明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

全国迷所紀行2016 - 栃木・長野編 

2016-01-02 20:30:00 | 今日の話題
(1)大学を出たけど

昭和47年、大学をいよいよ出るというその年の2月になっても、私はまだ行き先が決まってなかった。新潮社と白水社の2社を受けたが、あっさり落っこちた。さて困ったなくらいにしか思ってなかったのか、たまたま喫茶店に置いてあった新聞の社員募集欄を見て「株式会社 山◯」という時計卸業の会社を受けてみる事にした。スイスの輸入時計を扱う会社という文言から「芸術的な精密時計」を連想し、何か「デザイナーの集まり」のような芸術に長けた集団を想像していたのかも知れない。

試験はペーパーテストのみで即日採用された。後から知ったが、受けに来た5人は全部採用されたとのこと。小さな20人ばかりの会社だった。父親も母親も何も言わなかったが、随分と失望したに違いない。その分、弟が頑張って父親の後を継いでくれたから、親孝行は弟がしてくれた。姉の結婚式の時、父親は後継者披露で弟を指名していたから、私はことは諦めていたのだろう。今でも父親には申し訳ないことをしたと思っている。そんな父親も平成3年には鬼籍に入った。とうとう親孝行はしないままである。

そんなこんなで4月から新入社員になった私は、時計の詰まった黒カバンを2つ、両手に持って先輩の後をついて歩くセールスマンの卵になった。芸術的な云々はどこへ行ったのか、毎日が社会勉強に忙しかったのですっかり忘れてしまったようである。元々のんきな性格だったのかも知れない、あまり物を考えないまま日々が過ぎていったが、時代は右肩上がりで活気に溢れていた。

(2)西那須野の駅で立往生する

初夏の暑い日に西那須野へ出張に行ったことがあった。カバンはものすごく重く、両手に提げて電柱から次の電柱まで歩くのがやっとで、毎回一休みするくらいに重かった。最初は会社から駅まで歩くのに、二、三回休めば何とか駅にたどり着くようになるのに半月ほどかかった。今なら車で行くのだが、当時は会社の社長の方針で車は使わない事になっていた。事故を起こしたら世間に申し訳ないというのが理由だったが、まだ車が珍しい時代のことである。私は免許を持ってなかったので疑問には思わなかったが、免許を持っていたら果たしてどう思ったか。今にしてみれば不思議な理屈である。

電車で西那須野に下り改札を出たら、だだっ広い一本道の街道が左右に伸びていた。右も左も遠くに山の景色が霞んで薄青くぼんやり見えている。店も看板も何もない、未舗装の真っ直ぐな道だけがずっと続いていた。

「店、どこですか?」

私は重いカバンをおろし先輩に尋ねたが、別に答えが知りたかったわけではない。この地獄の責め苦があとどの位続くのかが、知りたかっただけだった。答えを聞いたからって、先輩が片方持ってくれるわけではないことは充分分かっていたのだ、これが初めてでは無いからである。

「ちょっと行ったとこだ、大して時間はかからないよ」

先輩は私の一縷の望みをいつも打ち砕く。せめて具体的な数字が、例えば「あのタバコ屋の角を曲がったところ」のようであったら、どれ程慰められたことだろう。

「そうですか」

私はひたすら歩いた。そんな私が1年後には、後輩の同じような質問に同じ口調で返事していた。

「もうちょっと行ったところだ、あと少しだよ」


(3)雪の下り坂

駅を降りて粉雪がちらつく中を30分ほど歩いただろうか、バス通りを少し行って左に曲がり踏切を越えたところにお店はあった。くるぶしがすっぽり埋まる様な雪道で、まわりは畑なのか人が通った形跡もなく、一面真っ白の積もった雪が見渡す限り続いている。

今年の冬は雪が深いな、そんな事を考えながら富士見の店を後にして雪道を駅まで戻ろうとしてとぼとぼ歩いていたら、何かの拍子にカバンが指から滑り落ちた。余りの寒さで指がかじかんでいたのかも知れない。凍結した急坂をあっという間に滑り下りて行く黒いカバンの後を追う様にして、私はスッテンコロリン頭から滑って行った。行く先には信号のない交差点があって、カバンは一直線に向かって行く。「もし車に轢かれたりしたら、俺はクビだ」。考える間もなく、右からトラックが出てきてアッサリ轢いてしまった、バカヤロー!

はぁはぁ言って駆け寄った私の眼の前に、カバンはそのままの形で転がっていた。よかったぁー、上手いこと車輪の間をくぐったんだ。凍った泥をコートの尻から払い落としながら、命拾いした幸運に感謝してそそくさと交差点をでた。「俺はついている、奇跡だ」。電車に乗り込んでやっと落ち着いた私は、トラックに轢かれてバラバラになったカバンから、商売道具の時計が交差点に撒き散らされている図を想像して、もう一度恐怖を味わった。入社して1年目の新人セールスマンに取って、商品を道に撒き散らすなんてことは考えても恐ろしい事である。

(4)下諏訪は寒くて

すっかりシートの暖かさにうたたねをして、目を開けたら下諏訪の駅に着いていた。ドアが開かない。慌てて隣のドアから降りる人の後について出る。外は寒いので手で開ける寒冷地仕様のドアだが、都内から来た人は皆初めは戸惑う。私も御多分に洩れず故障かと思って慌てた。よく見ると他にも同じように慌てて下りる輩がいるので、知ってる人は気にも留めない冬の風物詩である。

下諏訪は中央線の中でも特に寒い。駅から人の波がゾロゾロと国道沿いに流れていくが、女性は皆んなズボンを履いて歩いている。どんよりした曇り空に雪掻きの積もった泥道を車が次々と通って、そのそばを女子中学生の列が制服にマフラー姿で歩いて行く。やはり全員ズボンである。30年前の事であるが、いかにも田舎暮らしの女学生らしく好感が持てた。こういう都会の喧騒と無縁の生活の中で育った女性は、芯のしっかりした愛情深い母になるに違いないなどと自分勝手に決めつけて、何となく将来はこんな妻を貰えたら良いななんて妄想をしていたがとんでもない!スカートを履かない理由はただ恐ろしく寒くて、スカートなぞ履いてられないのである。

中には脚の綺麗な子もいるだろうに、他人より美しく見られたいという女性の絶対的欲求も、余りの寒さに封印せざるを得ないのだ。生きる本能が女性の美への欲求に勝る稀有の事例の一つに、下諏訪の寒空を挙げる人も、確実に存在する。

単に寒いだけなら東北・北海道のほうが気温は低いであろう。だが下諏訪は底冷えが強烈なのだ。あの大きな諏訪湖が凍るのである。旅館は夜はヒーターを利かしてなければ、凍え死にしてしまうかと思える寒さである。装飾の一切ないだだっ広い部屋にヒーターのパイプが張り巡らされた無味乾燥な客室で、下諏訪は住むには余り良いところでは無いなと結論を出した。

というか、先程ちょっとばかり心を動かされた女学生の可愛らしい姿も、雪の中を餌を求めて歩く白熊のように、厳しい生存環境に耐えて生きてると思えば、いっそ哀れに見えてくる。残念だが白熊は私は御免被らせて貰う、寒いのは嫌いだ。下諏訪には結局その冬に得意先がなくなって、とうとう行かなくなってしまったが、女学生のスカート姿も見ずじまいである。


(5)世界一薄い時計

クォーツ腕時計が出始めた頃、私も割り当て個数の中から辰野の店に一個用意して、意気揚々として乗り込んだ。「これは厚さ0.98mmで、世界一薄い腕時計なんです」と一気にまくし立てて店主の反応を伺うと、なぜか芳しい表情を見せない。

「これ、薄過ぎて腕につけるとグニャッと行きそうだに?」。

薄くするためにトコトンこだわった最新のテクノロジーは、逆にそれが裏目に出て顧客の不安を掻き立ててしまっているとは。多分都会ではこの様な心配は無用であろうが、田舎じゃ1から説明しなければ受け入れてもらえない。しかし飛行機が落ちるかも知れないと心配な人に大丈夫だと説明し納得させるのは至難の技である。両手で持って力一杯曲げてみせれば納得してくれるとは思うけど、私は万一グニャッと行ったらと思うとできなかったので「そうですか、残念です」とだけ言って、時計を引っ込めた。

「ま、貰っとくかに」。やれやれ、38万円のお買い上げだ。

辰野は、中央線の岡谷と塩尻の間に位置し飯田線への分岐点になっている重要な駅であるが、当時はひっそりとした静かな田舎町だった。天竜川沿いに歩いていくと天気の良い日にはのどかな空気が心地良い。そんな田舎でも時計好きはいるもので、「あんな物」と思われるかも知れないが、興味を持つ人の心は凡人にはわからないものである。だから社長も仕入れる気になったのだろう、セールスマンは因果な商売だ。世界一薄い腕時計なんて、意味あるのかねぇ。

(6)リンゴに秘めた想い

ある時、いつもの様に出張に行った。毎月出張に行っているのである。この頃にはいっぱしのセールスマンとして時計を詰め込んだカバンも小指一本で軽々と持てるまでになっていた(売上の方は、まだ半人前だったけど)。

この日は長野から長野線に乗り換えて、信州中野駅を目指した。長閑な秋の日差しが座席の窓から差し込んで、丁度高架橋に差し掛かった列車の長い影がりんご畑を渡っていく。長野はりんごの産地として有名なのだ。

「すごいねぇ、延々と続いている」。同行のP君が感心して言った。

「ははは、呑気だねぇ」。

私は誰に聞いたか忘れたが、ある噂を聞いていた。長野には囚人の拘置所があって、リンゴ園での作業も更生の一環として行われているらしい。見渡す限りのリンゴ園も、囚人がせっせと世話をしている賜物である。

「死刑囚だってよ」。冗談とも本気ともつかぬ言い方をしたので、P君は露骨に嫌な顔をした。

「やめて下さいよ、せっかく美しい風景に見入っていたのに」。列車はようやく橋を渡って右にカーブを曲がった。

「時々その死刑囚、脱走して信州中野あたりまで逃げるそうだ」。

優雅な秋景色は一転して、冷たく寂しげな荒涼たる風景に変わった。景色を楽しむのも最初だけで二回目からは夕飯と風呂の事しか頭い私は、しばらく死刑反対の理論的証明をして時間つぶしすることにしたが、P君は興味ないようで窓の外をずっと眺めていた。案外、リンゴ園の囚人の話を信じたのかも知れない。

その当時の私は、まだ右も左もわからない社会人一年生であった。商売は持ってきた時計を見せて買ってもらう行商人みたいな仕事で、先輩はなんとかかんとか言って置いてきたが私はセンスがないのか全然ダメだった。私は真面目なだけで成績の上がらないセールスマンだった。

成績は上がらなかったが、どうにかしないととは思わなかったのは時代だったのか性格だったのか、そのうちセールスをやめて事務職に配置換えになった。 そしたら才能が開花したのか、バリバリ仕事が出来て肩で風を切るまでに成長した。

人間には向き不向きがあり、ピタリとはまれば能力を100%発揮できて楽しくて仕方がない人生を送れる、私のシンプルな人生観はこうして生まれた。私は自分に向く仕事を見つけることが出来て本当にラッキーだったが、その時は自分が何に向いているかわからなかったのだ。結果がラッキーだったのである。だからいろんなことを試してみることは大事である。石の上にも三年とはよく言うものだが、私は違うと思っている。

(7)K先輩の武勇伝

会社の先輩にKさんという人がいた。職人上がりのちょっと風采の上がらない男だった。学歴も高卒であったが会社生え抜きの古株で、高度成長期に会社を大きくした現会長のそばでコツコツ商品を作り続け、ようやく社員100人を擁する企業の商品部長にまでなった「伝説の」社員である。数々の武勇伝が示すごとく自己破滅型の人生だったが、我々社員には迷惑をかける事はしなかったように思う。思えば、今どうしているのか、行方はようとして知れない。

そのKさんが、ある年の歳末大売り出しが大成功したというので、会社から大入り袋をたんまり貰ったことがあった。「これで雄琴でも行って遊んで来い」。会社も粋な事をするじゃないか。Kさん勇躍仲間を引き連れて、雄琴温泉に繰り出した。

芸者を呼んで飲めや歌えの大合唱、宴もたけなわ散々酔ってトイレに立ったが、隣り合わせになった客から誘われて見も知らぬ団体の宴会場へと入り込んだらしいのだ。本人の説明にわかりにくいところがあるが、紛れ込んだのは事実なので話を続ける。Kさんそこでも大はしゃぎしてたら、ふとした瞬間に「こいつ誰だ?!」と大声で怒鳴られ、「宴会泥棒だ、捕まえろ!」と大騒ぎなった。女性陣からは「変態よ、変態!」と気持ち悪がられ、男性陣からは襟首を掴まれそうになって、決死の思いで襖を蹴破り廊下を激走しだ挙句、薄暗い布団部屋の押入れに逃げ込んだ。

「探せ、探せ!」と、新選組が坂本龍馬を探すごとく、いきり立った連中の「お部屋改め」が近づいてくる。

「此処にいたぞ!」。あっさり見つかって引きずり出されたKさん、何を思ったか口から真っ赤な液体を吐いて、腹を押さえて転げ回った。

宴会場から逃げる時に焼酎のトマト割りを飲むところだったので、濃いめのトマトジュースを手に持っていたのだ。そいつを布団部屋に隠れた後コッソリ飲んだら、急に腹を下してゲロした次第である。そんな事とは露知らないニワカ新選組は「こいつ大丈夫か?」と遠巻きに見て一瞬ひるんだ。

その時ちょうど雄琴温泉のスタッフがやって来て人混みを分けてKさんを引きずって行ったので、取り残された人達も拍子抜けしてもう一度飲み直しに部屋へと帰って行った。Kさんはその後は散々絞られて襖や布団を弁償させられ、出入り禁止になってほうほうの体で雄琴を去ったということです。本人はケロっとしていた、とは当時のことを知る人の証言である。破滅型の面目躍如というところでしょうか。昭和の良き時代のエピソードでした。


(特別おまけ)箱根駅伝

今年の箱根は青山大学が往路優勝、東洋・駒沢・山梨・早稲田と順当。大東文化大・東京農業大など、名門古豪と言われた大学が活躍してた頃が懐かしい。正月は家族揃ってコタツで箱根を見てたっけ。その父母姉はもういない。そういえば私も65歳、今年は新しいことに挑戦してみようかな。

それにしても今年の中大はどうもさえない(ちなみに私は中大卒業生です)。また予選会からの出場になりそう。予選会をもしも突破できないなんてことになったら・・・

答えは、別にどうって事ないじゃない、また一年頑張れば、だって!!!

来週は普段通りアラカルトです、それじゃ。




iPhoneから送信

最新の画像もっと見る

コメントを投稿