十二神将(じゅうにしんしょう)は、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、また護法善神である。十二夜叉大将、十二神明王(じゅうにやしゃたいしょう/しんみょうおう)ともいい、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる十二体の武神である。新薬師寺 にある塑像の十二神将像がよく知られる。梵語では、例えば伐折羅は、ヴァジュローマハーヤクシャセーナパティであり、訳すと「ヴァジュラ(という神格の)偉大なヤクシャの軍の主」
(wikipedia)
新薬師寺蔵 国宝 十二神将像 伐祈羅(バサラ)大将 【新薬師寺ホームページ】
プリマヴェラ像は、くろがね橋の右岸より に設置されている。
作者の峯孝は、
1941年第1回直土会展に 「プリマベーラ」 を出品して奨励賞を受賞している。
峯 孝
没年月日:2003/04/10
分野:彫刻, 彫刻家 (彫)
自由美術協会会員で、元武蔵野美術大学教授の彫刻家、峯孝は4月10日うっ血性心不全のため死去した。享年89。1913(大正2)年8月5日、京都市中京区麩屋町二条上ルに生まれる。生家が法衣商を営んでいたため、幼少時から寺などをよく訪れ、また、父、伯父共に日本画をよくしたことから、美術に接することの多い環境で育つ。26年私立富有小学校を卒業して京都市立美術工芸学校(現、私立日吉ケ丘高等学校美術工芸課程)の彫刻課に入学。同校在学中に木彫の基礎を習得し、3年次から5年次には塑像による人体彫刻を学ぶ。1931(昭和6)年同校を卒業し、上京して東京美術学校彫刻科に入学するが、体調を崩して京都へ帰り、松田尚之の主宰する東山研究所に通う。33年、フランスでブールデルに師事して帰国した清水多嘉示を知り、以後師事する。36年第11回国画会展に「T氏の妹」「友人像」および油彩画「山梨風景」で初入選。以後同展に出品を続ける。38年第3回京都市美術展に「N君の裸像」を出品して知事賞を受賞。39年建畠大夢の指導する彫刻研究団体、直土会に入る。40年紀元2600年奉祝展に「裸婦」を出品。41年第6回京都市美術展に「若い女」を出品し奨励賞を受賞。同年第1回直土会展に「プリマベーラ」を出品して奨励賞を受賞し、同会会員に推挙される。また、43年第6回新文展に「立像」を初出品。44年陸軍美術展に木下繁との共同制作による「市井に立つ」を出品。また同年、美術推進隊に加入させられ、鶴田吾郎を隊長とする一行とともに北海道に渡る。45年北海道砂川鉱山で「鉱夫の像」を制作。戦後は46年春、第1回日展に古典的写実に基づく「女ノ首」を出品し、以後48年まで官展に出品を続ける。49年に自由美術家協会会員となり、同年の第13回展に「裸婦」を出品する。51年7月新潟県佐渡郡相川および両津で佐渡文化会議主催の「峯孝作品展」を開催し、翌月佐渡郡河原田町公民館で峯孝作品展を開催。53年画家海老原喜之助の推薦により熊本の鶴屋デパートで峯孝彫刻個展を開催。54年博多の大丸デパートで峯孝個展を開催。同年毎日新聞主催の現代日本美術展第1回展に「若い音楽家の首」「青年像(習作)」を出品、以後隔年で行われる同展に64年まで出品を続ける。55年第3回日本国際美術展に「傾斜せるコンポジション」「試作(首)」を出品。58年より61年まで武蔵野美術学校講師を勤める。66年6月に渡欧しエジプト、ギリシャ、イタリア、フランスをめぐって同年末に帰国。滞欧中は主にギリシャとイタリアに滞在し、カララで大理石の「イカロス」を制作する。また、フランスではブールデルの生地を訪ねた。77年秋、日中友好美術訪中団の一員として訪中し、上海、北京、西安などをめぐる一方、洛陽、大同の史跡を見学する。80年4月武蔵野美術大学講師となり同年7月同学教授となる。82年日本美術家連盟理事となる。83年武蔵野美術大学美術資料図書館で「峯孝教授作品展」が開催される。日常生活に取材したブロンズによる人体像を好んで制作し、写実に基づく穏健な作風を示した
独立行政法人 国立文化財機構 東京文化財研究所
ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ
Royal Academy of Arts
イギリス・ロンドン中心部のピカデリーにある国立芸術学校。
美術館が併設されている。王立芸術院と訳される。
沿革
ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツは1769年に開校。初代校長はサー・ジョシュア・レイノルズ(現在中庭に銅像が建てられている)。建物はパラディオ様式のバーリントン邸(バーリントン・ハウス)という貴族の屋敷である。この建物は以前、ロンドン大学の本部が置かれていたこともあった。
活動
ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツは王立とはいえ、国王や政府から支援を受けていない。収入源のひとつは、美術展の開催であり、非常に質が高くナショナル・ギャラリーやテート・ギャラリーなどと匹敵するくらいである。2004年には新しく改装されたバーリントン邸の当初の区画である、ジョン・マデウスキー・ファイン・ルームと呼ばれる部屋で、常設展示も行われるようになった。
Royal Academy Home - Royal Academy of Arts
http://www.royalacademy.org.uk/
ラファエル前派 ( ラファエルぜんぱ、Pre-Raphaelite Brotherhood ) は、19世紀の中頃、ヴィクトリア朝のイギリスで活動した美術家・批評家 ( また時に、彼らは詩も書いた )から成るグループである。19世紀後半の西洋美術において、印象派とならぶ一大運動であった象徴主義美術の先駆と考えられている。サー・ジョン・エヴァレット・ミレー (Sir John Everett Millais )は11歳の時、ロンドンのロイヤル・アカデミー付属美術学校に史上最年少での入学を許可され、1846年にはわずか16歳でロイヤル・アカデミー の年次展に入賞する。
Noelle Reno attends The Royal Academy of Arts Summer Exhibition Preview Party 2009 at Royal Academy of Arts on June 3, 2009 in London, England. (Photo by Tim Whitby/Getty Images) *** Local Caption *** Noelle Reno
(June 3, 2009 - Photo by Tim Whitby/Getty Images Europe)
Sleeping Hermaphrodite
Roman, 2nd century AD; Marble.
© The J. Paul Getty Museum.
ヘルマフロディトス (Hermaphrodite) の父はヘルメスであり、母はアプロディテ。
頗るつきの美少年に生まれついたが故に、ヘルマフロディトスには数奇な運命が待ちかまえていた。
15歳のとき、生まれ育った環境に退屈してリュキアや カリア などを旅して回った。ハリカルナッソス(現トルコ・ボドルム)近くのカリアの森の泉で、ナイアデスのサルマキスと出会った。
彼はフリギア(現トルコ)の聖山であるイデ山でニンフによって育てられた。
生物学上の、 「両性具有」 「雌雄同体」 を表す "hermaphrodite (ヘルマプロディートス)" という語は、父たるヘルメス "Ἑρμῆς, Hermēs" と母であるアフロディーテ "ΑΦΡΟΔΙΤΗ, Ἀφροδίτη, Aphrodītē" を合成してつくられた。ヘルマプロディートスを古典ギリシア語では、 ʽἙρμαφρόδιτος と表記する。ラテン文字による転写例は、Hermaphroditos であり、ラテン語では、 Hermaphroditus と書かれる。古代ギリシャ神話の神のひとりである。