1、煩悩を捨て去る
言葉を変えれば、あらゆる「評価・ランク付け」から脱却すること。これは他人を安易に「評価しない」こと、とも言える。
我々は他人を見る時まず外見を一目見て、一瞬で簡単に判断している。家を出てから街で出会う人々を次々と片っ端から判断して、その人が「安全か危険か」を見ているのだ。これは人間が社会に出て、生きていく為の必要必須の自己防衛技術である。この能力が低い人間は目の前にある危険を察知出来ずに、無用なトラブルに巻き込まれて人生を無駄にする。これは大人になるまでに獲得するべき大事な能力であり、ある意味「通りすがり」の人を判断する唯一の方法である。もう一歩進んで、お互い名前を名乗る関係くらいまでは、まあこれで「済ましている」と言っても過言ではないだろう。この時点では「好き嫌いの評価」も多少は出てくる。だから、外見で人の評価をするのは云々〜、という「もっともらしい戒め」は、ここでは「的外れの考え違い」だと私は思う。「外見」こそ、社会における「一番有効な標識」である。
では、仕事の話または趣味嗜好の話など、挨拶だけの関係からお互いの距離が近くなって、ちょっと個人的な事など話すような間柄になったら、どう評価するのだろうか。勿論、それぞれの考え方は千差万別であるし、趣味趣向に関しては尚更お互いに相容れない好みがあるに違いない。そこで、社会の中での暮らし方の基本は、お互いの違いに「寛容になること」であると結論付けた。
この世は好き嫌いで動いている。我々は普段の生活では「好きな」ものを選び、「正しいか正しくないか」を考えて物事を選択することは、実はほとんど無い。勿論本心ではやりたくないこともあるが、それをやることによって最終的には自分の利益になると考えて、「我慢してやる」というのが真実なのだ。意識しているかどうかは別として、人には「好きなもの」が既にはっきりと存在している。そして日常的には、それを得るための「方法」は、色々ある中から最善と思うものを「その人なり」に選んで行っているのである。世の中はこうして動いている。
大雑把に言うならば、我々の日常的な意見の食い違いは、この「目的と方法」の二つが複雑に絡まって起きているのだ。そして大概の場合、この二つを分けて「それぞれ別個に話し合う」ことで、すんなり解決する。これを「ごっちゃ」にして議論するから喧嘩になる、というのが物事の大概のシナリオである。日本人は特にこの「分けて考える」という論理的思考を不得手にしていることが、問題を大きくしている最大の原因だと私は思っている(それは教育が遅れているからなのだが、それに気付かないのが日本人だ)。
そこで、揉めごとを起こさず平和に安穏に暮らしていく方法として、それぞれ他人の好きな事を尊重し、お互いに「エリアを分けて」衝突しないようにしようと考えた。世の中のトラブルの大半は相手の世界にズカズカと踏み込み、相手を自分の考えに無理やり従わせようとすることから起きている。お互い相手の考えにはなるべく触れず、無理に一緒のグループになろうさえとしなければ、世間はもっと暮らしやすくなるのでは?、と思う。
原理原則か言えば、世界は黒か白かの対立構造にはなく、それぞれの得意分野で「棲み分けて暮らしている」のが生き物の実態である。他人を評価するのに一見分かり易いレッテル貼りをし、ひと括りにして自分たちのテリトリーから排斥するやり方は、同じように「相手側からも」レッテルの逆貼りをされて、結果は戦争でしか解決できない事態に陥ってしまう(ロシアや中国の問題もそうであろう)。レッテル貼りというのは、単に貴方の考えを表現したものに過ぎない。相手には相手の論理がある。まず、双方の意見を並べて分析してから、改めて対話を始める姿勢が必要なのじゃないか。私はそれが一番良い方法だと思っている。
まあ卑近な例で申し訳ないが、例えば貴方がある女性を好きになったとしよう。そして貴方はその女性に「あなたが好きだ」と言うとしよう(重ねて言うが「例えば」である)。そして何故彼女を好きになったのか、いくつも理由を挙げることが出来るとしようか。しかし貴方がどんなに熱心に説得しようとしても、相手には貴方と同じく「選ぶ権利」があるのだ(おおっ!、久し振りに聞くカウンター・ロジックだ!)。
だから相手が「ごめんなさい」と断ったら、素直に諦めて引き下がるしかないのである(そこでさらにもう一歩押すことで、熱意にほだされて相手が折れる・・・というのは、悲しいかな男の側の妄想でしかない)。それが好みの世界での「唯一のルール」だと思う。理由は何でもいい。女性はあの手この手を使って、網を広げて男を待っている。ネオンサインに蛾が引き寄せられるように、それにつられて集まってくるのが男性の本能・習性なのだ。そこで集まった中から一人を選ぶのは、他ならぬ「女性」である。だから「女性にも」選ぶ権利がある、と私は言ったが、生物の行動理論で言うならば、選ぶのは男性ではなく間違いなく「女性」の方なのである。だから「そん時は諦めて、次行こう、次!」が、正しい男の進む道である。
上にあげた例は多くの事例の一つに過ぎない。世の中には一方的でとても納得出来ない、または、理由にもならない「理不尽な事柄」で決定されていることが余りにも多く存在する。いちいち議論して、白黒付けようとしていたらとてもじゃないが命がいくつあっても足りない。何故あの男ばかりがモテるのか?に始まり、どうしてカレーにタバスコなぞ掛けるのか?まで、言い出したら切りがないのが現実である。これは、どこかで線引きするしかないではないか。
人の気持ちはその人のもの。自分の自由にはならない、と知るべし・・・だ。
人の気持ちは自分の自由にならない。だから、その人そのものを「ダメな人間」とか「くだらない人間」とか貶めて何とか勝ち負けをつけようとするのがラベリングなのだ。これが心理学的に言う「代理作用」である(正確には何というのか知らないが)。確かに世の中には、正しい事は一つだけしかない。だが、人の好みは百人百様であり、人の数だけ色んな答えが存在することもまた事実である。大事なことは「方法」に対して評価・ランク付けするのは正しいが、「目的」に対しては受け入れて「寛容になる」ことが求められているのである。その両方を「ごっちゃ」にしないこと、それが大事なんだと思う。
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結論:人と意見が違っていたら、まずそれは目的があることで「その目的はお互いに共有できているか」を考えよう。もし目的が一緒で方法が違うだけなら、その場合は充分に議論をし、お互い納得の上で「より良い方法」を選ぶべきである。但し、目的が違っているなら「そもそも答えが出ない」のだから、たとえ自分としては気に入らなくても、そういう考えもあるんだなぁと「受け入れる」ようにしよう。・・・これが私の、これから気を付けようと思っている事(その1)である。
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〇 煩悩
もし他人を見て何か思ったとしたら、今思ったことは「自分とどういう関係がある?」と自問してみよう。大概の場合、何も関係がないことが判明する筈である。関係がないことで心を乱されないのであれば、それは煩悩を一つ退治したことになる。頑張ろう!
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