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とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

Deux danseuses

2010-07-31 | 作品

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Deux danseuses【クプカ】

クプカ

Amuser les autres est une des façons les plus émouvantes d’exister .
                                                                                                                                       Clarice Lispector .

 よそ人を楽しませることは、おのれも感動する最も素晴らしい時。
            クラリセ・リスペクトル

 

 

 

Nude Dancer JOSEPHINE BAKER

 

 

 

 受験生は「すっぽんぽんの素っ裸」【supplement】 ヌードショー【Edward Hopper】
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二人の少女

2010-07-30 | 作品

 

 

実に可愛い。

明るい色彩の傘の光りに包まれた、二人の少女。
ハイライトをバックにしての、人物の配置は青木繁の持ち味を出している。
その陰のなかで、少女と幼子のおしゃべりが聞こえてきそう。

姉なのか年上の少女は、幼子の目をのぞき込んでいる。

小さな子は、姉様の手元を見ている。

綺麗なカサがほしいのかナ。 

 

     二人の少女 1909

 

 

 

 青木繁【日本人作家】1882 ~ 1911
  青木繁の記録 は、こちら をクリックしてご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 独り身の気安さで、全国を放浪していた。山深い温泉街でくらしていたころ。よく、ちょっとした押しつけガイドなども、仕事あいまのつれづれに、遣ったことがある。気の好い年配夫婦などが、なが~い山道を歩いていると、声をかけてあげたりしていた。それで車はいつもちょっとはきれいに磨いておいたりもしていた。小一時間ほどの名所案内のあと、帰り際にちょっとしたこころざしを呉れたりもする。いちおうは、もぐりのタクシーではないのでと断るのだが、それでもガソリン代の足しにでもとか熱心に言われれば、受け取ることもある。

 若い娘たちだと、帰り際に食いかけの菓子袋なんかを於いていく。ああ、あとか思うのだが、持ち帰って宿で働く仲間たちとの、酒のつまみになったりもした。若い外人の三人連れに、声かけられた。英語は得意ではない。これは困ったと思っていたら、一人東洋人とのハーフのような小柄な娘が、日本語で道案内を乞うた。説明するのも面倒でもあり、暇でもあり、ちょうど国鉄の駅まで行っても好いと思っていたので、同乗させることにした。

 

 行楽シーズンのまっただ中、メーンの通りは大渋滞。なのでちょっと寄り道をしてみることとなった。

 

 

 

 よりみちの続きは、

青木繁の記事中 短編小説・その弐 こちら です。

 

 

 
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青木繁

2010-07-30 | 日本人作家

 ご案内  日本人作家

青木繁【日本人作家】1882 ~ 1911 青木繁

青木繁 『 自画像 』 

1904年 (明治37年) 作 東京藝術大学大学美術館所蔵

 

 

 青木 繁 ( あおき しげる ) 1882年(明治15年)7月13日 - 1911年(明治44年)3月25日)

 日本の明治期の洋画家。

 

『海の幸』の作者として知られる繁は、近代日本美術史の上でもっとも著名な洋画家の一人である。若くして日本美術史上に残る有名作を次々と描き上げた後、放浪生活に入り、満28歳の若さで没した繁の生涯は半ば伝説化している。短命だったこともあって残された作品の数は決して多くはなく、代表作『海の幸』を含め多かれ少なかれ未完成の作品が多い。しかし、日本の古代神話などをモチーフにした浪漫的色彩の濃い画風は西洋美術の物まねではない独自のものとして高く評価されている。


出生・少年時代  繁は今の福岡県久留米市に、旧有馬藩士である青木廉吾の長男として生まれた。武士の系譜を引く父は厳格な人物で息子の画家志望を聞かされた時、「美術だと。武術の間違いではないのか」となじったという逸話が残っている。繁は同じ久留米生まれの洋画家 坂本繁二郎 とは同年で両者は小学校の同級生でもあり、終生の親友でありライバルであった。同時代人の証言や繁自身による『自伝草稿』によれば、繁は歴山帝(アレクサンドロス大王)に憧れる早熟な文学少年であったようである。繁は絵画のほかに短歌もよくし、短い生涯に多くの文章を残している。

 画家時代  繁は1899年(明治32年)、満16歳の時に中学校の学業を半ばで放棄して単身上京、画塾・不同舎に入って主宰者の小山正太郎に師事した。肺結核のため、麻布中学を中退。1900年(明治33年)、東京美術学校(のちの東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝 から指導を受ける。1902年(明治35年)秋から翌年正月にかけて、久留米から上京していた友人・坂本らと群馬県の妙義山や信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。これは無銭旅行に近い珍道中だったことが坂本の書簡などから窺えるが、繁はこの旅行中に多くの優れたスケッチを残している。1903年(明治36年)に白馬会8回展に出品した 『 神話画稿 』 は白馬会賞を受賞した。 『 古事記 』 を愛読していた繁の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともに ラファエル前派 などの19世紀イギリス絵画の影響が見られる。1904年(明治37年)夏、東京美術学校を卒業したばかりの繁は、坂本や画塾不同舎の生徒で繁の恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良(めら)に滞在した。 『 海の幸 』 はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルは福田たねだとされている。この前後が繁の短い絶頂期であった。以後の繁は展覧会への入選もかなわず、私生活にも恵まれず放浪のうちに短い生涯を終えたのである。

 

 

 

  《幸彦像》1907年、栃木県立美術館


1905年(明治38年)8月、今の茨城県筑西市に滞在中、繁とたねとの間の子である幸彦(後の尺八奏者福田蘭童)が誕生した。しかし、繁はたねとはついに正式には結婚しなかった。1907年(明治40年)8月、郷里の父の危篤の知らせを聞いた繁は単身帰郷、これが青木とたね・幸彦母子との永遠の別れとなった。画家としては 「天才」 と言われた繁であったが、父亡き後、一家を支えていく甲斐性は彼にはなく1908年(明治41年)10月には郷里の家族とも別れて天草、佐賀などを転々とする放浪生活に入った。放浪時代にも作画を続け 『月下滞船』 (1908年(明治41年))のような佳作もあるが、もはや画家としての繁のピークは過ぎていたようである。心身ともに病んでいた繁は1911年(明治44年)3月、入院先の福岡市の病院で死去した。満288か月の若さであった。

温泉1910年【青木繁】  温泉 青木繁 作品の索引

 友人の坂本は繁の死後、遺作展の開催や画集の発行に奔走。繁の死の翌年である1912年(明治45年)には東京上野と福岡で遺作展が開催され、その翌年には 『青木繁画集』 が発行されている。また、1948年(昭和23年)には繁の遺言にしたがい、筑紫平野を見渡す久留米市兜山(通称「けしけし山」)に繁の歌碑が建立された。除幕式には坂本のほか、元恋人のたね(当時・野尻姓)、繁の遺児・蘭堂も出席した。

 

ハナ肇とクレイジーキャッツの元メンバーで料理研究家の石橋エータローは蘭堂の息子、つまり繁の孫である。


 黄泉比良坂(よもつひらさか)(1903年)(東京藝術大学大学美術館)
自画像(1904年)(東京藝術大学)
天平時代(1904年)(ブリヂストン美術館)
海の幸(1904年)(重要文化財、石橋美術館)
大穴牟知命(おおなむちのみこと)(1905年)(石橋美術館)
日本武尊(1906年)(東京国立博物館)
わだつみのいろこの宮(1907年)(重要文化財、石橋美術館)
朝日(1910年)絶筆(佐賀県立小城高等学校黄城会)

( wikipedia より抄出、画像の添付と編集あり )

 

 

 

 

 

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青木敏郎

2010-07-30 | 日本人作家

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青木敏郎【日本人作家】1947 ~ 青木敏郎 日本人作家の索引

 

青木敏郎 Toshiro Aoki
 
略歴

1947年  京都市に生まれる 
1973年  東京造形大学卒業 
1973-78年  中村正義(故人)の援助にて留学 
   ベルギー/ゲント市のロイヤル・アカデミーに在籍 
   オーストリア/ウィーンの歴史美術館にてフェルメールの 「画家のアトリエ」、 
   オランダ/デン・ハーグのマウリツホイスにてフェルメールの「デルフトの眺望」を模写する 
1984-86年  欧州滞在 
   ベルリン/ダーレム美術館にてハンス・ホルバインの「ゲオルグ・ギーツェの肖像」 
   を模写する 
1988年  『青木敏郎画集』を求龍堂より刊行 
1994年  輝くメティエ─油彩画・細密表現展(奈良県立美術館) 
   現代絵画の断面(京都文化博物館) 
1995年  洋画の展望─具象表現を中心に(福井県立美術館) 
1998年  『青木敏郎画集 第2集』 を求龍堂より刊行 
2007年  「両洋の眼展」 河北倫明賞受賞 
2009年  青木敏郎の世界展 光と影─古典への憧憬(諏訪市美術館) 
(shinseido-photo.com)

 

 

白デルフトと染付の焼物の静物【青木敏郎】

青木敏郎《白デルフトと染付の焼物の静物》2012年 ホキ美術館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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現 在  無所属 
http://www.shinseido-photo.com/a/toshiro-aoki/


浅井 忠

2010-07-29 | 日本人作家

 日本人作家

浅井 忠 1856 ~ 1907

浅井 忠   (あさい ちゅう)

安政 3 621日(1856 722日) - 明治40年(1907年)1216日)
明治期の洋画家。教育者としても貢献した。
( wikipedia )


 

 江戸の佐倉藩中屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれる。少年時代は現在の佐倉市将門町で1863年から1872年までを過ごし佐倉藩の藩校・成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身。父・常明は、この成徳書院の校長をしていたこともある)で四書五経などの儒教や武芸を学ぶかたわら、13歳の頃から佐倉藩の南画家・黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。

1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年に工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889年には忠が中心になって明治美術会を設立した。1894年、日清戦争に従軍。1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。

1902年に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも努力した。安井曽太郎、梅原龍三郎、津田青楓、向井寛三郎を輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。

1907年12月16日没。墓地は京都の金地院。

 

 

 

 

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朝倉 文夫

2010-07-28 | 日本人作家

 

 

 

 朝倉 文夫  あさくら ふみお

1883年(明治16年)3月1日 - 1964年(昭和39年)4月18日
明治から昭和の彫刻家(彫塑家)である。
号は紅塐(こうそ)と称し、「東洋のロダン」とも称された。
娘は舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)と、彫刻家の朝倉響子。

 


1883年(明治16年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市)村長であった渡辺要蔵の三男として生まれる。11人兄弟の5番目の子であった文夫は1893年(明治26年)の10歳の時に朝倉種彦(衆議院議員・朝倉親為の弟にあたる)の養子となるが入学した大分尋常中学校竹田分校(在学中に「竹田中学校」に独立。現大分県立竹田高等学校)を3度も落第し、いたたまれなくなった母・キミにより1902年(明治35年)、当時既に東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京することになる。初め俳句を志しており正岡子規に師事しようと願っていたが、奇しくも上京した当日の9月20日がまさに子規の通夜であった。
 
結果的に兄のもとで彫塑に魅せられた文夫は必死の受験勉強の末、翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭した。モデルを雇う金がないために上野動物園へ通って動物のスケッチをするうち、たまたま教授からの紹介を受けた貿易商の注文で動物の像の制作を始めほぼ一日に一体のペースで卒業までに1200体以上に及んだ。このころ、当時の海軍省が募集していた三海将の銅像に「仁礼景範中将像」で応募し1等を射止め注目されることとなる。

 


 
1907年(明治40年)、卒業制作として 「進化」 を発表し研究科へと進み谷中天王寺町にアトリエ、朝倉塾を作り子弟の養成にあたった。また文部省が美術奨励のために開いていた第2回文展に 『闇』 を出展し、最高賞である 2等となり翌年も 「山から来た男」 で 3等を得るが、欧州留学の夢は破れてしまう (当時、連続で 2等を得ると公費による欧州留学の権利を得ることができた)。
 
    進化 1907

 

 

1910年(明治43年)、最高傑作ともいわれる「墓守」発表後、友人の荻原碌山の死や病にふせった弟の看病などに携わるうち突如南洋のシンガポール、ボルネオの視察へと旅立つ(後に文夫が著書『航南瑣話』(東和出版社、1943年(昭和18年))で語ったところによれば、この旅行は井上馨(当時文夫は井上の肖像を制作していた)の密命による軍事探偵的なものであったという)。この際の経験は、後の文夫に大きな影響を与えたといわれている。帰国後も第8回文展まで連続上位入賞を果たし、第10回文展においては34歳の若さで最年少審査員に抜擢されるほどであった。
 
1921年(大正10年)に東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮であった。1924年(大正13年)に帝国美術院会員となるが1928年(昭和3年)にこれを辞し、1934年(昭和9年)にアトリエを改築し「朝倉彫塑塾」を作る(後の朝倉彫塑館)。1935年(昭和10年)、再度帝国美術院会員、1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員。1944年(昭和19年)東京美術学校教授を辞し帝室技芸員、従三位、勲四等瑞宝章受章。アトリエは戦災をくぐり抜けるが、戦時中の金属供出のために400点余の文夫の作品はほとんど消滅してしまう(原型は300点余が残された)。
 
戦後も精力的に自然主義的写実描写に徹した精緻な表現姿勢を一貫して保ち続け、1948年(昭和23年)には第6回文化勲章を受章。1949年(昭和24年)、日展運営会常務理事。1952年(昭和27年)に文化功労者に、1954年(昭和29年)、日展理事、1956年(昭和31年)から1959年(昭和34年)まで日本芸術院第一部長。1958年(昭和33年)には日展の顧問に就任した。非常に多作であり、全国各地に数多くの像を残した。
 
1964年(昭和39年)4月18日、急性骨髄性白血病にて死去。81歳没。正三位を追贈される。墓所は谷中霊園にある天王寺の飛地にある。

 

 


文夫と猫 
 
文夫は動物、中でも身近に多くいた猫をこよなく愛した。多いときには自宅に15~6匹の猫を飼っていた。身のこなしや飼われながらも野性味を失わない神秘性などに魅力を感じ「吊るされた猫」(1909年(明治42年))、「よく獲たり」(1946年(昭和21年))など自らの作品にも幾度も取り上げた。
 
 『たま』 1930年作)

 

東京オリンピックの開催にあわせて猫に関する作品を100種仕上げて「猫百態展」を開催したいと考えていたが、自身の死によってこの願いは叶わなかった。
 
文夫と園芸 [編集]
 
文夫は東洋ランの栽培や活け花、盆栽などに造詣が深く『東洋蘭の作り方』(三省堂書店 1940年(昭和15年))という著書を残している他、盆栽家・小林憲雄と共に当時趣味の世界でしかなかった盆栽の芸術的価値を見出し現在も開催されている「国風盆栽展」の開催に尽力した。
 
また自身の彫塑塾においても「園芸」が必修科目とされ、今も残る朝倉彫塑館の屋上菜園ではトマトや大根を育てるなど自然との触れ合いを芸術の基本概念と考えており、彫塑作品の野外展示も積極的に行った。

墓守(1910年(明治43年))(朝倉文夫記念館、朝倉彫塑館、東京国立近代美術館等。朝倉彫塑館所蔵の石膏原型は重要文化財に指定されている)
 時の流れ(1917年(大正6年))(朝倉文夫記念館、朝倉彫塑館)
 大隈重信像(1932年(昭和7年))(早稲田大学、朝倉彫塑館。登録有形文化財)
 三相(1950年(昭和25年))(朝倉文夫記念館、朝倉彫塑館)
 太田道灌像(1952年(昭和27年)(東京国際フォーラム内)
 翼の像(1953年(昭和28年))(上野駅グランドコンコース内。上野駅開設70周年、特急はつかり運転開始記念として作られた)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%96%87%E5%A4%AB

 

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