明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

火曜日は文化の日:孤独な夜に聞くクラシック(5)ミケランジェリの男の美学

2020-12-29 18:21:46 | 芸術・読書・外国語

年末になり、巣篭もりムードも当たり前になってきて、久々にスマホに入れてあるミケランジェリを、じっくりと聴くことにした。ミケランジェリと言えば、有名なのはシューマンの謝肉祭とドビュッシーの映像である。クラシック・ファンからの支持も高い。だが私はあんまり好きではないので、今日はベートーベンの3番とモーツァルトの15番を聞いてみた。何と天の邪鬼なのか、だが流石ミケランジェリである。その颯爽とした、一点の逡巡もない完璧な打鍵は、音楽というものの原点を思い起こさせてくれる。

ミケランジェリはイタリア人だ。私はイタリアの民族的な音楽の伝統が、彼のピアノにも色濃く現れているような気がしていた。ミケランジェリの明るく輝かしい音色は、イタリアの灼熱の太陽と地中海の玲瓏な青さの織りなす明快な澄み切った風景こそ相応しい・・・と偉そうにぶち上げたが、彼の生まれ故郷はイタリア北部のブレシアっだったっけ(ちなみに最後は、スイスのルガーノで亡くなっている)。まあ、イタリアという風土が彼の演奏に影響を与えているのは確かだろうが、ミケランジェリというピアニストを語るには、彼の性格や個性の齎した部分が大きいと思う。

そもそもミケランジェリのヴィルティオーゾの系譜は、あのテクニックの権化であるポリーニやアルゲリッチが習いに行った、ということでも分かろうというもの。もう一人のピアノ界のヴィルティオーゾであるリヒテルは、余りミケランジェリを評価していなかったようだが、演奏がどうとか言うよりも、多分に彼の「人間嫌い」が合わなかったのかも知れない。一方、彼の風貌やスピード狂ということまでが、彼のカリスマ的な人気を過熱させていた。彼の帯同する調律師の一人、日本人の村上輝久が本に書いているが、彼のピアノへのこだわりの凄さや面白いエピソードを読んでから、私は一層ミケランジェリのファンになった記憶がある。芸術家というのは、どこか普通の人と違う方が、魅力的に感じるものである。

彼は完璧主義者だったが、ピアノの音に対しては徹底してこだわり、指と鍵盤とがぶつかる時に出る僅かな衝突音すら気になって「その音が出ない」ように演奏したという。よく、ピアノ教室の発表会などの演奏で、奏者の爪が「カチカチぶつかって」不快なことがあるが、ミケランジェリはまさか爪は切っていただろう。指の腹が鍵盤に触る微かな音まで、コントロールしなければ気が済まない性格。これが、彼の独自の奏法となっているそうだ。まあ、レコード録音でしか聴くことが出来ない我々には分からないが、相当繊細な耳と微妙な音感を持っていたのは間違いがないらしい。彼の努力は一見、曲の解釈や表現よりも「完璧な音作り」に集中しているように思えてしまうのだが、コンサートを聴く者にとってはそれを微塵も感じさせず、「曲の表現」に全力を傾けているかのごとく弾ききる所が素晴らしい。

ミケランジェリは、その完璧な演奏で圧倒的な地位を占めているが、それは彼の「音の制御」が超人的だからである。ピアノは打鍵したら減衰するしかない打楽器である。弦楽器や管楽器のように音を伸ばしたままでクレッシェンドすることが出来ないのだ。それが人間の声との一番の違いであり、また魅力の一つにもなっている。当然、打鍵のスピードと強さと当たる時のタッチとが、音色を決める唯一の要素となる。ミケランジェリはメロディと伴奏は勿論のこと、両手で和音を弾く時でも「一つ一つの音の強弱・タッチを完全にコントロール」しているために、常にメロディラインが綺麗に浮かび上がって美しく聞こえる。モーツァルトの協奏曲第15番変ロ長調 K.450 の第2楽章の、天上的なメロディと美しさが限りない変奏を聴けば、彼の演奏の凄さが分かるであろう。特にモーツァルトはメロディの素晴らしさと「完成された作曲技法を堪能する」のが醍醐味であり、余計な感情移入は邪魔になるだけである。いい音響システムで聴くのが正解だと思うが如何せんアパート住まいの私には、SHURE のヘッドホンで聴くのが精一杯である(最近、KLIPSCH のイヤホンが、イヤーピースを変えたらランクが上がって、とうとう SHURE に迫る音質を出してくれる様になったのが嬉しい)。

速度はややゆっくり目で、音の粒立ちを楽しむかのように、しかしダンディで「キリリ」とした、断固たる自信を持ってミケランジェリは演奏する。よく、ピアノを弾く時に感情移入しすぎて「我を忘れて没入するピアニスト」が多いが、そういうピアニストに限って「演奏がつまらない」場合が多いのだ。ピアノに限らないが、私は音楽は「楽しめなければ音楽じゃない」と思っている。演劇などでは臨場感に溢れた迫真の演技で観客を沸かせる役者もいるかも知れないが、それが「いい芝居」になるとは私は思っていない。演者は「役を演じる」ことが使命なのであって、「役になりきる」のがその近道では無い、と思っている。まあ、演劇のことは置いておくとして、音楽では「鬼神が乗り移ったかのような演奏」は実は細部に気を配れないから、音楽的には失敗だと思っている。音楽を聞いた結果、感情を揺さぶられるのは素晴らしい経験だが、演奏者は結果たる感情に「聴くものと同じように浸っているヒマ」はない。常に計算し、いま弾いている箇所の「何小節か先を行っていなくては」立派な演奏は出来ないだろう。それが演者と聴衆との違いである。

ミケランジェリはコンサートの前に、完全に曲を仕上げてから演奏に望むそうだ。自分の理想の演奏を会場で再現するためである。まるで練達の歌舞伎役者のようではないか。観客は「彼の演技」を見に来る。例えば白浪五人男を見たとしようか。南禅寺の山門で絶景かな〜と大見得を切る五右衛門にヤンヤの喝采を浴びせるのが楽しみなのである。この時、「石川五右衛門の感情」をリアルに表現して、真に迫っているように見えることが素晴らしいのかというと、実はそうではないところに「歌舞伎の様式美」が存在するのではないだろうか。音楽も同じである。ここぞ、という所でカッコよくバシッと決める演奏が最上の演奏なのだ。作曲家もそれを意識しているし、演奏者も「見せ場(音楽だから聞かせどころか)」を周到に準備しているし、観客はそれを楽しみに来ているのだ。それがクラシック音楽の伝統である。

ミケランジェリはそういう意味でも、際立った芸の持ち主である。彼の演奏の隅々に散りばめられた感性の到達点を耳にする幸福は、一度や二度聞いただけで満足する事はできないと思う。まあ、彼の場合は何を弾いても「ミケランジェリ」になってしまうが、そんなミケランジェリ一色の演奏の中から浮かび上がってくるモーツァルトやショパンのメロディを聞く時、ようやくミケランジェリの「音のフィルター」を通して、彼等の本当の姿、「崇高な音楽」に触れることが出来ると私は思う。私の感じ方は、あるいは皆さんの感じ方とは違っているかも知れない。人によってはアルゲリッチやポリーニ、あるいはリヒテルを挙げる人がいて当然だ。リストの難曲を嵐のように弾きまくるピアニストもいれば、いまにも泣き出さんばかりに感情を露わにするピアニストも居るだろう。ただ私はミケランジェリのような端正な様式美と、感情を抑えた計算され尽くした構成、そして何よりも作曲者の意図を見事に体現するリズムと、「ドンピシャのタイミングでアタックする」緩みの全く無いカッチリとしたメロディの輪郭が好きである。それが彼の、ケレン味のない「男の演奏」を作っている、と思っているのだ。もしミケランジェリがバッハの平均律を弾いたらどうなるか。考えただけでもワクワクするが、今はもう残念ながら聞くことは出来ない。でも彼は、平均律には興味なかったのかもね。そう言うことにしておこう。

最後に YouTube で、ショパンの前奏曲25の嬰ハ短調作品45を聞いて、今夜のプログラムを締めくくるとしようか。それにしても贅沢な夜である。


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