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ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

ヘースタース追悼

2011-12-27 11:30:31 | ウィーン
ユッピィの愛称で親しまれたヨハネス・ヘースタースがクリスマス・イヴに亡くなられたようです。


Johannes „Jopi(e)“ Heesters, eigentlich Johan Marius Nicolaas Heesters (* 5. Dezember 1903 in Amersfoort, Niederlande; † 24. Dezember 2011 in Starnberg, Deutschland)

ヨハンは昨日の新聞報道で知りました。今、ウィキペディアのドイツ語バージョン↑を確認したところ、すでに没年が記載されていました。

1903年12月5日生まれなので、亨年109歳の大往生でした。

以前このブログではオペレッタ『白馬亭』について書いたときに、彼が出演した映画に触れ、写真もアップしましたので、ご記憶の方もいらっしゃると思います。

ヨハンは1983/84年ウィーンに一年滞在したときに足しげく通ったリバイバル上映専門館でこのヘースタースも知ることになったドイツ映画の黄金期を支えた名優の一人でした。

愛称は「ヨハネス」からきているはずですから、「ヨッピ」となるようにも思いますが、そのリバイバル映画専門館でお年寄りたちが口にしている発音を聴く限り、「ユッピィ」と呼ばれていました。

このブログとは別のあるところで彼のことを書くときに、さすがにヨハンの聴き間違いだと恥ずかしいなと思い、幾人かの(ヨハンと同世代、あるいはそれより上の世代の)ドイツ人に確かめてみましたが、どうやら発音としては「ユッピィ」で正しいようです。

戦前オランダからオペレッタ歌手になるべくウィーンにやってきた彼は、時代がすでにトーキーへと大きくシフトしていくなか、もともとは役者としてスタートし、役者の経験を豊富に積んでおり、そのうえ歌えるという、まさに時代が求める数少ないタレントであったため、ただちにベルリンの映画会社の目にとまり、UFAに移りました。

端正な顔立ちで歌もうまく、女性たちのハートをわしづかみにする人気ぶりで、まさにドイツにおけるアイドルのはしりのような存在となりました。

このドイツ映画の全盛期は、皮肉なことに偶然とは言え、ドイツ・ファシズムがどんどん勢いを増していく時代とぴったり歩みをそろえていました。1933年ナチスが政権をとると、それまで映画の全盛を支えてきたユダヤ人芸術家たちはすべてその職を奪われてしまったのです。しかしナチスは国策として、多大の興行収益をもたらしてくれる映画を手放すわけはなく、むしろ国民懐柔策のひとつとしても娯楽映画は積極的に活用され、以後敗戦までユダヤ人抜きで作られていくことになったのです。

ドイツの戦前の娯楽映画のスターと目される人たちで、このオランダ人ヘースタースをはじめとして、ハンガリー人のマリカ・レック、スウェーデン人のツァラ・レアンダーなど、外国人の存在が目をひいたのは、ユダヤ人(とは言え、国籍から言えば彼らはみな何世代も前からのれっきとしたドイツ人でした)がナチスによって追放されたり、殺されたりしてしまったらからなんですよ。そんなことで戦時期にもつくられ続けていくドイツ娯楽映画は急速にその創造的活力を喪った凡庸な映画ばかりになっていってしまいました。

それでもすでに戦前から名優とうたわれた人々が主役をつとめる映画は、彼らの人気でお客さんをやはり魅了し続けたのです。

ドイツ人名優の一人、ハインツ・リューマンはヘースタースとの共演作も多く、年もほぼ同じ(リューマンは1902年3月生まれの人でした↓)

Heinz Rühmann (* 7. März 1902 in Essen; † 3. Oktober 1994 in Aufkirchen am Starnberger See; eigentlich Heinrich Wilhelm Rühmann) gehört zu den bekanntesten deutschen Schauspielern des 20. Jahrhunderts.

ヘースタースが90歳になったとき、一歳年上のリューマンもまだ存命でした。

当時、1993年の12月でしたが、ベルリンに滞在していたヨハンは、そのころ足しげく通うようになった、Sバーンのフリードリヒ・シュトラーセ駅の目の前にあったメトロポール劇場で、ヘースタースの90歳を祝ってテレビ中継が入るライブ公演があることを知り、そのチケットを買い求め、出かけました。

ヘースタースにとって、このメトロポール劇場はとくにレハールの「メリー・ウィドウ」のダニロ役でロングランを続けた思い出の劇場でした。ちなみに白いマフラーに山高帽のいでたちで「マキシムの歌」をうたうダニロを演じたのはヘースタースのアイデアでした。

ライブ公演と書きましたが、面白いことに実際の中継画像が放送されたのは、その日の公演終了後、つまり録画放送でしたから、公演が終わると大急ぎでアパートに帰り、今見てきた公演をテレビで見ながら、録画したものでした。

その公演ではゲストとしてリューマンが電話出演しました。

ヨハンにとっては、ウィーンの映画館で知ったこの名優たちが当時まだ存命であったこともこのライブ公演に出かけるまで知りませんでした。

さきほどのウィキペディア、ドイツ語バージョンによれば、リューマンの没年は1994年の10月になっていますから、翌年亡くなったのでした。

で、今回のヘースタースの死亡記事にあるように、ヘースタースも、リューマンが亡くなった地、シュタルンベルクで亡くなったのだと分かりました。

天国のリューマン、ヘースタースは今頃どんな再会をはたしているのでしょうかね。

2011/12/27 ヨハン

被災されたみなさまに心からのお見舞いを申し上げます

2011-03-23 17:32:45 | ウィーン
未曾有の災難が私たちを襲いました。
多くの人々の命を奪った巨大地震、巨大津波から13日、加えて今日本にはその後の原発事故の処理をめぐって世界の目が注目しています。

人は個人としては自然災害を前に余りにも無力です。しかし人災にたいしては人は現在のみならず過去からの英知のすべてを結集して乗り越えていかねばなりません。世界が注視しているのはそのことです。
人は地勢的にも時系の上でも単独の存在ではありません。

わたしたちが世界とともに生きているように、世界もわたしたちとともにあります。多くの連帯のこころが日本に寄せられています。必ずやこの国難が乗り越えられることを信じて頑張りましょう。

ところで今日久しぶりにOutlookのメールを開けたらずらずらずらとドイツ、オーストリア、スイスの友から私たちの安否を気遣ってのメールが届いていました。

さる20日、日曜に日本に電話をくれたウィーンのOさんから、同時にメールも届いていました。メールを打つ彼女の傍らのラジオからはウィーン・フィルの演奏会の中継が今はじまった、と書かれています。そしてフィーン・フィルのHPをコピーして私たちに次の記事を送ってきてくれました。



Im Gedenken an die Opfer der Katastrophe in Japan
日本の巨大災害の犠牲となられた人々を追悼して

Im Gedenken an die Opfer der Natur- und Umweltkatastrophe in Japan spielen Daniel Barenboim und die Wiener Philharmoniker zu Beginn ihrer Abonnement-konzerte am 19./20. März 2011 das Adagio aus dem Klavierkonzert in A-Dur, KV 488, von Wolfgang Amadeus Mozart.
このたび日本を襲った自然災害、環境災害で命を落とされた人々を追悼してダニエル・バレンボイムとウィーン・フィルハーモー団員は2011年3月19/20日の定期演奏会の冒頭ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトのピアノ協奏曲イ長調KV488アダージョを演奏いたします。

Seit dem ersten Gastspiel im Jahre 1956 ist Japan unsere Heimat im Fernen Osten: Die Begeisterung der japanischen Musikfreunde für unser Orchester, für seine Musizierweise und Geschichte zählt zu unseren bewegendsten Erfahrungen. Wir fühlen uns den Menschen in Japan, wo wir bisher 257 Konzerte im Rahmen von 28 Tourneen spielten und wo uns stets so viel an Liebe entgegengebracht wird, aufs engste verbunden und gedenken mit unserem verehrten Freund Daniel Barenboim der Opfer, ihrer Angehörigen und all der Menschen, die jetzt um ihr Leben und ihre Zukunft und diejenige ihrer Kinder bangen.

1956年初めて客演で訪れて以来私たちにとって日本は極東の地にあるわたしたちの故郷です。日本の音楽ファンの皆様が私たちオーケストラ、その演奏、歴史に寄せてくださる熱い想いは今も私たちの活動を支える体験の一つです。これまで28度の訪日で開くことができました257回の演奏会でいつも皆様から寄せていただきました愛が日本の皆様方と私たちを固く結ぶ絆であり、私たち団員一同は敬愛するわられが友ダニエル・バレンボイムとともにこの度の犠牲となられた方々、ご遺族、そして今生活と、将来また子供たちの未来への不安に打ちひしがれていらっしゃるすべての人々に思いを寄せています。


Das Schicksal der japanischen Bevölkerung erschüttert uns zutiefst, und wir schließen uns den weltweiten Bemühungen an, wenigstens einen Teil des unvorstellbaren Leides zu mildern. Vor allem aber möchten wir zum Ausdruck bringen, daß wir mit unseren Gedanken und Gebeten, daß wir mit unserem Herzen bei den Menschen in Japan sind, denen wir als Wiener Philharmoniker so viel zu verdanken haben.

日本の人々が受けている災厄は私たちのこころを深く揺すぶるものです。この想像を絶する苦しみのたとえわずかでも和らげることができないものかと今世界中に広がっている連帯の輪に私たちも加わります。ことに私たちウィール・フィルハーモニー団員にこれまで寄せていただきました日本の人々からの愛に心から応えることを、みなさまへと思いをはせ、祈りを捧げることをここに
わたくしたち一同表明いたします。



5. Abonnementkonzert mit Daniel Barenboim

ダニエル・バレンボイムを迎えての第5回定期演奏会


Daniel Barenboim tritt im 5. Abonnementkonzert der Wiener Philharmoniker am 19./20. März als Pianist und Dirigent auf. Bereits 1965 debütierte Barenboim als Pianist bei den Wiener Philharmonikern, die er 1989 erstmals dirigierte. Der "Universalmusiker" Barenboim, dessen musikalisches Können und humanitäre Einstellung seinem Wirken auch außerhalb des Konzertsaales Aussagekraft verleiht, leitet und spielt in den bevorstehenden Konzerten Beethovens erstes Klavierkonzert und dirigiert nach der Pause Schönbergs symbolträchtige symphonische Dichtung "Pelleas und Melisande".

ダニエル・バレンボイムは3月19/20日のウィーン・フィル第5回定期演奏会でピアノ演奏と指揮をする。バレンボイムはすでに1965年ピアニストとしてウィーン・フィルとの初共演をしており、1989年には初めて指揮をした。「世界的(ユニヴァーサルな)音楽家」バレンボイムの音楽的才能と人間的叡智は彼の活動にコンサートホールの枠を超えた発信力を与えるもので、今定期演奏会ではベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番を演奏、指揮、また休憩の後はシェーンベルクの象徴力豊かな交響詩「ペレアスとメリザンド」を指揮する。


ボビー伯爵

2011-03-07 03:54:18 | ウィーン
オーストリアではドイツと異なり第一次大戦の敗北により共和制に移るや、あっさり貴族制も廃止されました。

Sinhuber 氏によれば貴族は以来二つの顔を使い分けることとなりました。つまり、公の席とプライベートな場所で名刺を使い分けるのだそうです。片方の名刺には名前だけ。プライベート用の名刺には貴族としての肩書きが入ったもの。

ヨハンは残念ながら男爵も伯爵もいまだお近づきの栄に浴する機会に恵まれていませんので本当かどうか確かめることはできません。

今でもフランツ・ヨーゼフを懐かしみ、愛してやまないオーストリアです、貴族が突然姿を消したのは庶民の側からしてもどうも物足りなかったのでしょう。当時こんなジョークが生まれたのだそうです。

ボビー伯爵がプラーターのベンチに腰掛けていると、大勢の人が通り過ぎていきます。どうしたんだろう? 彼は不思議に思いました。友達のルーディがサッカーの対抗戦があるのだと教えてくれました。そこでボビー伯爵は訊きました「そうかね。どこのチームの試合?」ルーディは「オーストリアとハンガリー」と答えました。するとボビーはさらに尋ねました。「そうかあ。で、相手チームは?」



ウィーンのファッシング ―オーパンバルの歴史

2011-02-24 10:00:38 | ウィーン
◎ ファッシングと舞踏会

ウィーンではカーニバルのことをファッシングと呼びます。

この言葉 Vaschang/ Vaschanc はすでに13世紀に使われ始めました。語源は Fastenschank という言葉で、当時まだ厳格に守られていた断食期間を前にしての最後のお酒の販売 (Ausschank) を表しています。

このファッシングの期間がウィーンではまた舞踏会のハイ・シーズンでもあります。
毎年この舞踏会シーズンにウィーンを訪れる人々の数は4,700人ほど、その半数は外国からのお客さんです。オーストリアの観光産業にとって舞踏会が持つ広告効果は欠くことのできない経済要因の一つになっているのです。

ちなみにウィーンでは年間400以上の舞踏会が開かれています。参加者の人数を合算すれば年30万人以上の人が舞踏会に参加している計算です。


◎ ウィーンの舞踏会

それにしてもなぜ舞踏会をパルと呼ぶのか不思議ですが、簡単に言ってしまえば、フランス語のバレエと同じ語源からきたものです。

ドイツ語圏では舞踏会は先ずは Dantz と呼ばれていました。しかし17世紀にフランス語の bal ―ラテン語の ballare (踊る) からフランス語 baller が生まれ、そこから bal (舞踏会)、ballet (バレエ) が造られました ― が入ってきて、18世紀には一般にあらたまった舞踏会をパル (Ball) と呼ぶようになったのです。

ウィーン舞踏会公式暦を見ると、さまざまな舞踏会が行われていることが分かります。《フロリッツドルフ水難救助隊舞踏会》なんていうのもありますが、そんなので驚いてはいけません、《ホームレス舞踏会》、《難民舞踏会》っていうのもあるのですから。

舞踏会が始まる時間は夜、通常20時くらいです。ガーデンパーティで軽い飲み物から始まってパルに移っていくようなケースだと17時とか18時に始まることもあります。しかし開始時間は季節がいつかにもよって変わります。


◎ オーパンバル

ウィーンのファッシングで現在も大きな社交イベントのひとつに数えられるのがウィーン国立歌劇場で開催されるオーパンパル (Opernball オペラ舞踏会) です。入場者が12,000人ほどを数えるくらい、国の内外から芸術家、企業家、政治家を一堂に集めてのオーストリア最大の行事と呼んでよいものです。

オーパンパルの伝統は1814/15年のウィーン会議の時代にさかのぼります。この政治的な出来ごとに合わせホーフオーパー (宮廷歌劇場) の芸術家たちがダンスの会を催したのです。初めて今日の場所でオーパンパルが開催されたのは1877年12月11日の夕べでした。
帝政が終焉した後も、この伝統は直ぐに復活されました。1921年1月21日には第一共和政下での最初のオペラ舞踏会 (Opernredoute) が開かれています。

オーパンパルの名で開かれた最初の舞踏会は慈善を目的に開催されました。
以来オーパンパルは(ほぼ)毎年ファッシング期間中の最後の木曜日にウィーン国立歌劇場で開催されてきました。例外は第二次大戦時のような戦時下でした。しかし1939年には開戦が差し迫るなか、ドイツ帝国政府の命令によって挙行されています。

1956年2月9日に第二次大戦後初めて再会されます。その後のことで言えば湾岸危機を理由に1991年にも中止されました。大勢の国の内外からの来賓客をお招き出来る保障がなかったためでした。

ウィーン国立歌劇場はこの舞踏会の日地下室から天井裏まで至るところが開放され、すべての人が通り、また踊ることができます。
また毎年カジノ・オーストリアがオーパンパルのために館内に運だめしのためのカジノコーナーを開設しています。
レストラン、シャンペンバー、牡蠣バーのほか、ホイリガーも開設されます。ケータリングのサービスのほとんどを受け負っているのはウィーンの宮廷御用達菓子店カフェ・ゲルストナー (K.u.K. Hofzuckerbäckerei Café Gerstner )です。

2005年に初めてオーパンパルでの禁煙が宣言されましたが、この頃にはまだ喫煙者のために2つサロンが用意されたりしていました。2008/2009年のシーズンから全面禁煙となり、喫煙者用に小さなバーがいくつか設置されました。

2007年には初めて盲導犬がオーパンパルに入ることが許可されるようになりました。

☆ ☆ ☆

オーパンパル (オペラ舞踏会) のオープニングには180組ほどのデビュタントたち (das Jungdamen- und Herrenkomitee) が参加します。彼らにとってこの日が社交会デビューとなり、大人社会に仲間入りが許されるという次第です。したがってここで大切なことはダンスの上手い下手ではなくて、社交の場にふさわしいマナーを身につけていることです。

ファンファーレとともに連邦大統領がロージェに到着します。連邦国歌、第九合唱 (Freude, schöner Götterfunken) の演奏後、カール・ミヒャエル・ツィーラー作曲の扇のポロネーズが演奏される中デビュタントたちがホールに入場してきます。

注) 2006年に山本大輔氏が自ら取材され紹介している「デビュタント」たちの記事 (ウィーン発BOE、VOL.20ウィーンの舞踏会) では入場の曲としてショパンの軍隊ポロネーズが演奏されたと紹介されています。必ずしもデビュタント入場の曲は毎年同じと決まっているわけではないようです。

2008年のオペラ舞踏会の模様を ORF がライブ中継したものが YouTubeに 画像 up されていましたのでご紹介しておきます。

http://www.youtube.com/watch?v=ZFSAdRM-yh4&feature=fvst

デビュタントの入場シーンです。アナウンサーが音楽は Fächerpolonäse と紹介していますね。

検索画面にはこの曲 Fächerpolonäse そのものも up されていましたので、あわせてご紹介しておきます。

http://www.youtube.com/watch?v=PQ_l5OVdHH4&feature=related


デビュタント全員によるダンスが終わると開会宣言。それを受けてデビュタントたちが最初のワルツを踊ります。最後にデビュタントを指導したダンス学校の先生が「皆様ワルツをどうぞ」 ― 伝統的にヨハン・シュトラウスに倣い <Alles Walzer> と声がかけられます ― の呼びかけにより、舞踏会がスタートします。(一部山本大輔氏からの引用)

真夜中0時に真夜中のカドリユが始まり、朝3時には次のカドリユが始まります。

舞踏会の終了時刻は朝五時きっかりです。きっかりという言葉はPunkt 5です。オペレッタ 《こうもり》 では6時の鐘がなるとアイゼンシュタインが大慌てしましたね。

舞踏会の終了にあたってはオーケストラが次の三曲を演奏するのが伝統です。

ワルツ 《美しき青きドナウ》、《ラデツキー行進曲》、そしてフェルディナント・ランムントの『百万長者になった農夫』(1826年初演) という作品に出てくる 《かわいい兄弟》 ( „Brüderlein fein“ )です。

*この曲は歌詞からして《蛍の光》のようにお別れの曲として選ばれているようですね。

Brüderlein fein, Brüderlein fein, zärtlich muß geschieden sein,
Brüderlein fein, Brüderlein fein, s' muß geschieden sein.
Denk manchmal an mich zurück, schimpf nicht auf der Jugend Glück.
Brüderlein fein, Brüderlein fein, schlag zum Abschied ein.

かわいい兄弟よ、静かにお別れしよう
かわいい兄弟よ、お別れは避けがたい
ときに私のことを思い出してくれ、青春の運に悪態をついてはならぬ
かわいい兄弟よ、さあ旅立って行け

☆  ☆  ☆

オーパンパルは国立歌劇場で開催されるとしても通常のオペラ公演のように一般の私たちにとって、チケットを購入すれば誰でも入場が許されているというものでありません。

ウィーンのオーパンパルには複雑な招待システムがあるようです。

1Aランクの人々、ここには名士がランクされます。V.I.P.ですね。この方々は舞踏会を輝かしいものにする招待客です。

Aランクの人々。やはり招待で舞踏会に花を添えていただく存在です。

一般の名士には慇懃な招待状の形でチケットに値が付けられたものが送られます。

これ以外の人々にはパルが支援するチャリティに寄付をするという形でチケットを手に入れる方法が残されています。

年間を通して寄付を幾度か重ねることで、ひょっとして一つ上のランクの形式招待状 (チケットを購入する招待状) を送られるようになる可能性があります。その場合でもチケットは2枚が限度と厳しく定められています。

いずれにせよこうした場合コネが最大のポイントらしいようです。催しのスポンサーにはチケットの割り当てがあり、彼らはまた独自の選択基準によってビジネス・パートナーなどにチケットを譲っています。

書面による招待状は遅くとも2、3週間前には送られ、舞踏会の趣旨のほか、服装についての注意が書かれています。

☆  ☆ ☆

最後に Brüderlein fein も検索してみましたのでご紹介しておきます。

最初の動画はウィーン少年合唱団です。来日公演の画像でしょうか?

http://www.youtube.com/watch?v=H3cUz7WzBBg&NR=1

タイトル字幕は「かわいい兄弟」ヨーゼフ・ドレヒスラーとなっています。たぶん NHK の中継を録画したものと思われます。

しかし、別のところでも書きましたが、NHK には相当優秀なスタッフと潤沢な予算があるはずなのに、どうしてドイツ語の発音をチェックしないのでしょうかね? 本当に不思議です。

作曲家 Joseph Drechsler (1782-1852) も今は検索で簡単に調べることが可能です。発音はもちろんヨーゼフ・ドレクスラー です。

次にご紹介する画像はお芝居の舞台で歌われているシーンです。字幕が残念ながら中国語です

http://www.youtube.com/watch?v=y2UCFdQm5hg



☆ ☆ ☆


現在のウィーン・オペラ舞踏会は見てきましたように、連邦大統領はじめ、すべての政府関係者が出席し、国内外の賓客を招き、正装の上勲章を身につけ集まる催しであることからして、政治的な意味を持つ国家イベントであることは明らかです。このことはそもそものオペラ舞踏会の成り立ちからしてはっきりしていました。
オーパンバルのもとになったホーフパル(宮廷舞踏会) が開催されていた時期は12月でした。しかし教会側からAdvent (待降節) の精神世界に思いをすべき大切な時期に宮廷が舞踏会 (それもこの時期一度だけではありませんでした) を開いてどんちゃん騒ぎ (という言葉で教会が非難したかは別ですが) をしているのはいかがなものか、とクレームが激しくなってきたのです。

そこでホーフパルは表向き断念され、リング* に8年前に新しく建設された今日の歌劇場**に場所を移し、Opernsoirée (オペラ座の夜会) という形で公式の舞踏会を再会した (1877年12月11日) のが今日のオーパンバルの起源です。

ライプチヒ挿絵新聞は翌1878年1月18日の記事でオーパンバルがオーパンソワレと姿を変えはしているものの実態は元通り。しかし教会は主張が聞き入れられたことに満足し、他方舞踏会なくしては生きられないウィーンの血 (Wiener Blut) も満足するというまことにウィーンらしい解決法、と紹介しています。(Bartel F. Sinhuber 《Alles Walzer》, Europaverlag) 

そして翌年にはカーニバルの時期にあわせ3月2日に歌劇場で最初の《Redoute》 ***(舞踏会)が開催され、今日のオーパンバルの形がきまったのです。

(*リング: 1858年にウィーンの都市改造が始まり、街をとり囲んで来た城壁が壊され、リング通りが造られていきました)

(**ウィーン国立歌劇場: 1869年5月25日がこけらおとしでした、ちなみにこの歌劇場はもちろん当時は宮廷歌劇場と呼ばれていました。第一次大戦後の共和制下では単にオペラ劇場と呼ばれ、国立歌劇場 (Staatsoper) はそれまで通称として使われていましたが、正式呼称となるのは1938年のナチスに併合された時代です)

(***Redouteという言葉はもともと城塞の四角い堡のことでしたが、それが舞踏会場に使われ、舞踏会そのものにも使われるようになりました)


☆ ☆ ☆


カーニバルについて調べ始めると、その宗教的な意義に踏み込んでいかざるを得ませんでした。しかし面白いことに、さらに歴史をたどると今度はまたカーニバルには、なんとかその宗教的な意味を薄めてというか、むしろ排除して世俗化していこうというエネルギーが実は昔からあったことも分かってきます。
ヘルマン・シュライバーの『ヴェネチア人』にはこの街の文化そのものであったカーニバルについて、このように記述されています。

「十月の最初の日曜日に、ヴェネチアでは毎年カーニバルが始まった。クリスマスでちょっと、四旬節でもう少し長く中断されたが、御昇天の大祝日のあとでなお二週間のカーニバルがつづき、それから貴族たちは田舎へ出かけた。こういうわけで、つまるところヴェネチアにいればいつでもカーニバルであって、ほかのところではカーニバルの数週間のあいだだけ忘れられるきびしい習俗を回復するのに、この短い中断期間では足りなかった。
人生のこういうすごしかたは十八世紀とともに始まった」(『ヴェネチア人』ヘルマン・シュライバー著、関楠生訳、河出書房新社)

ドイツ、ライン河畔の内陸部にみられる宗教と強く結びついた催しであり続けるカーニバルと、海洋都市ヴェネチアとではカーニバルもまったく別の色彩を帯びて見えるのです。

世界に開かれた都市国家ヴェネチアが貿易で栄えるためには、もちろん宗教によって交易相手が排除されるなどということはあってはならないことです。この街では寛容が支配したのです。
楽しいことは一日でも多い方がいい。それは宗教的には堕落の非難を浴びることかもしれませんが、それは経済活動を活発にするための潤滑剤でした。シュライバーによって記述されるこの十八世紀ヴェネチア型の開かれた文化は、やがて十九世紀フランスへと伝播していきます。それがパリの万博であり、オペラ舞踏会の世界でした。オペラ舞踏会からすっかり宗教色は抜け落ちてしまうのです。

しかしそのことに話を進める前にヴェネチアから生まれた世界的な二人の人物を思い出しておくことにしましょう。

一人はもちろん『東方見聞録』のマルコ・ポーロ (1254-1324)です。

そしてもう一人はジャコモ・カサノヴァ (1725-1798)。17世紀スペインの伝説上の人物ドン・ファンにひけをとることのないプレイ・ボーイの代名詞のようなこの人物こそはまさに18世紀ヴェネチア型の代表人物でした。

「自由思想家の原型として、カザノヴァは自由な物の考えかたをする同時代人の見識ある人々にとって、決してネガティヴな人間ではなく、ある発展の最終生産物であった。十六世紀には、ルネサンスの「全能人」が他の男たちを圧倒した。十七世紀には、廷臣が最も輝かしい光を放ち、十八世紀には、宮廷と社会の退廃が、独立のアウトサイダーを、半ばは嘲笑し半ばは感嘆しながらみずからの没落を映し出す像として析出し、それを山師、賭博師、いかさま師というさまざまのかたちで刻印したのであった。
この種の男たちが、周囲や家族や仕事への配慮にしばられた定住の市民よりも女にもてたことは、ディドロの診断を俟たずとも明らかであろう。」

「アヴァンチュールの世紀があるとすればそれは十八世紀であり、アヴァンチュールの町があるとすればそれはヴェネチアである。つまりヴェネチア人カザノヴァには、同じような心を持つ同国人、同時代人がいたのである。しかもその数はたいそう多くて、まるまる一世紀が過ぎてみないと、ジャコモ・カザノヴァがそれらのだれよりもすぐれていた―(略)―ことがはっきりとわからないほどであった」(『ヴェネチア人』ヘルマン・シュライバー著)

このカサノヴァの回想録、まるでレポレロが披露する主人ドン・ジョヴァンニのカタログのような書物、それは1820年にライプチヒのブロックハウスから出版されました。


ジャコモ・カサノヴァ


前回ライプチヒ挿絵新聞の1878年1月18日の記事について触れました。そこにWiener Blut (ウィーンの血*) という言葉が使われていることがヨハンにはまたまたとても気になり始めました。もちろんヨハン・シュトラウスの死後完成され、上演されたオペレッタのことでないのは間違いありません。しかし、新聞が独自にこの言葉を初めて使っているとは到底考え難いことです。
調べてみるとこのワルツWiener Blut (op.354) は1873年に、オーストリア大公女ギーゼラとバイエルン王子レーオポルトの婚礼祝賀舞踏会のために作曲されたものでした。新聞の記事が書かれる5年前です。これはウィーンのことをあらわすのに最適な言葉になると広がった当時ホットな言葉だったのでしょうね。

(*Wiener Blutはウィーン気質という訳がすっかり定着しています。あまりいちゃもんばかりつけているとクレームおじさんになりそうなのですが、この訳語もヨハンは気にいらない訳語です。どうしても職人気質のようにあとから身に付けた性格という感じに受け取られるからです。これは、どうしても生まれつき体の中を流れる「血」でなくてはいけないのです。江戸っ子だって、たしか3代続かないと江戸っ子って呼ばれないのではなかったんじゃないでしょうか? そんな訳でヨハンはウィーン気質という言い方は採用しません)

オペレッタ『ウィーンの血』の方はヨハン・シュトラウスの死後、アードルフ・ミュラーによって完成され、1899年にカール劇場で上演されました (台本ヴィクトール・レオン&レオ・シュタイン)。

このオペレッタ、バルドゥインの妻ガブリエーレはその登場の歌《Grüß dich, Gott, du liebes Nesterl》でこのように歌っています。

Die Bibliothek! Mancher Roman,
Den man wohl liest,
Doch nicht erleben kann!
Homer, Wieland, Klopstock, Euch hielt ich mir
Als Aufputz hier!
Was seh ich da?
Da schau, ei, ei,
Casanova? Das ist mir neu!

蔵書、たくさんの本
読むことはあっても
経験することはない話
ホメロス、ヴィーラント、クロップシュトック、
部屋を飾るにはぴったし
これは何かしら
おや、おや
カサノヴァ? 見たことがない本だわ


気にもとめることなく聞き過ごしてしまいそうですが、ヨハンはずっとこの部分引っかかっていました。ガブリエーレが覚えのない書物のタイトルに目をとめるところです。堅物のロイス-シュライツ-グライツの公使ツェードラウ伯爵の夫バルドゥインが蔵書に買い求めた以外にあり得ないことです。このオペレッタの時代設定はウィーン会議の頃とされています。カサノヴァの『回想録』が出版されるよりも少し時代を早く設定してしまったことは、台本作家のご愛嬌ということにしておきましょう。


ヨハン (この記事は2011/02/13と2011/02/19に投稿したものをまとめたものです)


カーニバル

2011-02-13 18:20:16 | ウィーン
ちょうど今くらいの厳寒の時期、ヨーロッパの各地ではカーニバルのシーズンを迎えます。

カーニバルは日本語では「謝肉祭」という言葉が一般的だったような気がしますが、最近では東京浅草のカーニバルなども認知度を増し、そこに宗教色を含めない形でカーニバルと呼んでいるようです。

ドイツ語圏では地域により、Karneval, Fastnacht、Faschingと呼ばれます。

Fastnachtは文字通り「断食を前にした晩」という意味です。

ドイツ語圏の南の地域、特にミュンヒェン、またオーストリアでは Fasching という言葉が使われますがこれについては後で書きます。

北のドイツではもっぱら Karneval が使われます。「カーニバル」という言葉が初めてみられるのは17世紀末になってからで、ラインラント地方では1728年になって初出の例が確認されます。

語源は必ずしも明確ではありません。

19世紀半ばから20世紀初めまでは1855年のカール・ジムロック (Karl Simrock) による説明 ― ラテン語のcarrus navalis (ドイツ語でSchiffskarren) に由来する。これは車輪のついた船という意味で、毎年船の航行が再開されるにあたって行列をしたときに街を練り歩いた山車のこと ― が学術書でも使われてきました。ここからNarrenschiff  (愚者の船) の伝統が造られていったようだと説明されていました。現在ではこの説明は否定されています。キリスト教以前の古代ローマ時代の文献にも中世の文献にもcarrus navalis という言葉の使用例が実証されておらず、Simrockがつくった言葉だろうとされたからです。

今日最も受け入れられている語源としては、中世の carne levare から由来するという説明で、その意味は Fleisch wegnehmen (肉を断つ)、Fastenzeit (断食期間) ということです。Carne vale、が Fleisch, lebe wohl (肉とお別れ) を表すという説明はシャレからきたものです。

期間は地域により異なるようですが、多くは1週間です。しかし最終日はつねに火曜日(灰の水曜日の前日)です。一部の地域では、この火曜日をマルディグラ(肥沃な火曜日)と呼んでいます。パンケーキを食べる習慣は、四旬節に入る前に卵を残さないようにしているのです。

カーニバル期間のクライマックスはパラの月曜日です。ライン地方ではバラの月曜の行列が行われます。行列は「カメレ」という叫び声をあげる人々に向けてお菓子を投げます。

バラの月曜日に先だって、カーネーションの土曜日、チューリップの日曜日があり、断食前の火曜日 (マルディグラ) へと続きます。この火曜日はスミレの火曜日とも呼ばれます。

バラの月曜日の行列は、もともと花のバラ (Rosen) に関係しているのではなくて、rasen (荒れ狂う) という動詞からきたものでした。またバラの日曜日である断食期第4の日曜日からこの名が由来するという説もあるようです。

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カーニバルの時期は復活祭から逆算して出てくる日程です。

復活祭の日曜日の46日前は灰の水曜日 (Aschermittwoch) と呼ばれます。2011年で言えば復活祭が4月24日なので、その46日前の3月9日が灰の水曜日です。

四旬節の初日を灰の水曜日と呼ぶのは、その祝別に前年の椰子の枝を燃やした灰が使われる習慣からきたものです。

ガリアでは、重い罪を犯した人々が、聖書の楽園追放に倣って、贖罪に先だって教会から追放され、贖罪の衣に身を包み灰を振りかけられましたが、その習慣は10世紀初めころにはなくなり、代わって罪びとたちとの連帯から人々が身に灰を振りかけさせたことから、一般にこの習慣が引き継がれていったようです。
*前年の椰子の枝を燃やした灰を使うように定められたのは12世紀です。
この祝別では「汝が塵であり、塵に帰るものであることに思いをせよ」 „Memento homo, quia pulvis es, et in pulverem reverteris“ と祈りの言葉が述べられます。

灰の水曜日に始まる断食は肉を絶ち、精神生活と神に思いを馳せる意義を持つものです。
ドイツでは灰の水曜日は祝日ではないのですが、雇用主は雇用者が教会に行き祝別を受けることが出来るよう配慮しているようです。またカトリック地方の学校では生徒がミサに出席できるよう授業が休みとされます。

四旬節とは10×4で40日間のことです。なぜそれが46日になるかと言うと、その間の日曜日がカウントされないからです。ラテン語で Quadragesima クワドラゲシマと呼ばれる復活祭に至る期間であるこの四旬節は、「大斎節」と呼ばれたり、またプロテスタントの教派によっては「受難節」と呼ばれるように、キリストの受難に倣い、信者が節制の精神で自らを振り返る期間、とされています。日曜日はキリストの復活を祝う喜びの日なのでその日数に加えられないのです。
注) 復活祭前の6度の日曜日が断食から外されたのは1091年のベネヴェントの宗教会議においてでした。

初代キリスト教会では40時間断食をしたようです。それが、やがてキリスト教が普及していくにともない一般の信者にも復活祭前に節制を求めるようになり、期間も長くなり今日の四旬節になりました。
注) 600年に大聖グレゴリウスによって復活祭前の40日間の断食が定められました。

どこからこの数字が出てくるのかというと、モーセが民を率いて40年荒野を彷徨った、あるいはイエスが40日間荒野で過ごし、断食したという話からきているようです。

四旬節中に食事の節制を行う慣習には実践的な意味もあったようでよ。というのも、昔は秋に収穫されたものが春を迎える頃には少なくなってくるので、この時期食事を質素なものにして乗り切らなければならなかったからです。

そして、その言わば耐乏生活が始まる灰の水曜日を前に、人々はカーニバルをしたのです。どんちゃん騒ぎをして、さあ、四旬節を迎えよう、という感じですかね。


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カーニバルの想い出

カーニバルと復活祭の関係はクリスチャンの方にはいまさら説明も不要なことでしょうが、日本ではクリスマス同様、カーニバルも宗教行事ではなくて、ただのどんちゃん騒ぎとしか受け止められていません。
またそれは日本に限ったことではなく、カーニバルが世界に広まるにつれ、仮面をつけたり、仮装したりのどんちゃん騒ぎとしてのカーニバルは世界各地で見られます。

わたしたちもクリスマスと同じように、ヨーロッパでこの冬の時期を過ごす機会に恵まれたときにはカーニバルに出くわしましたし、意識してそのお祭り騒ぎを見に出かけたこともありました。


◎ 1984年ウィーン

ウィーン滞在も年が改まり1984年を迎え、残りわずかとなってきたころ街ではカーニバルのパレードが行われました。

わたしたちが過ごした頃のウィーン、普段は本当に人が少なくて、落ち着いているというか、寂しい感じの街でした。
しかし、この日ばかりはリンクもご覧のようにパレードで華やかに彩られました。

なにせ昔の写真のため、ネガも既に相当劣化してしまいました。


リンクでのパレード (1984年撮影)


国会議事堂前 (1984年撮影)

1983年/84年の滞在期間、ヨハンは夏学期、冬学期とウィーン大学の語学教室に通いました。最初の頃は授業が終わってクラス仲間とカフェにいっても、話に加わることもできずに、聞いているばかりでした。

冬のクラスでは、ふたりのクラスメートと最初から友達になることができ、ようやくいろんな話に花を咲かせることができました。

一人はポーランドからきていた女性のBさん。今、彼女はオーストリア国籍を取り、自然史博物館で働いています。

もう一人はエジプトからきていたS君。彼は一緒にカフェに行くと、ヨハンがしゃべらざるを得ないように、いろいろ質問をしかけてくれました。ありがたきものは友かな。S君はエジプトに戻って観光案内の仕事をするのだと言っていました。

1984年ヨハンはいったん帰国後、ウィーンに残してきたロザーリウムを迎えるために、その夏ウィーンを再訪しました。ポーランド女性のBさんが声をかけてくれてS君も交えて再会を果たしました。が、それがS君と会った最後になりました。その後Bさんとも音信不通状態に陥ってしまったのです。

でも、こんなことってありますね。2005年の夏、ウィーンを訪れたわたしたちがリンクで路面電車に乗り込み、ホテルに戻ろうとしたとき、私たちのそばに近よってきて、声をかける女性がいました。Bさんでした。もうそのとき彼女は自然史博物館で働いていたので、その路線を利用していたのです。でも、S君のことは彼女ももはや音信不通とのことでした。

Sは今、デモに参加しているんだろうか? エジプトのニュースを聴くとわたしは彼のことを思い出します。


◎ 1994年ヴェネチア

私たちは1993年再び1年を外国で暮らす機会に恵まれ、このときは壁が崩壊して間もないベルリンに行きました。

住まいとなった市営住宅は旧西ベルリンのヴェディングという地区でしたが、歩いて1分もかからない場所に壁があったところで、どちらかと言えば東ベルリンに住んだようなものでした。

東ベルリンの中心地であったフリードリヒ街に出るにも徒歩で済む場所。S バーンのフリードリヒ街の目の前にあったメトロポール劇場でオペレッタを観劇したあとは歩いてアパートに帰ることも可能でした。

冬になり、年が明けて滞在期間も残りわずかとなった頃、2月にヴェネチアで催されるカーニバルを見物するためのバスツアーがベルリンから出ることを知り、普段ツアーで旅行はしない私たちですが、この同じ時期ミュンヒェンに滞在していた友K君夫妻と連絡をとり、ヴェネチアで落ち合う約束をして、バスツアーに参加することにしました。

2月12日夜8時半ベルリンを発ちました。バスですから、ブレンナーは鉄道のようにトンネルをくぐっていくわけではなく、まさにアウトバーンを峠越えです。でも、夜中でしたから残念ながら視界はききませんでした。それに真冬ですから本当に寒くて、ブレンナーに近づくに従って窓も凍りついていきました。

私たちがこのバスツアーをする気になったのは、宿泊ホテルがヴェネチアのリド (以前夏にこの島で海水浴をしたことがあり、なつかしく思いました) にあるということと、ちょうどそのときにはライプチヒで知り合ったイタリア人がヴェネチアの人だったので、手紙で何月何日に行くこと、私たちの宿泊ホテルはリドにあることなどを知らせ、その人との再会も楽しみでした。

ブレンナーを越えればイタリアです。たぶん東独時代には西側世界に個人的な楽しみで旅行するなんてことは夢のまた夢だったであろう満席のツアー客を乗せたバスはいよいよ夜が白み、朝を迎えるころヴェネチアに近づきました。

しかし、どんどんバスはあらぬ方に走っていきます。あれ、ヴェネチアから遠ざかっていく、とヨハンは窓外に確認できる標識に書かれた地名を見て思ったものでした。

リドという地名がもう一つあることには全くそのときまで知りませんでした。

しかし、このもうひとつのリド、豪華なホテルが立ち並ぶリゾート地です。それは嬉しい気持ちにさせてくれたのですが、近づくにつれ、がっかりです。こんなシーズンは訪れる人もいないのでしょうね。ホテルはどこも休眠状態でした。わずかにベルリンのツアー会社が押さえたホテルがなんとか営業していたような感じ、私たちを迎えてくれました。

ここに二晩泊まることになったのですが、暖房が利かず、ツアー客は「コートを着たまま寝たんだ」と不満爆発でした。二晩とも部屋には暖房が入ることはありませんでした。

その代わり、このリドからはヴァポレットに乗り込み、われわれは海からカーニバル真っ最中のヴェネチアに入ったのです。


途中の停泊所からこのように仮面と衣装に身を飾ったカーニバルモードフル回転のお客さんたちが乗り込んできて、ヴァポレットの中が既にカーニバル状態でした (1994年2月13日撮影)

リドに2泊しましたから、寒い一晩を過ごした翌日、わたしたちは、K君夫妻と、さらにイタリア人の知人のカップルとも無事サン・マルコで再会することができました。


このサン・マルコには写真のように顔にペインティングをしてくれる人たちがたくさんいました (1994年2月13日撮影)

ヨハンもロザーリウムもこの写真の人のように、翌14日サン・マルコを訪れたときには、ペインティングをしてもらい、少し、カーニバル気分に浸りました。

しかし、この時は本当に寒くて、さすがにイタリアでも冬は寒いんだと実感させられました。外にしばらくいるだけで手がじーんとしてきます。ベルリンだってこんな寒い思いはしなかったのに。

記憶に残るカーニバルでした。


2泊目を過ごし、バスツアーがベルリンに戻る日、わたしたちは、帰りのバスを放棄して、ここから鉄道でウィーンに向かうことにしたのです。駅に向かう途中のスナップ写真。これはヨハンのお気に入りの写真です。(1994年2月15日撮影)


◎ 2009年ローザンヌ


(2009年5月3日撮影)


*スイス、レマン湖畔のこの街、発音は「ロザン」です。
どうして日本語では「ローザンヌ」と長読みするかと言えば、au が長い「オー」と意識されてるんでしょうね。
二か月住み、毎日地下鉄に乗ってこの駅名を聴きましたから、「ローザンヌ」と書くのはなんだか別の街のように感じられて、気持ち悪いのですが ― たとえば、そうですね、「横浜」を「よーこはま」って読んだら、気持ち悪いのと同じです ― でも、「ロザン」じゃなあ、誰も理解してくれないから、「ローザンヌ」とします。
でも「カフェ・オー・レ」と言う人は、幸い最近は少なくなりました。

前書きが長くなりました。
2009年わたしは半年海外に出て勉強することを許されました。
ローザンヌには1982年以来の知人Aさん夫妻が暮らしています。遊びに行くたびに、「今度長期に研究休暇がもらえるのはいつか?」と聞かれます。

真っ先にローザンヌの知人が頭に浮かびました。「よし、この機会に今まで何度もチャレンジしては仕事のため断念して、常に中途半端で元の木阿弥になってきたフランス語、この際現地の学校に通ってみよう」と思い、それについては、パリとか、ドイツに近いストラスブールとか、考えるなか、友達が「来い」と返事をくれたら、ローザンヌにいこう、と決めたのです。

友達A夫妻は、夏は海外に旅行してしまいます。そんなことで、インターネットで検索したフランス語学校の春のコースを選び、4月上旬はヨハンとしてもどうしても日程を曲げるわけにはいかないほど、今まで書いてきましたように、スイス、ドイツの劇場を駆け回って、珍しいオペレッタを観劇し、いったん日本から遅れてくるロザーリウムを迎えにウィーンに戻り、4月末までウィーンで過ごして、5月1日の飛行機でウィーンからジュネーブに移動することにしました。

しかし、自分の都合だけで日程をあれこれ考え、よく出来た、と自画自賛していても、大変な落とし穴があることに、移動日が間近に迫ってきたときに、気づかせられました。

5月1日の移動日。

そうです。日本ではもう「メーデー」なんて死語同然ですが、オーストリアは今でも労働者の権利は尊重されています。メーデーの日は公共交通機関に相当な影響がでることが分かったんです。

ヨハンたちはウィーンの路面電車が大好き、移動日は低床のこの路面電車を使って空港バスが出るバス停まで行くことにしていたのですが、ひょっとしたら路面電車そのものが動かないかもしれないと不安になってきたものです。

まあ、タクシーを使えばそんなことは悩む問題ではないのですが、ねっからの貧乏性で、どうしてもタクシーは贅沢という観念から逃れられないヨハンたちなのです。

しかし、なんとか路面電車は当日も動いてくれました。

そして5月1日無事オーストリアからスイスに移動。

ロザーリウムが再び日本に一時帰国する5月10日までの間わたしたちはA夫妻のマンションに泊めていただき、その間、学校の場所を確認したり、ロザーリウムが帰国した後はわたしは郊外のエパランジュのB&Bに泊まることにしていましたから、そこにも連れて行ってもらい、オーナーに挨拶。1日、2日、3日とあわただしく過ぎました。そしてエバランジュから地下鉄!!! (アルプスの国スイスで唯一ローザンヌには地下鉄が走っております。しかも、現在2路線!!! Aさんは、これを言いながら、頬をほんのり染めました^^) でローザンヌの街に戻ってきたときに、今回のタイトルのカーニバルです。
*ちなみにローザンヌの地下鉄、すべて無人運転です。スイスの実力をなめるなよ。誰もなめてはいないか。


(2009年5月3日撮影)

Aさんは、「全く宗教とは関係ないお祭り、街おこし」と冷ややかでしたが、お祭り好きのわたしたちは、街でAさんたちといったんバイバイして、このお祭りを見学いたしました。

出店もいっぱいでて、目の前でラクレットを作ってくれるお店には食いしん坊のわたしたちも誘惑にあらがうことはできませんでした


(2009年5月3日撮影)

帰途みつけた母子連れ


私たちのお気に入りの一枚です (2009年5月3日ロザーリウム撮影)


ちなみに、ローザンヌには靴屋さんが多いです。それはなぜか、この写真でお分かりでしょう?
坂ばっかりの街ローザンヌではこのお嬢ちゃんが使っている片足でこぐスケーターおおはやりです。そりぁあ、その分キックする方の靴の底が早く減りますよ

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ところで私たちが1983年/84年、ウィーンで一年過ごしたとき、実は11月に住んでいた地元のカーニバルに少しばかり参加した記憶があります。カーニバルの意味合いも分からず、仮装して大騒ぎをする日と記憶しただけでした。

考えてみると年が明けて1月(だったと思いますが、写真に日付もないので今は不明です)にまたカーニバルのパレードをリンクに見に行ってるわけですから、なぜカーニバルが2回あるのか、その時に追及しておくべきでした。

11月のカーニバルは写真も撮らなかったのか、思い起こすすべとしては記憶だけです。その記憶が、これまた妙なこととのつながりを見せるのです。
11月11日はヨハンとロザーリウムの結婚記念日なのです。

式にご出席いただいたドイツ暮らしの長かったT先生からは、この日が近づくと何度か、「そういえば君の結婚式はカーニバルと同じ日だったね」と言われたものです。本人たちより、列席していただいた方に覚えてもらうに都合のよい日となったようでした。

そこでなぜカーニバルが年に2回もやってくるのかも調べました。

謝肉祭(カーニバル)期間はドイツ語圏においては伝統的に1月6日の公現祭 (Dreikönigstag、三王ご公現の祝日) から始まるとされています。

しかし、19世紀から多くの地域で加えて11月11日11時11分をもっていくつかの催事が執り行われるようになりました。とりわけプリンスのカップルがお披露目されたのもその一つです。

とは言っても、11月12日から1月5日までの期間はライン流域のもろもろの地域においても、依然としてカーニバル期間から外れていたことは、クリスマス前が断食期間 ―354年にキリスト誕生のお祝いが確定された直後から、それに先だって40日間の断食期間が置かれました― で、11月は哀悼月、したがって待降節には沈思的な性格が与えられていたことから明らかです。

ですからカーニバルの開始時期が前送りされ、11月11日をシーズンの幕開けと説明してしまうと、誤解を招いてしまいます。

むしろ成立の経緯から言えば、11月11日はむしろ「プチ」カーニバルをあらわすもので、1823年ケルンの「祝祭規定委員会」により法的に規定が出来たカーニバルの行列の準備の開始日にこのずらずらと1が並ぶ馬鹿げた日付を選んだということらしいようです。

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カーニバルについて調べ始めたら、正直知らないことだらけで、ヨハンにはいい勉強になりましたが、無知ゆえの誤りを犯していることが大いに考えられます。


これを書いていた2月6日、ヨハンの誕生日にウィーンのOさんからお祝いの電話をもらいましたので、カーニバルをはじめ、いくつか最近これらの記事を書いていて疑問に思っていたことを尋ねてみました。

11月11日にプチ・カーニバルをすることは、Oさんも知っていました。ウィーンではどこでもそうなのか、との問いについては明確な答えはありませんでしたが、私たちが当時住んだ14区で経験した、という話には、ありうるとの答えでした。ドイツのライン地方だけの風習ではないことは確かのようです。


ヨハン (2011/02/13)