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ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

ウィーンの馬車トラムウェイ運行最後の日

2010-03-13 12:30:10 | ウィーン




ウィーンの路面鉄道のさきがけとなった馬車鉄道が最初に走ったのは1840年です。ブリギッテナウ鉄道による運行で、ドナウ運河とイェーガー通りを結ぶコースで1842年まで運行されました。

その後、1865年10月4日、ショッテンリング-ヘルナルス間にウィーン市営の、最初の馬車トラムウェイが開通しました。この路線は1866年4月にはドルンバハまで延伸されました。それから36年有余、路線網が拡張され、また市民には、車両の接近を知らせる鐘の音によって親しまれてきたこの馬車鉄道も、押し寄せる時代の波を前に生き残ることができず、電車の登場に道をゆずることになり、1902年1月28日ラストランをします。

ヴィンケルマン通りの車庫を出発し、マリアヒルファー通り、リングと進み、再び同じコースを戻るというお別れ運行でした。最古参の御者、馬も運行に加わりました。音楽隊の演奏に伴奏されながらのラストランを終え、鉄道員たちはそれぞれに10クローネンの報奨金を貰い、退職しました。

ヨハン



オーストリアのお菓子・ケーキ・パン

2010-03-13 11:46:12 | ウィーン
マンナーのワッフル


ここ最近ウィーンから帰国する時のお土産にマンナーのワッフル (われわれからするとウェハースということになるのでしょうが、マンナーではワッフルと呼んでいます) を買うことが多くなりました。おそらく2006年6月にシュヴェヒャート空港にアンテナショップが出来、搭乗前のあき時間、ターミナルを歩いているとどうしてもそのお店が目につくから、そうなったんだと思います
今は、形もさまざま、味もいろいろ、バリエーションは豊富ですが、マンナーと言えば、やはり、写真のこのシュニッテでしょうね。ピンクで目をひきます。
この商品、下にシュテファンスドームの絵があって、横にオリジナル・ネアポリターナーと記されています (写真)。このコンビネーションがずっと疑問でしかたありませんでした。


そこで今回調べてみました。ネアポリターナーというのは、ヌガーの原料に写真に描かれているナポリ産のハーゼルナッツを使っているからだそうです。

創業者はヨーゼフ・マンナー (1865年ウィーン生まれ) という人で、最初シュテファンの近くに小さなお店を開いて、チョコレートを売っていました。でも卸業者から届けられるチョコレートに不満を抱くようになって、自らマルガレーテン地区に生産工場を作ったのです。シュテファンをロゴにしているのは、商いの出発点を忘れないようにということのようです。ネアポリターナーが登場したのは1898年です。これがヒットして、会社は急速に拡大、1914年には従業員3,000人を擁する大会社に発展しました。1914年というと大正3年です。その時代すでに会社専属のお医者さんがいて、工場には食堂があって、従業員には寮が建てられました。従業員は年間最大4週間の有給休暇が与えられていたそうです。

マンナーは山歩きに持っていくのに最高です。疲れてきたときに、小さく一口サイズにして食べることができます。最近の異常気象、温暖化で、以前スイスのサン・モリッツですよ、標高2,000mでさえ、持参したチョコレートがべとべとになって辟易したことがあります。その点マンナーはそういうこともないですから。

アンテナショップはまず最初、2004年7月に、シュテファンの近くに出来ました。ヨーゼフの商いの出発点にまた戻ってきたということです。




モーツァルト・クーゲル


マンナーのことを書きましたので、ザルツブルクの銘菓、モーツァルト・クーゲルのことも調べてみることにします。



情報源はウィキペディアです。

このお菓子の発案者はザルツブルクのケーキ職人パウル・フュルストで、1890年でした。最初はモーツァルト・ボンボンと呼んでいたそうです。プラリーネをまんまるの形にしたのが彼の独創的なところで、1905年パリの品評会で金メダルを受賞しました。記事に興味深い点が2つありましたのでご紹介してみます。

まず、製法。緑色のピスタチオのマルチパンをヌガーで包み、球状に成型して、中心に木串を通し、液体チョコレートにひたしてコーティングします。とりだしたものを冷まし、固くする目的で球を上にして、木串を台に並べます。冷却後台から外し、木串を抜き取り、中心に出来た穴にさらにチョコレートを詰め、銀紙で包装。こうしてすべて手作りによって生産される数は年間140万個、賞味期限は2か月とのことです。

次は、類似商品のことです。
フュルスト・ケーキ店で売られるオリジナル・ザルツブルク・モーツァルト・クーゲルはすべて今日にいたるまで手作りで創業当時の製法でつくっています。しかし、フュルストが法的権利を取得していなかったため、類似製品、工場生産されたものが流通するようになります。
パウル・フュルストの末裔になって、ついに法的に争うことになりました。製法ではなくて、名前を守ろうとしたのです。相手は当初ザルツブルクの類似品でしたが、やがて訴訟対象は外国製品にも及びました。そして次のような合意ができました。

ザルツブルク・ミラベル社の製品はEchte Salzburger-Mozartkugeln、またドイツ、バイエルンのレーバー社製品は、Echte Reber-Mozartkugeln と名乗ることになったのです。

これって、日本語に訳せば、本家ザルツブルク・モーツァルト・クーゲルとか元祖レーバー社製モーツァルト・クーゲル、ということです。やはり、一言多いときには何かわけがある、ってわかります。





カイザーシュマルン


これは典型的なオーストリアのデザート菓子です。わたしたちが山にハイキングに行って、ヒュテで食事したとき、ロザーリウムはよく食後このカイザーシュマルン (カイザーシュマレンとも言います) を頼みます。いつも量が多いので、食べきれる? とわたしは心配するわけですが、研究熱心 (と言うことにしておきます、決して食いしん坊というわけではありません。一緒か?) で、だいたいひとりでたいらげています。

調べてみると、生地はパラチンケンと同じようです。ただ、片面を焼いたのち、スプーンとかフライパン返しで、小さく切って ―ナイフのような鋭いもので切ることはしません。だから一見手でちぎったような形状をしています― 一つ一つ返して裏を焼きます。出来上がったところで砂糖がまぶされて出される、とてもシンプルなお菓子です。干しブドウや、アーモンドを入れて豪華にすることもあるようです。

名前の由来としては、フランツ・ヨーゼフⅠ世が狩りの折、樵の家でシュマルンをごちそうになりましたが、皇帝に出すということで、とくにミルク、干しブドウ、たまごを混ぜ風味をつけたので、それをカイザーシュマルンと呼ぶようになったと言われています。

しかし、別の説では Mehlspeise (デザートケーキですね) が好きなフランツ・ヨーゼフがパラチンケンを所望したとき、出来具合がうまくいかず、厚すぎたり、どこかちぎれてしまった時に、コックが召使たちに、「カイザーからのごちそう」として食べさせたからだとも言われています。




クロワッサン、キプフェル、ヘルンヒェン


パリの朝食に出されるバゲットは他の国にないおいしさですが、それでもわたしにとっては、締めはやはりクロワッサンに限ります。カフェ・オ・レに浸して食べる美味しさはたまりません。
ウィーンでも、このくせが抜けないヨハンです。どんなに焼きたて、さくさく (knusprig) のゼンメルが美味しいな~、って感動しても、最後はやはり、そこにクロワッサンがある限り、手がでてしまいます。たとえ安ものでもいちごジャムがあれば (アパルトメントでの朝食なら奮発して、ユーリウス・マインルで高級イチゴ・ジャムを買ってきます)、バターとジャムを重ね塗りするわけです。至福のひとときです。ウィーンのクロワッサンはパリのよりも、わたしにはバターが多くて、よりパイに近い気がします。

ところで、クロワッサンとよく似たパンで、ウィーンにはキプフェルがあります。どう違うのか気になります。
キプフェルの語源は杭とか柵です。したがってもともと形はまっすぐで、カーブはしていなかったと想像されます。また、Hefeteig (酵母入りの生地) を使っており、Plunderteig (パイ生地) を使うクロワッサンとは異なる、と説明されています。クロワッサンの語源はもちろん満ちていく月で、三日月の形をしています。

ただ、1894年に出版された飲食業事典ではキプフェル、あるいはキプフェルルは Hefeteig をヘルンヒェン Hörnchen の形に焼いたものとしていますので、形としてはバイキングのかぶり物のように、つの状にカーブしたものを指すわけですから、クロワッサンと似ています。しかし文化史的に両者は別物として扱われているのです。
ヘルンヒェンは、伝統的に修道院でイースターのころ、ヤギのつのをかたどって焼いたもので、その形から Hörnchen と呼んだそうです。記録としては西暦1000年以降からそのようなパンが登場してくるようです。これがキプフェルのご先祖様ということになるわけです。

クロワッサンの起源については、トルコ軍に包囲されたウィーンで、1683年市壁を突破するのに、夜陰に乗じて地下トンネルを掘ろうとのトルコ側の作戦にウィーンのパン屋が気づき、市民に知らされ、作戦の阻止に成功、街が防衛され、その勝利の記念にトルコのシンボルマークの三日月をかたどったパンが焼かれた、というのが最も一般に流布されてきた伝説となっているようです。朝一番はやかったのは、昔からパン屋~♪のおじさん、だったわけです。

しかし、今述べましたように、キプフェルはすでに1683年以前から存在していることが歴史家によって証明されているどころか、トルコの作戦に気がついたというパン屋 Peter Wendler はすでに1680年に亡くなっていることも分かっていますので、あくまで伝説です。

Hörnchen が、ルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットによってフランスに持ち込まれ、その形からクロワッサンと呼ばれるようになったと言われています。名前が変わるのに合わせて生地もパイ生地に変わったのですね。

ヨハン


アルムドゥードラー

2010-03-13 11:43:06 | ウィーン
これは1957年発案者のエルヴィン・クラインによって、当時モダンだった言い回し、アルム (アルプスの草地) でヨーデルを歌う (ウィーンの言葉でドゥーデルン) ―たぶん、気分爽快、ということと思われます― から命名された清涼飲料水です。


(出典、ウィキペディア)

オーストリアでは誰もが知っている薬草入りレモネード (Kräuterlimonade) で、コカ・コーラに次いで2番目のシェアを誇る国民飲料です。
ビールをこれで割ったものは、アルムラードラーと言い、ワインを割ったものは、アルムドゥードラー赤、とか白と言うほかに、カイザーミッシュングあるいはティローラーと呼んだりもします。

ヨハン

アイーダ

2010-03-13 11:42:03 | ウィーン
ウィーン市内を歩いているときに、誰でもどこかでこのカフェ・コンディトライを見かけたに違いありません。何よりお店から、ウェイトレスまで、ピンクで統一され、とても目立ちます。ピンクのウェイトレスさんは、アイーダ婦人と呼ばれているようです。
お店の名前はAïda と綴ります。創業は1925年。現在ウィーン市内に25店舗があります。創業者は北ボヘミア出身のヨーゼフ・プロウゼク。オーストリアで最初にエスプレッソ・マシーンを備えたカフェ・コンディトライ (1948年) です。
ヨーゼフがヴェルディのファンで、1925年の創業に際し、お店の名前をアイーダとするか、ラ・トラヴィアータとするか迷った末、アイーダに決めたとのことです。

わたしたちが最初にヨーロッパを訪れた1980年、パリのカフェでアイスコーヒーを注文しようとしたとき、ウェイターは氷をエスプレッソに入れて、出してくれました。しかし、それからドイツ、オーストリアと旅行してみて、アイスコーヒーを注文しても、コーヒーフロートが出てきました ―冷たいコーヒー、と言っても、「ない!」で終わりでした。でも、ここ数年前からアメリカのコーヒーチェーンがウィーンにお店を出すようになり、口コミでアイスコーヒーが広がったらしく、去年2009年の夏入った、国立歌劇場前のアイーダでは、アイスコーヒー (Kalter Kaffee) がありました(写真)。バニラのアイスクリーム付き、です。


(2009年撮影)

これって、コーヒーフロートのことでしょう!!!

ヨハン

ウィーンのフィアカー

2010-03-13 11:40:46 | ウィーン
ウィーンの風物とも言うべきフィアカー、これは2頭立ての有料馬車、また、その御者を指す言葉ですが、もとはフランス語からきたものです。パリの商人で博労をしていたニコラ・スヴァージュが1662年サン・フィアクル通りに有料馬車の乗り場を設け、営業し始めたものがモデルで、18世紀バイエルン、オーストリアでフィアカーという言葉が使われるようになったのです。他のドイツ語圏ではドロシュケと言います。

ウィーンで有料馬車に最初の営業ライセンスが与えられたのは1693年でした。それまでのヤンシュキィ-ヴァーゲンと呼ばれるもの、今風に言うと白タクということになるでしょうか、これがナンバー登録された馬車にとってかわっていったのです。1700年頃ウィーンにはおよそ700台のフィアカーがいました。19世紀末にかけてその数は1000台に及んだと言います。

最近はよく女性の御者も見かけるようになりましたが、ウィーンに女性の御者が登場したのは1984年からだそうです。
1998年からウィーンでは御者になるための試験が義務付けられ、その試験ではウィーンの名所旧跡の基本知識も問われます。また、営業規則によって伝統的な衣装を身につけることも定められているのです。

2008年には144台のフィアカーが登録されており、偶数日、奇数日で半数交替して営業しています。馬車の車体の多くはすでに100年以上むかしのものです。冬は営業しないで、メンテされます。

馬糞が街を汚し、悪臭の原因となることから、2004年から、少しみてくれはよくはありませんが、馬のおしりに馬糞を受け止める袋をつけることが義務付けられ、これに違反したフィアカーには罰金が科されるようになりました。また、蹄鉄がアスファルトを損傷するということから、2007年から鉄にかわる新しい素材の導入が試験的に決まりました。

3区のフィアカー広場界隈には以前とくに多くの御者が住み、フィアカー村をつくっていたとのことです。それを記念して1937年ヨーゼフ・エンゲルハルトによって記念碑 (写真) がつくられました。モデルとなったのはヨーゼフ・シュムッツという御者 (フィアカー) と言われています。


(情報源と写真はウィキペディア)

ヨハン