ユッピィの愛称で親しまれたヨハネス・ヘースタースがクリスマス・イヴに亡くなられたようです。
Johannes „Jopi(e)“ Heesters, eigentlich Johan Marius Nicolaas Heesters (* 5. Dezember 1903 in Amersfoort, Niederlande; † 24. Dezember 2011 in Starnberg, Deutschland)
ヨハンは昨日の新聞報道で知りました。今、ウィキペディアのドイツ語バージョン↑を確認したところ、すでに没年が記載されていました。
1903年12月5日生まれなので、亨年109歳の大往生でした。
以前このブログではオペレッタ『白馬亭』について書いたときに、彼が出演した映画に触れ、写真もアップしましたので、ご記憶の方もいらっしゃると思います。
ヨハンは1983/84年ウィーンに一年滞在したときに足しげく通ったリバイバル上映専門館でこのヘースタースも知ることになったドイツ映画の黄金期を支えた名優の一人でした。
愛称は「ヨハネス」からきているはずですから、「ヨッピ」となるようにも思いますが、そのリバイバル映画専門館でお年寄りたちが口にしている発音を聴く限り、「ユッピィ」と呼ばれていました。
このブログとは別のあるところで彼のことを書くときに、さすがにヨハンの聴き間違いだと恥ずかしいなと思い、幾人かの(ヨハンと同世代、あるいはそれより上の世代の)ドイツ人に確かめてみましたが、どうやら発音としては「ユッピィ」で正しいようです。
戦前オランダからオペレッタ歌手になるべくウィーンにやってきた彼は、時代がすでにトーキーへと大きくシフトしていくなか、もともとは役者としてスタートし、役者の経験を豊富に積んでおり、そのうえ歌えるという、まさに時代が求める数少ないタレントであったため、ただちにベルリンの映画会社の目にとまり、UFAに移りました。
端正な顔立ちで歌もうまく、女性たちのハートをわしづかみにする人気ぶりで、まさにドイツにおけるアイドルのはしりのような存在となりました。
このドイツ映画の全盛期は、皮肉なことに偶然とは言え、ドイツ・ファシズムがどんどん勢いを増していく時代とぴったり歩みをそろえていました。1933年ナチスが政権をとると、それまで映画の全盛を支えてきたユダヤ人芸術家たちはすべてその職を奪われてしまったのです。しかしナチスは国策として、多大の興行収益をもたらしてくれる映画を手放すわけはなく、むしろ国民懐柔策のひとつとしても娯楽映画は積極的に活用され、以後敗戦までユダヤ人抜きで作られていくことになったのです。
ドイツの戦前の娯楽映画のスターと目される人たちで、このオランダ人ヘースタースをはじめとして、ハンガリー人のマリカ・レック、スウェーデン人のツァラ・レアンダーなど、外国人の存在が目をひいたのは、ユダヤ人(とは言え、国籍から言えば彼らはみな何世代も前からのれっきとしたドイツ人でした)がナチスによって追放されたり、殺されたりしてしまったらからなんですよ。そんなことで戦時期にもつくられ続けていくドイツ娯楽映画は急速にその創造的活力を喪った凡庸な映画ばかりになっていってしまいました。
それでもすでに戦前から名優とうたわれた人々が主役をつとめる映画は、彼らの人気でお客さんをやはり魅了し続けたのです。
ドイツ人名優の一人、ハインツ・リューマンはヘースタースとの共演作も多く、年もほぼ同じ(リューマンは1902年3月生まれの人でした↓)
Heinz Rühmann (* 7. März 1902 in Essen; † 3. Oktober 1994 in Aufkirchen am Starnberger See; eigentlich Heinrich Wilhelm Rühmann) gehört zu den bekanntesten deutschen Schauspielern des 20. Jahrhunderts.
ヘースタースが90歳になったとき、一歳年上のリューマンもまだ存命でした。
当時、1993年の12月でしたが、ベルリンに滞在していたヨハンは、そのころ足しげく通うようになった、Sバーンのフリードリヒ・シュトラーセ駅の目の前にあったメトロポール劇場で、ヘースタースの90歳を祝ってテレビ中継が入るライブ公演があることを知り、そのチケットを買い求め、出かけました。
ヘースタースにとって、このメトロポール劇場はとくにレハールの「メリー・ウィドウ」のダニロ役でロングランを続けた思い出の劇場でした。ちなみに白いマフラーに山高帽のいでたちで「マキシムの歌」をうたうダニロを演じたのはヘースタースのアイデアでした。
ライブ公演と書きましたが、面白いことに実際の中継画像が放送されたのは、その日の公演終了後、つまり録画放送でしたから、公演が終わると大急ぎでアパートに帰り、今見てきた公演をテレビで見ながら、録画したものでした。
その公演ではゲストとしてリューマンが電話出演しました。
ヨハンにとっては、ウィーンの映画館で知ったこの名優たちが当時まだ存命であったこともこのライブ公演に出かけるまで知りませんでした。
さきほどのウィキペディア、ドイツ語バージョンによれば、リューマンの没年は1994年の10月になっていますから、翌年亡くなったのでした。
で、今回のヘースタースの死亡記事にあるように、ヘースタースも、リューマンが亡くなった地、シュタルンベルクで亡くなったのだと分かりました。
天国のリューマン、ヘースタースは今頃どんな再会をはたしているのでしょうかね。
2011/12/27 ヨハン
Johannes „Jopi(e)“ Heesters, eigentlich Johan Marius Nicolaas Heesters (* 5. Dezember 1903 in Amersfoort, Niederlande; † 24. Dezember 2011 in Starnberg, Deutschland)
ヨハンは昨日の新聞報道で知りました。今、ウィキペディアのドイツ語バージョン↑を確認したところ、すでに没年が記載されていました。
1903年12月5日生まれなので、亨年109歳の大往生でした。
以前このブログではオペレッタ『白馬亭』について書いたときに、彼が出演した映画に触れ、写真もアップしましたので、ご記憶の方もいらっしゃると思います。
ヨハンは1983/84年ウィーンに一年滞在したときに足しげく通ったリバイバル上映専門館でこのヘースタースも知ることになったドイツ映画の黄金期を支えた名優の一人でした。
愛称は「ヨハネス」からきているはずですから、「ヨッピ」となるようにも思いますが、そのリバイバル映画専門館でお年寄りたちが口にしている発音を聴く限り、「ユッピィ」と呼ばれていました。
このブログとは別のあるところで彼のことを書くときに、さすがにヨハンの聴き間違いだと恥ずかしいなと思い、幾人かの(ヨハンと同世代、あるいはそれより上の世代の)ドイツ人に確かめてみましたが、どうやら発音としては「ユッピィ」で正しいようです。
戦前オランダからオペレッタ歌手になるべくウィーンにやってきた彼は、時代がすでにトーキーへと大きくシフトしていくなか、もともとは役者としてスタートし、役者の経験を豊富に積んでおり、そのうえ歌えるという、まさに時代が求める数少ないタレントであったため、ただちにベルリンの映画会社の目にとまり、UFAに移りました。
端正な顔立ちで歌もうまく、女性たちのハートをわしづかみにする人気ぶりで、まさにドイツにおけるアイドルのはしりのような存在となりました。
このドイツ映画の全盛期は、皮肉なことに偶然とは言え、ドイツ・ファシズムがどんどん勢いを増していく時代とぴったり歩みをそろえていました。1933年ナチスが政権をとると、それまで映画の全盛を支えてきたユダヤ人芸術家たちはすべてその職を奪われてしまったのです。しかしナチスは国策として、多大の興行収益をもたらしてくれる映画を手放すわけはなく、むしろ国民懐柔策のひとつとしても娯楽映画は積極的に活用され、以後敗戦までユダヤ人抜きで作られていくことになったのです。
ドイツの戦前の娯楽映画のスターと目される人たちで、このオランダ人ヘースタースをはじめとして、ハンガリー人のマリカ・レック、スウェーデン人のツァラ・レアンダーなど、外国人の存在が目をひいたのは、ユダヤ人(とは言え、国籍から言えば彼らはみな何世代も前からのれっきとしたドイツ人でした)がナチスによって追放されたり、殺されたりしてしまったらからなんですよ。そんなことで戦時期にもつくられ続けていくドイツ娯楽映画は急速にその創造的活力を喪った凡庸な映画ばかりになっていってしまいました。
それでもすでに戦前から名優とうたわれた人々が主役をつとめる映画は、彼らの人気でお客さんをやはり魅了し続けたのです。
ドイツ人名優の一人、ハインツ・リューマンはヘースタースとの共演作も多く、年もほぼ同じ(リューマンは1902年3月生まれの人でした↓)
Heinz Rühmann (* 7. März 1902 in Essen; † 3. Oktober 1994 in Aufkirchen am Starnberger See; eigentlich Heinrich Wilhelm Rühmann) gehört zu den bekanntesten deutschen Schauspielern des 20. Jahrhunderts.
ヘースタースが90歳になったとき、一歳年上のリューマンもまだ存命でした。
当時、1993年の12月でしたが、ベルリンに滞在していたヨハンは、そのころ足しげく通うようになった、Sバーンのフリードリヒ・シュトラーセ駅の目の前にあったメトロポール劇場で、ヘースタースの90歳を祝ってテレビ中継が入るライブ公演があることを知り、そのチケットを買い求め、出かけました。
ヘースタースにとって、このメトロポール劇場はとくにレハールの「メリー・ウィドウ」のダニロ役でロングランを続けた思い出の劇場でした。ちなみに白いマフラーに山高帽のいでたちで「マキシムの歌」をうたうダニロを演じたのはヘースタースのアイデアでした。
ライブ公演と書きましたが、面白いことに実際の中継画像が放送されたのは、その日の公演終了後、つまり録画放送でしたから、公演が終わると大急ぎでアパートに帰り、今見てきた公演をテレビで見ながら、録画したものでした。
その公演ではゲストとしてリューマンが電話出演しました。
ヨハンにとっては、ウィーンの映画館で知ったこの名優たちが当時まだ存命であったこともこのライブ公演に出かけるまで知りませんでした。
さきほどのウィキペディア、ドイツ語バージョンによれば、リューマンの没年は1994年の10月になっていますから、翌年亡くなったのでした。
で、今回のヘースタースの死亡記事にあるように、ヘースタースも、リューマンが亡くなった地、シュタルンベルクで亡くなったのだと分かりました。
天国のリューマン、ヘースタースは今頃どんな再会をはたしているのでしょうかね。
2011/12/27 ヨハン