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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の引っ越し履歴(9)狛江の慈恵医大付属病院 ③ 入院生活の日々(その2)

2022-03-23 21:08:23 | 今日の話題

③ 偉そうな先生が回診に来る
入院して4、5日したら、ちょっと痩せた脳神経科の先生が、何人かの取り巻きを連れて回診に来たことがあった。私は先生から言われる通りにベッドに腰掛け、立ち上がりの動作とか腕を胸の前に伸ばす動作などを行い、「麻痺の程度」を確認された。その時に先生が「また元通り動くようになりますよ」と言ったのを、私はハッキリ覚えている。私は先生は「単なる気休め」に言っているのだと思っていたが、病気してから8年経った現在、徐々に元通りになりつつあることを思えば、あながち「気休め」でもなかったのかも、と思い返すようになった。

まあ、それ程親身に診てくれたわけではないので真実はわからないが、回復したのは「私の努力の賜物」と言うことにしておこう。先生にしてみれば見慣れた患者の症状なんだろうが、こちとら一生に一回あるかないかの「切羽詰まった」状態なのだ。それを簡単に元に戻るなんて、言ってほしくはなかったのである。もし本当に治ると言うのなら、その理由を「説明してくれ!」と詰め寄りたい気持は無かったと言えばウソになる。だが、まあ私の性格上、それほど「先生」というものに頼る気持はなかったようで、大して気にしてなかったように思う。先生は取り巻きたちに一言二言何か言って、すぐ部屋を出ていってしまった。私もその先生のことはすぐに忘れ、その夜は「相棒」を見て早々と寝た、と思う。大事なのは「不確かな未来の予測」ではなくて、今やるべき「リハビリの進行具合」だと分かっていたからかも知れない。とにかく、どこも「痛いところが無い」ことだけは確かである。

④ ヘッドフォンで出禁を食らう
入院中は概ね平穏に過ぎていったが、一つだけリハビリ訓練部屋に大型ヘッドフォンをして行き「出入り禁止」となったのが心残りである。そこのリハビリは「麻痺している足」の回復支援施設で、患者は主に平行棒につかまって歩いたり、模擬階段を昇り降りして訓練スケジュールをこなしていた。私は麻痺の程度が軽かったので、筋力が落ちないように両膝にチューブを巻いたり自転車を漕いだりと、ほぼ完全に「放ったらかし」状態で飽きていたのだ。

それで弟が日用品や着替えを持って来てくれる時についでに家からヘッドフォンを持って来てもらい、リハビリ時間にそれを「頭につけて」行き、好きな音楽を聴きながら自転車を漕いで過ごしていたのである。そしたら翌日になったら「私のスケジュール表からリハビリが消えて」いたのだ!。嫌がらせかな?、と思ったのだが、抗議はしなかった。どっちかと言えば、私はリハビリは必要ないと判断されたのだろうと思っている。しかし、説明ぐらいはあっても良かったんじゃないかなぁ、とは思っていた。やはり療法士の先生方が「カチン」と来られた、と考えてもおかしくはない。まあ、どっちでもいいけど、病院というのは「規律を重んじる場所」なんだと反省した。

⑤ 売店で菓子パンを買ったら怒られた
ある時、病院内のコンビニで美味しそうな菓子パンを見つけ、早速買い込んで部屋に持って帰った事があった。コンビニと言ってもほんのささやかなもので、お菓子やジュース類とちょっとした日用品に介護用品などを置いてある場所である。入院患者にしてみれば唯一「外の世界」を実感できる場所で、私も毎日「甘ったるいコーヒーゼリー」を買うのが楽しみだった。ところが「菓子パン」を買って帰ったら看護師さんから「どえらく怒られた」のである!。看護師さんの言うには、餅は当然だが、「パン」でも嚥下障害の患者は喉に詰まらせて、大変なことになる場合があるそうだ。もしそうだとするなら事前に言っておくべきだと思うんだけど、まあ私が「自分が嚥下障害だ」という事実を、良く判っていなかったせいもあったと思う。

確かにいまでも飲み物には気を使って、飲むタイミングを計りながら「ごっくん」とやるのが習慣にはなっている。そうしないと大概「むせて」しまい、酷い時には「呼吸が出来なく」なってしまうくらいドタバタする。一例では、まだ「焼酎のレモン割り」は毎回試しに飲んでみるのだが「むせて」いるくらいである。まあそれでも以前に比べたら「大分マシ」になったのだが。

⑥ 個性的な大部屋の患者
私のいた6人部屋は概ね静かな患者が多かったが、ある時、新しく入院して来た患者と看護師が「食事のこと」で揉めていた。看護師は患者に何とか食事させようと説得を試みるのだが、患者は「喉に刺さる」とか何とか訳の分からない事を言って、頑として食べようとしないのである。看護師はこのままでは衰弱してしまうからと何とか食べさせようとするのだが、何としても「受け付けない」もんだから、ホトホト手を焼いたあげくに最後には放り出して帰ってしまった。ひとたび入院したら「観念」してスタッフなどに迷惑をかけないのが患者の「最低限のマナー」なのに、この患者は頑固者でテコでも動かないのである。

どうするのかと2日ほど様子を見ていたら、程なくして「あっさり退院して」いった。きっと、自宅で家族の看護を受けたかったのだろう。しかし、介護を負担させられた家族の方はたまったもんじゃない。年取って頑固一途な患者というのは、周りにとっては「大迷惑」である。「愛情があれば」などと他人は言うけれど、何でも「仕事として」やってくれる病院の看護師の方が、私などは「何倍か気が楽」だった。愛情というものは「義務や責任が無い時」に湧いてくる感情である。これは今では、私の哲学になっている。

別の時にはまた新しい若い患者が入ってきて、どうやら交通事故で大怪我したみたいだった。特に両足を酷くやられたらしく、頭はしっかりしていたが「松葉杖」を使わないと歩けい感じだった。彼には母親か誰かが付き添いで側に来ていて、来る度に「何だかんだ」と言い争っている。大体大部屋の患者というのは、見舞いの人も声を潜めて静かにしているもんだが、彼の場合は声が大きかったせいで会話が「丸聞こえ」になっていた。どうやら保険の書類のことで彼が母親に事細かく指示を出してるようだが、母親が今一つ「こなせていない」ようである。

ある時、ひとしきり母親をたしなめた後で、彼が「俺は脚でよかったけど、云々」と一段と声を小さくして何か言っていたのが聞こえて来た。どうやら「世の中には言葉が喋れなくなった人」もいるんだから、俺なんか「良い方だ」というようなことらしい。私のことを言っているようにも思えたが、これは心理学的には「すっぱい葡萄」理論というそうで、彼がこのことで気持が落ち着くのなら、私も「他人の役に立った」と言えるだろう。

あれから8年ほど経ったけど、「脚を複雑骨折した」のと言葉が喋れなくなったのとどっちがいいかと聞かれたら、「どっちも嫌だけど」と私は答える事にしている。病気は出来ることなら、「罹らない」のが良いに決まっている。そしてもし、自分が罹る病気の種類を選べるとしたなら、それが「自分のせいじゃない」方の病気になりたいと思う。だって一度きりの人生で、何より「後悔だけ」はしたくないものねぇ。

私は「脳梗塞」という障害を快く受け入れた。それは運命なのだと思っている。それは過去の私とともに過ぎ去ってしまった。私にとって、過去はもう「済んでしまった」ことである。これからは、私の「新しい人生」の正念場が始まるのだ。

というわけで、次回は「慈恵医大を退院」するまでの顛末を書こうと思います。

(続く)

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市ヶ谷富久町 〜 参宮橋 〜 布田

いよいよ都心に住むことになった。最寄り駅は地下鉄丸ノ内線の新宿御苑前である。

1、市谷富久町
都電に乗って御茶ノ水まで

両親が名古屋へ転勤
大学生
都電

2、参宮橋
マンションが完成するまでの間、参宮橋の駅の近くの一軒家に住んでいた。

3、布田
調布から歩いて10分程のマンションに引っ越した。ある晩のこご帰りに途中の畑の中で寝込んでしまって、ハッと気がつくと野良犬が足首のあたりを囓っていたことがあった。
渋谷センター街の地下にあるバー(名前は忘れた)に足繁く通ったことがあった。ママと「ケイちゃん」という女の子がいる
新宿からは特急に乗って調布まで行き、一駅を歩いて帰った。付近はまだ畑が残っていて、近くにファミリーレストランが出来たのはずっと後のようだ。

 

 

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