明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

文庫本片手に空想旅行(1)竹内峠

2021-09-23 13:31:05 | 歴史・旅行

堀内民一は万葉研究に生涯を捧げた人で、広瀬の片田舎に育ったと自己紹介している。彼には優秀な民俗学者という側面もあり、通俗的な名所巡りの類とは一線を画した旅行記を残した。奈良というよりは「大倭国」と言ったほうがピッタリするような、微かに残されている古代の面影を尋ね歩く書き方に、私は随分と心惹かれるものがあったと言える。奈良には古代の逸話がぎっしりと詰まっている筈だから、それらを堀内氏の案内で訪ね歩くのも一興であろう。

1、二上山と竹内峠

二上山は大津皇子の悲話で名高いが、この日本書紀に頻出する謀叛冤罪は皇位継承の有力ライバルを取り除く常道だが、大津皇子の件は有間皇子の話とともに人間の暗部を思い起こさせて、何とも嫌な事件だ。必要に迫られて歴史を調べる時以外はどちらも余り触れたくない事件なので、二上山は遠くから眺めるだけにしている。奈良盆地は四囲を山に囲まれているが、特に生駒・葛城連峰は河内から九州・朝鮮といった「先進世界」の象徴でもあったと思う。盆地の住人にすれば「山の向こうの世界」は憧れだったのではないか。この辺の村々には4月23日(旧暦3月)に嶽のぼりと称して、弁当など持って二上山に登り、一日の行楽をする風習があったと堀内氏は書いている。何とも微笑ましい田舎の風景である。

この二上山の山裾を抜ける峠道に「竹内峠と穴虫峠」がある。生駒山の方には「暗闇越え」という峠があるが、こちらも奈良から河内に行く主要な峠の一つだった。私は以前、大阪から葛城連峰を越えて奈良に旅行したことがあって、その時は「古市」(百舌・古市古墳群の古市)の駅からテクテク歩いて「石川」を渡り(蘇我倉山田石川麻呂の石川は、これから取った名前かも)、上ノ太子駅を横切って竹内峠越えをすることにした。石川は割と大きい河で天井川のように少し高くなっているが、ちょっとした小橋を渡るともう、見渡す限りのどかな田園風景が広がっていて田舎の豊かな自然が美しい。石川は柏原市安堂の辺りで「大和川」に合流しているが、河川が多いのも飛鳥地方の特徴である。天気の良い日に緩やかに曲がった道をのんびりと歩いていると、往時の乙巳の変など思い出されて、遥かな歴史旅気分に浸れるのもまた楽しい。

上ノ太子駅近くの食堂で早めの昼定食を取ったのだが、奈良は物価が安いのか、おかずが山菜の天ぷらにコロッケとアジフライが付いて750円かそこらの値段で食べられて、しかも味・ボリューム共に文句なく、リーズナブルで良心的な店と感心した。私が奈良に移住しようかと考え始めたのは、今思えばこの時からだったような気がする(現金な奴め)が、確かではない。食事を済ませて再び峠越えに向かったが、この辺りは「磯長(しなが)」と呼ばれていて、敏達天皇や用明天皇・推古天皇など(聖徳太子も?)、蘇我氏ゆかりの陵墓がズラッと並んでいる。奈良は、こういう日本書紀に出てくるような人の関連するものがそこら中にあるし、しかも地名がそのまま残っているから歴史好きにはたまらない。他にも孝徳天皇陵や小野妹子や八幡太郎義家の墓もあるというから半日ぐらいかけて一通り巡って、細かく墓誌など調べて見るのも面白いだろう。

大和には大和川の他に曽我川とか飛鳥川とか、多くの河川が流れているがここ太子町から流れ出て、石川に合流している川も「飛鳥川」という。我々は橿原市の甘樫丘の辺りを広く「飛鳥」だと思っているが、こちらはそれと区別して「近つ飛鳥」と言っているそうだ。河内飛鳥とも言うそうだが、「近つ」という名前にはちょっと違和感があった。竹内峠を越えて飛鳥地方に入る前に、ここにも飛鳥があるというので「近つ飛鳥」と呼んだようにも思えるが、なんか河内の方が主体の呼び名みたいに聞こえて不思議な気持ちになる。元々河内に飛鳥というのがあって、後からもう一つ「峠の向こうに」飛鳥が出来たとするなら、そっちの方を大和飛鳥とでも言いそうなものだが、大和政権が強くなったせいで、大和の飛鳥の方をただの「飛鳥」と言うようになったのかもしれない。それにしても、こんなに近いのに同じ地名というのは紛らわしい。もしかすると元々「飛鳥」という地名は、河内や大和のものではないのかも。堀内氏は河内の飛鳥は奈良の飛鳥と同様に、飛鳥京へのやみがたい心から「アスカ」の地名がそれぞれ移されている、と書いている。じゃあ一体「飛鳥京」って、どこなんだろうか?。「ふるさとの飛鳥」に対する万葉人の好奇心かも知れない、とも堀内氏は書いているが、九州にも確か「アスカ」という地名があったような気がするが、どうも確認できない。確か古田武彦先生の本で読んだような気がするが、でも、これって気になるよなぁ。

テクテク歩いている内にいよいよ峠に入ったが、夏の暑い日に結構な登り坂を上がったので、運動不足の私はすぐ汗だくになってしまい、どこか休む所は無いかと思っていたら、ちょうど良いタイミングで喫茶店が見つかった。倒れ込むようにして席に座り、アイスコーヒーを飲んで脱水症状を防ぎつつ、ついでにショートケーキを食べて、ようやく人心地がついた。フーッと安堵の息をついて窓の外を見ると、木立の中を時折車が通り過ぎていく。まだまだ半分も来てないなと思って勇気を奮い起こし、それから再び今度はだらだら下り坂を降りていった。峠の道幅が狭い場所では車が来る度に道端にどいてやり過ごすなどして、歩くにはそれなりに注意がいる道だったと記憶している。そんなこんなで何とか峠を越えた頃には、すっかり日も暮れてしまった。

竹内峠の出口で歴史的家並みが続く町中に入ろうとすると、丁度綺麗な満月が夜空にかかっていて、思わずカメラを出してパチリと撮った。まるで一幅の絵画のような、旅に相応しいロマンチックな夜の雰囲気である。奈良は京都と比べて人通りも殆どない田舎なので、こういう場面が幾度となく味わえるのが魅力だと思う。私が旅行した当時はまだ家々もまばらにポツンポツンと有るきりで、まさに古道を尋ねているという実感がビシビシと湧いてきて気分も最高である。その日は夜の闇の中、ボーッ光る街頭の明かりを頼りに駅までたどり着き、電車に乗って新大宮まで行って、予約したホテルに泊まった。奈良は何回か旅行しているが、河内から回ったのはこの時が初めてで、偶然にも「磯長」の場所が明らかになるなど、貴重な体験も出来たと思う。

もう一つの峠、上ノ太子駅から二上山駅の間を抜けているのが穴虫峠である。私の歩いたのは竹内峠で、ずんずん歩いていくと30号線との交差点を渡って「近鉄磐城駅」に出るが、ネットの地図などを見ると、穴虫峠を抜ける道は「JR香芝駅」に出るようである。この香芝という名前も、何故か親近感の湧く地名であるが理由は分からない。穴虫峠の近くには石切場跡などもあって観光客には見る所もあるらしいが、私はそういうのは全然興味ないのでスルーした。どちらかと言うと、私は昔から「人間」にしか興味なかったようだ。とにかく飛鳥の蘇我政権は葛城連峰に囲まれて安全ではあったが、その代わりに外国との交渉は苦手だったのではないか、私はそんなことを考えながら、電車の窓から夜の闇を眺めていた。

なお、当麻山口神社の北側に「傘堂」というのがあって、岩屋越えをする人々が一休みして談笑する姿が大和名所図会に描かれている、と堀内氏は書いている。その傘堂の下が当麻の北墓と呼ばれていて、その近くに「白鳳時代に役行者が開いたと伝えられる高雄寺」があるそうだ。これも古い伝承である。この寺の薬師如来に祈って授けられた子が、往生要集を書いた「恵心僧都源信」だという。942年この地「当麻」に生まれ、浄土宗の開祖と言われた偉い人で、平安時代の人々に多大な影響を及ぼした名僧である。こういう古代の有名人の記憶が、そのまま残っているのが奈良の魅力なのだ。

以上(続く)


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