と言うわけで、世論の動向に敏感な私は「どうしようかな」と迷ったが結局、前回と同じ会場へ指定の時間に行くことにした。だが、行ってみると思ってたより接種希望者がいなくて、心配する程の列もなく閑散としてたのだ。近づくとすぐに整理担当の人が寄ってきて、「ワクチン接種希望の方ですか?」と聞いてきたので、「うっせえわ」と思ったが黙って手を振って「違う」とジェスチャーし、別の入り口から入って「トイレ」に直行した。ひとまず気持ちを落ち着かせてから、トイレを出て入り口から外に出る。今度は真っ直ぐ入り口の前に立っている担当者の前に行くと、受付票と問診票をクリアケースに入れて受付まで誘導してくれた。2回目まではしばらく列に並んで、入ってからも15分位は待ったと思うが今回は誰も待ってなくて、行ったらすぐさま「どうぞどうぞ」とカーテンの中に招き入れられ、コートを脱ぐ間もなく「あっさり」と注射を打たれてしまったのである(あーれー)。前回までは是が非でもワクチンを打たなきゃ「死ぬ」位の切迫感で並んでいた老人たちも、今回は「あんまり打て打て言うから、面倒だけど打たせてやっか」位の勢いで、余り真剣味がない。だもんだから、先生達や看護師さんたちも接種希望者がワクチンを余り有り難がらず、感謝の気持ちもないので全然「打ち甲斐」がない。
これは、注射の打ち方が「何となく投げやり」なので分かった。医者も疲れている。やっぱり病気から「人々を救っている」という実感がなければ、高度な医療行為も「ただの肉体労働」に過ぎないということか。これはレストランで、お客が「料理に満足した顔」をしているのを眺めることが料理人にとっては「最高の報酬」である、というのに似ている。しかし今回のワクチン接種は、どちらかと言えば「惰性」で打っているようなもんだ。日本のコロナ新規感染者数をグラフで見てみると、2月頃か3波4波と繰り返し、8月にはオリンピックと重なり「最盛期を迎え」た。しかしワクチンは同時期に「ずっと打ち続けていた」わけで、もしワクチンに感染防止効果が少しでもあるならば「3回も山が出来る」筈がなく、最初に出来たデカイ山(一回)がワクチンの効果で「徐々に収束する」パターンにならなきゃおかしいのだ。それが3回も山が出来たこと自体、ワクチンに疑問が残る。まあ私としては、ファイザーもモデルナも「ウィルスそのものを攻撃する」のではなく、体内に入ったウィルスがさらに細胞に入って「自身の DNA をコピーする」のを防ぐという効果を謳っているので、役割が「増殖を防ぐ」ことに特化した薬だ、とは認識している。多分、それが余り効かなかった人や多量に吸い込んでしまって効果が追いつかなかった人、又は元々基礎疾患があって増殖が早過ぎた人など色々の理由で薬の効果を差し引いてもまだ、ウィルスの増殖スピードの方が早かった人が「スプレッダー」となって、感染を拡大したのだと思いたい。3つの山ができた理由は、感染拡大の「場所がそれぞれ違った」ことで説明できる、と解釈し納得した。
今回はオミクロン株という変異種が蔓延したわけだが、これはデルタ株と違って毒性が弱そうである。代わりに「感染力が強く」なっていて、東京で毎日1万人という「記録的な感染者数」を出して人々を驚かせた。しかし1万人と言う数字には驚いたが、コロナというウィルスには逆に「大したことないな」とちょっと安心したのである。それはウィルスが増殖する部位が「肺から上気道」へと移ったことによって、感染は広まったが「深刻な呼吸器不全」には至りにくくなったためなのだ。当然、エクモなどの重症患者数の割合も前回より段違いに減っており、感染者数が多いのにも関わらず「重症者・死者」が比較的少ないのである。ガンでも何でも病気全般に言えることだが、人間死なないと分かると「意外と怖くない」ものなのだ。こうなると俄然、「コロナ何するものぞ」という強者が出てきても不思議はない。それほど毒性がないのなら、「ワクチンだって必要ない」だろう、という理屈も通るというもんである。高齢者の感染クラスターも元々抵抗力のない弱者が相手では、インフルにしたってコロナにしたって「さほどの差が無い」まま大量に感染していき、これといった症状がなくても「力尽きて」寿命を迎えてしまう。オミクロン株はコロナとしてカウントされているが、多分「上気道感染」ということと考え合わせれば、「むしろインフルエンザの亜種」とした方がいいんじゃないか?、と私なんか素人から見れば思ってしまう。だから今回のワクチン接種も、私は気が進まなかったのだ。
だが結局は打った。「意志薄弱」である。
まあ幸いに「副反応は全くなかった」と言って良いと思う。発熱もなかったし、痛みも腫れも殆ど感じなかった。私のゴルフ仲間のSN氏も「全然何ともないぜ」と豪快に言い放って、翌日サッサと仲間とゴルフをプレーしたらしい。何んとも強気で頼もしい限りだ。私は今回もワクチン接種後に「突然死」するケースが相当数出ているのを知っているので、何となく不安が頭を離れなかったのだが、世の中には私のように怖がる人間は少数派のようである。まあ「臆病」ともいうが。但し言い訳を言わせてもらうと特に今回は、基礎疾患のない20代の若者がワクチン接種後に死亡しているニュースを読んで、「ちょっとヤバくない?」と尻込みしかかったのである。何も無理して「死亡リスク」を背負い込む必要はないじゃないか、と思った。それで4日ほど逡巡したが結局「10万人に一人」ぐらいの割合では自分が当たる可能性は「限りなくゼロに近い」だろうと判断して、摂取することにした。結局、摂取するのである(ほれ見ろ!)。だったら初めっから「迷わず打てよ」と言われそうなのは分かっている。もし自分がワクチンを「打たなくて」コロナで死んじゃうとしたら「やっぱり後悔するのかな?」と考えた時、多少のリスクがあるとしても「やるだけのことはやっておく」方を選んでしまった。やはり「臆病」なんである。
ところで今度、また新しい変異株がブラジルで見つかったらしい。これはデルタとオミクロンの合体みたいなものらしく、合体の方向が「どういう症状」になって現れるかは、まだ患者の数が少なくて分かってはいない。だがいずれブラジルで感染が広がりそれが徐々に全世界へと蔓延して行くのは、これまでの例に照らし合わせても確かであろう。「じゃあ、また4回目のワクチン接種ということになっちゃうの?」と慌ててもしょうがない。我々は、「ワクチン以外」の対処法をまだ見つけられないでいる。言うなれば我々は「釣り堀の魚」みたいに、ただ釣られるためだけに泳いでいる「しがない存在」なのだ。自分が釣られるか他の魚が釣られるかは「時間の問題」である。釣られるのが早いか、寿命が尽きるのが早いかの違いでしかない。私という存在は、死亡率というパーセンテージの中に埋もれた「単なる数字」の一つに過ぎなかった。それが人間の、というか人類という生き物の真実である。・・・とか、長々と考えた挙句に、私は10万人に一人という程の「特別な人間」ではないことに気がついたのだった。私って、全然「普通じゃん」、って思ったわけ。そう考えたら、「初めて」気が楽になった。サッサとワクチン打って、先に進もうじゃないか!
というわけで3回目の接種は、予想通り「何事もなく」終わった。結局、ワクチンを打って何か副反応や突然死などのリスクがある人は、コロナに罹って重症化するリスクも「同じようにある」人なんである。どのように身構えていても、「このタイプの人」はウィルスの魔の手からは「逃れられない運命」になっているのだ。勿論、コロナ以外の病気にしたって、人によって強い弱いの「大きな差」がある。何でも人生、知らないところで「皆」差が付いているのだ。だから自分だけ「助かろう」などと、虫のいいことを考えてはいけない。で、運よく「ワクチン打っても副反応が全くなかった」私のような場合はどうなるのかというと・・・・
麻雀で役満を上がった時のように、あるいはゴルフでホールインワンをしてしまった時のように、由緒ある神社仏閣で「お祓い」してもらうのがオススメである。最後はやっぱり神頼み。
・・・これしかないでしょう!
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