昭和20年6月20日未明、B-29爆撃機による空襲があり、豊橋の市街地の70%が焼失し、600人以上が犠牲になりました。そのころ豊橋は今の豊橋公園に歩兵18連隊、今の愛知大学に陸軍予備士官学校、大崎島に海軍飛行場、大清水に陸軍飛行場などがあり軍都「豊橋」と言われていました。また、隣の豊川には巨大な海軍工廠もありました。このため爆撃目標となったわけです。私が東田小学校に勤務していた頃、校区のことをまとめた本を作りました。その時、昔の様子を聞くために、校区の人にインタビューしました。豊橋空襲を経験した人に話を聞きました。それを引用します。
戦争が激しくなるにつれて、町内でバケツリレーによる火を消す訓練をしました。豊橋空襲の時、この辺りにも焼夷弾が落ちました。朝倉川の方に逃げまどう人で一杯でした。家にも焼夷弾が落ち、天井を突き破りました。すぐ外に出したので火事にはなりませんでした。爆弾がたくさん落ち、逃げる途中、爆風で吹き飛ばされ、私の弟といとこが死にました。夜が明けても、まだ燃え残っているところもありました。その熱風により、この辺りも、また火災を起こすところもありました。
私の古里、豊川も空襲を受け海軍工廠は壊滅的被害を受け、残った建物には生々しい銃弾の跡が、少なくとも中学生のころまでは残っていました。今はもうないかなあ。今日本は、80年近く平和が続いています。いつまでも続いてほしいものです。
戦争が激しくなるにつれて、町内でバケツリレーによる火を消す訓練をしました。豊橋空襲の時、この辺りにも焼夷弾が落ちました。朝倉川の方に逃げまどう人で一杯でした。家にも焼夷弾が落ち、天井を突き破りました。すぐ外に出したので火事にはなりませんでした。爆弾がたくさん落ち、逃げる途中、爆風で吹き飛ばされ、私の弟といとこが死にました。夜が明けても、まだ燃え残っているところもありました。その熱風により、この辺りも、また火災を起こすところもありました。
私の古里、豊川も空襲を受け海軍工廠は壊滅的被害を受け、残った建物には生々しい銃弾の跡が、少なくとも中学生のころまでは残っていました。今はもうないかなあ。今日本は、80年近く平和が続いています。いつまでも続いてほしいものです。
私の入学時は、確か芳賀校長でした。
羽柴ノーベル賞受賞者が1番有名人でしょうか。
青陵中だと、松平健、公明党の太田さんあたりかな。
全久院と言う曹洞宗のお寺の外壁には、子供の頃、防空壕がありました。何も知らずに、その中に入ってよく遊んだものです。
浅丘ルリ子さんの、早咲きの花、と言う映画も思い出します。
いつまでも平和な世の中が続くことを願います。
余談
片身のスズキと言う豊橋の民話集がありますが、この中で、全久院には竜の鱗があると、私の子供の頃には、都市伝説?がありましたが、やはりこの中に記されています。あと、朝倉川に架かる御弓橋にはロマンチックなストーリーが、、、これも母に聞いたことがあり知っていましたが。