明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

2018年の年頭に当たって

2018-01-09 22:10:00 | 今日の話題
2018年の初ブログです。今年もよろしくお願い申し上げます。さて今朝の羽鳥モーニングショーで、羽生善治永世7冠のニュースが流れていた。キャスターの羽鳥がいろいろと質問したりするコーナーだが、その終わりに「人生で成功する秘訣は何ですか」と羽鳥が尋ねると、彼が答えたのは「わかりません」だったのだ。さもありなん、羽鳥はこの回答に「深いなァ凄いなァ」と言って感心していたが、考えてみれば当たり前である。彼は「将棋以外のことは何も知らない」のだ(勿論私の憶測である)。

なんだ馬鹿馬鹿しいと言ってしまえばそれまでだが、画家の山下清もそうだったように「一つのことに純粋に取り組んでいく」ことが現在の彼の成功をもたらしたという事である。だから「将棋で強くなる秘訣は?」と質問すれば、彼はスラスラと答えたと思う。そんなものなのだ。だが私は「人生で成功する」というフレーズを羽鳥が選んだこと自体が間違いだと言いたい。つまり「具体的でない質問は、答えようがない」ということなのではなかろうか。この場合、人生で成功するという具体性のない漠然とした言葉に対し、彼に一般論めいた抽象的な回答を期待した点で、羽鳥は(朝のワイドショー全般に言える事だが)失格だった。さらに言えば「○○で成功する」と具体的な職業を言うのもやや間違いで、私の指摘する問題のポイントは「成功する」という言葉にある。

1 では何故「成功する」がいけないのか

「○○が出来るようになる」というのは自分の努力で解決できるが、「○○で成功する」というためには、他人と競争して相手を打ち負かさなければ達成することは出来ない。つまり「他人に勝つこと」という「別のテーマ」に問題が集約されるのだ。もう○○は問題の主題ではなくなってしまい、「他人との戦い」が主題である。これは設問が悪かったのではなく、聞く側の「羽生善治永世7冠に求める答え」が世間の人々の興味の中心である「他人に勝つ方法」を聞こうとしていたことから来ているのである。永世7冠などそんな簡単にできるもので無いことは百も承知だが、質問はそういうことを求めているように私には思える。これでは答えの範囲が広すぎて、羽生善治のように「わかりません」としか言えないでは無いか。

2 適正な質問とは何だったのか

この件から私の得た教訓は「具体的な話でなければ、全部捨てよ」、つまりリアリストに成れ!ということである。先程の例で言うならば、「将棋で永世七冠を取るのに必要な能力は何ですか?」と聞くべきだったと思う。そして彼の答えの中から「ピンときたフレーズなり考えなり」を咀嚼して自分のものとして使えばいい。それがリアリストの質問の仕方である。万人に共通の答えなどは「もともと存在しないし、本当は誰も求めていない」のでは無いだろうか。結局は抽象的で曖昧な格言めいた話でわかったような気になるのがオチである。「人生で成功する?」と羽生さんが考えた途端に、頭の中が「抽象的な単語で埋め尽くされてしまう」のは当然だろう。これでは答えも抽象的にならざるを得ない。質問を具体的にすればする程考える範囲も狭くなり、その分「答えも正確で具体的になる」ものである。だから質問をする方は「具体的に聞く」ことが、実は相手にも親切なのである。それでも肝心な事はわからない。相手は方法について具体的に細かく説明してくれるだろうが、実はその方法を実践する「自分自身の事」が余り良く分かっていないのである。自分自身と質問者との違いが分かってなければ、方法だって「同じでいい訳がない」のだ。だが羽生善治永世7冠と私たちが「違っている」ということを理解するだけでも、ニュースを聞くときの心構えになる。羽鳥のした「人生に〜」の質問では、それが見えてこないのである。

3 リアリストとは何か

人間にとって最も根源的な問は「私は次に何をしたらいいのか?」ではないだろうか、それを誰かが教えてくれるためには「何を求めているのか」をはっきり言わなければならない。「◯◯を獲得したい」、それから全ては始まる。それが成功して金持ちに成りたい、とか、有名人になってチヤホヤされたいという「漠然とした夢」であれば、時間をただ浪費するばかりで永久に夢を叶えることは出来ないと思う(勿論そうでない人は具体的に行動している筈である)。まずは身近な「具体的な第一歩」から始めること。そして具体的な目標をずっと続けること、それが一番の近道である。そして大事なことは目標に近づいている状態を「維持する」ことだ。大事なことは「その目標が具体的であればある程、範囲が狭くなり、より幸せに近づく」ことである。目標は、次々と変えていけば良い。しかし人間は「他人と比較する事」で幸せを実感しようとする悪い癖がある。それは「今どこまで到達しているか」という状態の比較である。他人より遅れている人間は、その差を何とか「楽に埋める方法」を見つけようとするものである。また、人の一生は「重き荷物を背負いて山道を行くが如し」と言った人がいた。つまらない考えである。荷物ならいつか「目的地に到着して、肩から荷物を降ろす瞬間」がある筈で、その瞬間を夢見て辛い山道を耐え忍んで歩き続ける。目的地に到着するまでは「苦難の連続」に過ぎない。だから「楽して運びたい」と思うのだ。これが一般の人間の考える「人生で成功する方法」の真実ではないだろうか。曰く、なんか良い方法はないだろか?

4 結論。リアリストに徹すれば、自分が見えて来る

羽生善治永世7冠に関して言えば、まず将棋が好きな人でなければ何ということのない話である。そして将棋が好きで、且つ、プロになる位の強い人でなければ、「彼の強さの秘訣」なんか聞いても分からないであろう。結局、一般の人には無関係な話なのだ。世の中の大半のことは、一個人に取って無関係なのである。何か「皆に共通の成功の秘訣」はないだろうか、と思って誰もが必死に探すが「そんなものは決してない」のである。そう言ってしまえば身も蓋もないが、ワイドショーの話題の殆どが「井戸端会議的などうでもいい話」成り立っている。そのどうでもいい話をさも「自分に関係があるかのように見せる方法」が、あの抽象的に中身を広げるやり方なのである。

私のように70間近になるまで歳を取ってきたら、自分に関係ない話には首を突っ込まないに越したことはない、そう考えるようになった。知識を広く浅く身につけるのは若い人に任せて、自分はもう自分の目標に向かって一直線に進むべきなのだ。だから自分に関係があるかどうかを確認する意味で、私はリアリストに徹することにしたのである。そして抽象的な話は、一切聞かないことにした。その意味ではこのブログも、多少は変化があるかも知れない。人間は結局のところ、人生の終わりに当たって「終着点はまだ先にある」と言えれば、それが本当に幸せな人生である。

私はこの言葉を、2018年の年頭の言葉にしようと思う。

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