わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

オスマントルコ帝國

2015-03-15 | アカデミズム

 肩と首筋、振り向く顔の関係

 

 

 

サビニの略奪【david】 サビニの略奪 ダヴィッド

 

 

均整のとれた体型を、とにかく大前提として絵を描く。

人体の理想主義が、アカデミズムの本質にある。

 

ならば、画面構成に於ける、パースペクティブつまり遠近法は、

それを知るものからすれば、当たり前すぎる基本技術ではある。

 

 

裸のお嬢様方の記念写真といおうか、集合写真と云おうか。

 

ところが下の絵は 『トルコ風呂』 有名なフランスの古典主義の作家、アングルの作。

こちらはその一部なのだが、十数名の裸女の群れ。ごぞんじPENTHOUSEのお嬢様はきっちり10名。画面構成のちがいでこれだけ、大人数収めてもなんとなくスッキリしている。

 

近景、中景そして遠景と構図的に分ければメリハリがつく。

として裸婦それぞれの視線が統一されていれば、画面に何かしらの緊張感が生まれる。写真と絵画ではその辺の、構成で絵の意味を深めることが出来るのだが。

 

 

アングルの魅力なのか或いは、批評されるべき欠点なのか。彼には人体をかなり極端にデフォルメする嗜好がある。

 

 

 

 

わたしの里 美術館「索引」 我が郷は足日木の垂水のほとり【HOME】 岩水
わたしの里 美術館       わが郷 HOME

 

 

 


フランス・アカデミズム

2011-12-21 | アカデミズム

 

  ダヴィッド

 

アカデミック様式の発展

プッサン派・ルーベンス派論争以来、多くの画家たちがこの2つの様式の間で仕事をした。しかし、19世紀の論争の時は、2つの様式、つまり新古典主義とロマン主義を統合しようという試みがなされた。それを成し遂げた画家として評論家たちが名前を挙げた中には、テオドール シャッセリオ  、アリ・シェフェール、フランチェスコ・アイエツ、アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン、トマ・クチュールらがいる。後期のアカデミック画家、ウイリアム・アドルフ・ブグロー は、良い画家である秘訣は「色と線を同じものとして見ること」とコメントした。トマ・クチュールは美術技法について書いた本の中でそれと同じ考えを推奨し、こう主張した。この絵は色がより良い、線がより良いと言うのはナンセンスだ。なぜなら色が素晴らしく見えるのは線がそう見せているからで、逆もまたそうである。実際には、色は形の「色価(value)」について語る方法である。

 

この時代の進展には、もう一つ、絵に描かれた「時代」を示すための様式、つまり「歴史主義」があった。それを良く表しているのがジャメ・ティソ(James Tissot)の影響を受けたジャン・オーギュスト・エンドリック・レイスの作品である。さらにNeo-Grec(新ギリシア)様式の発展もあった。歴史主義は、異なる過去の絵画の伝統の新機軸を結合・調和させるべきとするアカデミック絵画に関連した信念および実践をも指すものだった。

 

主要な作家 [編集] フランス [編集]アルフレッド・アガッシュ(Alfred Agache)画家
ルイ・エルネスト・バリアス(Louis-Ernest Barrias)彫刻家
ポール・ボードリー、画家
アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズ(Albert-Ernest Carrier-Belleuse)彫刻家
ウィリアム・アドルフ・ブグロー、画家
シャルル・エドワール・ブーティボネ(Charles Edward Boutibonne)
シャルル・ジョシュア・シャプラン(Charles Joshua Chaplin)画家
ピエール・オーギュスト・コット、画家
トマ・クチュール、画家
アレクサンドル・カバネル、画家
アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン、画家

ポール・ドラローシュ、画家

レディー・ジェーン・グレイ の処刑


デルフィン・アンジョルラス(Delphin Enjolras)画家
アレクサンドル・ファルギエール(Alexandre Falguière)彫刻家

ジャン=レオン・ジェローム 、画家・彫刻家
ジャン=ジャック・エンネル(Jean-Jacques Henner)画家
ポール・ジャマン(Paul Jamin)画家
ジャン=ポール・ローランス(Jean-Paul Laurens)画家・彫刻家
アントナン・メルシエ(Antonin Mercié)彫刻家
エミール・ムニエル(Emile Munier)画家
ギヨーム・セイニャク(Guillaume Seignac)画家

 

 ナポレオン

 

 William Adolphe Bouguereau
わたしの里 美術館    わが郷 HOME 

 

 

 

 

 

 

  


肩と首筋、振り向く顔の関係

2011-11-01 | アカデミズム

 information

2013 10 31 トルコに通う  

 女体のフォルムを理想型に仕上げてゆく。そして色をつける。是ならば、写真に任せればよい。21世紀の現代ならば、ビデオが出来て動くし、3Dもある。絵画は、ひと筆一筆と、描きこんでゆく。写真やプリント、あるいは何百万人が共有出来る、イリュージョンとも違う。一点物なので、その価値がある。「芸術品」と呼ばれたりもする。

 また反対に乾いた言い方をすれば、絵画は家財である。壁を飾る調度品なのだ。壁紙には模様があり、そのスタイルはアラブの、アラベスク模様に、ひとつの源流がある。これは左右が対称のものが多い。この絵も、向かって右奥の青いカーテンと、手前左の女体で造る、U字型の、模様とも見ることができる。このU字を完成させるには、どうしても彼女の背中は、あのようなフォルムにしなければならぬ。

 

 

アンドリュー・ワイエス 1917 ~ 2009

1965年の雑誌 『 ライフ LIFE 』 紙のなかで、

ワイエスが次のように、話しています。

"In the art world today, I'm so conservative I'm radical. Most painters don't care for me. I'm strange to them... A lot of people say I've brought realism back. They try to tie me up with Eakins and Winslow Homer. To my mind they are mistaken. I honestly consider myself an abstractionist. Eakins' figures actually breathe in the frame. My people, my objects breathe in a different way; there's another core -- an excitement that's definitely abstract." 

       拙訳は ワイエスのことばの訳 でお読み下さい。

 

 

2010 05 27 オスマントルコの滅亡

  是がほぼ現在の中近東の地図です。オスマントルコ帝国は滅亡。 

   かつての領土は蚕食と分割の結果、このようになりました。

 

このトルコ帝国を簒奪した力の源泉は、巨大金融の紙幣増刷権でした。

オダリスクの蒼いカーテンの陰には、産業革命家の野望がかくれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アングル1780 ~ 1867 Ingres jean auguste dominiqueIngres jean auguste dominique

 

 

 

 

 

 

 わたしの里 美術館
わたしの里 美術館       わが郷 HOME

 

 

   


2011-08-07 | アカデミズム

 フランス・アカデミズム

泉【アングル】  アングル
 拡大

 

Artist    Ingres jean auguste dominique (1780–1867)
Title     Deutsch(独): Die Quelle (泉)
Date     1856年
Medium  oil on canvas カンバスに油彩
Dimensions   164 × 82 cm (64.6 × 32.3 in) 
所蔵  ルーブル博物館(パリ) Deutsch: Musée du Louvre
commons.wikimedia.org 

 

 

『アングル展』 が 1981年、 上野の国立西洋美術館であった。

アングル展
1981(昭和56)年428日- 1981(昭和56)年614
会場:国立西洋美術館主催:国立西洋美術館、国立国際美術館、NHK出品点数:絵画24点、素描98点、参考作品7点、計129点入場者数:339,491 人巡回先:国立国際美術館
http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/past/1981_078.html

    

 

ブログ管理者の父が亡くなった、その翌年のこと。

誰と見に行ったのか。たぶん一人で行ったのだと思うが、記憶が定かではない。

とにかく人出が凄かったのを覚えている。

じっくり見ることはできた。

等身大の大きさで、よく見ると絵の具はかなり薄塗りである。

それで、このリアリティなのだから、さすがに巨匠の技量は凄い。

なぜか、この感覚が今でも、生々しく記憶に残っている。

カンバスの糸の上に載った絵の具のマチエールが、眼を閉じると鮮やかによみがえる。

 

 

 

 

 

 

アングル1780 ~ 1867 Ingres jean auguste dominique 

 

 

 

わたしの里 美術館「索引」 我が郷は足日木の垂水のほとり【HOME】 岩水
わたしの里 美術館       わが郷 HOME

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 


Ingres オダリスク

2011-02-20 | アカデミズム

 

 source

  La grande odalisque

アングル 
制作 1814
画法 カンバスに油彩
寸法 91 × 162 cm
所蔵 ルーブル美術館 パリ

 

 肩と首筋、振り向く顔の関係



  フランス南西部のモントーバン近郊ムースティエに装飾美術家の子として生まれる。父親は美術家というよりは職人で、家具の装飾彫刻、看板描きから音楽まで手広く手掛けていた。アングルも幼少期から絵画とともに音楽も学んでおり、ヴァイオリン奏者としての一面もあった。実際、ニコロ・パガニーニと弦楽四重奏団を結成し、彼のスケッチを残している。

 アングルは12歳の時、トゥールーズのアカデミーに入学。1797年パリに出て、新古典派の巨匠、ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門する。1801年『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を受賞した。

 

      

      View of Villa Medici   1807

 

 アングルのイタリア時代

 

 ローマ賞受賞者には、政府給費生として国費でのイタリア留学が許可されたが、アングルの場合は、当時のフランスの政治的・経済的状況のため留学が延期され、1806年にようやくイタリアのローマを訪れている。その後アングルは1824年までの長期間イタリアに滞在し、1820年まではローマ、以後1824年まではフィレンツェで活動している。この間、ラファエッロ、ミケランジェロなどの古典を研究し、生活のために肖像画を描きつつ、母国フランスのサロンへも出品していた。

 有名な『浴女』(1808年)、『グラン・オダリスク』(1814年)などはこの時期の作品である。

 浴女

 

 

  

 フランスにおける復古王政(ふっこおうせい, 仏:Restauration)は、皇帝  ナポレオン 1世の失脚によってフランスにおける王政復古を果たしたブルボン家およびオルレアン家による王政である。厳密には1814年のルイ18世の即位からナポレオン1世の帝位復帰までのブルボン第一復古王政と、1815年のルイ18世の復位からシャルル10世退位までのブルボン第二復古王政、オルレアン家のルイ・フィリップ王の七月王政に分別される。

 

 フランス革命によって途絶えていた王政は、1814年にルイ18世が即位し復活した。ルイ18世は選挙権の制限やカトリック教会の復権などを実施した。後を継いだシャルル10世の治世であった1830年に七月革命が起った。代わってオルレアン家のルイ・フィリップは七月王政においてブルジョワ寄りの政治を行うが、これも1848年の 二月革命 で倒れ、フランスにおける王政の時代は終焉した。

 

 

 

 1792年、フランス革命政府は国王ルイ16世を逮捕し、王権を停止して共和政の樹立を宣言した。翌1793年にルイ16世は処刑された。その後フランスはナポレオンによる第一帝政へ移行したが、ナポレオンは1814年に対仏大同盟諸国との戦いに敗れ退位した。帝政下の実力者であったタレーランは対仏大同盟諸国の意向を察してルイ16世の弟ルイ18世を新国王として支持し、ブルボン朝の復古が実現した。

 

ルイ18世は即位にあたって1814年憲法を受諾した。これは世襲および任用制の貴族院と選挙制の下院からなる二院制を採用し、選挙権を一定以上の資産を有する男子に制限する内容であった。1815年になってナポレオンがエルバ島を脱出したという知らせが入ると、ルイ18世はパリから逃亡せねばならなくなった。

 

ナポレオンの復活は ワーテルローの戦い いに敗れたことで百日天下に終わり、ほどなくルイ18世は帰還した。

 

 

シャルル10世時代(1824年 - 1830年) [編集]1824年9月16日、ルイ18世は死去し、アルトワ伯爵がシャルル10世として即位した。息子が暗殺された事件のショックも手伝って、シャルル10世は超王党派の中心人物となっていた。シャルル10世はヴィレールと協力して1825年には冒涜禁止法を成立させるなど、政策を転換させていった。

長いイタリア滞在の後、1824年、フランスに帰国。翌年レジオンドヌール勲章を受け、アカデミー会員にも推されている。10年ほどの母国での活動を経て、1834年(1835年とも)再びイタリアのローマを訪れ、そこでフランス・アカデミーの院長を務めた。1841年には再びパリへ戻る。この頃のアングルは祖国フランスでも押しも押されもせぬ巨匠と目され、1855年のパリ万国博覧会においてはアングルの大回顧展が開催された。

 代表作の1つ、『 トルコ風呂 』 は、最晩年の1862年の制作である。円形の画面に退廃的・挑発的な多数の裸婦を描きこんだこの作品は、当時82歳の画家がなお旺盛な制作欲をもっていたことを示している。 (Wikipedia)

 

 

1827年にヴィレールの後継首相となったマルティニャック子爵は中道派であったが、シャルル10世は1829年にマルティニャックを辞任させ、代わって王党派のポリニャック公を首相に任命した。折からフランス経済は農産物の不作と深刻な不況に陥っており、労働者やブルジョワ階級を中心に王政への不満が高まっていった。ポリニャックは国民の不満をそらすため1830年6月に アルジェリア侵略 を実施する一方で、7月には「七月勅令」を打ち出した。

七月革命が勃発した。1830年7月27日、民衆は三色旗を翻してパリの街頭にバリケードを築き始める。シャルル10世は7月30日に退位を余儀なくされ、イギリスへ亡命した。

シャルル10世の長男アングレーム公爵は国民に不人気だったため、シャルル10世は後継者にベリー公爵の遺児シャンボール伯爵を指名し、アングレーム公もこれに賛同せざるを得なかった。しかしブルジョワ主導の下院はこれを承認せず、代わってオルレアン公爵ルイ・フィリップを新国王に指名した。7月31日、パリ市庁舎のバルコニーにラファイエットとともに姿を現したルイ・フィリップは民衆の歓呼の声に迎えられた。


 1840年
フォッグ美術館

 

 ルイ・フィリップ時代(1830年 - 1848年) [編集]詳細は「7月王政」を参照

 ルイ・フィリップは七月王政を開始する。「フランス王」 (roi de France) ではなく「フランス国民の王」 (roi des Français) であると自称し、国民との宥和を図った。しかし「株屋の王」とも呼ばれたようにその政策はブルジョワ寄りであり、下層市民の支持は得られなかった。結局七月王政も1848年の 二月革命 で崩壊し、短い第二共和政(1848年 - 1852年)の後にナポレオン3世による第二帝政が開始される。

 

 

 古代にはゲルマン人に次ぐ民族大移動の一部をなしてポリーシャからヨーロッパ全域に拡張した。スラヴ全体に関する様々な学問をスラヴ学という。英語で「スレイヴ」(奴隷)という違った不名誉なレッテルで語られることも多いが、しかし本来のスラヴ語の「スラヴ・スロボ」の意味は、言語、言葉を意味するもの(スラヴ語: словоスローヴォ)であり、スラヴ人は奴隷という先入観も、西欧人の誤解や蔑称から来ているのであり、特にナチスドイツで、この説は人気であり、ソ連への奇襲の公な理由の一つであった。これは、「スラヴ」がギリシア語に入ったときに「奴隷」の意味となり(他の民族もそうであるが、スラヴ人も戦争などで捕らえられると奴隷として扱われたためであろう。この時期、捕虜はどの国でも奴隷であり、戦利品に過ぎなかった)、ギリシアの文化を受け継いだローマ帝国のラテン語から西欧諸言語に広まったと考えられる。現在もスラヴ人の名前にアレクサンドル(アレクサンダー)とかロマン(ローマ人の)といったものがあり、東ローマ帝国とキエフ・ルーシ(現在のウクライナ)との戦争における奴隷のなごりではとも考えられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B4%E4%BA%BA

About this painting
Original size (cm) : 72.1 x 100.3
Current location : Fogg Art Museum, Harvard University, Cambridge, USA
Artist period : 1780-1867
 
 
Artist : Ingres, Jean Auguste Dominique
Subject : Domestic Life, Nudes
Nationality : French
Movement : Neo-Classicism

 

 

 

 

 

肩と首筋、振り向く顔の関係

 

 

 

オダリスクの美しい絵画に難癖つけるつもりはないが、彼女は英仏などの勃興した新興貴族ブルジョアジー様の垂涎の的ではあった。

アングルのオダリスクは、裸婦の頭部から腰部にかけてのフォルムと、背景の青いカーテンで、U次型の構図を為している。対して上の絵。クレオパトラの裸婦の中景の赤いベットの辺縁が、円の弧を描いている。だいたいファイン・アートヌードの作品には、このような作為が隠されている。

  ワイエスの描いたものは空間の リリシズム

 

 

 

 

 


Edward John Poynter

2010-06-12 | アカデミズム

 Andromeda 

 

Sir Edward John Poynter Bt PRA RWS (1839-1919)

 Biography
Edward Poynter was second only to Frederic Leighton as an exponent of Victorian neo-classicism. His training as an artist took place partly in Europe; he coincided with Leighton in Rome in 1853 and spent the years 1856-59 as a student at Gleyre's atelier in Paris. These semi-bohemian years were described by Poynter's comrade George du Maurier in his novel Trilby. In 1860 Poynter commenced upon a career in London which was to bring him much prestige and many honours. His great Royal Academy exhibition successes were mainly reconstructions of events or situations set in ancient history, attempts to give a visual account of the appearance of the Ancient World. The most famous of these are Israel in Egypt and The Catapult. A parallel group were his mythological subjects, In both types Poynter took great trouble to make the details of the paintings as archaeologically accurate as possible. Despite being only a few years younger than the generation of High Victorian artists Poynter long outlived his great contemporaries. He succeeded Millais as President of the Royal Academy in 1896 and then lived on into a very different age when his-most celebrated paintings were no longer appreciated or understood.
  http://www.victorianweb.org/painting/poynter/