖されていました。夏にはもちろん、やっていますが、日本人からすると、冬にこそ開けてほしいな、って思うんですけどね。今年のように寒波が襲って、雪が降っているときなんか、広々したこの温泉プール最高なんだけどな、って思います。

ところで、あるとき日本の新聞にバーデンのホテルの記事が載ったことがありました。グランド・ホテル・ザウアーホーフです。日本のバブル経済はとうに崩壊した後でしたが、まだまだ当時のオーストリア・シリングに対して相当の円高の時代だったように思います。新聞記事の内容はこの由緒あるホテルに日本人にとって割安に感じる料金で泊まって、おもっいきり贅沢な気分を味わってみませんか?というような内容だったと思います。
バーデンはウィーンからだと日帰りコースに最適な場所ですからね、泊まろうなんて発想はそれまでありませんでした。しかし、考えてみれば、ウィーンにいてもどこかのホテルには泊まっているわけです。バーデンまで往復移動するのが面倒と言えば、面倒ですが、日帰りするにしてもそれは同じですからね、なんなら、このザウアーホーフというホテルに2泊して、その間にバーデンの街もゆっくり散歩したり、夜は帰りの時間を気にしないで劇場に行ったりすることもできる、って即座に、バーデンに泊まってみよう、となったわけです。

ベートーヴェンも、カール・マリーア・フォン・ヴェーバーもよく訪れたというこのお城はビーダーマイヤー時代の、それ以前のバロック、ロココに比べると華やかさはありませんが、しっとり落ち着いた雰囲気で、清潔感にあふれています。
でかけたのが2000年のクリスマス時期 (12月26、7日) で、そのときは雪もあって、ロマンチックそのものでした。まだデジカメも持っていないころで、普通のカメラでしたから、ここに貼ったのはそのときホテルでいただいたホテル新聞に掲載されていた雪景色のザウアーホーフです。



雪化粧したザウアーホーフ

館内にはプールや、サウナ、そして、今でこそはやりの岩盤浴ができるローマ風呂がありました。当時は岩盤浴なんて知りませんでしたから、温泉なのに、お湯のない岩の上にねっころがる、ってなんとなく変な気持でした。
ホテルにはラウエンシュタインというレストランがあります。さぞかし、マナーに緊張するだろうな、と思いつつも、劇場でミュージカルを楽しんで帰宅して、またまた、多少正装気味に着替えて、食事をしました。

現在はネット検索で Grand Hotel Sauerhof と打ち込むと、ぞろぞろと日本の代理店などもでてきます。それによれば、現在のホテルの創業は1978年となっています。

わたしたちはザウアーホーフには翌年夏にも泊まりました。
以前ウィーンのケーニヒ・フォン・ウンガルンというホテルに泊まった時にフロントでお客さんの案内係をしていたギュンターというドイツ人とあれこれ話をして少し仲良くなっていたのですが、翌年またそのケーニヒ・フォン・ウンガルに泊まった時にはもうギュンターはホテルを辞めたようで、姿はありませんでした。
しかし、わたしたちが2001年の夏にバーデンのザウアーホーフに行くと、なんとギュンターの姿です。ドイツ人で、オーストリアのホテルで仕事しながら、田舎に住んで、スローライフを楽しんでいるのだということです。一軒家を借りて、暖房は暖炉で、燃料にする木材など、冬はそりを動かし自分で調達してくるんだと言ってました。わたしたちが滞在している間に、かれは自分の車にわたしたちを載せて、田舎の住まいに案内したがっていましたが、双方の日程が合わないので住所だけもらいました。しかし、結局ギュンターとはまた、その後音信が途絶えてしまいました。オーストリアには、仕事と趣味をかねて働きにやってくるドイツ人は珍しくないようで、ラックスの山小屋でもウドという写真が趣味の若者と知り合いました (ただウドも次の年にはもう、その山小屋から姿を消して、どこか別のところにいってしまいました)

さて、このときのわたしたちは、ますます本格的に、ウォーキングに熱中し始めていました。その年は、バート・ヴェースラウまで電車で行って、山越えする形でバーデンまで戻ってきたりしました。途中で道に迷って、ザウアーホーフについたときは、あたりはすでに薄暮、くたくたでした。3万歩以上は歩いたのではないかと思います。

次にバーデンに泊まる計画を立てるときには、すこし他のホテルも自分たちで探して検討してみることにしました。それで出会ったのが、ヴァイカースドルフというホテルです。ザウアーホーフと同様に、ここも城ホテル (Schlosshotel) です。


ヴァイカースドルフのロビー (2005年撮影)

位置的には、温泉プールの近くで、このホテルに面したところに、家内が名前を借りているロザーリウムがあるのです。部屋からもロザーリウムのばら園が見はらせ (写真)、とても気分が爽快です。



(2006年撮影)

ヴァイカースドルフはわたしたちのお気に入りのホテルになりました。
夏はばら園を目の前にしてテラスで朝食ができます。



(2006年撮影)

このホテルはまた、ヘレーネンタールにハイキングするには抜群のロケーションです。そして夕方になったら、ゆっくりとウィーンの上流社会が贅を競ってたてたさまざまなヴィラを眺めながら、ゾンマーアレーナに行ってオペレッタを観劇し、終わったらあくせく急ぐことなく、またゆったりと歩きながら、ばら園を通り抜けて、ホテルに戻ってくることもできます。

一度、入った部屋の水回りが不具合で (夏場はメンテの時期ですからね)、連絡がうまくいかずに工事予定の部屋に入れてしまい申し訳ないと、部屋を変わってくださいとお願いされて移動したのが、スウィートで、大変贅沢な気持ちを味わうことができました。

考えてみると、成田から飛行機はシュヴェヒャートにつくわけですから、わざわざウィーンまで行かずに、最初にバーデンに泊まって、それからウィーンに移動してもいいかな、と思うようになり、ホテルでは空港まで時間を指定しておけばハイヤーを手配してくれるとHPの案内書に書いてあったのを思い出して、実践してみました。
荷物をトランクに入れてもらっての移動ですから、快適でした。そして、途中で、どこか見覚えの景色だな、って思ったら、ラクセンブルクでした。運転手さんのサービスでわざとラクセンブルクのお城間近のコースを走ってくれたに違いないと、ポジティブに解釈しています。料金はホテル指定のハイヤーですから、メーター制ではありません。ぼられる心配はありません。


カジノやゾンマーアレーナがあるバーデンのクアパルクに行き、正面の階段をあがっていくと、そこからたくさん森の散歩道に入っていくことができます。コースはどれもそれぞれに趣があってなかなか歩いていて楽しいです。標識が整備されているので奥まで歩いていっても迷う心配はありません。その標識のなかに Rudolfshof というのが見つかるはずです。



ルードルフスホーフ (2005年撮影)

わたしたちも最初は、なんだろう、って思いましたが、これは結婚式のパーティにも利用されるレストランです。夏場はテラスで眼下にバーデン市街地、さらにははるかハンガリーへと連なる山並みを望みながら食事が楽しめ、わたしたちのお気に入りの場所です。レストランのHPに簡単な歴史が書いてありますので、ご紹介しておきます。

ドイツ王アルブレヒトⅠ世の末息子オットーⅣ世 (Otto der Fröhlicheオットー陽気公) により、1338年にガーミングのカルトゥジオ修道会に山の館 (Berghof) とともにバーデンのこのぶどう栽培に適した一帯がプレゼントされた。今でもこのあたりはガーミングの山と呼ばれる。
1881年バーデン市はここに森の旅館を造ることにしたが、歴史に配慮して「山の館」と名付ける予定にしていたところ、この年皇太子ルードルフとベルギー公女シュテファニーのご成婚と言うニュースが入った (ふたりの結婚は5月10日にウィーンで行われた)、そのため急きょ時流に乗ってバーデン市はこの館をルードルフの館と命名した。

このあたり、大昔は海 (地中海) だったところで、遠くに見える山々は当時は島で、レストランが建っているこのあたりが湾を見はらすには最適な場所でバーデンのリドとも呼ばれるようです。もちろんそんな大昔に景色を見て楽しむような人はいなかったんですが。
そのかわり現在はレストランの下は草地になっていて、無料の木製の寄りかかりベッドがいくつか置いてあり、夏の天気のいい日には、わたしたちもよくそこでお昼ねをします。
レストランは冬場は営業しませんのでご注意ください。

バーデンにいって、食事をしようという時のお勧めの場所は、イタリアンですが、Veneziaというお店があります。もちろんイタリア人のかたがやっているレストランです。夏場は庭で食事ができ、なにしろピザも抜群、ただ、わたしたちはスパゲッティを注文することが多いのですけど、とてもお勧めです。場所は手元に住所がなくて、不確かですが、Annagasseじゃなかったかな、と思います。通りから建物の中に入っていったところで、外からは見過ごしてしまいそうなレストランです。

あと、簡単な飲み物でケーキなどを楽しみたいという方に、ぜひともおすすめなのは、Kaiser Franz-Josefs-Museumです。前回の森の散歩コースの一つです。標識にしたがっていけば迷子になることはありません。民具の博物館を兼ねていますので、なかに入ってみるのも面白いですが、お茶は、外でするに限ります。


皇帝フランツ・ヨーゼフ博物館前庭のテラス (2006年撮影)

ここはルードルスホーフよりも市街地の真近にあるぶん、景色は抜群です。





ヘレーネンタール Helenental

ヘレーネンタールはバーデンの日本語パンフレットでは、「ヘレネ峡谷」と訳されています。

「市の西に位置し、峡谷に沿ってシュヴェヒャート川が流れ、聖ヘレナ教会 (1518年) や、11世紀から12世紀頃にさかのぼるラウエンネック (原文のママ) 城や、ラウエンシュタイン城の廃墟が見られる。この地域には、全長60kmのハイキングコースが整備され、シトー会派のハイリゲンクロイツ僧院や、かつてのハプスブルク家の狩りの館マイヤーリングまで続いている」

「ウィーンの森一日コース」のバスツアーに参加された方は、この峡谷を通ったはずです。そこをゆっくりとハイキングしてみませんか、というヨハンからのお誘いです。なにしろウィーンの人たちにとって昔から愛され続けた絶好のハイキングポイントで、ザウアーホーフに滞在したベートーヴェンにとってももちろんここはお気に入りの散歩道でした。

出発点となる場所は、バーデンの中心地から多少離れていますので、最初からいきなりそこまで歩く必要はありません。バーデナーバーン (バーデンローカル鉄道) の終点ヨーゼフスプラッツから、ラウエンシュタイン (Rauhenstein) 行きのバスが30分間隔で出ています。それに乗れば約6分で、終点のラウエンシュタインまで連れて行ってくれます。
降りれば、バス停の右側にラウエンシュタインの廃墟が見えています。聖ヘレナ教会も直ぐにそれとわかりますが、教会はカギが締まっていて中に入ることが出来るかどうかわかりません。

バス停の近くにホテル・ザッハーが見えます。あれ? ここにもザッハー? と不思議に思うかもしれませんが、れっきとしたウィーンの例の、ザッハートルテのザッハーです。



ラウエンシュタイン (2005年撮影)



ラウエンシュタインから聖ヘレナ教会を見る (2003年撮影)

この廃墟、ラウエンシュタイン、ラウエンエックはÖBB でウィーンからグラーツ方面に旅行すると、バーデンを通過していくとき車窓の右手かなたに見えています。
バスを降りて間近にきて、下から見上げる形になっても、まだ分かりませんが、実は、屋根が全くありません。廃墟というわけですから、例のトルコの軍隊に破壊でもされたんだろうと、わたしも思っていましたが、どうやらそうではないことが分かりました。

ウィキペディアの記事では、12世紀頃にトゥルゼンの騎士によって建てられたものと推測されていますが、どうやら住人は騎士を名乗っていても余り行いの良い輩ではなく、実態は盗賊だったようです。どうして廃墟になってしまったかと言うと18世紀に屋根税というのが課せられるようになったからのようです。屋根の広さで課税されるという法律で、これはたまらんと、多くのお城の屋根が取り外されたらしいです。


ラウエンシュタインから向こうにラウエンエックが見える (2003年撮影)

1993年から魔女が集まるという例のワルプルギスの夜、4月30日から5月1日にかけてですね、ラウエンシュタインでも「古城祭り Ruinenfestl」が行われるようになったとのことです。



ヘレーネンタールのホテル・ザッハー (2005年撮影)

ザッハートルテの考案者フランツ・ザッハー (1816年12月19日ウィーン生まれ) は1907年3月11にバーデンでその生涯を終えました。1881年からフランツ・ザッハーは家族とともにバーデンに住むようになっていました。二人の息子さんがいましたが、長男のエドゥアルトが1876年にウィーンにホテル・ザッハーを造り、次男のカールが1881年このヘレーネンタールにホテル・ザッハーを造ったのです (*ただこのカールについては人名事典にも記載がないので詳細はわかりません)。このホテルにはシシーも訪れたようですよ。goo検索では、Rauhensteinと入力すると、このホテルについて、日本語で情報がとれます。

ヘレーネンタールの散歩道の入り口は、シュヴェヒャート川の左岸、ホテル・ザッハーの脇を進んでいきます。間もなく右手に、国道を分断する大きな岩が見えます。ウルテルの岩と言います。



ウルテルの岩

正しくはウルタイル (Urteil) であるべき言葉が変化して Urtel になりました。「判決」という言葉です。ここがちょうどバーデンの市境で、昔は町の境界で罪人が裁かれ、処刑されました。以前ご紹介した森の散歩道にも、火の見やぐらみたいな木組の展望台がありますが、たしかそこも罪人が処刑された場所だと説明書きがありました。
この大きな岩に、1826年、たくさんの爆薬を使ってトンネルが造られ、ときの皇帝フランツⅠ世に献げられました。なんとなく通ってみたくなりますね。わたしたちも一度、わざわざ向こう岸にでて、歩いて通り抜けたことがありますが、この国道、なにしろ車が頻繁に通ります、それにツーリングの格好のルートだそうで、余りお勧めはできません。

というわけで、せっかく自然に満ち満ちた遊歩道です、おとなしくもとの道に戻って歩いて行くことにしましょう。この散歩道にはたくさんのガイドボードがたてられていて、その場所ならではの、いろいろな情報が書かれています。そして、このような案内プレートにも目がとまることと思います。



《Ich kenn ein kleines Wegerl im Helenental》「ヘレーネンタールの馴染みの小道」

この歌、わたしは残念ながら、いまだに実際に聞いたことはないのですが、ウィーンの人たちにはよく知られたヘレーネンタールの散歩道を歌ったリートで、その曲を記念し、タイトルが記されているものです。
作曲したのはアレクサンダー・シュタインブレッヒャー (1910-1982)という方です。

バーデン側からみて、どっちが先に出てくるか、記憶が定かではありませんが、ベートーヴェンのレリーフもあります。



遊歩道にあるベートーヴェンのレリーフ (2005年撮影)

歩いていると、川の向こう岸にわたる木橋が出てきます (*川を渡る橋は途中ではここだけだったと思います、そしてトイレも長時間のハイキングとなると気になるところですが、ここにあります。ちなみにここはバス停もあります)。渡ればもちろん国道に出ていくわけですが、そこにコレラ礼拝堂 (Cholerakapelle) があります。ウィーンも、バーデンもペスト流行の惨禍をまぬかれませんでした。そのため街の中心に大きな記念柱がたっています。こちらはコレラの方です。1830/31年に大流行、命を長らえることができたウィーンのカール・ボルドリーノとエリーザベトの兄妹が感謝をこめて建てたのだそうです。オーストリア国内にはいたるところに巡礼教会がありますが、このカペレも巡礼者が訪れる場所です。すこし、奥まっているので分かりにくいのですが、道路から上がって行く場所に立っています (1847年と1892年、二度にわたって増築され、カペレというより今は立派な教会です。ベートーヴェンもよくここまで散歩してきて、休憩したのだと書いてあります。カフェあり!!)

ちょうどこのコレラ礼拝堂の反対側あたりに、1829年ころに一帯の自然プロムナードの開発に尽力したアントン大公 (1779-1835) の名を冠したアントン洞窟があります。
このあたりを過ぎると、ときに野趣豊かな自然、そしてときに広々とした草地と変化に富んだ散歩道になり、さらに進んでいくと、およそザッハー・ホテルがあった入口から一時間ほどでレストラン、クライナーヒュッテの庭側に出ます。少しこれも、どこかの寮のような建物の敷地の1メートル幅くらいの道を通り抜けて行く形で、分かりにくく、戸惑うかもしれませんが、国道に出ないように、と気をつけていれば大丈夫です。



庭側から見たクライナーヒュッテ (2005年撮影)

このゼミナール・ホテル兼レストラン、夏の天気の良い日は、テラスはほとんど満員のお客さんです。でも、レストランの中もとてもいい雰囲気なので、そういうときはテラスにこだわらずに、中に入って、少し気取ってお食事するのも素敵です。

クライナーヒュッテの正面真向かいにバス停があります。食事の前に時間を確認しておけば、帰りはバスで帰ることができます。
いや、これでは、物足りない、という方は、さらにバスに乗ってマイヤーリンクまでいきましょうか?



国道側から見たKrainerhütte (2006年撮影)

ヨハン


ウィーンの路面電車に関するトリビア

2010-03-13 15:59:46 | ウィーン
ウィーンの交通手段としては現在地下鉄も充実していますし、Sバーンも勝手がわかれば、便利な上速いのですが、やはりゆったり車窓に街並みを眺めながらの路面電車、時間があればよく使います。わたしたちが1年暮らした1983年は、ヨーン・シュトラーセから49番を使いました。今は地下鉄も開通し、駅界隈はそのときに比べずいぶん賑やかになりました。むかしはオペラなど見た帰り、路面電車の発車するDrカール・レンナー・リングまで、余韻を楽しみながら歩いて、49でゆったり、ことこと帰りました。一度だけ帰りの49番で居眠りをしてしまい、気がついたら終点のヒュッテルドルフまで連れていかれてしまったこともあります。懐かしい想い出です。

ところで懐かしいと言えば、路線J、これは車内アナウンスで「イェー」と言われるのが、なんとも習ってきたドイツ語のアルファベートと違って、ウィーン独特だなあ、って思ったものですが、いつの間にか、この路線も姿を消してしまいました。
そこで調べてみました。

ウィーンの路面電車はもともとA~Zまでのアルファベート路線がありました (なかったのは他と紛らわしいI、Q、Xです)。そのうち現在も走っているのは、わずかにDとOだけになりました。

この市内交通の電化は1897年から、それまでの馬車鉄道、蒸気鉄道など、ばらばらの経営母体、線路幅の違う規格で営業していたものを市営に一本化、統括する形で進められました。

名誉ある路面電車の路線第一号は、1897年1月28日、今日の路線5の区間を走りました。なにより騒音、悪臭を出さないということで評判は上々、いっきに市内交通の主役に躍り出ていきます。

1907年に路線のアルファベート化、ナンバー化が導入されました。1907年運行を開始したアルファベート路線は、AK、AR、BK、BR、ER、EK、F、G、H、J、K、L、N、P、S、TK、TR、Z の18路線です。(*参考にした資料では、すでに廃止された路線のみが挙げられているので、現役のD、Oがいつから走り出したのか分かりません)

ウィーンの街を路面電車が走るようになっても、郊外地区を結ぶいくつかの路線では1922年まで蒸気鉄道が運行されていました。

路面電車は20世紀の半ばまで、人々に「ディ・エレクトリッシェ」と呼ばれていました。

ウィーンはリングとギュルテル、二つの輪の内外に発展してきた街で、1区、2区の並びもパリのようにカタツムリ状に外に向かって出来上がっていきました。中心部はモーツァルト・クーゲルの断面のようです。その円を描く路線と放射状に郊外地区へと延びる路線が結合したコンビネーション路線がA~Zのアルファベートであらわされました。時計の反対回りでAからZへと命名されていきました。(*このアルファベート路線は将来的にはすべて1~4のナンバー路線に変更されるようです)

ナンバー路線の5~20は、都心部相互を円を描くように結ぶ路線です。

ナンバー路線の21~82は放射状に都心と郊外地区を結ぶ路線です。

AKとかAR、あるいはF2というように、アルファベート路線は、お客さんにどういうルートを通っていくか分かりやすくするため、K は Kai (運河)、R は Ring (リング)というように、経由も示していました。

リングには貨物車 (今で言えばトラックですね) が入ってこられなかったため、リングとパラレルの道路は貨物車通り (Lastenstraße) と呼ばれました。そこを経由する路面電車には、F2のように2がつけられました。ウィーンの人々はこれを「Zweierlinien、2の路線」、と呼びました。

参照している資料によると、現在運行されている路面電車は、次の28路線です。
D、O、1、2、5、6、9、10、18、26、30、31、33、37、38、40、41、42、43、44、46、49、52、58、60、62、67、71

ウィーンの路面電車は、馬車鉄道の後継者として登場しましたから、こんな特徴を持っていました。
馬車鉄道では、運転手は御者ですからね、馬の手綱を引いて運転しているわけです。つまり、フィアカーと同じで、運転台から直接手綱を引いているわけです。なぜ電化された後にもこの方法を真似しなくてはならなかったのか、今となっては首をひねるようなことですが、市内鉄道が電化されて、手綱が不必要になったにもかかわらず、伝統の名の下、運転手は、周りに蔽いのない、いわば吹きさらしの運転台にたっていました。ウィーンですからね、この前も書いたように、寒波がくる冬はマイナス30度の日だってあるんですよ!! 可哀そうに運転手さんは1910年までこの状態でした。

わたしたちの子供のころには路面電車にもバスにも車掌さん、という方が乗っていましたね。ウィーンももちろんそうでした。ウィーンでは、車両が連結されて運転されるほうが結構普通ですから、車掌さんも、前の車両と、後ろの連結車両に、それぞれ乗っていたようです。
いやな言葉ですが、人件費がかさんだわけです。ということで、経費削減の声のもと、1964年に先ず連結車両の車掌さんがいなくなり、1972年以降は原則として車掌さんは完全廃止となりました (そう言われれば、schaffnerlosって車体に書いてありますなあ)。ただ、平気で派遣切りするどこかの国と違って、生首はきれませんからね、実際は1996年まで車掌さんを載せた路面電車が走っていたようです。ちなみにその最後の車掌さんが勤務していたのは46の路線だということです。

第一次世界大戦で、男たちが出征し、路面電車の運行に支障がでたため、1916年から女性が穴を埋める形で勤務することになりました。

ヒトラーによってオーストリアがドイツ帝国に併合されたことにともない、1938年9月19日から路面電車も含め、それまでの左側通行から、右側通行に変更になりました。(*Sバーン、ÖBBは、今も左側通行です)

第二次大戦の空襲で、ウィーンはすっかり破壊されました。
そのため1948年アメリカからマーシャル・プランの一環としてアメリカ製の中古の路面電車が送られてきました。しかし「アメリカーナー」と呼ばれたこの電車は、車体幅が広く、またウィーンの路面電車の線路幅には合いませんでした。そこで蒸気鉄道が使用していた路線、たとえば路線331のシュタマースドルフ方面行などに使われました。
空気圧によってドアを自動開閉できるとか、モダンなこの車両は、座席も進行方向に合わせて向きを変えることができました。

ウィーンの路面電車に低床車両が登場するのは1995年で、これはULF (Ultra Low Floor)と呼ばれます。

100以上のナンバーの路線は、郊外をむすんだかつての蒸気鉄道区間を走る路面電車に使われました。

ウィーンの路面電車は今でも街のいたるところを走っていて、路線の充実ぶりには驚くばかりですが、これはそもそも建設にあたってのコンセプトとして、どんな郊外に住んでいる住民でも、多くても二回の乗り換えで都心部に来られるようにネットが張られたからです。利用客が最大を数えた両大戦間の時期、たとえば1922年の路面電車の運行ダイヤを見ると、Dr.カール・レンナー・リング停留所には9つのコンビネーション路線が乗りいれていました。
しかし、現在は、乗客数の減少、バス路線への転換、そして地下鉄の整備によって、路面電車の路線網は縮小を余儀なくされています。

しばらく前までリング、フランツ・ヨーゼフス・ケー (ドナウ運河) を路線1 (時計回りに内側を) と、反対回りで外側を路線2が、いわば終点のない路線として巡回運行していました。いつの間にか、黄色い表示のVTR (Vienna Ring Tram) という観光客向けの別途料金 (6オイロ) の電車に変わってしまいました。これは2009年4月4日導入され、30分間隔で運行されています。
路線1、2はその前年2008年10月26日から、歴史的にもともとコンビネーション路線であったものが、元に戻った形で、今は、路線1が、ファヴォリーテン地区のシュテファン・ファーディンガー広場から路線65、78を経由して、プラーター・ハウプトアレーまで運行され、路線2はオタクリングから45 (例のJ路線)、29 (N路線) を経由して、タボール通りまで運行されるようになったのです。

ウィーン南駅が、再開発により、ウィーン中央駅に衣替えすることにともない、路線Dは現在の終点南駅から延伸されて、地下鉄U2に計画中の新駅グードルン通りを経由し、アプスベルクガッセまで運行し、そこで路線6と接続する予定だそうです。
また、アルファベート路線は廃止され、路線Dは路線3となるようです (資料では2009年から、となっていますが、わたしたちがいた昨年9月にはまだDとなっていました。今年はひょっとするともう路線3に変わっているのでしょうね)

各路線の終電は行き先が青い照明で表示されたり、また、車体に青色の半月プレートを掲げていましたので、「ディ・ブラウエ」と呼ばれました。
路線廃止が決定し、最終運行をする電車も、この呼び名を真似て「最後のディ・ブラウエ」と呼ばれます。

ヨハン





ユーリウス・マインルと田中路子

2010-03-13 15:41:03 | ウィーン
初代ユーリウス・マインルが始めた食品販売業を業界屈指のコンツェルンに発展させたのは息子ユーリウス・マインルⅡ世で、1869年1月18日ウィーンに生まれました。第一次大戦のときには自家製ビスケットを軍におろすことに成功し、1914年11月だけで10万kgのビスケットを軍に調達したと言います。

おなじみのロゴ、赤いトルコ帽をかぶった黒人の男の子、これは1924年グラフィックデザイナーのヨーゼフ・ビンダーによって考案されました。



第一次大戦後、ユーリウス・マインルは焙煎したてのコーヒー豆の販売で評判を呼び、業績を上げていきました。1939年にはヨーロッパ各地に1000の店舗をかまえるほどになりました。
ユーリウス・マインルは社会保障制度の面でも先進的な役割をはたし、すでに1931年週5日制を導入しています。

ところで、スーパーPAM PAM をご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。わたしたちも1983年ウィーンで一年暮らした時、住まいの近くにPAM PAMがあり、よく利用しました。いつの間にか見かけなくなったと思っていましたが、これもユーリウス・マインルの系列だったようです。しかし1999年にBilla、そしてSPARに売却されたようです。
帝政時代にはじまり、戦前戦後を通じてオーストリア屈指の食品コンツェルンとして名をはせたユーリウス・マインル・グループも、流通業界の厳しい販売戦争の中、ついに2000年の4月をもって食料品の販売業から完全撤退したということのようです。現在はグラーベンで高級食材のみを扱う店舗を維持しているだけとなったのです。業務の中心は再び本来のコーヒー販売に限定されたというわけです。オタクリング地区のユーリウス・マインル・ガッセに本社、焙煎工場があります。

企業の躍進の原動力となったユーリウス・マインルⅡ世は、1931年に日本人女性と結婚しています。


☆ ☆ ☆

田中路子 (MICHIKO TANAKA-MEINLからMICHIKO DE KOWA-TANAKAへ) 

この日本人女性、田中路子については現在、ウィキペディアにドイツ語、日本語どちらも記述があります。
ここでは1994年に出版された 《Wien》 (著者 Dietmar Grieser) の一章 Tanaka Michiko-Meinl に描かれたウィーン時代の彼女についてご紹介します。

グリーザーには事実関係において多くの間違いが見られるようですので、わたしもウィキペディアの記事を参照、修正しつつ、しかし、ウィキペディアにない、興味深い箇所に注目することにします。

まず彼女の生まれ、生い立ちですが、1909年7月15日東京神田に、日本画家田中頼璋 (らいしょう) を父として生まれました。雙葉に通っていましたが、関東大震災で母方の故郷広島に移り、広島英和女学校に通います。グリーザーはこの幼少期を: 「父は広島の有名な画家。両親は彼女を東京にある、日本で最も名声の高いキリスト教学校 (サクレ・クールと書いていますので、聖心、ですか?) に通わせた。そこで彼女は名家の女子に必要な教養、華道、茶道のほか東洋の養生法、指圧治療 (マッサージ) を身に付けた」と紹介しています。

ここで、ことの真偽を問うことはしないで、グリーザーのこの本の別の章には、また、ひところ前の日本で、ずいぶん話題になったクーデンホーフ・カレルギーの奥さん、青山みつについても次のように紹介されているので、見てみましょう。「細身の優しげな体つき。彫の浅い顔立ち。肌は象牙色 (これは健康的な色白、ということなのか、悪口ではないようです)、漆黒の髪は青い輝きを放っている。書道、華道、三味線 (ドイツ語ではマンドリンとなっています) を身につけ、正座でき、礼節正しく挨拶 (おじぎ) でき、立ち居振る舞いは優雅そのもの、微笑みのなかに心のうちを隠しとどめることができる」(*青山みつ、についてはいずれまた別途書きたいと思っています)

今なお続く日本女性の美しさについてのヨーロッパ男性側からのイメージと見ていいでしょう。ひらぺったい顔も、細長い目 (ここにはありませんが、他の箇所にでてきます) も、彼らからすれば、美しいものと受け取られているということです。あばたも、えくぼ状態???

重要なことは、見ための美ではなくて、伝統的な作法を身につけ、そこから醸し出される優美、つまり精神的なものに彼らは、美しさを感じ取っているということですね。

ひところの日本のバブル時代、ウィーンでも、ブランドものをちゃらちゃら身にまとった日本女性をみかけましたが、ウィーンの男性の心は、かえって、ひいてしまっていたんではないかな、と心配でした。内面からにじみ出る美しさ、これですよ、ウィーンの男性がまいってしまうのは。

ちなみに、余分なことを書きますが、ウィーンの友が家族連れで日本にやってきたとき、彼が家族に見せたい、と連れて行った場所、どこだと思いますか?

デパートです。豊富な商品を観に行ったのではありません。一階のエレベーター乗り場です。客が乗り込んで、エレベーターが動き出す前、閉まるドアの前で、白い手袋の案内係の女性が一斉に組んだ両手を胸元におき、おじぎする様子に感心しているのです。

それとパラレルにわたしは、ウィーンの下町で若い娘さんが横断歩道を渡っていくときに、頭を見事に一直線、不動のラインを描きながらさっさ、さっさと歩いて行った時の、美しさに感動すら覚えました。
日本女性には世界のほかの女性がまねできない固有の美があり、また、ウィーンの娘さんにもやはり固有の美 (これはなんと表現したらいいでしょうか、男におもねることのない、自立からくる美でしょうか) があるということです。

さて、田中路子の方に戻ります。なぜ彼女がウィーンに留学するかについては、グリーザーには書かれていません。ウィキペディアでは、こう説明されています。東京に戻った彼女は、1930年東京音楽学校に入るのですが、1927年にドイツ留学から戻っていた既婚者の斎藤秀雄との間に不倫の噂が広まり、それを断ち切るために、両親によってウィーンに、「小包のように」(これは、グリーザー) 送りこまれたのです。

東京音楽学校ではハープを勉強しており、ウィーンでも最初ハープを学ぶことになりますが、なにがきっかけで声楽に転向したかについては、ウィキペディアでは、ウィーン国立歌劇場で、当時のプリマ、マリア・イェリッツァの 《サロメ》 を聴き、感動したのがきっかけだとのみ記されています。

このことについて、グリーザーはこう書いています。「リングのこの劇場はまさに全盛期でした。舞台ではマリア・イェリッツァが 《トスカ》 を歌っています。ミチコはすっかり魅せられました。するとおじが、片手は舞台を、もう片手はオーケストラボックスを指し、傍らのまだうら若い娘にこう言ったのです。『ようく思案しなさい。歌い手の女性は上にいる、ハープは下にある。お前さんは本当に下にいることを望むかい?』(ううむ、だれもが主役になりたがる、この日本人のメンタリティー読まれている。ハープも、トライアングルひとつでも欠けたら音楽はいっぺんに貧弱になるんだけどなあ)
文中でおじと国立歌劇場を訪れたとされていますが、ウィキペディアによれば、ウィーンでの彼女の後見人はオーストリア公使でした。それはとにかく、田中路子はただちに声楽に転向したのです。

路子はウィーンの後見人が駐墺日本公使であったので、そのつてで上流社会に出入りするようになり、ユーリウス・マインルⅡ世ともこうして知り合います。

彼女の物おじしない態度が日本公使館では快く思われず、故国に返されそうになったところで、彼女の方から先手を打って、ユーリウス・マインルⅡ世と結婚、オーストリア国籍を得たのだとされています (以上ウィキペディア)。ときに1931年3月、ユーリウス・マインルⅡ世はすでに62歳、路子22歳。年の差40歳の結婚でした。
(*この年の差について、日本語ウィキペディアも、ドイツ語ウィキペディアも、計算違いをしています)

ユーリウス・マインルⅡ世は1889年、20歳のときから父の仕事を手伝い始め、40半ばになった、1913年から単独経営者となっています。父Ⅰ世の生没年は書かれていませんので分かりませんが、おそらく父の死によって、経営を引き継いだものと思われます。また、それまでずっと独身であったわけではなく、一度プラハのホテル経営者の娘さんと結婚しています。カトリックのオーストリアですからね、ヨハン・シュトラウス (息子) の例を思い出しても、離婚によって別れたとは思いがたいので、死別だったのでしょうね。

一方の路子、彼女はドイツ語ウィキペディアでは、1930年にグラーツの市立劇場で 《げいしゃ Die Geisha》 (シドニィ・ジョーンズ作曲、1896年初演、ロンドン) で歌手デビューしたとされています。彼女が結婚する前だし、そもそも1930年は彼女はまだ東京音楽学校にいて、ハープを勉強していたときですから、これは明らかに間違いです。日本語ウィキペディアの方では、1932年頃にグラーツの劇場で 《蝶々夫人》 (タイトルロレだったかは書いてありません) を歌ったとされています。舞台デビューの年だけでいえば、こちらの方が説得性があります。しかし、声楽に転向して、わずか一、二年ですからね、オペラの舞台に立つほどの発声法を身に付けていたとは信じがたい話です。また、 《蝶々夫人》 でタウバーと共演して、世界ツアーをしたとドイツ語ウィキペディアも書いていますが、タウバーの伝記には、路子の名前も出てきませんし、タウバーが 《蝶々夫人》 に出演したという記録も出ていません (この頃のタウバーはもっぱら 《微笑みの国》 を中心とした、レハールの作品に出ています)。
というわけで、1932年頃にグラーツで 《げいしゃ》 に出演したのが彼女のデビューじゃないでしょうか。それもおそらく彼女が夫ユーリウス・マインルⅡ世の政治的なコネと財力を活用して実現した話であるように思われます。事実彼女はその後の活動にこの婚姻関係を大いに利用したのです。

1935年に、夫は作曲家のパウル・アブラハムに資金提供して、 《ジャイナ》 というオペレッタを書かせ、路子に主演をつとめさせます。それが彼女の最初の映画作品 《恋は終わりぬ》 の出演につながります (ドイツ語、日本語ウィキペディア)。 この間のいきさつを理解するためには、下の注を読んでくださいね。アブラハムはひしひしと身に及ぶ政治的な危機を前に、お金にも困っていたことと想像されるのです。
(*1935年という年のドイツでは、9月に可決されたニュルンベルク法により、ユダヤ人芸術家はドイツでの活動が許されなくなりました。ハンガリー系ユダヤ人のアブラハムは1933年のナチの政権獲得を機にドイツからオーストリア、ハンガリーにまた活動の場を移していましたが、1938年オーストリアがドイツに併合され、アブラハムは、追われるように次の活動の場をパリに移します。そこもやがてヒトラーが進駐してくるわけですが・・・)

いずれにせよ、路子が映画出演を果たしたことによって、彼女のその後の人生はまた、大きく変わることになるのです。

☆ ☆ ☆

ユーリウス・マインルのヴィラには当時の多彩な文化人が訪れました。バーナード・ショウ、シンクレア・ルイス、トーマス・マンといった作家たち、レハール、オスカー・シュトラウス、リヒャルト・シュトラウスといった作曲家たち、ピカソもブルーノ・ヴァルター、カラヤンもやってきました。活発な性格の路子は自然とサロンの中心になりました。もちろん彼女に言いよる男もいます。1938年フランスで撮影された映画 《Yoshiwara》 では、共演した日本人俳優との間にうわさが流れたりもしました。なにしろ40歳の年齢差、70歳になろうかという夫です。彼は路子の自由を奪い、拘束しようとはしませんでしたが、ひとつだけ、条件をつけました。「いつか本当にだれか私より若い男にあなたを譲らねばならない日が来たとしたら、せめて後を譲るにふさわしい人であってほしい」
それが現実になるのに時間はかかりませんでした。
1940年、ユーリウス・マインルⅡ世は71歳になっていましたが、ドイツの映画俳優ヴィクトール・デ・コーヴァからの路子との結婚の申し出に同意を与えます。
デ・コーヴァは映画の撮影でウィーンを訪れていたときに、ケルントナー通りを散歩していた折、写真館に飾ってあった写真に目をとめ、その人物が何者か知りませんでしたが、その東洋的な美しさにたちまちに虜となり、「この世のものとも思われぬこの美しい女性をいつかわたしの妻にする」とその時一緒にいた人物に言った、というエピソードが残っています。
それからしばらくのちに今度は路子が新しい映画の撮影のためベルリンのホテルに滞在していた時、デ・コーヴァが訪ねてきました。路子は彼のことは全く知りませんでしたが、対面して話をしている間に彼女の方もすっかり恋に落ちてしまったのです。
ふたりの結婚に同意する決心を固めたユーリウス・マインルは1940年5月15日、路子に手紙を送っています。「昨日V・デ・コーヴァから手紙を受け取りました。あなたのことを心から真剣に、まじめに考えていることがよく分かり、わたしもうれしく、安心しました。
ずっとあなたの行く末のことが心配でしたから、少し心の重荷がとれました。こんなご時世ですから、あなたの将来に支えとなる人が必要ですからね。」

ユーリウス・マインルⅡ世はこの4年後1944年5月16日亡くなりました。

田中路子、Michiko de Kowa-Tanakaはその後の戦中、とくには戦後の日独文化交流に尽力しました。そして1988年ミュンヒェンの自宅で生涯を終えています。夫ヴィクトール・デ・コーヴァは1973年亡くなりましたが、路子はベルリンの彼の墓と並んで眠っています。

ヨハン






ウィーンのホイリゲ

2010-03-13 15:39:02 | ウィーン
わたしたちはどちらもお酒に強くありませんが、ウィーンにいけば必ず一度はホイリゲに行きます。ウィーンでホイリゲと言えば真っ先に思い出すのはグリンツィングでしょうね。しかしグリンツィングはどうも観光客も多いし、贅沢と言えば贅沢でしょうが、ビジネスライクな雰囲気とショー化されたシュランメルの楽師たちが酒席をうろうろ、うろうろしているのがだんだん鼻についてきたという人も多いかと思います。

ただ38番の路面電車がグリンツィング停留所の手前でぐるっと一回りする辺りに、電車からOperettenheurigeと言う名のホイリゲを以前見つけた時には、さっそく興味を持って、入って行きました。どうやらマダムがオペレッタ好きなのか、実際舞台にたった経験の持ち主か定かにはわかりませんが、リクエストするとオペレッタの有名な曲なら、即座に歌ってくれました。まだはやい時間だったせいもあって、結構のりのりのサービス振りだったのですが、だんだんお客さんも増え、お店が込んできたうえに、こっちが余り女性が歌わない曲を頼んだりしたせいもあってか、だんだん近づいてこなくなってしまいましたが。

ウィーンには、案外、え? こんなところに? っていう場所にもたくさんホイリゲがあります。シェーンブルン宮殿劇場に出し物を観に行くときには、最近、シェーンブルン通りを多少地下鉄のマイトリンガー・ハウプトシュトラーセ駅方面に戻ったところにあるヴィーナーヴァルトにいって食事を済ませたりしています。室内レストランもありますが、ここは夏場、庭がホイリゲになって、なかなか雰囲気がいいのです。半セルフサービスで、自由に、ゆったりと食べ物、飲み物を頼めるのがいいですね。

カーレンベルクにいかれるときは、是非路面電車のDで終点のヌスドルフまでいって、ベートーヴェンの散歩道を小川に沿って歩いて見ることをお勧めします。しばらく行くとカーレンベルガー通りに出ますが、それを渡るように更に小川に沿って進んでいくと、カーレンベルク墓地の横に出ます。そのあたりはヴィルトグループ・ガッセと言いますが、道なりに、小川から離れて坂を登っていくと、ウィーンらしいホイリゲがあります。2軒ならんでいますが、奥の方のお店は、ぶどう畑の山の斜面を利用した屋外だけのホイリゲで、地元の人たちが、ワイン片手に、楽しくおしゃべりに花をさかせています。ご主人たちは通いで天気の良い日だけ、店を開いているのです。食べるものもマダム手作りのサラダとか、ソーセージは、目の前で、好きな分だけそれとこれを何グラム、とかいって切ってもらいます。本当のホイリゲですからね、ビールはありません。


(2009年撮影)


(2009年撮影)

天気のいい日、14時から開けますが、マダムの料理が到着するのを考えると、やはり16時くらいに行くのがいいと思います。場所を確認し終えたら、その近辺は地元の人がたくさんウォーキング、散歩を楽しんでいるところですから、多少散歩を楽しんで、夕方になってからお店を訪れるのがベスト・プランかもしれません。

ヨハン


シェーンブルン動物園にキリンがやってきた

2010-03-13 12:31:29 | ウィーン
シェーンブルン宮殿に隣接する動物園は、神聖ローマ帝国皇帝フランツⅠ世 (マリーア・テレージアの旦那さんですね) の命により1752年の夏に完成しました。今も園内のレストランとして利用されている8角形のパビリオンは1759年に朝食堂兼サロンとして造られたものです。このように建設当時の場所に現在も存続している動物園としてはこのシェーンブルン動物園が世界最古です。
マリーア・テレージア (没1780年) の治世下では晩年まで施設は一般開放されていませんでしたが、1778年になって、《正装した人々》 に対し、宮殿、公園と併せて動物園 (Menagerie) の公開がなされるようになりました。ただ当初は日曜限定の公開でした。

シェーンブルンに初めて象がやってきたのは1770年、以後1781年にオオカミ、熊、1800年には北極熊、大猫、ハイエナ、カンガルー、インド象がやってくるなど、異国の動物に人々は魅せられ、多くの観客が訪れました。この頃には園は毎日公開されるようになっていました。

そして1828年、皇帝フランツⅡ世 (最後の神聖ローマ皇帝ですね。ナポレオンによって1806年に神聖ローマ帝国が解体させられてしまいましたから、当時はオーストリア皇帝フランツⅠ世と名乗っています) の時代にエジプトからウィーン市民を大喜びさせるプレゼントが届くことになりました。

エジプトの太守から皇帝に本物のキリンがプレゼントされるというこの噂が流れるや、ウィーンっ子たちはたちまちこのビッグニュースに大興奮となりました。ナイル河畔のコルドファンで捕獲されたキリンは1828年3月旅立ちの船に乗りました。道中の栄養は牛乳でした。そのため、牝牛2頭と子牛1頭、それにヤギを連れての旅です。キリンの世話役としてアラビア人が同行しました。



船はヴェニスに着いたのち、40日間、近くの島で観察され、健康に異常がないと判定され、いよいよ陸路ウィーンを目指しました。まだ鉄道の走っていない時代ですからね、一行はもちろん歩いて進んでいくしかありません。しかし疲労のため、途中から、キリンは頭を出した視界を遮られることのない専用馬車に乗せられました。



こうして4か月、1828年8月7日、キャラヴァンはウィーンに到着、シェーンブルン動物園にはいりました。ウィーン市民の話題はあけてもくれてもキリンのことばかり。キリンを絵柄にした衣類がはやり、小さなキリンをかたどった砂糖菓子や、パルフューム・ア・ラ・ジラフなる香水までもが売られました。しかし、キリンは間もなくして重い病にかかり、一年後に死んでしまいました。 (出典、Wien war es damals)

ヨハン