ラファエル前派 ( ラファエルぜんぱ、Pre-Raphaelite Brotherhood ) は、19世紀の中頃、ヴィクトリア朝 のイギリスで活動した美術家・批評家 ( また時に、彼らは詩も書いた ) から成るグループである。19世紀後半の西洋美術において、印象派とならぶ一大運動であった象徴主義美術の先駆と考えられている。
Dante Gabriel Rossetti " Proserpine "
概略
ラファエル前派は、1848年、ロイヤル・アカデミー 付属美術学校の学生であった ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイ の3人の画家によって結成された。その少し後に4人、すなわちウィリアム・マイケル・ロセッティ(ダンテ・ゲイブリエルの弟、批評家)、ジェームズ・コリンソン(画家)、フレデリック・ジョージ・スティーヴンス(批評家)、トーマス・ウールナー(彫刻家)が加わった。これがラファエル前派のメンバーである。
ロセッティ
ミレイは芸術性の違いから、ロセッティとハントはモデルをめぐる私情から、互いに散り散りとなっていくが、この後に、ロセッティを慕ってその下に集まった芸術家たち、すなわちエドワード・バーン=ジョーンズやウィリアム・モリスらを美術史上、次世代のラファエル前派と考える場合もある。
「ラファエル前派」の原語は Pre-Raphaelite Brotherhood であり、これは本来 「ラファエロ以前兄弟団」 とでも訳すべきものである。「ラファエル」とはイタリア・ルネサンスの古典主義の完成者であり、その後のアカデミズムにおいて規範とされたラファエロのことを指す。「ラファエロ以前」という言葉には、19世紀のアカデミーにおける古典偏重の美術教育に異を唱える意味があり、彼らはラファエロ以前の芸術、すなわち中世や初期ルネサンスの芸術を範とした(実際には、ラファエロ以後の絵画の影響も非常に大きい)。「兄弟団 (Brotherhood)」 とは、元々(宗教的)結社を指すもので、これは日本語の 「派」 よりも、かなり限定的な意味を持つ言葉である。彼らは、この美的な信条を共にする集団という着想をナザレ派から得た。
従って、単に画風の影響を受けた、あるいは親交があるというだけで、例えば、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse) やローレンス・アルマ=タデマ(いずれもアカデミー側の画家)らの ヴィクトリア朝 の画家たちを、一纏めにラファエル前派と分類するのは誤りである。
ハント、ミレイ、ロセッティらは1849年から、自らの絵画に Pre-Raphaelite Brotherhood の頭文字からなる 「P.R.B.」 と署名したが、当初、これが何を意味するのか、周囲にはわからなかった。ここにも、彼らの秘密結社性を確認することが出来る。
特色と影響
ラファエル前派の絵画の特色として、以下のことが挙げられる。まず、主題としては中世の伝説や文学、さらに同時代の文学にも取材している点が新しい。また従来のキリスト教主題を扱うにしても、伝統的な図像を無視する場合が多い。画風は、初期ルネサンスや15世紀の北方美術を真似て、明暗の弱い明るい画面、鮮やかな色彩、そして細密描写に特色がある。ラファエル前派に思想的な面で影響を与えたのは、同時代の思想家であり美術批評家であったジョン・ラスキン であった。ラスキンの美術に対する考えは、一言で言えば「自然をありのままに再現すべきだ」ということであった。この思想の根幹には、神の創造物である自然に完全さを見出すというラスキンの信仰がある。しかし、明確な理論をもった芸術運動ではなかったラファエル前派は長続きせず、1853年にミレイがロイヤル・アカデミーの準会員になったことなどをきっかけとして、数年後にはグループは解散した。
ラファエル前派をはじめとする19世紀イギリスの絵画は、明治時代の日本でも「明星」や「スバル(昴)」などの文芸雑誌に紹介されながら、美術家(青木繁、藤島武二など)や文学者(夏目漱石など)にも影響を与えた。例えば、詩人の蒲原有明は、ロセッティの詩を盛んに翻訳して理解を深め、自らの作品にもその詩風を活かした。また、藤島武二の『天平の面影』(1902年)には、ラファエル前派の作品にしばしば描かれる婦人像の投影がみられる。
象徴主義
世紀末芸術
クリスティーナ・ロセッティ
大滝 秀治(おおたき ひでじ、1925年(大正14年)6月6日 - 2012年(平成24年)10月2日)は、日本の俳優・ナレーター。本名同じ。身長167cm[要出典]、体重63kg[要出典]、血液型O型[要出典]。東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)出身。生まれは母の実家・新潟県上越市[1]。
2011年(平成23年)度文化功労者。名優の一人として舞台・テレビドラマ・映画・テレビコマーシャルと60年以上にわたり幅広く活躍。劇団民藝に所属し、宇野重吉没後には奈良岡朋子と共に代表を担っていた(法人の代表権は大滝が持つ形となり、奈良岡は取締役であった)。趣味は将棋。1987年から1988年頃にかけて活動した女優の大滝久美は次女。同期には奈良岡・内藤武敏がいる。
(wikipedia)
バロック様式の庭園に見られる、岩で作られた洞窟をグロッタ (Grotta) と言いました。ロカイユとはこの洞窟・グロッタの岩(rocaille)の石組みのことです。それが転じて、室内装飾の優美な曲線様式を、ロカイユ装飾とよぶようになりましたた。
ロカイユ装飾は、イタリアの貝殻装飾に由来すると考えられていますが、植物の葉のような複雑な曲線を用いた様式は、今では極ありふれた装飾の一形態ではあります。(画像を参照してください)。
18世紀ルイ15世統治下のフランスを中心に、欧州各地を席巻したのが優美な装飾様式でした。「ロカイユ(貝殻装飾)」が語源で、曲線を多用した装飾性の高い形体は、今日の装飾界では普遍的な典雅を表す様式です。きらびやかで軽快そのもの、甘美さと豪奢さの横溢する画面には、絶対王制の至福が充ち満ちているようです。その絶頂期の王権を言祝ぐのは、神話に示される、不滅の権威でした。
肖像、風俗を写したもの、そして可愛らしい日常の誠、静物の絵にも、ロココ独自の様式美があふれています。
バロックとロココ [編集]新古典主義の時代(18世紀末~)になると、前時代の装飾様式が退廃的であるとして蔑称的に使われたが、その後、時代一般の美術・文化の傾向を指す用語として、広く使われるようになった。ロココ様式(スタイル)、ロココ建築、ロココ趣味などと使う。豪壮・華麗なバロックに対して、優美・繊細なロココともいわれるが、両者の境界は必ずしも明確ではなく、ロココはバロックの一種と考える人もいる。
ロココの時代範囲 [編集]ルイ15世の愛妾で、才色兼備で知られたポンパドゥール夫人(1721年 - 1764年)を中心とする宮廷のサロン文化の最盛期にロココの華を見ることができる。ルイ15世の晩年の愛妾デュ・バリー夫人の時代でもロココ様式は維持されたものの、ルイ15世の孫ルイ16世(在位1774年 - 1792年)が即位する頃から、装飾を抑え直線と均衡を重んじるルイ16世様式(広義の新古典主義様式)に次第に取って代わられるようになる。しかしルイ16世の王妃マリー・アントワネットが「ロココの女王」と通称されるように、ロココ的な美意識や雰囲気は、宮廷が実権を失う1789年のフランス革命まで継続したと見てよいであろう。
スウェーデンでは、1771年に即位したグスタフ3世の治世を「ロココの時代」と呼称されている。特に芸術や文化の面でロココの影響を受けて「グスタフ朝時代」と呼ばれる一時代を築いた(同時代のフランス文化の影響を受けて広義の新古典主義様式も見られた)。スウェーデンのロココ様式の時代は、1792年にグスタフ3世が暗殺されるまで継続した。
フランス [編集]ジェルマン・ボフランが建てたパリのオテル・ド・スービーズは手のこんだ建築装飾がほどこされ、この時代のロココ様式を代表する作品として知られる。
ポンパドゥール夫人の命でアンジュ=ジャック・ガブリエルが建てたヴェルサイユ宮殿内のプティ・トリアノン。なおポンパドゥール夫人没後にこの敷地に王妃マリー・アントワネットはイギリス式庭園を造り、「王妃の村里」と呼ばれる農村を併設した。
ルイ15世の義理の父スタニスワフ・レシチニスキによりナンシー(当時はロレーヌ公国)のスタニスラス広場が整備される。
フランスのロココ絵画
この時代には、アカデミーのサロン(サロン・ド・パリとも呼ばれ1725年に第1回を開催)が定期的に開催されるようになり、美術品が広く鑑賞されるようになった。
アントワーヌ・ヴァトー、フランソワ・ブーシェ、ジャン・オノレ・フラゴナールなどの画家が知られている。それぞれヴァトーがロココ前期(1710-20年代)、
ブーシェがロココ盛期(1730-50年代)、
フラゴナールがロココ後期(1760-80年代)を代表する画家である。
ヴァトーが1717年にアカデミーに「シテール島への巡礼」を出品した際には「雅宴画(フェート・ギャラント)」の画家として承認された。なお1717年の「シテール島への巡礼」は現在ルーブル美術館にあり、それより数年後に描かれた別ヴァージョンはプロイセン国王フリードリヒ2世が1756年に購入して、ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿に飾られている。
ヴァトー没後に「雅宴画」の画家として正式に認められた人物には他にジャン=バティスト・パテルやニコラ・ランクレがいる。優雅な男女が集い、恋の戯れや遊びに興じる「雅宴画」には、イタリア喜劇(コメディア・デラルテ)の配役(ジル、メズタン、アルルカン)も登場している。こうした演劇をモチーフにする絵画はヴァトーに先立つクロード・ジロによって先鞭がつけられたものである。
モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールが描いたポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)の肖像画(右図)が盛期ロココ時代の肖像画として有名。なおこの肖像画が油彩ではなくパステルで描かれていることに注目されたい。パステルの軽妙な色彩は多くの支持者を得、ラ・トゥールの好敵手とされたジャン・バティスタ・ペロノー、静物画で知られる ジャン・シメオン・シャルダン、スイス生まれでトルコに赴いてその地の風俗を記録したジャン・エティエンヌ・リオタールもパステルで優作を残している。
サロンでの展示に対し美術批評がなされるようになったのもこの時代のことである。哲学者でもあるディドロはその批評で軽佻浮薄で官能的な刺激の強いブーシェやジャン=マルク・ナティエの作品を批判している。対して感傷的ではあるものの道徳的な教訓が強いグルーズの作品や、静物画や風俗画で活躍したシャルダンの質実な作品には好意的な評価を下している。
「女性の時代」とも呼ばれる18世紀のロココ時代だが、1783年にはフランス王立アカデミーに二人の女性が入会を認められた。アデライド・ラビーユ=ギアールとエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランである。特に後者ヴィジェ=ルブランは王妃マリー・アントワネットの肖像画家としても知られ、そのよき理解者でもあった。宮廷の崩壊に立ち会ったという意味ではロココ最後の画家と言ってもよいだろう。
ロマン主義 ( ロマンしゅぎ )
英語: Romanticism、フランス語: Romantisme、ドイツ語: Romantik、イタリア語: Romanticismo、スペイン語: Romanticismo、ポルトガル語: Romantismo は、主として18世紀末から19世紀にかけて行われたヨーロッパ、及びヨーロッパの影響を受けた諸地域の精神運動のひとつである。しばしばロマン派 とも言われる。
先行する新古典主義に対するロマン主義の反伝統的、反制度的表現を準用して、絵画においてもロマン主義の呼称が用いられる。ロマン主義に属する画家としては、スペインの ゴヤ 、フランスの ドラクロア 、テオドール・ジェリコー、ギュスターヴ・ドレ シャッセリオ 、イギリスのウィリアム・ブレイク、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー、サミュエル・パーマー、リチャード・ダッド、イタリアのフランチェスコ・アイエツ、、スイスのヨハン・ハインリヒ・フュースリー、ドイツでは山岳・廃墟などをテーマにしたカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲなどが挙げられる。
●北アメリカから南アメリカにかけてが原産です。別名で「べにばなサルビア」、「テキサスセージ」とも呼ばれています。段咲きとなり丈夫で作りやすく、赤色の「レディインレッド(cv. Lady in Red)」、ピンク色と白色の「コーラルニンフ(cv. Coral Nymph)」、真っ白な「スノーニンフ(cv.Snow Nymph)」が広く知られています。花期は、7月から11月ごろです。
●シソ科サルビア属の多年草で、学名は Salvia coccinea。英名は Scarlet sage, Texas sage。
source
たしかに作りやすいというか、元気な花です。
うえの絵の株は、11/03日に撮影したもので、下の映像の株からこぼれた種が発芽して、もう11月の初めには開花しています。
ちなみに下の撮影しのは、10月の初めでした。