わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

修学院離宮

2010-02-28 | 建築

ご案内

 


 紅葉の修学院離宮 「京都を歩くアルバム」

 

修学院離宮 (しゅがくいんりきゅう)

京都市左京区の比叡山麓にある宮内庁所管の離宮
造営 17世紀中頃(1653年(承応2年) - 1655年(承応4年))
後水尾上皇 が造営
桂離宮・仙洞御所とならび、王朝文化の美意識の具現化されたもの

 

 

 

 

 千歳橋

 

 

 

 

 

 

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橋口 五葉

2010-02-26 | 日本人作家

 日本人作家

 

 

 


橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年(明治14年)[1]12月21日 - 1921年(大正10年)2月24日)は明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍したが、最晩年、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。アール・ヌーヴォー調の装幀本、「現代の歌麿」と形容された美人画を残している。


かつて薩摩藩藩医で漢方医を勤めていた士族橋口兼満の三男として、鹿児島県鹿児島市樋之口町(現在の鹿児島市立甲東中学校に辺り、正門脇には石碑が立っている)に生まれた。本名・清。画号の五葉は、鹿児島の自宅にあり地域のランドマークになっていた、樹齢300年の五葉松にちなんだもの。少年時代は狩野派の絵を学んだが、1899年(明治32年)、数え19歳の時、画家を志して兄たちを頼り上京し、橋本雅邦に学ぶ。翌1900年(明治33年)第8回絵画共進会に橋口五葉の名で日本画3点を出品(現在全て所在不明)するが、遠縁の黒田清輝の勧めで東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科予備課程甲種に入学、翌年本科に入学。同学年選科に和田三造、二年選科に青木繁、熊谷守一、橋本雅助、らがいた。在学中から展覧会へ出品、挿絵などで活躍しており、1905年(明治38年)に東京美術学校を首席で卒業した。

浴場の女【橋口五葉】1915


 


 「化粧の女」 木版 紙、大正7年(1918年)

雑誌『ホトトギス』の挿絵を描いていた事や、五葉の長兄が熊本の第五高等学校で教え子だった関係で夏目漱石と知り合い、1905年(明治38年)、『吾輩ハ猫デアル』の装幀を依頼される。以来『行人』まで漱石の著作の装幀は五葉がつとめることになる。漱石以外にも、森田草平、鈴木三重吉、森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、泉鏡花の作品の装幀を手がける。1911年(明治44年)、籾山書店の企画した叢書のためのデザインは、大正2年まで24もの名作の表紙を飾ることになる。その蝶をモチーフにあしらったデザインのために胡蝶本と愛称された。その他イラストでも活躍し、1911年(明治44年)「此美人」が三越呉服店の懸賞広告図案で第1等を受賞、懸賞金1000円を獲得し有名になった。この作品は、元禄模様の着物を着た女性が美人画の版本を手に座る姿を描いており、江戸回顧及びアールヌーボーの流行を反映している。


 


 「温泉宿」木版、紙、大正9年(1920年)完成は昭和27年(1952年)。

五葉の甥・橋口康雄が主版のみ完成していた本作に、多色刷りを加えて版画化した作品。そのため、五葉生前の作に比べると印象がやや異なる。
1915年(大正4年)、渡辺庄三郎を版元とする新版画の運動に参加、渡辺版画店より木版画「浴場の女」を制作版行。その後、喜多川歌麿、鈴木春信などといった浮世絵の研究に熱を入れており、春信美人画の複製、『保永堂版東海道五十三次』の復刻などを行った。その一方でモデルを雇い、裸婦素描を繰り返し描いている。後に散逸、多くは外国へ流出してしまったが、その総数は3000点にのぼるといわれる。五葉はモデルに同じポーズを取らせ繰り返し描くことで、修正と純化を進め、版画へおこすべくただ一本の墨線へ纏め上げていく。その成果が結実したのが1918年(大正7年)からの私家版木版である。代表作として、「髪梳き」、「手鏡」、「手拭いを持つ女」、「夏装の女」、「かがみの前」などがあげられ、歌麿の美人大首絵を学び背景を雲母で塗りつぶす伝統技術をよく生かして、肉体表現に新しい感覚をみせた。なかでも、1920年(大正9年)版行の「髪梳き」には、青木繁の感化からロセッティらのラファエル前派の影響がみられ、油絵を学んだことが木版の上に新ロマン派の傾向及び写実的な影を落としている。浮世絵の美に惹かれ、その研究にも打ち込みながら、同年、独立して、一連の大判美人画、風景画を制作し始めるも翌1921年、10数点の作品を残したのみで、中耳炎から脳膜炎を併発し急逝する。享年は数えで41。墓所は鹿児島市郡元町の市営露重墓地。


「孔雀と印度女」 個人蔵(鹿児島県歴史資料センター黎明館寄託) 油彩・キャンバス(二枚折衝立、1907年) 東京勧業博覧会図案部2等賞牌受賞
三越呉服店主催懸賞広告画「西洋画図案此美人」(1911年)
『三味線堀』(籾山書店、胡蝶本第1冊目)『銀鈴集』(隆文館、函の装幀としての代表作)(1911年、ともに泉鏡花著)
「黄薔薇」 個人蔵 紙本著色(1912年)无声会第12回展出品
「耶馬溪」木版画 江戸東京博物館など所蔵 1918年(大正7年)
「化粧の女」 木版画 1920年(大正9年) 
「髪梳ける女」 木版画 江戸東京博物館など所蔵 1920年
「浴後の女」木版画 1920年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%8F%A3%E4%BA%94%E8%91%89

 

 

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長谷川利行

2010-02-25 | 日本人作家

 ご案内

長谷川 利行 (はせがわ としゆき)

明治24年(1891年)79日? - 昭和15年(1940年)1012
京都府出身の洋画家、歌人。名の読みは「りこう」とも。

 


1891年に京都府京都市山科区で伏見警察署の警察官であった長谷川利其(としその)、テルの五人兄弟の三男として生まれる。家族構成や出生日はいくつかの説があり、はっきりとしていない。和歌山県有田郡広村(現広川町)の私立耐久中学校(現県立耐久高校)に入学し、文学を志し同人誌などを発行するも、1909年に中学校を中退し、当時は歌や詩に興味を持ち、1919年には「長谷川木葦集」という私家版の歌集を発行している。1921年に上京するも、しばらくは大衆小説などを書いていた。

 


ガスタンク街道  (1930年)東京国立近代美術館

 

 


 


 

いつ頃に絵を始めたか不明であるが、独学ながら非常に速筆で、1~2時間ほどでれっきとした油絵を仕上げてしまう。自身の 「アトリエ」 を持たず、「思い立ったら絵を描く」 スタンスを生涯続けた。帝展や二科展に落選を重ね、1923年の第1回新光洋画会展にて 「田端変電所」 が初入選する。


  田端変電所   油彩 29.5×29.5cm

 

関東大震災に被災し、また震災の被害をうけた東京をうたった歌誌「火岸」を刊行後、帰郷し、一時京都で活動する。1925年再上京し日暮里の寺院の離れに暮らす。紹介で高橋新吉と出会い、前田寛治 や里見勝蔵の知己を得る。

靉光、麻生三郎、井上長三郎、寺田政明らとの交流が始まり、第14回二科展で樗牛賞を受賞するなど精力的に活動。翌1926年には一九三〇年協会展で奨励賞を受けるなど、徐々に評価を高めていった。

だが、長谷川の生活は、浅草近辺の貧民街で一日中絵を描いているか、絵を換金して酒を飲んでいるかだったという。ついには、友人たちに絵を書いて送りつけたり、岸田國士ら著名人のところに押しかけて絵を描き、金をせびったりするなど生活は荒れ果てていった。このため、知人たちは後世まで彼については堅く口を閉ざし(このため彼の経歴には不明な点が多い)、長谷川の評価が進んだのは死後数十年たってからである。

 

 赤い機関車庫(1928
 油彩、カンヴァス  112.0×194.0cm

 

40歳を過ぎた1930年代以降は木賃宿や簡易宿泊所、救世軍の宿舎などを転々とし、1937年の二科展を最後に公募展への出展をしていない。1932年に詩人や小説家と共に芸術家グループ「超々会(シュルシュル会)」を結成し、長谷川は会の中心的な人物となるものの、1年ほどで自然消滅したという。

その後、理解者であった天城俊彦が新宿に開いた天城画廊で頻繁に個展を開いていたが、安酒の飲み過ぎで慢性化していた胃潰瘍の悪化で徐々に身体が弱り、また1936年の晩秋頃に泥酔してタクシーにはねられ重傷を負うなど、1939年以降はほとんど作品を残していない。

1940年5月、胃癌のため三河島の路上で倒れて、東京市養育院に収容される。治療を拒否し、同年10月12日死去。49歳没。この際、手元にあったスケッチブックなどの所持品がすべて養育院の規則により焼却された。

翌1941年1月になって養育院を訪れた天城俊彦らにようやくその死が知られることとなり、遺骨は天城俊彦によって引き取られた。

1969年、上野不忍池弁天島に「利行碑」が建てられ、長谷川の短歌が刻まれている。

 

 

  カフェ・パウリスタ

2009年、一九三〇年協会展に出展していたうちの一つの絵画、「カフェ・パウリスタ」 が発見され、
224日放送の開運!なんでも鑑定団で紹介された。鑑定額は1800万円。

 

 

赤い機関車庫(1928年)交通博物館
裸婦(製作年不詳)三重県立美術館
酒売場(1927年)愛知県美術館
ガスタンク街道(1930年)東京国立近代美術館
地下鉄ストアー(1932年)東京地下鉄株式会社蔵
新宿風景(1937年)東京国立近代美術館
ノア・ノア(1937年)堀美術館
( wikipedia ) 

 

 

 

 

 

 

 モラン風景  19282
 佐伯祐三

 

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Paul Delvaux

2010-02-25 | 日記

 

2010 02 25 Paul Delvaux【わたしの里・日記】
 Paul Delvaux

 

こと裸婦像に関しては、日本の感性が幼児性を抜け出せていない。

マレーシアの偉大な政治家、マハティール氏は欧州人の事を評して、「好色で利欲的」だと断じた。東洋にはヌードを鑑賞の対象とする文化が、あまり深化しなかったのだろうか。日本の江戸時代では、歌麿などの浮世絵が有名だ。しかし、これってやっぱり「好色」つまり、欲望を喚起させる。とかの意味合いが多いのだろう。これに対して、ギリシャ時代から連綿とつづいてきた、欧州の美意識は哲学的でさえ有る。

日本では西 周 (にし あまね)が明治時代に、多くの漢字熟語を編み出して、哲学とか政治学などの概念を表現した。

欧州人は絵画だとか彫刻、そして神話などで概念つまり イデアを表現したのだろう。

ことばで「裸婦」と表現すれば、その概念は漢字的には、ただひとつの「裸婦」でしかない。

ところが西欧芸術の「裸婦」だとかの概念は、作家の作品の数だけある。

 

ポール・デルヴォーの映像概念は、まったくもって無数かと思われるほどだ。

作品そのものが、「美」と謂ふ概念を、こと鮮明緻密に提示している。

雑多な現実から離れて、画布のうえに異次元の世界が、ありありと展開している。

  

郵便ポストがあり、直ぐ隣に電話ボックス。

公衆の概念を、実物のポストと電話ボックスで表現する。そこに普段は、けっしてあってはならない、裸の女体が配置されている。これを現実の公園などで敢行すれば、日本では警察沙汰となる。公然猥褻陳列などという、野暮な法律がこの珍事の出現を禁じている。ところが、この絵は映像作家の用意した、プライベート空間のセットならばどうだろうか。この撮影映像を見て、その違法性を持出すのは、映像表現への唐突すぎる干渉となる。

先に書いたことだが、日本ではヌード芸術が充分に成熟していない。

なので写真の裸体は猥褻の可能性が大だが、絵画で表現されれば芸術と認定する。ナンテ、極めて低次元の子供じみた、区分があったりする。

 

その意味では、日本でもファンの多い、Paul Delvaux ではある。どう見たってリアルではない。画家が頭の中で設計図を作る。それを絵筆で画面に表現する。その書き割り的なリアリティに、埋め尽くされている。この芸術的な空間の中で、美の神 ヴィーナスが裸でポーズする。何処からどう見たって、総天然色の絵画芸術だ~。という事なのだ。欧州とか米国で起きたこと。産業革命で多くの成金が生まれた。彼らの多くは、古典芸術のお約束。神話だとか箴言が絵に篭められている。なんて理解するのが面倒だ。それで、ピカソだとか、セザンヌの絵画が出現した。

 

 El Congreso 会議 (1941)

   Ich glaube, daß ich einer Frau ähnele, die es jetzt von darauf einführt,

  眼鏡の紳士がリーデンブロック教授 (Professeur Otto Lidenbrock) であり、ジュール・ヴェルヌの「地底旅行」(1864発表)の主人公である、らしい。この物語には、"ボク"(アクセルAxel =教授の甥)や、アイスランド人ガイドのハンス(Hans Bjelke)などが登場する。
( wikipedia  より抽出 )

 

 

                                                                                             

 

 

beach 
 Beach

 

 

 Paul Delvaux 1897 ~ 1994

 

  白いヌード 不安な町
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久能山東照宮

2010-02-25 | 建築

 

 

 久能山東照宮 (くのうざんとうしょうぐう)

静岡県静岡市駿河区に所在する神社です。

 

晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によってこの地に埋葬されました。

 

江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが完了した。修復作業は現在も一部で続けられている。 2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。2015年(平成27年)には鎮座400年を迎えるため、様々な催し物が企画、開催されている。

 


※新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦を主とし、丸括弧内に西暦(1581年以前はユリウス暦、1582年以降はグレゴリオ暦)を添える。同年4月(4月)は旧暦4月(新暦4月)、同年4月(4月か5月)は旧暦4月(新暦では5月の可能性もあり)の意。

久能山(標高216m)は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。 推古天皇(592- 628年)の頃、久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。しかし、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。

 

 家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和3年(1617年)には2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。秀忠は日光山麓にも東照社(現・日光東照宮)社殿を造営したが、3代将軍・家光の代になって日光山の東照社は荘厳なものに大改築され、日本全国の東照宮の総本社的存在となった。「寛永の大造替」と呼ばれる家光の改築事業以前にあった秀忠の代の社殿は現存する久能山のそれ(当社社殿)と同様であったと考えられる。

なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家であった。

落成当初以来の多くの建造物が現存するが、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治時代初期には五重塔の破却を余儀無くされた。


近世以前  [編集]推古天皇(592- 628年)の頃:久能忠仁が久能山麓に久能寺を建立。
天文11年12月26日(1543年1月31日):徳川家康、誕生。
元和2年(1616年)
4月17日(6月1日):徳川家康が駿府(現在の静岡)で死去。
5月(6月):久能山で東照社(現・久能山東照宮)が着工される。
元和3年12月(1617年12月):東照社(久能山東照社)、創建。
元和3年12月21日(1618年1月17日):朝廷から当社祭神(家康の神格化)に神号「東照大権現」が宣下される。
寛永年間(1624- 1645年):本殿、石の間、拝殿が檜皮葺から銅瓦葺きに変わる。
正保2年11月3日(1645年12月20日):朝廷から東照社に宮号「東照宮」が宣下され、これよりのち、「久能山東照宮」の通称が成立する。


近代以降  [編集]明治元年3月(1868年3月):<神仏分離令>
明治3年12月(1871年1月):本地堂を廃し、境内の日枝神社を移す。
明治4年5月14日(1871年7月1日):<近代社格制度の制定>
1873年(明治6年)
2月18日:県社に列格。
廃仏毀釈運動が日本全国を席巻する中、久能山東照宮では五重塔が破却される。
1888年(明治21年)5月1日:別格官幣社に列格。
1946年(昭和21年):社名を「久能山東照宮」とする。
2006年(平成18年):最近年に実施された社殿塗り替え事業の竣工。
2010年(平成22年)12月:本殿、石の間、拝殿が、国宝に指定される。


祭神
東照大権現(徳川家康)
(相殿)豊臣秀吉・織田信長

祭事
例大祭 4月17日
春季大祭 2月16日(具足祭)2月17日(大祭)2月18日(講社祭)
秋季大祭 10月17日

月次祭 毎月1日、17日
月次誕辰祭 毎月26日

愛宕神社例祭 1月24日
稲荷神社例祭 4月9日
久能神社例祭 5月18日
日枝神社例祭 6月15日
厳島神社例祭 6月17日
竃神社例祭 12月17日
駿河稲荷社例祭 2月8日

 

 

建造物  国宝



「久能山東照宮 本殿、石の間、拝殿」

江戸時代初期の代表的権現造で元和3年(1617年)落成。寛永年間に檜皮葺から銅瓦葺きとなった。

 


重要文化財(国指定)
「久能山東照宮」
唐門
東門
廟門
玉垣
渡廊
廟所宝塔(神廟) -本殿の裏手にあり家康の遺骸を埋葬した所。
末社日枝神社本殿(旧本地堂)
神庫
神楽殿
神饌所
鼓楼
神厩
楼門

( wikipedia より抄出し画像を添付した ) 

 

 

 

 

 

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国会議事堂

2010-02-24 | 建築

ご案内

 

 

建物は1936年(昭和11年)に帝国議会議事堂として建設された。
旧名称 帝国議会議事堂

建築面積 13,358m²
延床面積 53,466m²

階数   地上3階、地下1階、中央塔4階(塔屋最上部9階)
高さ   両翼20.91m、中央塔65.45m
着工  1920130
竣工  1936117

 

 

 

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国会内でファッション誌撮影 小学一年生

 

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速水御舟

2010-02-23 | 日本人作家

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日本の写実主義

速水御舟【日本人作家】1894 ~ 1935 速水御舟 日本人作家の索引

 

速水 御舟  ( はやみ ぎょしゅう ) 

1894年(明治27年)82日 - 1935年(昭和10年)320日)
大正期~昭和初期の日本画家である。本名は蒔田 栄一(まきた えいいち)。


1894年(明治27年)82日、東京浅草に生まれる。従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作「炎舞」のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。長くない生涯に多くの名作を残し、「名樹散椿」(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。1935年(昭和10年)320日、腸チフスにより急逝。40歳没。

 

  


『 赤絵の鉢にトマト 』 大正10年作

 

1894年(明治27年)、蒔田良三郎の次男として東京市浅草区に生まれる。

1905年(明治35年)、市立育英小学校高等科へ入学。若い頃から画に興味を持ち、1908年(明治41年)に卒業すると、松本楓湖の安雅堂画塾に入門。宋元古画、大和絵、俵屋宗達、尾形光琳などの粉本を模写する一方、同門の仲間で団栗会を結成。近郊を写生散歩して回った。

1909年(明治42年)、師である楓湖から禾湖(かこ)の号を頂く。同年、母方の祖母である速水キクの養子となる。1910年(明治43年)、巽画会展に「小春」、烏合会展に「楽人」を蒔田禾湖の名で出品。これが初めての展覧会出品となる。

1911年(明治44年)、巽画会展に「室寿の讌」(むろほぎのうたげ)を出品。一等褒状となり宮内省買い上げの栄誉を受ける。同年、同門の今村紫紅に従い紅児会に入会。その後、御舟は今村から多大な影響を受けた。

1912年(明治45年)、号を自ら浩然(こうねん)と改める。

1913年(大正2年)、紅児会が解散する。その後、再興日本美術院展(院展)に活躍の場を移す。

1914年(大正3年)、号を御舟と改め、この頃から姓を速水とする。同年、今村を中心とした美術団体・赤曜会を結成。その後、1916年(大正5年)に今村が死去するまで活動を続ける。1917年(大正6年)第4回院展に「洛外六題」を出品。横山大観、下村観山らに激賞され、川端龍子と共に日本美術院の同人に推挙された。

1919年(大正8年)、浅草駒形で市電に轢かれ左足切断の災禍に見舞われる。しかし御舟の画に対する熱意には全く影響せず、その後も精力的に活動を続けた。

1921年(大正10年)、結婚。

1925年(大正14年)、軽井沢に滞在中、代表作の1つである「炎舞」を完成させる。

1929年(昭和4年)、第16回院展に「名樹散椿」を出品。翌年にはイタリア政府主催・大倉男爵後援ローマ日本美術展覧会の美術使節として横山大観夫妻、大智勝観らと共に渡欧。ヨーロッパ各地及びエジプトを巡る。渡欧中、ジョットやエル・グレコに魅せられた。

日本に帰国後も日本画の新しい表現方法を模索し続け、数々の名作を発表する。そのため多くの美術家から日本画の将来の担い手として嘱望されたが1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスで急逝。

 

 

 

御舟 」 の号の由来俵屋宗達の「源氏物語澪標関屋図屏風」(六曲一双、国宝)の見事さに感心し、その屏風に描かれた金銀の波上に浮かぶ「御舟」(貴人の乗る舟)からとったもの。また、速い水に舟を御すともとれる。

 

 その他 [編集]画塾に入った理由は御舟が自宅の襖に描いた群鶏を楓湖が見て感心し、画家にしたらどうかと入塾を勧めたからである。
1918年(大正7年)頃の作品には、青を基調とした作品が多い。御舟はこの頃の自分を「群青中毒にかかった」という言葉で表現している。
関東大震災では多くの美術品も犠牲になったが、御舟の作品も例外ではない。横山大観らに激賞された「洛外六題」をはじめ、初期の傑作の多くが地震によって遺失した。
御舟の早世は多くの美術家に惜しまれ、横山は「速水君の死は、日本の為に大きな損失である」と述べている。
御舟は画商から金を積まれても自分にモチベーションが出ない限り、絵を描かなかった。そんな御舟に画商は「蟻一匹でもいいから描いてくれ」と必死に頼み込み、やむなく御舟は大きなキャンバスに小さい蟻の絵を描いた。

 

 

「京の舞妓」(1920年(大正9年)、東京国立博物館蔵)
第7回院展に出品。発表時はその細密すぎる描写が話題となり賛否両論を招き、横山などからは酷評された。その為か御舟はこの作品以降、人物画から長年にわたり遠ざかる。

 


 富んで火にいる夏の虫

 
炎舞 」(1925年(大正14年)、山種美術館蔵、重要文化財)


蛾が炎に魅せられているかの様に舞う、緻密な写実と幻想が見事に合わさった作品。生物に造詣の深い昭和天皇は、この画を見て「蛾の眼が生きているね」と言ったという。他に御舟が蛾を描いた作品として、「粧蛾舞戯」という作品がある(「昆虫二題」と題する双幅の作品の左幅。右幅は「葉蔭魔手」という題の蜘蛛を描いた作品)。三島由紀夫の小説、金閣寺の新潮文庫版のカバーのデザインに起用されている。

 

 


名樹散椿」(1929年(昭和4)、山種美術館蔵、重要文化財

京都市北区にある地蔵院の椿の老木を描いた作品。日本画の写実的な部分に、大胆にもキュビズムにも似た表現を取り入れた意欲作。1977年(昭和52年)に 「 炎舞 」 と共に重要文化財に指定され、昭和の美術作品として初めての指定となった。 ( Wikipedia より)

 

 

 

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岩水日本の写実主義【わたしの里の美術館・supplement】
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原撫松

2010-02-21 | 日本人作家

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時代: 明治40年(1907)
形状: 60.0×50.0

 

原撫松 はら ぶしょう
 
1866-1912 明治時代の洋画家。
 慶応2年1月27日生まれ。京都府画学校で小山三造らにまなぶ。明治37年イギリスに留学し本格的な油彩技法をおさめた。「坂田快太郎博士の像」(岡山大医学部所蔵)など肖像画を得意とした。大正元年10月27日死去。47歳。備前(岡山県)出身。本名は熊之介,のち熊太郎。作品に「画家ヘンリー」「裸婦」など。
( kotobank )

 

 

 
 裸婦 1906

油彩・キャンバス 130.5×97.8cm 
東京藝術大学所蔵

 


 肖像 (伝 奥宗之進)
1906(明治39)年
55.6×45.4cm 油彩/キャンヴァス

 

 

男二人
1907-08年 (明治40-41頃)
油彩・画布 37.9 ×50.7 cm

 

 

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