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ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

メリー・クリスマス (ツリーの話)

2010-12-24 02:55:00 | ウィーン


ロザーリウムとヨハンは、いくどかクリスマスの時期をオーストリア、ドイツで (パリ、ブダペストもありました) 過ごしました。



この写真は、1997年に撮影したもので、ウィーンの Volkstheater の真横にある Museum というホテル・ペンションでクリスマスを過ごしたときに、そこのロビーを飾っていたものです。

クリスマスは日本とは全くことなり、お店も劇場もお休み、観光客にはだれか知人の家ですごすのでもなければ、どこも行くあてのない一日です。

もちろん教会に行く日ですからね、当然と言えば当然です。

わたしたちはこの年だったかなあ、とにかく冬場のウィーンは、寒いし、街に人の姿なんてそんなに見かけるわけでもないし、ウィーンからバスを乗り継いで初めて冬のラクセンブルクを訪れました(12月28日)。


クリスマスイヴはシュテファン寺院のミサに参加させていただきました。真夜中を過ぎてわたしたちがホテルに戻ると、部屋にゼクト (発砲ワイン) と、クリスマスのおかしが置かれていました。オーストリアのホテルの人々は温かいですね。


ところでツリーをクリスマスに飾る習慣は19世紀にドイツから世界に広まっていきました。

クリスマスツリーはキリスト教の「待降節」 (Adventszeit) と呼ばれるクリスマスマス・イヴまでの期間 (11月末日に一番近い日曜日から12月24日まで) にたてられ、プロテスタントの地域では、1月6日の「公現祭」までの期間、カトリックの地域では2月2日の聖母マリアお潔めの祝日まで飾られます。
キリスト教に関係なく冬のイベントとして祝う日本のように、12月25日になると一気にクリスマス・モードは終わりを告げ、ツリーも撤去され、やがて今度は新年を迎える門松、しめかざりがとって代わる国とは異なり、ドイツでも、オーストリアでもツリーは年を越して飾られるのです。

そんなわけで、まだまだツリーの話題は時期外れとは言えない話題なので、ご紹介することにします。



ウィーンのわたしたちの知人M先生のご自宅を訪問したとき、こんなに立派なツリーが飾られており、目の前でローソクに火をつけるところを見せて下さいました。もちろんツリーは本物のもみの木、ローソクも電飾ではなくて、本当のローソクです。そして、ロザーリウムがいつまでこのツリーは飾っておくものかとお尋ねしたら、来年の2月初めまでだと教えて下さいました。本当のローソクですから、火事の危険ということがありますから、だんだん本物の代わりに電飾を使う家庭が増えてきた、という話です。(2000年撮影)


もみの木 (Tannenbaum) が使われる理由は勿論私たちにも馴染みのクリスマスの歌「O Tannenbaum」にあるように、冬でも緑を保ち、命の象徴として古代ゲルマン民族の間で冬至の祭りを飾ったことが、キリスト教にも取り入れられたのです。
でも、実際には今はドイツトウヒ (Fichte) などもツリーに使われるようです。
ウィキペディアによると、2006年にドイツの家庭で消費されたクリスマスツリーは2800万本、金額にして6億1600万オイロだったそうですよ。ほとんどの家庭が飾るんですね。

他方人口からいけば836万とドイツよりはるかに少ないオーストリアですが、ここでも240万本のツリーが飾られたとされています。ドイツではデンマークなどからも多くのツリーを輸入して供給をみたしているのですが、オーストリアのクリスマスツリーは85パーセントが国内産だそうです。



ツリーの多くはニーダーエスターライヒ産ということです。わたしたちが2005年にランゲンロイスというドナウ河畔の小さな村にオペレッタ祭りを見るために訪れたとき、宿の近くを翌日の出発前に散歩していると、まさにこのツリーを養成している場所にでくわしました。30センチほどのまだ生まれたてのちびちゃんから、1mほどに育ったもの、そして、写真のように ずいぶんそれらしくなってきたものまで、辺り一面もみの木が育てられていました。(2005年撮影)


補足)
ツリーをいつまで飾るのかについて、ロザーリウムの記憶ではM先生にお尋ねしたとき1月6日までと聞いたというので、今回ヨハンもウィーンの友Oさんに直接尋ねてみました。彼女の記憶でははっきり2月2日までと刻まれているようでした。

ただ本物のモミの木を使う習慣があるドイツ語圏では、余りに長期間飾っていると枝葉が枯れてきて、火事の危険性も増すので、1月6日に片づけてしまうことも多いようです。

飾り終わったモミの木はどうするか、について、ロザーリウムはベルリンで通っていたときのドイツ語学校の先生が、窓から放り投げるしぐさをしたことを記憶していたので、単純に捨てるものと理解しています。つまり、翌年に使いまわしたりしないわけです。それは記事でも書きましたようにドイツ、オーストリアで毎年たくさんモミの木がツリー用として購入されていることからも分かります。

Oさんに聞くと、ちょうど日本の新年のお飾りと同じですね、役目を果たしたツリーはそれ専用の回収場所に持っていくのだそうです。

ウィーンの市庁舎前の大ツリーはどうかというと、まず、年ごとに国内の場所を変えつつ、選ばれたツリーが運ばれ設置されるようです。そして期間が過ぎると、今年に関しては、その幹からキリストの箱 (Christkästchen) が作られたそうです。個人のツリーと違い、市庁舎前のツリーのように大きなものにはまた新たな人生 (というのも変ですが) が待っているようですね。



***




ベルリンのクリスマスツリー(2005年撮影)


ブダペスト(2000年撮影)


生命の象徴として冬に緑の植物を飾るという風習そのものの起源を問い出せば、どうやらローマ時代 (月桂冠を年の終りに飾って新年を迎えたとされます) にまでも遡ることが出来るようです。確実に言えることは、風習が先にあってキリスト教によるイエスの誕生と関連付ける意味付けはあとから付加されていったということですね。

現在信じられている記録上に残された最初のクリスマスツリーは1419年南ドイツのフライブルク(i/B) という街のパン職人組合によるものとされています。お菓子、果物、木の実などを枝に飾り、新年に子供たちが木を揺らして落とし、それらを頂いたとされています。しかしこの起源説はドイツ語ウィキの説明を読むと、どうやら現在では出典を明らかにしえない、根拠のはっきりしないもののようです。

ツリーに最初にろうそくを飾ったのはシュレージェンの公爵夫人ドロテーア・ジュビュレという人で、1611年でした。



ところで、興味深いことに、みなさんもよくご存じのゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1774年刊) に、当時のクリスマスツリーが描かれています。

「・・・クリスマスの前の日曜日だったが、夕刻、彼(ウェルテル)はロッテのところへやってきた。彼女はひとりきりで、小さな弟妹(きょうだい)たちのためにクリスマスの贈物として用意したいくつかの玩具を整理しているところだった。彼は、小さい子たちがさぞ大喜びするでしょう、と言い、不意に扉がひらいて、ろうそくや菓子やりんごで飾りたてたクリスマス・トリーがあらわれると、天国に行ったように有頂天になった頃のことを話した。」
「木曜の晩がクリスマス・イーヴでしょ」と彼女がいった、「その晩、子供たちが来ることになっています、それから父も。そして、めいめいプレゼントをもらうことになってますの。そのときに、あなたもいらっしゃってね ― でも、その前は、いけないの。」(秋山英夫訳、現代教養文庫、社会思想社1960年刊)

これを読むとすでに18世紀後半のドイツの裕福な家庭で、クリスマスツリーが飾られ、その枝に子供たちへの贈り物が飾られていたことがわかります。



子供たちへの贈り物ではなく、まったくツリーの装飾として、ガラス玉やラメッタ (金属の飾り)がツリーを彩り始めるのはこれよりもう少し時代が下ります。

ガラス玉がツリーの装飾として登場してくるのは1830年頃のことです。この頃一般家庭にもツリーを飾る風習が広がっていきました。

ぴかぴか光る金属製の飾りが考えだされたのは1878年、ニュルンベルクのツリーからです。これらはつららがきらきら輝く様子を模したものです。


パリではデパートの中にこんな巨大なクリスマスツリーが飾られます(2003年撮影)



海を渡ったツリーの記録として最初に挙げられているのは、合衆国マサチューセッツ州のケンブリッジで1832年、ドイツ系アメリカ人のハーバード大教授カール・フォレンという人物が自宅に飾ったものです。そこからやがてニューイングランドに風習が広まったとされています。

他方英国には、ヴィクトリア女王が1840年、ドイツのアルベルト・フォン・ザクセン-コーブルク・ウント・ゴータを夫君に迎えたことで、ツリーも夫君とともにドーヴァーを渡ったのです。


1848年の絵入りロンドン・ニュース紙にはそのヴィクトリア女王と夫君アルベルト、そして子供たちが取り囲む王室のツリーが掲載されました。


***



わたしたちが2005年の冬にドイツを訪れたときの成田には、こんなクリスマスツリーが飾られていました (2005年撮影)


ヨハン (この記事は2010年12月24~26日に投稿したしたものに今回2月7日に書いたものを加えてまとめました。)








ブルネン (Brunnen) 下

2010-09-13 00:15:55 | ウィーン
(6) オーストリアの噴水

(a) ウィーンとその近郊

わたしたちのブログ、タイトルは「ウィーンわが夢の街」。ブログを書き始めた頃にこのタイトルをつけた理由を書きました。ウィーンは東京と比べ、時の流れもゆったり、そもそもオーストリア人のドイツ語がとてもゆったり、そして中心であるリンクの内側など、30分もあれば突き抜けてしまう小ささ。どこにいってもお年寄り、とくにおばあさんばかりが目につく街 (注 なにしろ二度の世界大戦で男たちが極端に減ってしまいました。それはウィーンの路面電車の項で触れました)。1983年、ここで一年過ごすことになったときは本当に冬がくるまで、ウィーンには若者がいないのではないかしら、と錯覚するほど若者たちを見かけませんでした。その誤解は語学コースの仲間に誘われて、スケートにいったときに解けました。かれらが集まる場所というものがあるわけです。でも、退屈な街だという印象は変わらないまま一年があっというまに過ぎました。
それからちょうど10年後、1993年にふたたび一年外国で勉強できる機会が与えられた時は、わたしは今度はまよわずベルリンにいこうと決め、ロザーリウムに宣告しました。なにしろ初めてベルリンを訪れた1980年、クーダムの角にあるクランツラーというカフェのお姉さんのしゃきしゃきしたドイツ語が強烈に記憶に残りました。1993年は東西の壁がなくなって間もない頃でしたから、ベルリンでは実際なにもかもが躍動していました。しかし、ベルリンに行くと告げた時にはウィーンの友たちに、なんでウィーンに来ないんだ、とずいぶんブーイングを浴びせられました。
二つの対照的な街、ウィーンとベルリンをともに一年過ごしてみて、ヨハンの心にいつしか大きな変化が生まれました。向こうを旅して、いろんな国、さまざまな地方を訪れ、今日からウィーンだ、と列車にゆられて、この街にやってくると、そのたびに「戻ってきた」という感情に襲われるようになったのです。たぶんロザーリウムも同じだったのでしょうね、ふたりで『帰ってきたね』、と顔を見合わせにっこりするのです。まるでそこが故郷であるかのような感覚、自分の家、我が家に戻ってきたという感情です。ウィーンにしたところでわたしたちにとってはもちろん外国であることに変わりないのに、なぜか緊張感が解き放たれるのです。
ウィーンは本当に不思議な安堵感を与えてくれる街です。時とともにそれは強くなっていったのです。昨年2009年は半年、三度目の在外研究のチャンスを貰い、ヨハンはフランス語修行のため2ケ月をスイスのローザンヌで過ごしました。ロザーリウムは8月半ばになってまたウィーンで過ごすヨハンに日本から合流しました。それから帰国するまでの一月、ふたりの頭の中には出来る限りオーストリアの大好きな山へハイキングに行こうという心づもりはあり、実際、そうしたのですが、2日、3日とウィーンを留守にすると、もうウィーンに帰りたくなってしまうのです。
でも時が止まったような街、という表現は不当です。ウィーンをちいさな街、というのも不当な捉え方です。ウィーンはいつも新しい時代の波に合わせて変貌し続けてきました。かつてはベルリンと肩を並べる大都会でしたが、ウィーンの人口は戦後極端に減ってしまいました (注: 戦前最も人口の多いときに220万でしたが、1980年代の初めは150万程度になっていました。)。それでも当時インフラ整備された住宅地、そしてそれらを相互に結ぶ路面電車のネットワークは、観光客として利用することがないため実感する機会がないだけで、実際少し長く滞在して、あちこち行くのに利用するようになるとその充実ぶりに心底驚かされます。路線が街の中心からずいぶん離れた場所に来ても、まだいくつも錯綜するくらいに相互にむすばれているし、またどこまでいっても途絶えることのない町並み。ウィーンを知ればしるほど、その底知れぬ街の実力に圧倒される思いを味わわされるのです。
それなのにウィーンの人々のしゃべり方、人に対する接し方は、30年前とほとんど変わっていません。よくウィーンの労働者の仕事ぶりを Schlamperei (だらしがないこと) という言葉で揶揄する人がいます。これもとんでもない誤解です。ドイツ語圏のなかでウィーンは突出して朝が早いのです。6時には店が開きます。スーパーも7時半には開きます。郵便局は8時、銀行だって8時半に営業開始です。「でも夕方にはワイングラス片手に、友達とわいわいやって、まじめに働いているようには見えなかった」としたら、彼らは朝5時とか、6時に起床して、仕事してることを思えばいいのです。銀行マンのように8時半に仕事がはじまる人たちは通勤前、通勤途上に簡単な買い物を済ませてしまいます。だから電車の切符、新聞を売るタバコ屋さんは6時には店を開けているのです。ウィーンの生活にやや慣れた頃、わたしはスイスに行ってこの違いを直ちに実感しました。スイスは朝が遅いです。夜が遅い分、一層朝の出足が遅く感じられたものでした。ですから、ウィーンの人たちの働きっぷりは、比べるとしたら、どうでしょう、今の東京ではなくて、江戸時代の人々のようなライフスタイルだと思ったらいかがでしょうか。お昼すぎても仕事をしているような人は「仕事がのろい」ってな感じで、ちゃきちゃき働く江戸っ子はお昼過ぎたら、3時くらいには銭湯にいって、あとは縁台でともだちと夕涼みしながら、碁か将棋でもやって過ごす毎日。中身は濃いんですよ。さっさと働いて、そのあと楽しむことを忘れないだけです。
でもウィーンについてとても悪い印象を語る人がいます。その最大の原因はおそらく役人たちから嫌な思いを味わったことにあるのではないかと思います。オーストリアは歴史的に長い間多民族からなる大帝国でしたから、役人の力が強いのです。言葉、習慣、度量衡までその土地によって異なる大帝国ですから、統一的な基準をすみずみにいきわたらせるには役人が力を持たざるを得なかったわけです。バイエルンでのびのび育てられたエリーザベト (シシー) がウィーンに嫁に来て何事につけても周りから干渉され、子育てについてもソフィー (自分の伯母であり、また義母となるフランツ・ヨーゼフの母君) と衝突してしまうかずかずのエピソードはシシーを悲劇のヒロインに仕立て上げましたが、現実的に考えれば、ソフィーは必死でこの大帝国の秩序を息子に変わって守ろうとしていたにすぎません。こうした規律を保つ融通のなさが民主主義になった戦後も相変わらず役人の血脈に流れ、横柄にふるまっているように見えるのです。
他方でウィーンの人々の Gastfreundlichkeit (訪問客をもてなすこころ) についてもよく口にされることですが、これは役人の横柄さと裏表の関係にあります。多民族国家の伝統からウィーンでは外国の人を受け入れ、もてなすことなくして商売は成り立ちません。ナチ時代にユダヤ人嫌いが噴出してしまいますが、それまでウィーンは多くのユダヤ人を受け入れてきたし、実際ウィーンで活躍した著名な歴史上の人物の多くはユダヤ人でした。ベートーヴェンもモーツァルト (当時のザルツブルクはオーストリアからは独立した国でした) もウィーンにやってきて花を開かせました。
戦後オーストリアはもちろん近隣のハンガリー、チェコの例をみればわかるようにひとつまちがえば共産圏に組み入れられたかもしれません。それを永世中立を表明するという形ですり抜けた点にオーストリアの政治家たちのしたたかさが如実に見ることが出来ます。
ヨハン・シュトラウスの『こうもり』で歌われるように、変えることのできない運命には従う、従うふりをする。辛いことがあったら、辛いことがあっても、そのためにこそウィーンにはワインがあるではないか、これがウィーンの文化を支え、生み続けてきたのです。
(ちなみに、ウィーンでは、あまりビールは飲みません)

ウィーンの噴水、いくつかご紹介しましょう。



(1980年撮影)

ウィーンを一度でも訪れたことがある人なら、この写真が国立歌劇場を正面から見て、右側を撮ったもので、右手向かいにブリストル・ホテルがあるということは直ぐに分かると思います。1980年に撮影したものですから、写真の右奥の建物、ケルントナー通りが始まるところをよく見てみてください。建物一階のところにエール・フランスの名が読めます。今、スターバックスがあるところです。2001年の12月に進出。カフェ戦争が勃発することは必至と騒がれるほどの事件になりました。
昔を知るウィーンの人は、そもそもケルントナー通りに女性用下着のお店が出店したときにも眉をひそめたらしいです。わたしたちが知る限りでも今はもうケルントナー通りのお店はずいぶん以前とは変わりました。



シュヴァルツェンベルク広場の噴水 (1980年撮影)




ベルヴェデーレ宮殿 (1980年撮影)
観光客が本当に少ないでしょう? 1983年に一年滞在したときでも、ウィーンでわが同胞を見かけることはほとんどといっていいくらい少なかったです。おかげで日本語を聴き、話すということのない生活でした。自宅にいるとき以外はね。残念ながら自宅にはロザーリウムがいましたから、日本語をしゃべってしまいました。



(2002年撮影)
この年は知人のマンションに住まわせていただくことが出来ました。フォルクス・オーパーの近くで、シューベルトの家も近くにありました。こんななにげないブルネンが本来のブルネンなんでしょうね。もちろん飲料用です。


バーデン


バーデン (2006年撮影)
市立劇場前の噴水です。竪琴をひくムーセの像、音楽の街らしい噴水です。




(2005年撮影)
これは市立公園の中、ゾンマーアレーナで出し物があるとここまでやってくるわけです。ゾンマーアレーナは夏のシーズンに使われる開放劇場です。夏ですから、オペレッタを聴きに来た人も、そうでなくて湯治客の人々、観光客も楽しませてくれるように、この広場のパビリオンではしばしば野外コンサートも開かれます。もちろん無料です。


ノインキルヒェン


ノインキルヒェン (1993年撮影)

ノインキルヒェンはバーデンより更に南、今はここまでウィーンの通勤圏内になっているのでしょうね、駅前に駐車して、電車でウィーンに通勤する人が少なくありません。
通常シュネーベルク登山をするときには、ヴィーナー・ノイシュタットからローカル線に乗り換えてプフベルクにいきますが、この駅からプフベルクに直通バスが出ていますからそれを利用することもできます。わたしたちはその逆コース、プフベルクでノインキルヒェンにバスが行くのを知って、この街にやってきました。


カイザーブルン


カイザーブルン (2002年撮影)

ウィーン近郊の噴水の最後として、ラックス登山の基地、ヒルシュヴァングのロープウェイ谷駅をずっとやり過ごして、ヘレンタール (バーデンのヘレーネンタールと間違えないようにお願いします。ヘレンタールは地獄の谷という意味です) の自然遊歩道をどんどんどんどん歩いて行くと、このカイザーブルンにやってきます。シュネーベルク山塊の西側になります。ここからウィーンへと自然水が導管を通して運ばれていくのです。



(b) グラーツとその近郊

ヨハンの好きな作曲家で指揮者のローベルト・シュトルツはグラーツの生まれです。ウィンナー・ワルツを演奏させたらぴか一だと思います。そんなことで2002年の夏はシュトルツ博物館をぜひ訪れたいと、この街にやってきました。
しばらく前に某テレビ番組で、この世界遺産の街グラーツになぜ人々はモダンな建物 (写真) を造るのか、その理由を解説していました。街を進化の止まった遺跡として保存するのではなく、いつの時代も街は進化して今日に至っています。そうした生命体としての街の進化の歴史に今を生きる建築家も新しいページを刻んでいるのであって、それを行政も住民も支持しているのだそうです。


グラーツのKunsthaus (2003年にグラーツが欧州文化首都になったことを記念して建設された) 資料写真 (出典ウィキペディア)

ドイツのロマンチック街道の街、ローテンブルクとかネルトリンゲンなどは、内装は自由に変えられますが、建物の外観には手を加えることはできませんし、パリのような大都会でも通常、保存すべき中心部には高さ制限やら、看板、ネオンについては規制がありますよね、そういうことを考えるとウィーンでシュテファン大聖堂の目の前にガラス張りのモダンな建物ができたり、街のあちこちにフンデルトヴァッサーの原色、あるいは金ぴかの飾りを施した建物が見られるのは、ほかの国々からは異様なことに思われるかもしれません。でも、パリのエッフェル塔だって、鉄の醜悪なかたまり (当時の人々にはそう思われたんです) 、それが街のどこにいても見えてしまう、と建設当時はさんざん叩かれたものです。それが今ではしっくり街に溶け込んでパリのシンボルになっていますからね、問題は結果としての調和なんでしょうね。



グラーツ (2002年撮影)

という訳で、グラーツの噴水はこれです。モダンアートのようなフォルムです。背景はグラーツのシンボルの時計塔 (13世紀に基礎がつくられ、今日の形ができあがったのは1560年です)、そして歩いて登る人たちのための長い階段がジグザグに連なっているのが見えます (Fitness-stiege と言います、上れば痩せる階段ということですね)。たしかに、毎日この階段を上り下りすればメタボが解消すること間違いなしです! ちなみにわたしたちは下りに使っただけでした。(根性なし!!)



ハルトベルク


ハルトベルク (2002年撮影)

グラーツから2両連結の車掌のいないローカル線に乗り、途中の駅で乗り換え。そこから路線は二手に分かれ、片方は国境を越えハンガリーへ、わたしたちが乗ったのはシュタイアーマルクのかた田舎をさらにことことウィーナー・ノイシュタットを目指して走るローカル路線でした。終点ウィーナー・ノイシュタットに行く途中、中間ほどのところにあるハルトベルクという駅で降りました。
こんなかた田舎にやってきたのは、ここからさらに車で30分ほど山の方にはいったペラウという村に住む知人を訪ねてきたのです。
でも、このグラーツとウィーナー・ノイシュタット、さらにその先ウィーンまで結ぶこの路線は、特急が頻発しているゼメリング越えの路線に比べれば、ほぼ平坦地でどんどん特急を走らせてもよさそうですが、なぜローカル線に甘んじているか不思議です。それは、当時オーストリアがなぜわざわざ工事が難航することが必至だったゼメリングに鉄道を通したかという理由を知るとなるほど、と分かります。
1849年ゼメリング鉄道建設にゴー・サインを出したフランツ・ヨーゼフ1世が皇帝に即位したのは前年の1848年、まだわずか18歳の若者でした。この即位の年ウィーンは革命騒ぎの大混乱に陥っていました。この騒ぎでフェルディナント1世 (フランツ・ヨーゼフにとっては伯父さん) が退位し、母ソフィーによって無能な夫フランツ・カールをすっ飛ばして息子のフランツ・ヨーゼフが皇帝に即位することになったのです。
かつての大帝国神聖ローマ帝国は1806年ナポレオンによって解体され、今、皇帝はオーストリア皇帝と称しています。領土の東半分ハンガリーをまだかろうじて支配下につなぎとめてはいるものの、民族自治を求める声はもはや抑えがきかない一色即発状態。内にブルジョワ市民革命、外に民族自治の要求と大帝国を治めることは本当に大変になっていた時期です。しかし19世紀もようやく半ばを迎えたこの時期は技術革新の時代でもありました。鉄道の技術革新は兵を運ぶ大量輸送手段に道が開かれたということで、列強が躍起になるのは当然でした。ウィーンとアドリア海を結ぶ鉄路の建設はオーストリアの悲願でもあったのです。本来なら山越えなどせずともハンガリーの平坦地に鉄道を建設したほうが建設費も安く、また克服すべき技術的な困難も少ないことは当然でした。しかし、いつかハンガリーがオーストリアから離反していくことを想像したら? ウィーンとトリエステ (ここはオーストリア海軍の軍港があったところです) を結ぶこの路線はオーストリアの命綱とも言うべき重要な路線となるはずでしたから、あえて、内陸のアルプスの険しい山に鉄道を通すことが選ばれたのです。
実際フランツ・ヨーゼフ1世が即位して以降、オーストリアは対イタリア、対プロイセンと負け戦を重ね、領土を失っていく一方でした。そしてついに1867年にはハンガリーに自治権を与えざるを得なくなり(これをAusgleichと言います)、以後国はオーストリア=ハンガリー二重帝国と称するようになります。フランツ・ヨーゼフ1世はオーストリア皇帝 (Kaiser) であり、同時にハンガリー国王 (König) でもあったので、映画を見ていて、よく宮中御用達のパン屋さんが看板にk .u. k. Hofbäckerei と書いたりしているのは、このためです。
ところでこの地方一帯には、どこの町を訪れてもコウノトリの巣を見かけます。わたしたちが訪ねたペラウにもいましたので、写真を撮りました。


ペラウの村で見つけたコウノトリ (2007年撮影)


(c) ザルツブルクとその近郊



ザルツブルク、ミラベル庭園からホーエンザルツブルクをのぞむ (2009年撮影)

ザルツブルクはザルツァハ川を挟んで手前が新市街、橋を渡ると旧市街です。サウンド・オブ・ミュージックで強烈に印象づけられたこのミラベル庭園は、新市街にあり、列車でザルツブルクを訪れると、ここを通りぬけて旧市街にいく寸法になっていて、ザルツブルクで真っ先に観光客を出迎えてくれる観光スポットです。駅からやってきて初めて訪れる人にはどこが庭園の入口か、必ずしも分かりやすいわけではありませんが、ほとんどいつもツアーの人たちが列をなして庭園に入っていく姿を見かけるので、まず心配はありません。
建物をくぐり抜け中に入れば、写真のところに出ます。目の前にホーエンザルツブルクが憎らしいくらいな構図で撮影を要求してきます。

ザルツブルク大司教の要塞、ホーエンザルツブルクが造られたのは1077年です。
北のローマを目指したこのザルツブルク大司教領が、権力のもとにした財のみなもとはSalz、塩 (ザルツブルクは塩の城) でした。近くに岩塩の産地、製塩地があり、ラウフェン (バイエルン) に運搬する船がザルツァハ川を利用しました、輸送船から通行税を取り立てるのは徴収側にとってとりこぼしのない便利で儲かる納税システムだったわけです。
写真手前のミラベル庭園、眺め麗しき庭園、という意味ですが、これが造られたのは1606年、ミラベル庭園、宮殿と言っても、もちろん大司教のもので、世俗のものではありません。しかしミラベル宮殿 (当初アルテナウ小城とよばれました) は、時の大司教ライテナウがお妾さんにつくってやったものでした。そのおめかけさんとの間に15人子をもうけたと言います。なまぐさいやつだ。やましい気持ちがあればこそ、壁の外、新市街につくったのでしょうね。この坊主はバイエルンと製塩権を争って敗れ、ホーエンザルツブルクに幽閉され、1617年に獄死しています。



ザルツブルク、ミラベル庭園 (2009年撮影)



レジデンツ広場のブルネン (2001年撮影)



トラップ大佐の館として使われました (1984年撮影、館の右にホーエンザルツブルクの姿が見えます)

1984年の冬にヨハンは一年のオーストリア滞在期間がまもなく終わると言う時期、ひとりでぐるっと記念にオーストリア国内を旅行しました。ザルツブルクではその頃にもすでに「サウンド・オブ・ミュージック・ツアー」があり、バスで回るのもらくちんかな、と参加しました。しかしごらんの雪景色、参加者は少なく、小型マイクロバスでのツアーでした。
先ず映画でトラップ大佐の館として使われた、この場所に連れてこられましたが、映画では門の前は池でしたが、氷結して、このときは若者たちの天然スケートリンクになっていました。



(2009年撮影)
昨年訪れた時は乗り物を一切使わず、極力歩くことにしていましたので、ホーエンザルツブルクにも歩いて登り、さらに城に上がらず、別れ道を右手にすすんで城の後ろ側に出ました。ここまで来ると前の写真とちょうど逆の構図になります。眼下に館、背後はウンタースベルクです。



(2001年撮影)
理由も告げずにマリアは修道院に戻ってしまいました。こどもたちは理由をどうしても聞きたいとマリアに会いに来ます、マルタがけがをして包帯を巻いた指を突き立て、マリアに見てもらいたいと必死で面会をお願いしましたが、門前払いされてしまいます。


オーベルンドルフ

ザルツブルクを訪れたら、是非郊外電車に揺られて、オーベルンドルフに行くことにしましょう。「聖しこの夜」(1818年) が造られた教会で有名な村です。



「聖しこの夜」の教会、資料写真 (出典ウィキペディア)


ラウフェン (ドイツ)

ここに来るとザルツァハ川を挟んで、対岸はラウフェンというドイツの町です。現在のヨーロッパはほとんどの国がユーロを使っていますが、これは2002年の元日から実際に使われはじめたお金ですから、わたしたちが訪れた2001年はまだ、オーストリア側ではシリング、ドイツ側ではマルクが使われていました。




ラウフェン、この船は何を運んでいるのでしょうか? 塩かもしれませんね。 (2001年撮影)



バート・ガスタイン

ザルツブルクの近くにはたくさん訪れたい場所が散在していて、どこに行くにもアクセスがよく日帰りが可能です。なかでも温泉好きを自認する人に是非お薦めなのがバート・ガスタインです。駅のほぼ目の前に屋外温泉プール (Felsentherme) があります。アルプスの山を眺めながら温泉に入るなんて、そんなにあることではありませんよ。行くときには水着、女性はキャップの準備をお忘れなく。



バート・ガスタインの屋外温泉プール (フェルゼンテルメ) (2001年撮影)
Felsentherme というのは岩から温泉が流れ出るという意味です。写真としては up 出来ませんが、打たせ湯のようになっています。



バート・ガスタイン (2001年撮影)

チェコのカールスバート、マリーエンバートは基本的に飲む温泉で、炭酸の入ったお煎餅が名物だったりします。バート・イシュルも飲む温泉が基本です。ヨーロッパの温泉は温度も低いし、飲料用が多いですね。この案内板には「ドクトルの源泉からきてる」と書いてあります。なんとなく効き目はありそうです。
この地の歴史はすでに10世紀の文献に名がみられるほど古く、また、フランツ・ヨーゼフ1世治下鉄道がひかれ、オーストリア有数のリゾート地として発展してきました。

また、駅の反対側に出ると、ロープウェイで2246mのシュトゥープナーコーゲルに登ることが出来ます。

シュトゥープナーコーゲルの眺め
ヨハンより心からの陳謝 
一昨年2010年にこの記事をupしたときには、写真を載せました。
アナログ写真をデジタルスキャンしたものですが、当時の旅行日程表の確認をおこたったために翌日訪れたウンタースベルクの写真をシュトゥープナー・コーゲルと間違えてupしてしまいました
写真は削除します(2012年9月16日) 現在、バート・ガスタインについてあらためて記事をまとめておりますので、そちらの方をご覧下さるよう、お詫びとともにお知らせいたします

このときわたしたちはザルツブルクに泊まって、日帰りでしたから、こんなに盛りだくさんだとは予想もせず、いつか、次回はここに宿をとってじっくり、山を歩くことにしようと思ったものです。



グムンデン

トラウン湖畔の陶器の町、グムンデン。ここは鉄道で行くと、駅前から町に向かって路面電車が登山鉄道さながらの斜面を下っていきます。途中にグムンデン焼きの工場がありますから、是非立ち寄ってください。渦巻き模様のグムンデン焼き、とても可愛らしいです。


グムンデン陶器工場 (2001年撮影)

町に出ると、市庁舎、ここのグロッケンシュピール (鐘でメロディーを奏でるあれです)、はグムンデン焼きです。ドイツのマイセンもそうでした。
そして湖岸のエスプラナーデを散策。湖に突き出た島に木橋を渡っていくと、オルト城です。


グムンデン、トラウン湖に吹きあがる噴水、ジュネーブにもありましたね。 (2001年撮影)


バート・イシュル

グムンデンから更に鉄道を乗り継ぐと、バート・イシュルに行くことが出来ます。ザルツブルクからならば、バス一本で来る方がもちろん速いし、便利です。

ここはソフィーが温泉効果でフランツ・ヨーゼフを授かったと言われる町です。また、フランツ・ヨーゼフが母ソフィーの妹ルドヴィーカの長女ネネをお妃に迎えるべくお見合いをした場所、しかし、当事者ではないのにくっついてきた次女、当時15歳のシシー (エリーザベト) のほうに一目ぼれしてしまい、ふたりは恋愛結婚をするのです (1854年4月24日)。
フランツ・ヨーゼフ1世は生涯の多くをこの地のヴィラ (Kaiservilla) で過ごしました。これは1853年ソフィーが二人の婚約祝いにプレゼントしてくれたもので、エリーザベトを嫁に迎えるにあたって、ヴィラはそのイニシャルE の形に改築されました。

ちなみに、この町では8月18日のフランツ・ヨーゼフ1世の誕生日はカイザーフェストのお祭りで、祝日になり、お店はお休みになります。わたしたちは、ウィーンでその日が近い時に、友に、18日はお休みでしょ? と確認の意味で訪ねたら、「どうして?」と逆に聞かれてしまい、「だってカイザーフェストの日でしょ」と言うと、それは、バート・イシュルだけだ、と笑われてしまいました。カトリックのオーストリアでは8月15日はマリア被昇天祭で全国祝日です。バート・イシュルはさらに18日も祝日になるので、ご注意下されたし。

バート・イシュルには多くの音楽家たちもヴィラを構えました。なかでもやはりバート・イシュルゆかりの音楽家と言えば、レハールでしょうね。夏のオペレッタ祭り期間中はクアハウス (今はきれいに改装され、コングレスハウスと言っています)で、 レハールの演目とその他のオペレッタの作品と、ふたつのプログラムを上演してきました (昨2009年伺ったところでは、どうやら2010年はこの慣行が初めて破られ、レハールの作品は取り上げられないそうです)。


クアパルク内のレハール像 (1997年撮影)


バート・イシュル (1997年撮影)

バート・イシュルを訪れたならば、ぜひトラウン河畔の散歩道エスプラナーデを歩いて、カフェ・ツァウナーに立ち寄って、この地方の名物、ザルツブルガー・ノッケルルをご試食あれ。その大きさにびっくりしますが、実は卵のスフレで、中身のほとんどは空気です。写真がなくてごめんなさい。



(d) インスブルックとその近郊



インスブッルク (2003年撮影)

この噴水、台座にレオポルト5世、と記されています。さらにその下に1619-1632とあるので、調べた結果、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の弟、オーストリア大公のレオポルト5世と判明しました (生まれたのは1586年、没が1632年です)。金貨の肖像に描かれてもいるようなので人望があった人なんでしょうね。
ちなみに、余談ですが、オーストリアには12世紀にもう一人別のレオポルト5世がいました。バーベンベルク家第2代オーストリア公 (在1177-1194) です。
こちらのレオポルト5世が十字軍 (第3次) に参加したときに、全身敵の返り血を浴び、真っ赤に染まったものの、ベルトの部分だけは白く残ったという伝説が、オーストリア国旗、赤白赤のもととなっているということです。



インスブルック (2003年撮影)


せっかくインスブルックを訪れたのであれば、イン川沿いのコングレスハウス脇から出るケーブルカーと、さらに途中ロープウェイに乗り換えてノルトケッテを訪れてみましょう。ロープウェイの終点、展望台のあるハーフェレカールは標高2334mにあります。天候次第では展望台まであがるとすでにとても寒くなりますから、夏でも防寒用にヤッケを持って行った方がいいと思います。



インスブルック、ノルトケッテ、ハーフェレカール展望台 (2003年撮影)

このノルトケッテ側からは遠くイタリアの山々も望むことが出来るそうです。そうです、というのは寒かったという記憶ばかりが強く、イタリアが見えたという記憶はないので、たぶん曇っていたのではないかと思います。
しかし、スイス・アルプスのところで書きましたが、ノルトケッテのパノラミックな雄姿を写真に収めたいのであれば、町を挟んで反対側の山に登るのがベストです。インスブルックの市内からは路面電車が登山電車を兼ねる形で郊外の山に行く人たち (この南側一帯はスキー場です、そしてオリンピックのジャンプ競技が行われたところでもあるので、アクセスはとても便利です)をロープウェイ乗り場まで運んでくれます。
イーグルスの村まで行って、パッチャーコーフェルバーンに乗り、1952mの山頂駅に行けば、ご覧の (写真) パノラマが待っています。



パッチャーコーフェルバーン山頂駅からの、インスブルック市街地とノルトケッテの眺め (2003年撮影)



ムッタース


ムッタース (1993年撮影)

インスブルックから南西方向のシュトゥーバイタールに向かって電車に乗っていくと、標高830mのところにムッタースという村があります。スキー場ですが、わたしたちは1993年の夏にここを訪れました。ガイドブックに載っているような場所ではないので、インスブルックで情報を貰ったのだと思います。ティロルらしい景色、建物、そして暖かい人々に大満足でした。
このあと、更に今度はドイツに向かう路線の途中にあるゼーフェルトに行きましたが、こちらの方がもう少し町らしい賑わいもあり、ケーブルカーでさらに高い山に登ることも出来ます。


ゼーフェルト


ゼーフェルト (1993年撮影)



いずれにせよ、オーストリアを味わうには、田舎に行くのが一番です。本当に人が暖かいし、パンもおいしいです。


ヨハン (2010-09-12)

ゼメリングのハイキングコース (3)  世界文化遺産ゼメリング鉄道沿線ハイキングルート

2010-03-30 03:46:07 | ウィーン
ゼメリング鉄道建設年譜

1842年5月5日 ウィーン-グログニッツ間開通
1844年10月21日 ミュルツツーシュラーク-グラーツ間開通
(* 1844年から1854年までの10年間、グログニッツとミュルツツーシュラーク間については旅客も貨物も馬車でゼメリング越えをした。)
1849年3月1日 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世により、ゼメリング鉄道の建設許可が下される
1853年10月22日 ラヴァント号によるゼメリング鉄道全線走行
1854年5月16日 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリーザベト、ゼメリング鉄道に乗車
1854年7月17日 皇帝令によりゼメリング鉄道営業開始
1857年8月18日 ウィーン-トリエスト間で全線直通の旅客運行開始

1869年7月22日 ゼメリング駅にゼメリング鉄道建設者カール・リッター・フォン・ゲーガの記念碑を建設

1998年12月2日 ユネスコ総会でゼメリング鉄道と周辺の文化風景が世界遺産に選ばれる (鉄道として世界初の世界文化遺産)


ウィーンとグログニッツが鉄道で結ばれた1842年、青年技師カール・ゲーガによってミュルツツーシュラーク、グラーツ間の鉄道建設が開始されました。この頃は、しかし、間を阻むゼメリングに鉄道を通すなどということはまだまったく誰も想像できないことでした。
ところがわずか6年後の1848年、ウィーンを革命騒ぎが襲っている年に、ゲーガはゼメリングに鉄道を通すプランの責任者に任ぜられます。彼にはアメリカでの鉄道視察による技術の蓄積、豊富な経験があったからです。それにしてもクリアしなければならない課題はいくつもありました。急峻な山にどのように鉄路を敷いていくことが可能か、その問題はしかし当時の機関車の性能、つまり登攀力とかカーブの内径をいかに短くして走れるか、等々の向上とも関係していました。鉄道技術はこの頃ようやく揺籃期だったのです。
ゲーガは立ち向かわなければならない困難な課題に野心を燃え上がらせ、何週間もゼメリング一帯の地形調査に費やし、岩壁や峡谷のひとつひとつを頭に叩き込んでいきました。帝都を襲った革命騒ぎは彼のプロジェクトを進める上で、むしろ追い風になりました。失業者が街にあふれかえり、巨大かつ困難な事業に必要な労働力を集めることに苦労せずに済んだのだからです。
ニーダーエスタライヒ側の複雑な地形に鉄路を敷くために、総数で16本の単層、複層のヴィアドゥクト、15か所のトンネルが造られることになりました。ダイナマイトがまだ発明されていない時代ですから、トンネル工事は難事業でした。そして、ゼメリング峠の下を抜けるメイン・トンネル (Haupttunnel) の工事は、多数の地下水脈とも格闘しなければなりませんでした。切断された水脈から噴出してくる大量の水は、冬には凍結して一層工夫たちを苦しめたのです。ヴァインツェッテルヴァントにテラッセを敷いて線路を通す計画も、岩盤の崩落によって多くの工夫の命を奪い、結局、計画は変更され、岩壁をほって片側開放の半トンネルの形になりました。さらに、コレラの流行です。狭い飯場ではあっという間に大量の感染者を出してしまったからです。
建設開始から1年半後、山を駆け上がるだけの力をもった機関車を探し出すために、国際的な公開コンペが挙行されました。テスト区間として選ばれたのは勾配25プロミレのパイエルバハ-キューブ間でした。このテストで4つの蒸気機関車が合格しました。
のべ17,000人の労働力を投入して続けられた工事はわずか6年という建設工期の後、1854年5月15日、貨物列車が全線運行し、7月17日、ついに旅客走行も営業を開始することとなったのです。

ゲーガの事業が今日なお高い評価を得ているのは、そこに示された優れた技術力はもちろんですが、それ以上に、自然と鉄道とが類を見ない調和を成し遂げているという点にあるのです。
1849年9月1日ゲーガは皇帝から鉄冠賞を賜り、貴族になり、以降カール・リッター・フォン・ゲーガと呼ばれます。ちなみに、前回の記事の旧20シリング札、表にはゲーガの肖像が描かれていました。



ゲーガ

ゼメリング鉄道と言うのは、南部鉄道線のうち、グログニッツとゼメリング、さらにメイン・トンネルを含めたミュルツツーシュラークに至る区間のことを示しています。
この沿線は世界文化遺産に選ばれたのを契機に、ニーダーエスタライヒ側にハイキングコースが整備され、わたしたちがゼメリングにのめりこんだ2000年前後の数年は、地図と標識を手掛かりに、よく沿線を歩きました。
これから当時のパンフレットに描かれた地図をもとに、沿線ハイキングルートをご紹介していきましょう。

ゼメリング鉄道沿線ハイキングルート( Bahnwanderweg )

◎ Variante 1-1 (ルート1-1、ゼメリング駅からブライテンシュタイン駅まで、9.5km)

地図① Semmering駅 → Wolfsbergkogel駅 → Kartnerkogelトンネル(203m)、Kartnerkogelヴィアドゥクト(3本アーチ、全長44m、高さ11m)、Wolfsbergkogelトンネル(440m)、Weberkogelトンネル (407m)、Fleischmannブリッケ、Kalte Rinneヴィアドゥクト、Polleroswandトンネル (337m)、Krauselklauseヴィアドゥクト (全長100m、高さ28m、上階6本アーチ、下階3本アーチ)、Krauselトンネル (全長14m、オーストリアで二番目に短いトンネル) → Breitenstein駅



* 地図の赤い線がハイキングルートで、青い破線が鉄道路線です。ABC・・で示されているのはレストランなどの休憩ポイントです。

ハイキングの出発点はゼメリング駅ですが、最初にメイン・トンネルについて触れておきますと、これは別名シャイテルトンネル (峠のトンネルという意味です) とも呼ばれ、全長1,434m (戦後1952年にもう一つ横に新トンネルが建設され、そちらは全長1,512mです)、トンネル内の中間点が標高898mで、ゼメリング鉄道の最高位点です。ゼメリング側から見て中間点から300mほど先が州境です。



難工事となったメイン・トンネル


ゼメリング駅からメイン・トンネルを見る (2005年撮影)

ゼメリング駅構内の碑


ゲーガの碑 (2006年撮影)



世界文化遺産の碑 (2006年撮影)



ゼメリング鉄道開通50周年祝典 (1904年)

2004年は150周年が祝われました。50年サイクルの祝賀行事ということを考えると、次は2054年になりますから、2004年は是非この目で祝賀行事を見てみたかったのが正直な気持ちですが、ヨハンも仕事がありますからね、断念せざるを得ませんでした。

さて、ゼメリング駅には駅舎内にインフォメーションがあり、資料の展示のほか、各種資料の販売もしています (以前は構内に展示された客車両内に資料が展示されていました)。
また、駅舎から出たところに、沿線ハイキングルートマップの案内板が設置されています。ハイキングルートは、前回のパスヘーエに行くときと反対方向、右手に進み、まずは隣駅ヴォルフスベルクコーゲル駅 (海抜933m) を目指します (距離1.5km)。


沿線ハイキングルートには随所にこのような案内板が設置されている (2008年撮影)

ヴォルフスベルクコーゲル駅周辺の見どころについては前回ご紹介しましたので、省略します。
ヴォルフスベルクコーゲル駅から、さらにドッペルライターヴァルテを目指し、そこからUターンする形で折り返し、山道を歩いていくと途中旧20シリング札の図柄となった景色を見はらすポイントを通ります。



ドッペルライターヴァルテ (Doppelreiterwarte) からの眺め(1999年撮影)





旧20シリング札に描かれた眺め (1999年撮影)

次のポイントはカルテ・リンネの二層ヴィアドゥクトです。

<カルテ・リンネ Kalte Rinne>
全長178m、高さ41m、上段10本のアーチ、下段5本のアーチで支えられています。



Kalte Rinne (2002年撮影)



建築中のViadukt



Kalte Rinne (1853年)

ここから先、ポレロス・ヴァントに一番接近している場所を歩いていき、ブライテンシュタイン駅の麓に到着です。

ブライテンシュタインにはグスタフ・マーラーの別荘が残っています。


◎  Variante 1-2 (ルート1-2、ブライテンシュタイン駅からクラム・ショットヴィーン駅まで、4.5km)

地図② Breitenstein駅 →Weinzettelfeldトンネル (239m)、Weinzettelwandトンネル (668m)、Rumplergrabenヴィアドゥクト (全長41m、高さ14m)、Gamperlトンネル (78m)、Gamperlgrabenヴィアドゥクト (全長122m、高さ14m)、Wagnergrabenヴィアドゥクト (全長137m、高さ24m)、Klammトンネル (192m) →Klamm Schottwien駅




ブライテンシュタイン駅を過ぎると列車はヴァインツェテルヴァントの岩壁に貼りつくように走ります。最初ゲーガはこの岩壁に沿ってプラットホームを造り、その上に鉄道を走らせる計画でしたが、1850年に崩落事故が起こり、14人の工夫の命が奪われてしまいました。そこで計画を変更し、岩壁を掘り、山の内側に線路を敷設することにしました。3つの独立したトンネルが連続しますが、岩石の崩落から守るためにこれら3つのトンネルは柱廊で互いに結ばれています。



ヴァインツェテルヴァントに敷設された柱廊 (1865年)


ヴァインツェテルヴァント・トンネルを駆け抜けてきた列車 (1910年、彩色絵葉書)

クラム・ショットヴィーン駅のホームからは、前回の記事でご紹介しましたが、絵画に描かれでもしたかのように、ショットヴィーンの街並み、アウトバーンの陸橋、マリア・シュッツ巡礼教会、ゾンヴェントシュタインが眺められます。



クラム・ショットヴィーンの駅からの眺め (2002年撮影)

ショットヴィーンについては前回ご紹介しましたので、ここではクラムについてご紹介します。
すでに鉄道でこのあたりを通る時、谷側にクラム城塞の廃墟がよく見えます。


廃墟と化したクラム城塞

このクラム城塞、パンフレットの説明を読むと、「長いこと難攻不落と謳われた自慢の要塞だったが、トルコ軍、マーモント元帥によってそうではないことが証明されてしまった」と書いてあります。ただ、要塞そのものの終焉をもたらしたのは、落雷でした。年代としては1801年とも、1805年とも言われ、はっきりはしていませんが、落雷により、土台を除いてすっかり焼失、残骸は今も崩落し続けていると説明されています。
だれがこれをつくったか、については、言い伝えとして、こう書いてあります。「昔アドリッツグラーベンに二人の強盗騎士が住んでいて、旅人たちを襲っていた。当時この地域を治めていた伯爵は狩りの途中道に迷って、強盗騎士に襲われましたが、金と土地を与えることで命を救われた。望むものを手に入れた強盗騎士たちはホイバハコーゲル山上に城塞をつくったのである。」
その後文献では1450年にクラム一族が絶えたことが分かっています。そして何人か支配者が変わりました。
この要塞の下に聖マルティン教会が見えます。これはすでに1511年には建造されていることが文献記録上分かっています。この教会も受難の歴史を持っています。1805年のナポレオン戦争の時です。一帯を蹂躙するナポレオン軍に対し、怒った司祭が発砲し、教会、司祭館は略奪、焼き討ちの報復を受けてしまったのです。当時の支配者ヴァルスエッガーは教会を再建しましたが、お金がないため、司祭館は建てられませんでした。司祭館が再建されたのはようやく1912年になってからでした。
この教会の墓地は、ゼメリング鉄道建設にあたって命を落とした多くの工夫が埋葬されました。コレラの流行が狭いバラックで寝起きしていた工夫たちの間に多くの犠牲者をだしたのです。
わたしたちは、2002年に好奇心のまま、クラム城塞の廃墟に足を踏み入れた記憶があります。ブロックされていたようには記憶していないので、そのまま入っていけたのだろうと思います。ただ、当時は、「今も崩落し続けて」いることは知りませんでした。くわばら、くわばら。


◎  Variante 1-3, 4 (ルート1-3、4クラム・ショットヴィーン駅からアイヒベルク駅を経てグログニッツ駅まで、7.5km)

地図③ Klamm駅 → Rumplerトンネル (53m)、Geyereggerトンネル (81m)、Eichbergトンネル(89m) → Eichberg駅

アイヒベルクは1852年に最初に完成した区間の終点だったので、そのときは、列車はここから折り返していました。




ここから沿線ハイキングルート、Variante 1 は鉄道と離れ、高低差の少ない谷間をグログニッツに向かいます。


地図④ Eichberg駅 → Gloggnitz駅



さて、ハイカーはこれでゼメリング鉄道沿線ルートの終点、グログニッツに到着です。ここは、いままでの駅と比べても大きいし、すでに都会という感じです。グログニッツそのものは1,000年の歴史を持つ町です。なりたちとしては11世紀にバイエルンの修道院の僧たちがここに庵をつくり、やがて修道院へと発展していったのが、町の基礎となりました。日本風に言えば、門前町でした。
ただ1803年以降世俗化が進み、その頃から今日の街が形成されていきます。古い壁 (Gemäuer) は保護文化財になっています。ウィーンでよく耳にする名前、ドクター・カール・レンナーは1910年以来ここにヴィラを持っており、今日レンナー博物館となっています。



クロスター・グログニッツ



1900年頃のグログニッツ駅


◎  Variante 2 (ルート2 クラム・ショットヴィーン駅からキューブ駅を経てパイエルバハ・ライヒェナウ駅まで、5.5km)

地図⑤ Klamm-Schottwien駅 → Eichberg駅 → Apfaltersbachgrabenヴィアドゥクト (全長99m、高さ25m)、Steinbauerトンネル (88m)、Höllgrabenヴィアドゥクト (全長80m、高さ26m)、Kübgrabenヴィアドゥクト (全長42m、高さ14m) → Küb駅 → Payerbachergrabenヴィアドゥクト (全長60m、高さ14m)、Schwarzerヴィアドゥクト (全長222m、高さ20m、13本アーチ、ゼメリング鉄道で最長のヴィアドゥクト) → Payerbach-Reichenau駅




ハイキングルートとして、クラム・ショットヴィーン駅からアイヒベルク駅に向かわないで、いったん鉄道と離れ、山の中を歩いてキューブに向かうのがヴァリエーション2です。この間およそ3.5kmほどです。
キューブは実力者たちの強い働きかけで1894年に独自の駅がつくられ、リゾート地として人気を集める場所になります。キューブの名をとくに有名にしているのは、ここの歴史的郵便局です。リゾート地として発展していくにつれ、郵便局を開設する必要が高まり、1905年、当初夏の数カ月営業ということでスタートし、1908年以降通年営業となりました。ここにある窓口、電話ボックスはかつて南部鉄道ホテル内に19世紀末から20世紀にかけての頃設置されていたものがここに移設されたものです。今もここで郵便を出せば、キューブの消印が押され世界中に配達されます。ロザーリウムも日本のおともだちにここから絵葉書を出しました。




キューブの街の入り口 (2002年撮影)



キューブの歴史的郵便局 (2002年撮影)



キューブの歴史的郵便局 (絵葉書)

さてキューブでハイキングルートはまた鉄道と合流します。
KübgrabenヴィアドゥクトとPayerbachgrabenヴィアドゥクトの間がゼメリング鉄道全線区間で最も勾配の急な場所です。そのため1851年この区間で機関車の性能をテストするための国際的なコンペが行われたのです。
ハイキングコースとしては最後から二つ目のPayerbachgrabenヴィアドゥクトの下をくぐり抜けると、目の前が開け、パイエルバハの街が見えます。鉄道の方は左手に見え、最後のそしてゼメリング鉄道で最も長いSchwarzerヴィアドゥクトの上をゆっくり、大きく右にカーブしながら、パイエルバハ・ライヒェナウ駅に近づいていきます。
(*下の木版画で言うと、右手に見える列車は最も勾配のきつい坂を降りてきたところ、左奥にも列車が見えますが、これはシュレーグルミュールからやってきて、これからパイエルバハに到着するところです)



シュヴァルツァ・ヴィアドゥクト (木版画、1880年)

パイエルバハについてはラックス登山の記事でご紹介しました。再びわたしたちは、今度はゼメリングから長い沿線ハイキングを終えて、パイエルバハに戻ってきたという次第です。
この町の名前はなんとなくドイツ語らしくない語感を持っていますが、PをBに置き換えると、なるほどと納得されます。グログニッツもそうでしたが、ここももとはバイエルンの修道院が所有する土地だったのです。昔はシュタイアーマルクに抜けるルートとして、ここからプライナー・グシャイトを経由したので、パイエルバハはその通商路の需要な経由地として発展したのです。記録上すでに1094年にこの地名が登場しています。
また18世紀末には近郊のグリレンベルクで鉄が採掘されるようになり、経済的に潤いました。しかし、ここもやはり19世紀初頭のナポレオン軍によって荒廃させられました。
ゼメリング鉄道の建設はパイエルバハの歴史上もっとも繁栄をもたらす出来ごとになりました。当時は帝国内で最も乗降客の多い駅でした。
シュヴァルツァ川に沿ってクアパルク (療養公園施設) がつくられ、1909年音楽の催しをするためのパビリオンも建設されました。
木版画にも見られる教会は1180年に造られた古いもので、15世紀末には外敵からの防衛のための要塞教会となりました。

ゼメリング鉄道は最初、ライヒェナウあたりで大きくカーブする計画でしたが、ライヒェナウの別荘の住民に反対され、また、その間鉄道技術が進歩して、パイエルバハでカーブ出来る見込みが立ち、今日の路線となったのです。しかし、駅名は、いつ頃からか、ライヒェナウとくっつけてパイエルバハ・ライヒェナウ駅と呼ばれるようになりました。

わたしたちが最初にゼメリング鉄道を列車で通ったのは、1983年でした。3月14日、ウィーンにやっと着いたと思ったら直ぐに大学は春休み (Osterferien)、初めての冬でしたから、なにしろ毎日まだ寒くてたまらないということもあり、休みを利用して直ぐにイタリア旅行に出たのです。3月28日、南駅から23時初の夜行列車でまずはヴェネチアを目指しました。寝台車などという気の利いたものではなく、普通のコンパートメントで満席でしたから、とても寝られるようなものではありませんでした。ロザーリウムは新婚旅行のときもそうでしたが、どこでも列車移動となると、直ぐに寝てしまいます。わたしは、見知らぬ連中と同じコンパートメントで旅行するわけですから、泥棒にでもあってはならないと、ずっと起きていました。
で、ウィーンを出て、一時間くらいしたころでしょうか。真夜中ですし、夜行列車ですから、車内の照明も極力落とされていました。そして外がまだとても寒かったんでしょうね、窓が結露していました。それまで順調に走っていた列車が、急にスピードを落とし、キーキー、キーキー車輪がすれる音を立てています。ゼメリングのことは、当時全く知りませんでしたし、カーブしているのは分かりましたが、外が真っ暗で、山を登っていることは全然気がつきませんでした。
ラックスの記事のところで書きましたが、その後ゼメリングを通ったのは1990年になってからですが、それもツアーバスの車内から駅を眼下に見た、という程度でした。結局意識してゼメリングを訪れたのは1999年が初めてでした。以来、ここはわたしたちにとって、お気に入りの場所の一つです。
ゼメリングの駅でウィーンに帰る時、特急が通過していく、その一等車の車内によく我が同胞らしき人たちをみかけます。おそらくあわただしくウィーンからグラーツへと移動していくのでしょうね。オーストリアの一番オーストリアらしいところは、実は田舎にこそあるのですよ、とわたしはいつもあわただしく2、3日の駆け足旅行でオーストリアを終了して次の目的地に向かう人たちに言いたいのです。




世界文化遺産ゼメリング鉄道 (絵葉書)




1930年頃

この写真を見ると、オーストリアにも屋根のないパノラマ車両が走っていたことがあるのが分かります。今は、危険だからなんでしょうか、登山鉄道でさえ、こういうパノラマカーは見かけませんね。




ゼメリング鉄道開通100周年記念列車 (1954年)




ゼメリング鉄道開通100周年記念碑、ミュルツツーシュラーク駅 (2001年撮影)

ミュルツツーシュラークにはゼメリング鉄道に関する鉄道博物館もあって、鉄道好きの方にはぜひ訪れていただきたいですね。
実は、ここから、支線が出ていることに以前気持ちがひかれて、いつか乗ってみたいと思ってミュルツツーシュラークも訪れましたが、やれやれ、とうに廃線になっていました。ですから、バスに乗ったわけです (ラックスの記事で書きました)。
鉄道路線は赤字だといつ廃止されるかわかりませんからね、鉄道ファンの方は、廃止されない前にお出かけになることをお勧めします。

ヨハン





ゼメリングのハイキングコース (2) 歴史的建造物をめぐるルート

2010-03-27 11:17:16 | ウィーン
― パスヘーエ周辺

<ゼメリング街道建設記念碑>
ニーダーエスタライヒとシュタイアーマルクの州境で、またゼメリング街道の最高地点でもある、標高984mに拓かれた峠パスヘーエには、写真の堂々としたモニュメントが据えられています。この街道建設記念碑は1728年、その完成を祝い周辺諸州の諸侯たちによって建造され、ときのオーストリア皇帝カール6世に捧げられました。この峠はウィーンからヴェネチアを結ぶゼメリング街道にあって最も越えるのに苦労した難所だったのです。



パスヘーエに建つゼメリング街道建設記念碑 (2005年撮影)

ここに宿坊と簡単な街道が開かれたのはすでに12世紀にさかのぼります。それまでは登山の山道と変わらないシュタイクが開かれていただけで、利用したのも巡礼者たちとか、家畜を使った荷物運びの人たちくらいでした。1728年6月21日には完成したこの街道を皇帝カール6世とその妃エリーザベト・クリスティーネも訪れました。



パスヘーエに建つゼメリング街道建設記念碑 (1810年)

1810年に描かれたパスヘーエのこの彩色銅版画を見ると、左に1662と記された石柱が立っています。これはニーダーエスタライヒとシュタイアーマルクの州境を示すもので、1878年に取り外されました。(*今は州境をあらわす碑は、背が低い形のものが、道路の反対側に据えられています)
馬に乗っている人物は後方のウィーンとヴェネチアを結んだ快速郵便馬車の御者で、ここで馬を乗り換えているところです。右の小屋から出てきた人物は、関所の人で、通行料を徴収するために出てきたところです。

今はアウトバーンも鉄道と同じように、トンネルが完成し、車はここまで上がってくる必要はなくなりましたが、トンネルが開通する前は、パスヘーエは車の通行量も多く、賑やかでした。トンネル工事と合わせるように、街道のほうも整備していたのでしょうね。以前より道が整備されてきれいになりました。初めてわたしたちが訪れたときには、この街道建設記念碑が堂々とその存在感を誇示しているように思われたのですが、いつの間にか台座だけになっていたり、ついには姿を消してしまい、どうなったんだろう、と訪れるたびに不思議に思っていましたが、昨年無事元通りの姿で現場復帰しているのを確認しました。たぶん道路整備にあわせて、移転していたものと思われます。

<パイロットNittnerの記念碑>
ゼメリング街道建設記念碑とは国道をはさんだ反対側、バス停近くに同じくひときわ人目を引く形でこの碑がたっています。1912年5月3日パイロット、エドゥアルト・ニットナー中尉はヴィーナー・ノイシュタットから飛び立ち、初めてゼメリング峠を飛行機で越え(午前6時30分)、その2時間後、無事グラーツに着陸しました。彼は功績をたたえられ、サラエヴォに新設された航空隊司令官に任命されましたが、一年後飛行機事故で命を落としてしまいました (1913年2月17日)。
わたしたちにもよく知られたライト兄弟による人類初の有人動力飛行の成功が、このわずか8年半前のことだったことを考えると、いかに勇気ある飛行だったか分かることと思います。



パイロットNittnerの記念碑


― スポーツ競技とゼメリング

標高1,000メートルに位置するゼメリング一帯は、1854年ゼメリング鉄道が全線営業を開始したことにともない、またたくまに高地療養地として注目を浴び、またリゾート地としても夏は避暑に、冬はスキー、スケートに、さらに複雑な地形を利用した冒険の場として、モーターライゼーションの到来とともに、自動車、バイクレースも開催され、高級リゾートホテルが相次いで建設され、競うようにヴィラが建てられました。シーズンにはさながらすっかりウィーンの社交場がゼメリングに移ってくるといった様相でした。

1912年にはヒルシェンコーゲルにスキーのジャンプ台が造られました。(*現在ジャンプ台はありません)


ヒルシェンコーゲルのジャンプ競技 (1912年)

また、国道をはさんだ反対側、ホテル・パンハンスの脇をあがっていくピンケンコーゲルには、リュージュ・ボブスレーのコースがつくられ、やがてオーストリア最後の皇帝となるカール1世も1912年ここで4人乗りボブスレーを操縦しています。

ヒルシェンコーゲルに最初のリフトが造られたのは1953年です。ゾンヴェントシュタイン側は1956年にリフトが建設されました (前回の記事)。本格的にアルペンスキーの場所として、ウィーンから近いこのヒルシェンコーゲルが戦後ますます注目されたと思われます。
1995年からは女子スキー初のワールド・カップ競技が開催されるようになり、回転と大回転競技が隔年この地で開催されています。地元出身の女性選手がオリンピックで金メダルをとったことはゼメリングの人々にとっての自慢のたねです。
また、ここではナイト・コースも冬季の日曜を除く毎日営業されます。
現在は夏季にマウンテンバイク競技も行われ、今も冒険好きの若者の人気を集めています。

<グランド・ホテル・ヨハン大公>



ゼメリング・カーレースのゴール、グランド・ホテル・ヨハン大公前



Grand Hotel Erzherzog Johann

今駐車場として利用されている一角にレストランとガソリンスタンドがたっていますが、その場所にかつて、グランド・ホテル・ヨハン大公が建っていました。ヴィクトール・ジルベラーがここにあったホテル・ヨハン大公を1870年に買い取り、1898年グランド・ホテル・ヨハン大公に改築、翌年1899年営業を開始しました。部屋数130、すべての快適な設備を備えた豪華なホテルでした。ゼメリング・カーレースはこのグランド・ホテル・ヨハン大公前をゴールとして行われました。
1886年ショットヴィーンをスタートしホテル・ヨハン大公前をゴールとする自転車の選手権競技が開催され、1932年まで大会は続きました。面白いのは1890年までは、よく写真でみかける車輪の大きな自転車、あれで選手たちは峠を駆け上っていたのです。自動車レースが始まったのは1899年からでした (8月27日)。
第二次大戦後ホテルは焼失してしまいました。


それでは、次にパスヘーエを出発して、ホホシュトラーセを歩き、ゼメリングの歴史的建造物を訪ね、終点のクアハウスまでハイキングすることにしましょう。

― ホホシュトラーセ沿いの歴史的建造物

地図①



17 ゼメリング駅
4 ホテル・パンハンス
6 教会
7 ジルベラーの小城
9 南部鉄道ホテル

地図②



11 クアハウス
12 ドッペルライターヴァルテ

これからご紹介するのは、ホホシュトラーセを道なりに歩いていき、順番に、パンハンス (地図①の4)、教会 (地図①の6)、ジルベラーの小城 (地図①の7)、南部鉄道ホテル (地図①の9)といった歴史的建造物をみながら、さらにヴォルフスベルクコーゲル駅付近で線路の反対側に出て、最後にクアハウス (地図②の11) を目指すハイキング・ルートです。およそ半日のコースでしょうか。

 <ホテル・パンハンス>
南部鉄道ホテルがウィーンでたたき上げの料理人として腕をあげ料理長として活躍していたヴィンツェンツ・パンハンスにホテルの経営を任せたところ、ゼメリングのリゾートブームという追い風にも乗り、彼は大いに利益をあげ、1888年独自に規模の小さなホテルを、ピンケンコーゲル山麓に建設するまでになりました。それは当初ホテル・ウィーンと名乗っていましたが、その後スポーツ・ホテルなど名を変え、やがて経営は甥のフランツ・パンハンスに譲られ、1912/13年さらに大改築して現在の形になりました。ファサード (ホテルの正面部分) が300メートル、客室400というまさに大ホテルです。今も現役です。わたしたちもなかに入ってみたことがありますが、歴史の重みを感じ、一見の価値ありです。もちろんお金に余裕のある方ならば、泊まってみられるのもよい想い出となると思います。



パンハンスから顧客に出された年賀状 (1897年)



パンハンス (1905年)

 <教会>
これはメッテルニッヒの実の娘、ツィヒー伯爵夫人のイニシアチブでホテル客、ヴィラの住人たちの礼拝場所として1894年に造られました。1954年この教会は保護文化財になっています。


ゼメリングのKirche

<ジルベラーの小城>
この建物は建っている場所が小高いところという点、またその外観が、他のヴィラがいわゆるゼンメリング様式という一つのスタイルを持っているのに対して、キッチュな感じで (*どうやらバイエルンのノイシュヴァーンシュタイン城を模したものと説明されています)、とても目立つ存在で、ホホアルムヴェークからもよく見えます。
ジルベラーというのはここに登場するのは二度目です。グランド・ホテル・ヨハン大公を造った人物です。この人の経歴はもとはジャーナリストで、アメリカの新聞に記事を書いていました。普仏戦争 (1870/71年)のときはウィーンの「新自由プレス」に記事を書きました。記者時代パリで情勢視察用の気球に同乗していらい、技術革新の重要性に目覚め、やがてオーストリア航空クラブの会長になっています。好奇心と科学的探究心にあふれた冒険野郎だったと思われます。そんなことで、1895年に建てられたこの彼のヴィラは意図的にキッチュに派手に、目立つところにつくられたようです。形からヴィラと呼ばれず、Schlößchen 小さな城、と呼ばれているのです。ここは現在中を見学することは出来ないようです。



ジルベラーの小城

 <南部鉄道ホテル>
ヴォルフスベルクコーゲル駅に隣接する一帯の土地を所有し、そこにヴィラを建てていたシェーンターラー (ウィーン宮廷歌劇場を建築した人物) から南部鉄道が土地を譲り受け、ホテルを建設したのは1882年6月でした。南部鉄道会長のフリードリヒ・シューラーにはすでに観光業界で多くの実績をあげてきていましたので、シェーンターラーもこの人物ならと惚れこんで、譲ったといいます。しかし、当初建築されたホテルは飾り気のない実用本位の3階建てで、兵舎と揶揄されました。その後顧客の需要を満たすための増改築が繰り返され、今日の複雑怪奇な形に変貌していきました。ナチの時代、野戦病院として使われるなど、ホテルとしての機能は以来まったく失われてしまいました。戦後も再建の手がつけられることなく、荒廃したまま放置されてきました。わたしたちが最初に訪れたときもまったく廃墟同然の状態でした。
2000年になって、突然この南部鉄道ホテルが妙な形で蘇ります。ウィーンのブルク劇場は毎夏ライヒェナウでフェストシュピーレを行っているのですが、この年から建物の所有者との間に合意を得、南部鉄道ホテルをまさに劇場として使用、再生させたのです。
2000年はカール・クラウスの『人類最期の日々』が上演されました。わたしはゼメリングに別荘を持つ友人から、貴重な切符も譲ってもらうことができ、2003年の公演、『シュニッツラーの夢物語』を観劇することができました。芝居の舞台を、フォワイエ、食堂、ホールと変えながら、ヴェランダの外に開放された窓から近郊の山々の自然を借景に芝居を進行させていくという、不思議な体験でした。この南部鉄道ホテルには館内に郵便局も設置されていました。


最初に建てられた時の南部鉄道ホテル



有名なポスターの図柄にも選ばれた南部鉄道ホテル


― ホテル・パンハンスの創立者は料理人から大ホテルのオーナー経営者になりました。
ヨーゼフ・ダングルという人物も、南部鉄道ホテルのボーイ見習いから、単独オーナーに上りつめ、ついにはゼメリング市長、栄誉市民にまでなります。セメリングという土地がドリーム体験を生み出す風土だったと思われますし、また19世紀末という時代がこうしたシンデレラボーイを生み出したのかもしれません。


 <クアハウス>
南部鉄道ホテルはヴォルフスベルクコーゲル駅の方が近いわけですが、南部鉄道ホテルとは駅をはさんで反対側に、やはりその規模からとても目につく建物がもうひとつあります。1910年に建設されたクアハウス (療養ホテル) です。ここもわたしたちはヴォルフスベルクコーゲル駅から歩いて訪れてみたことがありますが、そのときは近くに行ってみてどうも使われている様子ではありせんでした。ウィキペディによれば2000年代になって倒産したようです。しかし2007年に外国資本が施設を買収し、いずれホテルとして復活する予定と記されています。




クアハウス


この先、ドッペルライターヴァルテに行くには、このクアハウスの横を通っていく道のほかに、鉄道がトンネルをくぐっているその上の山道を進んでいくコースもあります。それについては、次回の鉄道沿線ハイキングルートで触れることにいたします。


ヨハン





ゼメリングのお薦めホテル・レストラン

2010-03-25 03:37:58 | ウィーン
歴史的建造物も多いゼメリングでゆっくり過ごすためには、やはりどこかに宿をとりたいものです。
お勧めの宿をご紹介しておきます。
わたしたちがここに宿をとって、じっくりその魅力を味わいたいと思ったのは1999年でした。なにしろヨハンの性格上、当時はあらかじめ宿を決めて旅行するなんてことは大嫌いでした。風の吹くまま、気ままにやるのがヨハン流。効率の悪いことも確かでした。
最初にご紹介したように、ゼメリングは駅と町の中心が離れているだけではなく、90メートルくらいの標高差があり、それを登っていかないとなりません。トランクを持っていますから、駅前にいたタクシーに乗り、運転手さんにいい宿を紹介して、連れて行って下さい、と頼みました。
メインストリート、ホホシュトラーセ (Hochstraße) に面したペンションにつれていかれました。なかなかこじんまりとして、清潔で、気にいったのですが、2泊のつもりが、翌日は宿の都合 ( どういう理由だったか昔のことで、忘れてしまいました ) で、別の知り合いの宿を紹介してあげるから、と移らなくてはならなくなりました。その移った宿が、写真のベルヴェデーレです。
これが大正解だったのです。このときは、南向きのベランダ付きの部屋をもらい、大満足。ゾンヴェントシュタインからホホアルムのパノラマが眺望出来る部屋でした。予定の残り、つまり一泊しかしませんでしたが、翌日帰るときには、マダム自ら車を運転して駅まで送ってくれました。


ベルヴェデーレ (2005年撮影)

(*場所はホホシュトラーセを少しあがったところです。駅からホホシュトラーセに登ってくるときにこのベルヴェデーレの前を通りますから、すぐわかります。)
E-Mail: hotel@belvedere-semmering.at
WWW: http://www.belvedere-semmering.at

とても気に入ったので、わたしたちは2001年にもここに泊まりました。このホテル、HPを開いてごらんになれば分かりますが、ホテル・レストランです。レストランはミシュランのオーストリア版とでもいうレストランガイドにも出ています。ご主人もマダムも、シュタイアーマルクのご出身で、シュタイアーマルク料理です。その後は友人が別荘を貸してくれ、そこで過ごしたことを除いて、ゼメリングには、なにしろ便利も良いので、日帰りばかりしていますが、そうしたときでもレストランには寄ることにしています。食事しないときでも、なにしろ、ロザーリウムが、ゼメリングにいくと、ベルヴェデーレのマリレン・クネーデルを食べたい、というので、わざわざそれを食べに立ち寄ります。これが、注文を受けてから造り出すので、時間が多少かかるし、また、新鮮なマリレンがなければ造ってもらうことができないしろものです。ヨハンはデザートケーキ (Mehlspeise) がなくてはいられない、というほどではありませんが、たしかにベルヴェデーレのマリレン・クネーデルは他では味わえない一級品です。音楽でいうとヨハン・シュトラウス (息子) のポルカを聴くような、そんな感じでしょうか。



ベルヴェデーレの特製マリレン・クネーデル (2009年撮影)

このホテル、朝食の時のお客さんのテーブルが暗黙のうちに決まっています。おそらくそれほどに常連のお客さんが多いと思われます。ヨハンが本当に感心したのは、おひとりお年をめしたご婦人がいつも、朝食のときも、夕食のときも同じテーブルで、ゆったり食事を楽しまれているのですが、その姿も正装そのもの、背筋をぴっと伸ばし、首にはしっかりとネックレスがかかっています。ディナーのときだけではないのですよ。朝からそうなのです。浴衣でロビーをうろうろ、これはこれで日本の良いところなのかもしれませんが、オーストリアのホテルでは泊まり客も子供のころからのしつけで、いったん人前に出ると、ぴしっ、とするのが体に染みついているんだな、ってつくづく感心します。

2001年の夏に泊まった時には、さらにニューヨーク在住のオーストリア人ご夫婦と知り合いになりました。日本の音楽学校で教えていたことがあるというご主人でした。住所を教えていただきましたが、この年、みなさんは覚えていらっしゃいますよね? 9月11日に世界貿易センターがテロ攻撃された年です。わたしたちが知り合ったのが8月6日です。当然もう9月にはニューヨークに戻っていたと思いましたからね、ニュースを聴いてご夫妻のことが心配になりました。
次にベルヴェデーレに立ち寄ったとき、わたしたちはマダムにご夫妻のことを尋ねました。
ああ、安心、よかった、その年もご夫妻は泊まりにきていました。
先生の奥さんは、アイスが好物らしく、パスヘーエのバス停からミュルツツーシュラーク行きのバスで出かけ、散歩をかね、そのアイスの店にいくと「ハイセ・リーベ Heiße Liebe」を食べてくるんだと、おっしゃっていました。わたしたちにはそのとき初めて聞くアイスの名前でした。もちろんロザーリウムが試さないわけはありません。さっそく、出来たばかりのブラームスの散歩道をハイキングするという予定をたて、ミュルツツーシュラークに行き、言われたアイス屋さんでロザーリウムは「ハイセ・リーベ」、ヨハンは相変わらず「アイス・カフェ」を食べました。



ヨハン