明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ロニー・ウッドと英米ロック事情

2016-02-17 10:53:05 | 芸術・読書・外国語
ストーンズのロニー・ウッドが仲間のゲストと喋り合う夜の番組がある。最初見たのはポール・マッカートニーだった。バンドの仲間や昔の思い出話の合間にお気に入りの名曲を掛けるという作りで、彼らの音楽観がチラチラ見えて実に楽しい1時間である。昨日はアリス・クーパーが出てた。

話は合間にかかる名曲だが、それらを聞いてるうちに「彼らの生きている音楽世界は、日本のロック・ミュージシャンの音楽世界とは全然違うんだな」と気がついた。彼らはしきりに歌詞の素晴らしさを語るが、日本のミュージシャンで英語の歌詞を語っているのは聞いたことが無い。当然である、日本人だから英語を母国語としている人々とは言語感覚が違って当たり前である。何も英語が母国語じゃ無いからダメだというつもりは無いが、彼らが「グッと来る歌詞」と言うのは普通に言葉通り感じているので、英語と思ってワンクッション入れて感動しているわけでは無い。ストレートに「いいな!」と思っている、そこが違うのだ。

音楽という点では最終的には同じになるのかもしれないが、エスキモーの生活とポリネシアの生活では(愛情や悲しみは同じかもしれないが)食事や遊びが全く違うように、彼らの生活の一部としての音楽は全然違う、背負っているものが違うのだ。いいとか悪いじゃなく、全然別物だとわかる。小学校中学校の同級生の友達と会うと、共有しているものが「あるある」状態で実感することがある。そんな状態がリバプールの街中に溢れていた(らしい)。

僕もビートルズ世代だから出てくるミュージシャンが皆とっくに還暦を過ぎて70台に突入していることに気がつかないわけじゃ無いが、 チャックベリーなんかの曲に合わせてリズムを刻む仕草を見たりすると、まだまだロックは生き続けてるんだなと感じる。彼らはロック・ミュージシャンである前に英国人なんだと思った。 ブリティッシュ・ロックはイギリスの街並みの中から生まれ、今も街とともに生きている。そして街が生き続ける限り、彼らも彼らの音楽も生活の一部として歌い継がれる、そんな思いが心をよぎった。ヘイ・ジュードはヘイ・太郎になり得ない、それが日本人の僕と彼らとの、深く越えられない海峡である。

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