わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

Frank Upcraft 救命ボート舵手

2009-10-29 | 作品

 作品の索引

Frank Upcraft  救命ボート舵手【わたしの里の美術館・作品】デビッドソン Frank Upcraft 救命ボート舵手 デビッドソン

 

 

 

 

 Picture of my Grand father Frank Upcraft Bowman of Alfred Corry and Coxswain Mary Scott 1866 to 1940 and spent 50 years in the lifeboat service
http://www.maritimeheritageeast.org.uk/exhibitions/reading-room-attractions

 

 

 

 

 

 

 アラン・ダグラス・デビッドソン【わたしの里の美術館・作家の記録】1873 ~ 1932 アラン・ダグラス・デビッドソン イギリスの画家

 

 

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マダム・タリアン

2009-10-25 | 肖像画

肖像画

ahock マダム・タリアン フランソワ・ジェラール

 

 

 

テレーズ・カバリュス(仏: Thérèse Cabarrus, 1773年7月31日 - 1835年1月15日)は、銀行家の娘で、その美貌を武器にフランスの総裁政府期には社交界の華であった女性である。

本名は旧姓で、ジャンヌ=マリー=イニャス=テレーズ・カバリュス(仏: Jeanne- Marie-Ignace-Thérèse Cabarrus、西: Juana Maria Ignazia Thérésa Cabarrus)であるが、「テレザ・カバリュス(仏: Thérésa Cabarrus)」という彼女本人が好んで用いた通称で有名。また結婚後の姓であるフォントネ侯爵夫人またはタリアン夫人とも呼ばれた。
(wikiwand.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フランス革命【歴史・岩水】 フランス革命  歴史

フランソワ・ジェラール【わたしの里の美術館・作家の記録】1770 ~ 1837 フランソワ・ジェラール 

 

 

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Edward Armitage

2009-10-25 | 作家の記録

 

 

  

エドワード・アーミティジ 

Edward Armitage

(May 20, 1817 – May 24, 1896) 
an English Victorian era painter whose work focussed on historical, classical and biblical subjects.
( Wikipedia 詳細は、ここ をクリックしてご覧ください。 )

 

英国 ヴィクトリア王朝 時代の画家で、歴史画や古典もの、あるいは聖書をあつかっている。

 
 Julian the Apostate presiding at a conference of sectarian
教派間の議論を見守るユリアヌス
(エドワード・アーミテージ画)

 

 


家族
 アーミテージは裕福なヨークシャーの、実業家の子としてロンドンで生まれた。ジェームズ・アーミテージ(James Armitage 1793–1872)を父に、アン・エリザベス・アーミテージ(旧姓ローズ) (Anne Elizabeth Armitage 旧姓はRhodes  1788–1833)を母とした、7人兄弟の長男である。


学業
 アーミテージは183710、「the École des Beaux-Arts」 に入り、パリで絵を学んだ。歴史絵画のポール・ドラローシュ "Paul Delaroche" が彼の師で、ドラローシュは名声の絶頂期にあった。 

 

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Edward Armitage The Siren

 The Siren”  1888  oil on canvas,

 

 

  学校でローレライの歌を習った。これはライン川の難所で、油断をすると船が転覆してしまう。川面から、130mほども突き出た岩山がある。それで附近は川幅が狭い。当然急流でもあり、景色に見とれれば操船をあやまる。

 この話しは元々は、ホメーロスの叙事詩が、核にあり作られた。

 オデュッセウス の冒険奇談の帰りのこと。下半身が鳥で上半身が人間という物の怪がいたとされる。この鳥の怪しくも美しい歌声を聞けば、船乗りもろとも船は難破してしまう。それでも、オデュッセウスはこの妙なるしらべが聞きたくて堪らない。

 それで下の絵のように、自分はマストに身を括り付けて、自由に動けないようにしてもらった。水夫たちは妖艶な声に惑わぬよう、耳に栓をして音が聞こえぬようにした。

  John William Waterhouse

 

 

 source

 

 

 

2012 04 05  熱くなったら、ビキニの季節 【わが郷

 

 Water Nymph

 

 

 

 

 

 

 

 

The Kelpie 水の妖精【わたしの里の美術館・作品】 The Kelpie 水の妖精 【ハーバート・ドラッパー

 


 イギリスの画家
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和田 三造

2009-10-25 | 日本人作家

 

和田 三造【日本人作家】1883 ~ 1967 和田 三造 日本人作家

 

和田 三造 

和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)33日 - 1967年(昭和42年)822日)
明治・大正・昭和期の日本の洋画家、版画家。帝国美術院会員。
1953年(昭和28年)、大映映画 『地獄門』 で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、
この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。
(wikipedia)

 

 

 

旧朽木藩の御典医であり、その後生野銀山鉱業所の勤務医や校医を勤めた和田文碩と秀の四男として、兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市)に生まれる。兄・宗英が大牟田市の鉱山業に従事したため、1896年(明治29年)、13歳の時に一家をあげて福岡市に転居する。大名尋常小学校を経て、翌1897年(明治30年)、福岡県立尋常中学修猷館に進学するが、1899年(明治32年)、画家を志し、父や教師の反対を押し切って修猷館を退学後、上京して、長尾建吉の斡旋で黒田清輝邸の住み込み書生となり、白馬会洋画研究所に入所して黒田清輝に師事する。

 

1901年(明治34年)、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科選科に入学。青木繁熊谷守一、児島虎次郎、山下新太郎らと同期であった。1902年(明治35年)、八丈島への渡航途上、暴風雨に会い漂流ののち伊豆大島へ漂着しており、これが後の 『南風』 制作の契機となった。

南風

明治40年   油彩・キャンバス・額・1面   151.5×182.4 
左下に署名、年記
1回文展(元東京勧業博覧会美術館   1907) 
昭和28年度   文部省   管理換   O00021 
東京国立近代美術館
  
Paintings : Oil Paintings, etc. 
South Wind
1907   oil on canvas   151.5×182.4 
signed and dated l.l. 
 
The National Museum of Modern Art, Tokyo

 

1904年(明治37年)、東京美術学校を卒業し、1905年(明治38年)、白馬会10周年記念展で『牧場の晩帰』、『伊豆大島風景』を出品して、前者で白馬会賞を受賞し注目される。1907年(明治40年)、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した『南風』が2等賞(最高賞)を受賞[1]。『南風』は、明治浪漫主義の風潮下で生まれた記念碑的な作品とされる。この絵の中で小船の上に立つ逞しい男のモデルは、和田が中学時代に通っていた玄洋社が運営する柔道場「明道館」の2代目館長河野半次郎といわれる。更に、翌1908年(明治41年)の第2回文展においても、『煒燻』で2等賞(最高賞)を連続受賞し、無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。

1909年(明治42年)、文部省美術留学生として渡欧。フランスを中心にヨーロッパ各国を巡歴し、洋画とあわせて工芸図案の研究も行う。その帰途、1914年(大正3年)、インドやビルマ(現・ミャンマー)で東洋美術を研究し、1915年(大正4年)に帰国。1917年(大正6年)、文展審査員となる。以後、文展や、文展が改称した帝国美術院展覧会(帝展)に出品する一方で、装飾工芸や色彩研究にも力を入れ、1920年(大正9年)、染色芸術研究所、1925年(大正14年)、日本染色工芸協会をそれぞれ設立している。

この頃、1923年(大正12年)からは、本格的に日本画の制作に取り組んでいる。翌1924年(大正13年)、日本と朝鮮の双方の羽衣伝説を題材とした、朝鮮総督府庁舎の大壁画『羽衣』を制作している。

1927年(昭和2年)、帝国美術院(現・日本芸術院)会員となる。同年、わが国における色彩の標準化の必要性に着目し、日本標準色協会を創立。ここでの和田の色彩研究の成果は、『色名総鑑』(1931年)などに表れている。その後、1938年(昭和13年)には西宮にあった品川清臣による京都版画院という版元から『昭和職業絵尽』シリーズの第1作として「洋楽師」と「巡礼」という木版画を発表。この『昭和職業絵尽』は第1集、第2集各24枚(合計48枚)を版行しており、以降、戦後に入って1956年(昭和31年)、続編として『続昭和職業絵尽』シリーズ24枚を発表した。なお、これらの作品は新版画に分類されている。

1932年(昭和7年)には東京美術学校図案科教授に就任し、1944年(昭和19年)まで務めている。1945年(昭和20年)、日本標準色協会を日本色彩研究所に改組し、理事長に就任。1951年(昭和26年)には、ここで日本初の綜合標準色票『色の標準』を完成する。

1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞する。なお、『地獄門』は、同年の第7回カンヌ国際映画祭においても、その色彩の美しさを高く評価され、パルム・ドール(グランプリ)を受賞している。晩年は、油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍し、1958年(昭和33年)、文化功労者に選ばれている。

1967年(昭和42年)8月22日、誤嚥性肺炎のため東京逓信病院で死去。享年84。

娘は1939年6月23日に有馬大五郎と結婚した。

 

代表作品[編集]
『大島を望む』(1907年)東京国立近代美術館
『南風』(1907年)東京国立近代美術館
『大葬』(1933年)聖徳記念絵画館
『按摩さん』(1936年)京都市美術館
『雨の隅田川』(1937年)東京国立近代美術館
『興亜曼荼羅』(1940年)東京国立近代美術館
『けしの花』(1960年)福岡市美術館
『神将』 東京都現代美術館
『古城の羅稜』 東京国立近代美術館
『雪景色』 『静物(菊)』 但陽美術館
『鶴渡る』(年代不明)紙本著色 六曲一双 姫路市立美術館

個人美術館[編集]
但陽美術館

 

 

 

 

 

 

 

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