明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

(火)文化:私の選ぶ新百人一首(10)島崎藤村の憂鬱

2021-03-02 15:49:51 | 芸術・読書・外国語

えらい大上段に言い切ったが、実は藤村については私は余り良く知らないのである。そもそも鎌倉以降の日本には殆ど興味が沸かない「古代史好き」の私であるから、詩は元より散文でも日本の作家は殆ど読んだ記憶がない。鴎外と荷風を2、3読んだ位である。それ以外はノンフィクションで松本清張の「日本の黒い霧」、思想家で山本七平の「空気の研究」など、ぐらいであろうか。この程度のドシロウトが綺羅星の如き大詩人達を並べて言いたい放題批評するなんて「ざけんな!」と窓から放り出されることは承知の上で言うと(一応このブログは「好きな歌」という括りで書いている)、歌人を批評するのは「あくまでコミュニケーション」としての和歌を愛でる、というテーマに沿って作歌時のエピソードなどを尋ねる体裁にしている。では藤村はどうなのかというと、子供の頃に「椰子の実」の歌で覚えているくらいで、殆ど馴染みがなかったのである。後年、小諸なる〜で始まる「千曲川旅情の歌」で島崎藤村の詩心に触れ、それ以来日本を代表する詩人として、いつも念頭に置いていた。藤村は歳を取ると、詩を作らず「小説」を書き始めた。この後の藤村は私にとって興味のある対象ではないのだが、数多くの彼の詩集の中でも「落梅集」所載のこの歌だけは私の感性にガツンと響いたのである。

◯ 千曲川旅情の歌

小諸なる 古城のほとり
雲白く 遊子悲しむ

緑なす はこべは萌えず
若草も 藉くによしなし

しろがねの 衾の岡辺
日に溶けて 淡雪流る

・・・後略

見事な詩句が対句に載せてなだらかに続いていく。藤村の詩の特徴は(これを見るとだが)西洋詩の翻訳めいた内容に近い感性だと見て取れる。いわゆる上田敏の海潮音や堀口大學の月下の一群に出てくるような、フランス象徴派に代表される華麗な言葉の魔術のような詩に近い匂いがする。勿論このような翻訳作品に感化されて詩を描いた人は大勢いるであろう。私もそのうちの一人であった。私の場合はもっと古い古典的な詩の方に興味があって、大学時代には呉茂一の「ギリシャ抒情詩選」からダンテやペトラルカに始まり、「世界詩人全集」でバイロンやゲーテやシェイクスピアなども読み漁った。自前で名詩詩集なんかノートに書き写して、一端の詩人気取りだったのもこの頃である(勿論、自作の詩も300位はあったと思う)。何でもそうだが、芸術は「真似すること」からスタートする。ただ私には詩人になるほどの才能は全く無かったので、社会人になる頃にはすっかり普通の人になっていた(笑)。

しかし色々読んでみると、藤村の詩はどちらかというと西洋詩の影響より「漢詩」の影響の方が大きいような気がする。私も文庫本の「中国名詩選」などを持っていて、李白や杜甫や孟浩然など読んでは憧れたものだ。漢詩は西洋詩とは違って翻訳がないから(といっても当然ながら翻訳した日本語で読むわけだが)取っ付き易いという利点がある。同じ漢字を使っているとは言っても「読みも意味も違う」から、原詩を味わうというよりは翻訳とほぼ一緒なのだが、見ている詩文は例えば李白そのものだから「気分」が違う。杜甫の「国破れて山河在り・・・」などは中学校で習ったが、原詩の字面を見ているだけで、何となく内容も想像できてよく愛唱したものである。中国詩の特長は、対句を重ねるところにある。明治の頃までは見事な対句を披露するだけで、満座の喝采を浴びる云々というような伝統があった、と聞いている。

日本人は和歌がコミュニケーション・ツールとして宮廷で持て囃されるようになる前は、漢詩を詠むのが貴族のたしなみであった。7世紀の漢詩集「懐風藻」など、天智天皇の息子の大友皇子なども何首か選ばれていることでも知られているように漢風文化が一般的である。その文化は縮小されてはいるが、平安・鎌倉から江戸期までずっと底流として詩人の心を刺激していたのは間違いない。藤村は元は相模国三浦氏の一族で、後代に中山道の街道筋「馬籠宿」を整備し、代々庄屋を勤めた家系だそうだ。父の島崎正樹は平田派国学者だというから漢詩よりは和歌の方に熱心な筈だが、出来上がった作品は漢風を色濃く受け継いでいるというのは、本人の資質というよりは時代の流れであろう。和歌の持つ高貴・優雅な雰囲気は、貧しい庶民には「過去のもの」と映ったのだと思う。岐阜県中津川市馬籠に生まれたあと、父から「孝経・論語」などを習うとあるから、やはり漢文の素養はあったのだ。上京後は泰明小学校、三田英学校(慶應義塾分校)、共立学校(開成高校)、明治学院本科とエリートコースを歩むのである。在学中にはキリスト教の洗礼を受け、芭蕉や西行など日本の古典文学に熱中したらしい。

そして14歳のときに父が牢死(小説「夜明け前」の主人公・青山半蔵のモデル)、藤村への文学的影響は多大だったとネットには書いてある。卒業後は「女学雑誌」に寄稿したりして、20歳の時に明治女学校高等科教師となり、北村透谷等とともに雑誌「文學界」に参加し、劇詩や随筆を発表して文学者の仲間入りを果たした。一方、教え子の輔子と恋愛関係になって教師を辞職し、のちに復職するが透谷が自殺。さらに兄が不正疑惑で収監され、翌年に輔子が病死して失意の内に再び辞職した。彼の人生は浮き沈みが激しく、かなり不幸なスタートである。27歳の時、東北学院の教師になって仙台に1年ほど赴任。同年母の死に直面して詩作を始め、「第一詩集 若菜集」を上梓した。そのまま文壇デビューして「一葉舟」「夏草」「落梅集」など詩集を次々と発表、土井晩翠等と共に明治浪漫主義のリーダーとなって一気に「晩藤時代」を築き時代の寵児となる。前途洋々の頃である。しかし藤村はこの後詩作の筆を折り、小説の世界にのめり込んでゆく。

とまあ、藤村の詩人としての時期は20才台後半の短い期間だったが、その中でも1905年発表の「千曲川旅情の歌」は特に有名である。詩の全部は知らなくても、出だしの2句は知っている人が多いだろう。私も全部は読んだことがない一人である。詩を鑑賞するという意味では「全体」を読まないのは論外であるが、最初の「つかみ」が見事すぎてそれだけで風景が目に浮かび、藤村の描く甘美なロマンの世界に引き込まれてしまうのは誰しも経験する事であろう。

まず「小諸なる・・・」と書き出す。小諸という地名を知らない人にはどうという句ではないと思うが、長野の「小諸」と言えば千曲川という日本有数の大河が農民の悠久の営みの中、屈曲しながら悠々と流れる豊かな田園風景を想起させるといった懐かしさを覚える地名だ。その小諸に「古城」という歴史的建造物が建っていて、それは今風の観光資源として多くの人が集まるレジャーランドなどでは勿論なく、何か過去の栄華を忍ばせるような「落ちぶれた佇まい」で、風景に埋もれてひっそりと建っている。藤村の歌は、その「ほとり」の情景なのだ。このたった2つの言葉を示すだけで、藤村は広々とした大河と薄墨色の山々の遠景の中にある木々や畑、そしてポツンと建つ古城を描いてみせたのである。あの古城には、きっと勇壮な物語と物悲しい過去があるだろうな、と思わせる「空間と時間の渾然一体になった夢想」の中に読者は放り込まれる。ただの美しい田園の景色ではなく、「古」城があることで一気に風景が「歴史感情」を呼び起こしてくるのだ。見事である。そして「雲白く」と続く。

雲が白いのは当たり前じゃないかと思う人もあるだろうが、雲「白く」と歌い出すことによって藤村はこの雲に「全く意味を与えていない」ことが重要である。何の変哲もないただの雲が空に縹渺と浮かんでいる。つまり雲を描いていて実は眼前の広大な自然を「何気なく」フラットなまま読者の前に見せているのだ。人間である藤村は、何がしかの鬱屈した感情を心に抱いてこの風景の前に立っている、という設定だ。そのモヤモヤした感情を知ってか知らずか、雲は静かに浮かんで悠久の時間を刻んでいる。それが「雲白く」の語っている情景なのである。だから、その届かぬ想いを問う相手もいなくて、当てどなく出口の見つからない自らの心の状態を自覚することで、「遊子悲しむ」と表現したのだ。何という浪漫であろう。本当の幸福を探し求めて、未だ見つからず暗闇の中をうろついている若者、それがこの詩の主人公である。「遊子」というのは旅人のことだそうだが、生活臭のない、旅から旅へと幸福を求めて歩き続けるボヘミヤン的な、或いは牧歌的な姿を連想させてまさに秀逸だと感服した。

まあ、最初の2句だけでこれだけ語るというのも先が思いやられるが、私はどちらかと言うとこの詩に「古典的西洋名画」の寓意的手法を感じたのである。この詩は詩人の力量の現れとしてまだまだ美しい対句表現が続いているが、内容的には「最初の2句」で全て言い終わっていて、残りの語句は「勢い」で敷衍したようなものだ。詩全体を最後まで読めば、最初の感情が「結局は解決されないまま」終わるのが分かるのである。これが浪漫派の特質なのだ。古典派は全て「完結した世界」にいて、その中で色々な感情を表出している。だが浪漫派の芸術家は「いつか到達できることを夢見て」いて、現実のいろいろな嘆きを慰めているのである。とまれ私の感想だが、藤村の詩はこれ「一作」だけで十分なように思う(ちょっと言い切り過ぎたかもしれない)。勿論その一作が近代日本の詩全部を代表する名作であることには変わりはないのだが・・・。

と言うわけで私の新百人一首10作目は、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」でした。

 

おまけ:私の好きなもう一つの歌、室生犀星「抒情小曲集」の中の作品を挙げておきたい。まあ新百人一首に加えるほど内容が深い歌では無いけれど、語呂がいいので愛唱歌にしている。たまにはこう言う軽い歌もいいものである。

ふるさとは 遠きにありて思うもの そして悲しくうたふもの

 

以上


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