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とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

悪徳の栄え

2011-12-15 | 映画など

 

 

 

Vice and Virtue (original French title: Le Vice et la Vertu) is a 1963 war-time French film starring Annie Girardot as Juliette (Vice), Robert Hossein as the sadistic German officer and Catherine Deneuve, in her first notable film role, as Justine (Virtue).

It was directed by Roger Vadim and inspired by some of Marquis de Sade's characters.
http://en.wikipedia.org/wiki/Vice_and_Virtue

 

 

サドの代表作 『悪徳の栄え』 『美徳の不幸』 を、ナチス支配下時のフランスに置き換えてヴァディムが撮った、バロック的官能美に満ちた傑作。美貌と大胆さでナチ将軍の情婦に成り上がる姉ジュリエットにA・ジラルド。レジスタンスの恋人を奪われ、姉のもとに直訴に来たところを、冷酷な将校シェーンドルフに見そめられ、高官の慰み者に仕立て上げられる無垢な妹ジュスティーヌにC・ドヌーヴ。妹が幽閉されるスイス国境の騎士館は同じ境遇の女たちの“園”と化していて、その辺りの描写にヴァディムのイズムが覗く。姉と将校の屈折した関係の捉え方も巧い。甘美なテーマ曲がドラマを盛り上げ、歴史の大波に翻弄される健気なヒロインを際だたせる。可憐だが堂々としたドヌーヴ。ヴァディムに私生活の上でも愛されているせいか、カメラを見つめる瞳のゆらめき、艶めき、尋常でない。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=591

 

 

 

2012 03 29 悪徳は いつまでも 栄えない 悪徳は いつまでも 栄えない わが郷

 

 

 

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映画 渚にて

2011-12-08 | 映画など

 

 

 


人類なんてそのように軟(やわ)な存在ではない。

ヘイワ主義のシャーレの中で、純粋培養されれば生命体としての、免疫系が成長しない。人々はあたかも、工場で育成されたカイワレ大根のように、真っ白で美しい根っこを、液肥で伸ばさせられるだけ。 (此処で言われるところの、人々とは主にサヨクノ連中のこと。ご存じ日本共産党とか、社民党あるいは民主党の支持者は、我が郷は足日木の垂水のほとりはの、左近尉の言うところでは、教師とか官公労の特権層である。あるいは自動車労連とか、家電などの旧同盟系。刑事事件を起こさないかぎり、どのような能無しでも一生を安泰に暮らせる、「戦後レジーム」という名の、ガラスの培養瓶の中で育てられた。)


名画とされる 『渚にて』 は、軍産が東西冷戦の茶番劇を仕立てて、核兵器を大量に作っているぞ詐欺で大儲け(本当に中身がきっちりと詰まった、真正の核弾頭を作ったのかは、極めて疑わしい。しかしアポロ計画のデタラメを信じる、羊たちはお目出度い。簡単に騙される) このデタラメを大衆の判断力から逸らさせるために作られた、詐欺師の台詞を映像化しただけのもの。一般大衆は、キリスト教の聖書が説くように、ひ弱な羊でなくてはならない。東西冷戦の対立構造で、軍産が大儲けをする。この構造を知られてはならない。そもそも、核兵器を打ち合って、北半球が完全に汚染される。なんてことは、まじめに考えれば、ありえないことなのだ。広島や長崎に投下された、核弾頭が破壊した地域は、それぞれの市街地ほどの広さでしかない。つまり、20㌔トンの核弾頭で、広島市だけではなく広島県全域を全滅させるには、少なくとも、10発の核弾頭が必要となる。つまり日本国全土を完全に沈黙させるには、1,000発の核弾頭が必要なのだ。

 

各国・地域情報 各国・地域情勢 

ならば世界の広さをイメージして見る。

アメリカは大ざっぱにいえば、日本の30倍もある。海洋部位も考えれば、50倍以上である。つまり米国を灰燼に帰すには、5万発の核ミサイルを用意して、これを効果的にいっせいに投射せねばならない。そして次には、全世界、「渚にて」では消滅させられたのが北半球だから、そのやはり十倍とする。ならばナント、50万発の核爆弾が必要となる。

 

  月の石なんてぇ、トンデモな与太もあった。

 

つまり、このデタラメな宣伝映画の描く、人類最後のソドムとゴモラの火の玉を、人類は用意できない。しかし、一般大衆の脳みそは、この欺瞞を暴けるだけの、知性を持ち合わせていなかったのか。否、当ブログの管理者が思うに、人はそれほど全部が全部して馬鹿ではない。しかし、大衆情報システムは、ほとんどがユダヤ系統によって、専横されてしまっている。とりわけ、日米とか西ヨーロッパでは、完ぺきに近く金融資本によって占領されている。ところが、最近はネットが出来て、様相は一変しつつある。

 


原子爆弾では核分裂による放射能汚染が人々を苦しめる。

しかしその与える損害の範囲は限定的だ。

 

ならばと、さらに強力な水素爆弾を使うとする。

だがこれでは、日本で言えば、一つの県とかを物理的に破壊するだけだ。つまり放射能汚染はそれほど、深刻にはならない。つまり水爆は比較的、放射線に関して言えば、言っちゃなんだが綺麗な核兵器なのだ。


人類が平穏に心安らかに暮らすには、もちろん核兵器などあってはならない。

しかし米国もロシアも、これを完全に廃棄するつもりは無い。

ならば、核兵器と戦争に関して、人類はもっと、もっと賢くならねばならぬ。

戦争は支配者の金儲けのためにある。

もうひとつ、支配者の権力を維持するために、軍隊はある。


だが世界に敷衍しつつある民主主義は、人々の権能により政府を選択できる。
つまり、人々が賢くなれば、核兵器は全廃できるのだ。

しかし是、薄甘サヨクの白昼夢。現実世界は、日本とドイツなどの枢軸国側を、核保有の連合国側が搾取する構造になっている。つまり、この構造を打ち壊さねば、米国など連合国側の核保有を止めさせることはできない。

 

 
  John Martin "Sodom and Gomorrah" 背筋の寒くなる、「狂人日記」ですね より


 

とか書いてきたが、核にも効用はある。

これを撃たれれば、たとえば頑丈なシェルターでも、直撃を喰らえば破壊される。それに丁寧に同所へ、10秒間隔で十数発の核弾頭を撃ち込まれれば、指令所なり避難壕は、蒸発して消滅する。つまりかつての日本軍のような、戦時国際法に則った軍隊に攻撃されれば、テロリスト国際金融の手先の敵陣は消滅して蒸発するのだ。これでは、彼らの戦争目的が、金儲けで自分らだけ良い思いをするだから、この計画は間尺に合わない。国際金融の糞どもは、わがヨーメン防衛隊によって、なぶり殺しにされる。それでやっと因業な金貸したちも、核軍縮に舵をシフトした。しかしだ、一定の核弾頭は、保存される。

 


このことで、枢軸国側は一方的に不当な扱いを受けることとなる。

そのことに日本の人々が、気が付いてしまった。
(気が付かない、阿呆もいるにはいるが、………。)

日本人は自沈などしないのだ。

 

 復活の日

 

参考資料

 http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2012/05/post-3253.html

http://movie.goo.ne.jp/movies/p6581/comment.htm

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駅馬車

2011-12-07 | 映画など

 映画など

『儂らの神聖な土地に、

煙を吐くムカデの化け物を走らせる。』

 

『許せぬ事だ。』

『邪教徒の教会の屋根には、人間を殺す、その十字架までかかげる。』

 

 

 

 

           source

22006 01 27  キリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事 【株式日記と】

 

 

 

 

 

 

                                                   マッカーサーの戦後政治【歴史】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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鬼平犯科帳

2011-10-20 | 映画など

 ご案内

 

鬼平犯科帳【わたしの里・映画など】鬼平犯科帳 映画などの索引

 

 

 

 

 

木村忠吾  伊藤美由紀

 

 

  蜷川 有紀

 

 

 出典

 

 

シャモ鍋屋『五鉄』はこの辺りにある。

両国公園から、清澄通り、二之橋へ。


ニ之橋(二ツ目之橋 )。
1659 年 ( 万治 2 年 ) 架橋。
鬼平犯科帳に登場する五鉄はこの橋の挟にあった。

本所二つ目、軍鶏鍋や[五鉄]で、ある。
おまさや、彦十の父っつぁさんが寄宿し、三次郎が営む。
平蔵も気軽に訪れ、盗賊改の、いわば前線基地のような
役割を果たしていた。
本所もこのあたりは、にぎやかなところ、と、
いってよかったのだろう。

橋の袂には『五鉄』の案内板も建っている。
(むろん、作品の中の架空のものだが。)

清澄通りを渡って、向こう側へ行こうと予定をしていたのだが、
暑いので、ショートカット。

二之橋の上で、説明。

上にはここも首都高京葉道路の高架が空を覆う。
よって、江戸からの流れ、竪川もよどんで見える。

向こう側、旧相生町には、軍鶏鍋やのかど家と、
小林一茶、烏亭焉馬の旧居。

かど家
鬼平に登場する軍鶏鍋や五鉄のモデルともいわれている。
1862年(文久2年)。軍鶏鍋定食 8000円程度から。
http://www.dancyotei.com/2010/jul/kouza4.html

 

 

 

 

 鬼平犯科帳の伝で云うならば、「盗人宿」と見るべきである

鬼平犯科帳 【映画など】

 

 夜叉
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金環蝕

2011-09-20 | 映画など

 

 

 

前科4犯の悪徳金貸しが、マッチポンプの爆弾男と、ツルんで

政権の中枢を、強請(ゆす)る。

 

これを現在の日本に当てはめれば、

米欧支那などの、金貸しとか独裁政権が、日本に核兵器という、匕首(あいくち)を突きつけて

日本の優れた工業科学技術を、安く海外にダダ漏れさせろ。

 

このように、脅している。

それで、ときたま 「鳥インフル」 などの、チョットした脅しをかけたりもしている。

 

 

  見えない医療事故  傷害致死事件の予兆

 

 

 『金環蝕』(きんかんしょく)は、1966年(昭和41年)に発表された石川達三の日本の小説、およびそれを原作とした山本薩夫監督による1975年(昭和50年)製作・公開の日本の映画である。


小説『金環蝕』の初出はサンデー毎日の連載で、1966年に単行本として刊行された。九頭竜川ダム汚職事件をモデルに、保守政党の総裁選挙に端を発した汚職事件を描いた。

映画『金環蝕』はこれを原作とし、大映映画(当時の大映の製作子会社)が製作、東宝が配給し1975年9月6日に公開された[1]。
(金環蝕 (石川達三) - Wikipedia)

 

 

ストーリー[編集]

昭和39年夏、与党・民政党の総裁選挙が行なわれ、現総裁にして内閣総理大臣の寺田政臣と最大派閥の領袖・酒井和明の一騎打ちとなった。数で劣る寺田総理が率いる寺田派は党内切っての実力者で副総理・広野大悟の派閥と協調して必勝を図った。その段階において両陣営とも票集めに10億円以上の実弾を投入した。中には広野派の神谷直吉代議士のように両陣営からちゃっかり戴く者もいた。激烈な選挙は僅差で寺田の三選で幕を閉じた。

それから数日後、金融業を営む石原参吉の元に内閣官房の西尾貞一郎が訪れ、星野康雄官房長官(寺田派)の名刺を持参したうえで秘密裏に資金を用立てて欲しいと告げる。ところが石原はこの申し出を断るものの星野の名刺を持ち去る。金融王として裏の世界を渡り歩いた石原は直感的に星野の周辺に何らかの疑惑があることを思いつき、星野の周辺を洗い出し始めた。その過程で寺田総理の郷里・九州の福流川ダム建設を目論む竹田建設と発注元の電力開発株式会社(小説では電力建設株式会社)若松圭吉副総裁の一派の談合と汚職の存在が浮かび上がる。

そして竹田建設は寺田派の有力献金企業であった。青山組への受注を目論む財部賢三総裁が唯一のネックとなった竹田建設は若松副総裁を中心に財部追い落としを図り電力開発の所轄官庁である通産省の大川大臣により引導を渡され数日後に辞任する。その結果、新総裁に技術畑の松尾芳之助が就任。一気に流れは竹田建設へと流れ、談合の末に福龍川ダム工事を受注する。ここに竹田建設・電力開発・寺田派の汚職構図が完成する。

受注を手放しで喜んだ竹田建設は星野官房長官を通じて多額の賄賂を寺田に渡す。


映画[編集]

スタッフ[編集]
製作:徳間康快、伊藤武郎
監督:山本薩夫
脚本:田坂啓
撮影:小林節雄
音楽:佐藤勝
美術:間野重雄、今井高司

キャスト[編集]
星野康雄(官房長官):仲代達矢 - 黒金泰美がモデル
寺田峯子(首相夫人):京マチ子 - 池田勇人夫人・池田満枝がモデル
神谷直吉(陣笠代議士):三國連太郎 - 田中彰治がモデル
石原参吉(金融王):宇野重吉 - 森脇将光がモデル
萩乃(石原金融王の妾):中村玉緒
古垣常太郎(日本政治新聞社社長):高橋悦史 - 倉地武雄(言論時代社社長)がモデル
吉千代(星野官房長官の女):安田道代(現・大楠道代)
朝倉節三(竹田建設専務):西村晃 - 渡辺喜三郎(鹿島建設副社長)がモデル
寺田政臣(首相):久米明 - 池田勇人がモデル
酒井和明(後継首相):神田隆 - 佐藤栄作がモデル
大川吉太郎(通産大臣):北村和夫
神原孝(法務大臣):大滝秀治 - 高橋等がモデル
斎藤荘造(幹事長):中谷一郎 - 田中角栄がモデル
広野大悟(副総理):河村弘二 - 河野一郎がモデル
早川義信(衆議院決算委員長):嵯峨善兵
黒尾重次郎(寺田派幹部):外野村晋 - 前尾繁三郎がモデル
平川光正(寺田派幹部):山本武 - 大平正芳がモデル

 

 

 

 

 

 

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ゲゲゲの鬼太郎

2011-09-15 | 映画など

 

 

ゲゲゲの鬼太郎【映画など】

 


『ゲゲゲの鬼太郎』(ゲゲゲのきたろう)は、水木しげるによる日本の漫画作品。また、それを原作とした一連の作品群の総称。主人公の幽霊族の少年鬼太郎が妖怪達と繰りひろげる物語である。題名の由来は、作者が幼い頃に自分の名前を「しげる」と言えずに「ゲゲル」「ゲゲ」と言ったことから着想し、もう一つゲをつけたことによる。


多種多様な妖怪が登場する妖怪漫画。アニメ化に伴い『墓場の鬼太郎』から改題された。水木しげるの代表作であり、妖怪を扱った作品としても代表的な作品。1954年の紙芝居から始まり、漫画、アニメ、映画、絵物語、ドラマ、ゲーム、ミュージカルなど、半世紀以上に渡り様々な関連作品が作られている。

漫画作品は貸本を経て1965年から1997年の間に多くのシリーズが描かれ、幼年誌から青年誌まで幅広く掲載された。初期の作品は怪奇色が強かったが、鬼太郎と妖怪の対決を主とした内容へ変化。妖怪ブームを巻き起こしたテレビアニメは、日本のテレビアニメ史上最多となるシリーズ5作、4回のリバイバルを果たす。

単行本はこれまで幾度も出版されているが、全作品を網羅したものは存在せず、出版社ごとに収録状況が異なっている。

1996年、「『ゲゲゲの鬼太郎』他一連の妖怪漫画」が第25回日本漫画家協会賞・文部大臣賞を受賞。


1933年から1935年頃にかけて、民話の『子育て幽霊』を脚色した『ハカバキタロー(墓場奇太郎)』(原作:伊藤正美、作画:辰巳恵洋)という紙芝居が存在し、『黄金バット』をも凌ぐほどの人気だった。

1954年、紙芝居の貸元である阪神画劇社と紙芝居作者として契約していた水木は、同社社長・鈴木勝丸に前述のハカバキタローを題材にした作品を描くよう勧められた[1]。作者承諾の上で、水木はオリジナルの紙芝居『蛇人』『空手鬼太郎』『ガロア』『幽霊の手』の4作を仕立てた。これが鬼太郎シリーズの原点である。

だが、奇抜な展開で評判を呼んだ『空手鬼太郎』を除き、鬼太郎シリーズはそれほど人気が出ず、それ以降は製作されなかった。この水木版紙芝居の鬼太郎作品は現存しないが、伊藤版の一部は加太こうじの『紙芝居昭和史』などの書籍で部分的に見ることが出来る。ちなみに鬼太郎が墓場から生まれた片目の子供という設定(『蛇人』より)と目玉おやじの登場(『空手鬼太郎』より)はこの頃からである。

その後、貸本漫画家に転身した水木は、1960年[2]に兎月書房発行の怪奇短編マンガ誌『妖奇伝』に「幽霊一家」を発表。ここで現在の鬼太郎の基礎が定まる。この時期の鬼太郎はまだ人間の味方ではなく、関わった人々に怪奇な結末をもたらす不吉な少年という位置づけだった。『妖奇伝』第2号には第2作「幽霊一家 墓場鬼太郎」が掲載されるが『妖奇伝』は一般には全く人気が出ず廃刊になった。ただ、鬼太郎シリーズは熱心な読者からのファンレターがあり、同年に同じく兎月書房から『墓場鬼太郎』と題した怪奇短編マンガ誌上で、「地獄の片道切符」(第1巻)「下宿屋」(第2巻)「あう時はいつも死人」(第3巻)などのシリーズ諸作が発表された。「下宿屋」ではねずみ男がシリーズに初登場している。

それまで水木は兎月書房の専属に近い形だったが、経営難の兎月書房からは原稿料が一切支払われなくなり、憤慨した水木は長井勝一の三洋社に移籍。『鬼太郎夜話』シリーズ「吸血木と猫娘」「地獄の散歩道」「水神様が町にやってきた」「顔の中の敵」を順次発表した。以前に書いた「幽霊一家」から「顔の中の敵」までは一連の物語になっており、後年、『ガロ』版「鬼太郎の誕生」及び「鬼太郎夜話」としてリメイクされている。しかし、5冊目「カメ男の巻」を出す段階で三洋社の社長が入院、そのドサクサで原稿が行方不明となり、「カメ男の巻」は幻の作品となってしまった。

一方、兎月書房は『墓場鬼太郎』の発行を続け、鬼太郎シリーズの続編を竹内寛行に描かせていた。やがて水木は兎月書房と和解し、1962年には読み切り作品『怪奇一番勝負』『霧の中のジョニー』を描く。しかしその後、兎月書房も倒産。水木は1964年に佐藤プロで、読み切り作品『おかしな奴』、『ボクは新入生』、『アホな男』を発行。桜井昌一の東考社でも『霧の中のジョニー』の続編と予定されていた『ないしょの話』を発行した。なお、鬼太郎はこの頃には、後の少年誌に登場する親しみやすいキャラクターへと変貌している。


メジャー化[編集]

1965年、劇画路線を推進していた『週刊少年マガジン』(講談社)で「墓場の鬼太郎」の「手」が読み切り掲載された。採用の経緯は、それまで『週刊少年サンデー』に連載を描いていた手塚治虫が初めてマガジンに連載を始めた『W3』に作品に似た雰囲気の『宇宙少年ソラン』の連載が始まったことで手塚が激怒し(これは濡れ衣であったが)、1ヵ月で連載をやめてしまい、ライバル誌であるサンデーに連載を移したことにある。マガジンとサンデーはともに創刊5年目であったが、マガジンはサンデーに約20万部の発行部数の差をつけられていた。起死回生の手塚の起用であったのがこうした結果になり困った編集部の内田勝は急遽、貸本世界で活躍していた水木に白羽の矢を立てた。当初は不定期掲載で人気も出ず、3話で打ち切りを検討された。だが夏休みが終わる時期に、当時の貸本読者や大学生たちからの激励の葉書が届き、打ち切りは回避された。

 

当時、『週刊少年マガジン』の編集長だった内田勝の著書『「奇」の発想』によると、『鬼太郎』はずっと読者投票の最下位で、人気獲得のためにアニメ化しようとも試みられたが困難を極め、友人である東映の渡邊亮徳(当時の東映常務取締役テレビ事業部長)に相談したところ、「妖怪もので、タイトルが墓場ではちょっと……スポンサーが付かないから、時間をかけてじっくりと行きましょう。」と説得された(結果として『悪魔くん』の実写ドラマ化が先行)。

鬼太郎とネズミ男【水木しげる】

『悪魔くん』の成功により、水木しげるが人気作家になったため、1967年からは正式な連載作品となる。内容も「怪奇物語」から「正義の鬼太郎が悪い妖怪を退治する」という少年誌向けの内容に変化。徐々に人気を増していった。妖怪という言葉がひんぱんに用いられる様になったのもこの頃からである(貸本時代にはほとんど使われていなかった)。貸本時代の作品のリメイクも多く、「霧の中のジョニー」を「吸血鬼エリート」に、「おかしな奴」を「陰摩羅鬼」に、「ボクは新入生」を「朧車」に、「ないしょの話」を「大海獣」にと、多少内容をアレンジして再執筆している。また怪獣映画さながらの「大海獣」や「妖怪獣」、「毛羽毛現」の恐竜、「白山坊」のモスラのような容姿の巨大蛾などが登場するのもこの時期の特色である。なお「妖怪大戦争」の回では、後に主要メンバーとなる、砂かけ婆、子泣き爺、一反木綿、ぬりかべが鬼太郎の仲間として初めて登場する。

やがて安定した人気を得た本作は1968年に、タイトルを『墓場の鬼太郎』から『ゲゲゲの鬼太郎』に変更することでスポンサーの了解を得て、テレビアニメ化を果たす[3]。それに合わせて1967年『週刊少年マガジン』11月12日号から作品名を『ゲゲゲの鬼太郎』と改題された。またアニメ化に伴って、少年漫画誌のみならず講談社の『ぼくら』や『たのしい幼稚園』などの幼年誌でも鬼太郎は子供たちのヒーローとして活躍する一方、貸本時代からのファンや青年向けの作品にも登場し、1968年は鬼太郎作品を5誌に渡って連載していた。

『月刊漫画ガロ』(青林堂)では「鬼太郎の誕生」の掲載を経て、「鬼太郎夜話」を連載。両作とも貸本時代に描かれた作品を、一部ストーリーやデザインを変更して新たに描き直したものである。そして、『月刊宝石』(光文社)ではベトナム戦争を題材にした「鬼太郎のベトナム戦記」を連載。ベトコンに味方した鬼太郎ら妖怪軍が米軍と戦うというストーリーだが、原案として参加した佐々木守と福田善之が思想的な部分を手伝っている。

1969年、人気絶頂の最中に『少年マガジン』の連載が終了。翌1970年の『別冊少年マガジン』7月号では、連載が終了した作品の主人公を描く「その後のまんがスター」という企画があり、南方に渡り最後は平和に暮らす鬼太郎という「その後のゲゲゲの鬼太郎」が掲載された


長期シリーズ化[編集]

連載やアニメの終了後も人気は衰えず、1971年に再びテレビアニメ化された事に合わせて、『週刊少年サンデー』(小学館)で新作が描かれた。今シリーズの鬼太郎は、砂かけ婆の経営する妖怪アパートの住人として描かれ、鬼太郎ファミリーのメンバーがこれまでよりも増えている。また、『少年マガジン』でゲスト妖怪として登場していた猫娘と設定は同様だが、容姿が微妙に違う猫子というキャラクターをレギュラーとして登場させている。なお、当時は小学館の『よいこ』『幼稚園』『小学一年生』等の学習雑誌での連載も加わり、7誌同時にそれぞれ別の鬼太郎作品を発表していた。

『少年サンデー』版の最終話では、鬼太郎がヤカンズルに飲み込まれ7年は出て来られないとして終わっているが、2年後の1973年には『いんなあとりっぷ』(仏の世界社)で「鬼太郎とねずみ男」の連載が始まる。このシリーズは短期連載で終わるが、風刺色の強い作品でありオールカラーで描かれた。

翌1974年には描き下ろし長編『死神大戦記』が学習研究社から「日本の妖異」シリーズとして上・下巻で発行。『往生要集』を下にした作品であり、宮田雪が脚色担当として参加している。今作は「その後のゲゲゲの鬼太郎」の続編として描かれ、水木しげると共に鬼太郎が地獄を舞台にして妖怪と戦うストーリーである。

1976年には『週刊少年アクション』(双葉社)で「鬼太郎の世界お化け旅行」の連載が始まり、鬼太郎ファミリーが世界の妖怪を相手に活躍する姿が描かれた。なお、今作の鬼太郎は野球帽を被っている設定。また、1976年から1977年に掛けては「鬼太郎対悪魔くん」、「妖怪ロッキード」等の、単発の読み切り作品も幾つか発表された。

そして、1977年から1978年に掛けては『週刊実話』(日本ジャーナル出版)での連載が約1年半続く。同誌では3作品が発表され、1作目は「続ゲゲゲの鬼太郎」を連載。高校生になった鬼太郎の話であり、これまでのチャンチャンコをやめて縞模様のセーターを着用している。鬼太郎シリーズの中では特に異色作であり、内容的には青年向けに描かれている。当時の『週刊実話』編集者によると、かつて子供が人気を支えた鬼太郎を青年誌に連載することには不安があったようだが、「当時の水木ファンたちは今や大学生や社会人になっている。読者もきっと分かってくれるはずだ」と言う意見もあり、鬼太郎を大人の世界で活躍させることになったという[4][5]。また、当時の水木はこれまでのヒーロー的な鬼太郎からの脱却を試みていた背景もあり、この話にかなり意欲的に取り組んでいる[6]。しかし、後に水木は「鬼太郎にセックスを持ち込んだのは失敗だった。」と回想しており[7]、『週刊実話』2作目の「新ゲゲゲの鬼太郎 スポーツ狂時代」では軌道修正を行っている。今作は、超能力を奪われた鬼太郎が相撲界で活躍する「相撲の巻」、墓の下高校の野球部に入部した鬼太郎が妖怪チームで甲子園を目指す「野球狂の巻」の2話で構成された水木独特のスポーツ漫画である。そして、『週刊実話』3作目の「新ゲゲゲの鬼太郎」では再び軌道修正が行われ、かつての様な少年姿の鬼太郎が妖怪と戦う姿が描かれている。また、SFの要素が加わったことで宇宙人との対決が多くなり、青年向けの描写は控えめになっている。なお、1977年は『週刊実話』の連載と同時期に『漫画サンデー』(実業之日本社)で「ゲゲゲの鬼太郎 挑戦シリーズ」の連載も始まっている。今作は「UFOの秘密」、「太古の秘密」、「地上絵(ナスカ)の秘密」の3話構成で、『週刊実話』同様に青年向けの作品となっている。この時期の鬼太郎シリーズは当時の雑誌に「何処へ行く鬼太郎」と特集されるなど、総じて迷走していた時期とも言える[8]。

その後は『週刊少年マガジン』での読み切り作品「海坊主先生」を挟み、1980年に『月刊DONDON』(日本ジャーナル出版)の短編漫画「大ボラ鬼太郎」を短期連載する。そして同年、『月刊少年ポピー』(少年画報社)で「雪姫ちゃんとゲゲゲの鬼太郎」の連載が始まり、再び少年誌で鬼太郎が描かれる。今作は鬼太郎の妹・雪姫をメインにした作品であり、雪姫が登場する唯一の作品である。不思議な力で鬼太郎のピンチを救うなど徐々に成長する雪姫だったが、掲載誌の廃刊により連載は終わってしまう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%81%AE%E9%AC%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E

 

 

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子連れ狼

2011-09-10 | 映画など

 小池一夫

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『子連れ狼』(こづれおおかみ)は、小池一夫原作・小島剛夕画の日本の時代劇漫画(劇画)作品。19709月から19764月まで『漫画アクション』(双葉社)に連載された。

拝一刀おがみ いっとう)は、漫画『子連れ狼』及びこれを原作とした映画とテレビドラマに登場する架空の人物。主人公。名前は、狼一頭(おおかみいっとう)の捩りである。
(wikipedia)

 

 

マスコミから過激派だとか、暴力学生なんぞとレッテルを貼られていた。その運動は若者らしい理想主義で、貧者の灯火=共産主義に感化されていた。大学のだらけて据えた、特ア利権に基づいた。その旧弊を打ち破る戦いの中で、ベトナム反戦闘争にも関心が向いていった。リアルに現実を透視すれば、戦後世界の巨悪が見えてくる。こうなると、真理をひたすら追求する。若者達は、学卒者としての戦後利権から、離れて行かざるを得ない。それが漢の純情だった。

『子連れ狼』 の拝一刀は、幕藩体制からはみ出した、流浪人。

将来を案ずる家族の心情を、乳母車にのせてあやしもする。

学生運動後期の、気分になんとなくシンクロする、劇画にはそのような空気感が濃密だった。

 

 

 

 

 

 2017 08 02 利権に拘った。【わが郷・政治】 2017 08 05 なやましい。【わが郷・軍事】 

 

 

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