明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

誰かにしゃべりたくなる歴史エピソード(3)信長を撃った男

2020-10-26 14:31:07 | 歴史・旅行
1、杉谷善住坊
信長を狙った鉄砲の名人として歴史に名を留める人だが、私は捉えられた後の善住坊の処刑方法が、一風変わっていて記憶に残っていたというわけである。記録によれば「地面に半分埋めたうえ、竹鋸で首を引き切った」というから空恐ろしい。昔のヨーロッパなどの処刑具などを見れば魔女を火炙りにするなどはまだ全然いい方で、いくら当時の人間が「痛みに強かった」とは言え、処刑する側の奇妙奇天烈な殺し方には「よくもまあ、こんなこと考えたな」と感心するしかない。まあ一番の「えげつない処刑方法」は、則天武后がライバルの「両手両足を切り落とし、両目をつぶして厠に投げ込んだ」という、陰惨極まりない逸話であろう。いくら則天武后の性格が人より悪かったとは言え、「人間への冒涜」以外の何物でもない。私はこの話を読んで、その刑を「実行した小役人」の浅ましい出世心を、心の底から唾棄せざるを得ない。そのような刑をしてはならないと武后を諌める高官はいなかったのだろうか。このエピソードなどは、私が「最も忌み嫌う人間」の最低の例です。歴史では則天武后が「どうこう言っても名君だった」などと言う人がいるようだが、私は彼女を決して許すことは出来ないと思う。それに比べて信長の善住坊処刑などは、まだ可愛い部類に入るのではないか。

元亀元年5月、越前の朝倉氏を討とうとして浅井長政に挟撃され、命からがら逃げ帰ってきていた信長が岐阜城に戻ろうとして伊勢に抜ける千種街道を通過していた。善住坊は信長の命を狙って火縄銃を2発撃ったと言われている。信長との距離は12ー3間ほどだったというから、約20m。この距離なら「よもや外さないだろう」というのは現代人の考えで、私は不安定な火縄銃なんかより「弓で射掛けたほうが」よほどスナイパーとしては確実だったと思う。少し上手い人なら、20m先の的を射ることぐらい、朝飯前の筈である。鉄砲の名手と本には書かれているが、それ程大したことはなかったと言うのが本当だろう。勿論、当時の火縄銃の命中精度は「殆ど当たらない」と言っても過言ではないのだが。

暗殺失敗となって善住坊は逃げたわけだが、狙われた信長は怒り狂って「絶対捕まえろ!」と厳命した。まあ、信長の反応は誰でも予想のつくものだが、「信長に追われ」たら逃げ回るのも限界があろう。昔、山口組三代目をクラブで狙撃して失敗し、逃亡した鳴海清が六甲山中で死体になってみつかったことがあった。信長の時代から、この手の狙撃者が「逃げおおせる例」は無かったみたいである。善住坊の場合は「近江国高島郡堀川村の阿弥陀寺」というところに隠れているのを見つかって、信長の前まで護送されたらしい。捕縛の経緯はよく分からないが、指名手配者が逃げおおせると言うのは、人間関係の希薄な現代より難しいと思う。果たしてどんな恐ろしい報復が待っているかと考えるだけでも寒気がする話だが、件の善住坊は「特に命乞いをした様子」もなく、あっさり竹鋸で殺されているようだ。この点は観念した善住坊を褒めてやりたい。麻酔のない時代に刀傷や矢傷の治療は相当痛かったと思うが、あの坂本龍馬が頭を切られて「脳みそが見えていた」というのに、「俺はもうダメだ・・」としゃべった逸話が残っているから、もしかしたら「死を覚悟していた善住坊」は、全く痛みを感じなかった、という可能性も十分有り得る。

元々脳には究極の状況では、感覚器官からの信号を「シャットダウン」する安全装置があるらしい。昔、5000mの上空から落下したパイロットが、降り積もった雪の上に落ちて奇跡的に助かった時の話を読んだことがある。彼は地面に激突する瞬間に「全く何も感じなかった」と証言していて、感覚器官が機能しなかった可能性は考えられるのだ。他にも、切腹した武士が自分の腸を引き出して「天井に投げ上げた」という信じられない話も伝わっている。人間の痛みに対する感覚というのは、まだまだ未知の領域なのかも知れない。それなのに、椅子に足の小指をぶつけたら「何であんなに痛いんだろう?」と思う。もしかしたら「もう生きられない」と体が観念した時は、自然と痛みを感じなくなるようになっているのかも。そう思えば体が痛いと感じることは「まだ生きられる」って信号である。安心して痛みに耐えるべし。私は善住房の「何事も受け入れる」姿勢が好きである。ネット」によるとこの杉谷善住房を取り上げた作品がいくつかあって、「信長を撃いた男」南原幹雄著や「修道士の首」井沢元彦著などがある。ずばり「戦国スナイパー」柳内たくみ著という作品などはちょっと偏っている感じがして馴染めないが、井沢元彦の本は何となく読んでみようかな、と気にはなる。

2、花山天皇と藤原兼家
歴代天皇の中でも「お人好しキャラ」で気に入っているのが花山天皇である。時は摂関政治がようやく地に足をつけて花開こうとしているその前夜、天皇の権威と政治の主導権を藤原摂関家が奪っていく「総仕上げ」の時代である。桓武天皇に始まる平安の世界は、嵯峨帝・清和帝から宇多帝・醍醐帝と天皇親政の黄金期を迎えていたが、その傍ら外祖父として実務に精進した藤原氏の「暗黙の台頭」を許す結果になっていった。円融天皇の元、僅か10ヶ月足らずで立太子ののち、17歳で譲位を受け天皇に即位した。朝廷では外舅藤原義懐と乳母子藤原惟成が実権を握っていたが、余りに革新的な政策を推し進めたために関白頼忠との確執を招き、さらには皇太子懐仁親王の外祖父「右大臣藤原兼家」が天皇の早期退位を願っていて、三つ巴の権力争いが激しくなっていた頃である。

そこへ天皇の女性問題が加わってくる。義懐の正室の妹「藤原忯子」にゾッコン惚れ込んだ天皇は、一途に求愛して彼女を入内させ、ついには懐妊させるが妊娠中に彼女が死亡してしまう。余りの悲しみに、天皇は出家をして彼女の菩提を弔いたいと言い出したが、義懐と惟成それに頼忠も加わって、3人して「やめるよう」必死に説得にあたったと言う。ところがこれを最大のチャンスを見た腹黒い兼家が一計を案じ、蔵人の三男道兼を「一緒に出家しよう」と天皇をそそのかせて、夜中に内裏を抜け出し、共に寺に行って落飾受戒させてしまった。この時道兼は「父に報告してくるね」と偽って逃げてしまう。騙されたと知った天皇だが既に三種の神器は皇太子の元に渡っていて、地団駄を踏んだが「後の祭り」だった。これが決定打となって義懐・惟成・頼忠は勢力を失い、代わりに兼家が権力の座を不動のものにした事件。その後に皇太子は即位して「一条天皇」となり、兼家の長男・摂政関白藤原道隆のもと、皇后定子のサロン華やかな平安女流文学の時代を現出することになる。

花山天皇は一見「思慮の浅い人間」に見えるが、何と言っても年がまだ19歳なのだ。恋に目が眩んだとしても仕方のない純情な若者だった、と思いたい。彼の忯子への想いは「真っ直ぐ」なものだったことだろう。ただ、基本的には「女好き」の点は否めなく、出家後も放埒な女性遍歴は続いていたようである。法皇となった後の29歳のとき、女性のことで中関白家・藤原伊周とトラブルになり、牛車に乗っているところを弟の隆家に矢を射掛けられるという事件を起こしている(今度は被害者だが)。この事件は権力者藤原道長の知るところとなり、道隆の早すぎる死も影響して、さしもの隆盛を誇った中関白家も、衰退の道を辿っていった。藤原伊周・隆家兄弟は遠流に処され、一方道長の方は三人の娘が立て続けに立后するという「栄華の絶頂」へと向かっていく。いよいよ平安貴族・王朝文化の頂点へと向かう時代の始まりであった。私的には、何かワクワクする。

ターニングポイントを2度まで演じた花山天皇だが、彼自身は芸術にも造詣が深く、お友達として付き合うのであれば「なかなか洒脱なオジサマ」として女性たちにも人気があったのではないだろうか。晩年は三十三箇所巡りなどを創始するなど、色々な面でも面白い人だったようだ。天皇家などに生まれずに一般庶民の家庭に育っていれば、それなりに「おらの町のプレスリー」的な人気者として、幸せな人生を送れたと思うのだが。まあ、あくどい権力闘争の結果として彼は騙され、天皇位を捨ててしまったわけだが、元々の目的が「藤原忯子の死への追悼」である。半分は自分の意思でもあったわけで、経過はどうあれ結局は納得したのだと思いたい。天皇位を継いだ一条天皇が最愛の定子を失って涙に暮れているのにも関わらず、外祖父道長の思惑から「中宮彰子」を大事にしなければならなかった悲劇を思えば、のんびり余生を過ごして思い通りの人生を全うした点では、「花山院さん、結果はよかったんじゃないの?」というのが私の感想である。何だか「場末の角打ち」で飲んでるところを見かけたら、声かけたくなるような好人物に見えてきた。

これ以降は天皇の威光もだんだん無くなってきて、絶大な権力を振るった「白河天皇」の登場までは、まだしばらく時間がかかることになる。まあ、天皇あるいは実権を握った個人が強くなると、後醍醐天皇みたいに「世の中が乱れる」というのが私の歴史の読み方だから、何事も話し合いで決める「共和制・合議制」がいいと思うのだが。その点で「菅政権の独裁・国民無視の体質」と言うのは、どうなんだろう?。

おっと、この話題は「今週の気付き」で書くとしよう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿