みんなの僧

24で僧侶になり54で住職になるまで夢や悩みを聞き続けて30年。

小鳥と坊主の Bohemian-Rhapsody

2012-08-17 16:56:33 | 日記

マムシの供養と自分の毒供養を併せて朝と昼前に二回 お勤めをした。


拙僧の宗派は「浄土三部経」を根本聖典として、宗祖が創られた お経もお勤めする。

宗祖が創られた「しょうしんげさん」は良くできていて、750年間歌い続けられてきた、Beatlesもビックリの超ロングセラーである。


構成は第一楽章(フラットキーでテンポキープ)第二楽章(多少の変化あり)第三楽章(メロディーありの念仏を挟み込んだサンドイッチ形式)最後にepilogueとして「回向」


まるで、Queenのbohemianrhapsodyばりの名曲である。

時間は35分


基本キーはハ長調のレ


第二楽章はソが基本キー


第三楽章は一旦レに戻って、段々とウォームアップして、ミと移調する。


ミのキーでどんどん引っ張って、ラのキーまで持ってくる(セカンドでレッドゾーンまで引っ張ってサードで一番トルクフルなとこまで回転上げる感じ→ってもワカラナイよね)

ラのキーのコーラスは更に煌びやかなメロディーで、伸びやかな美しい声のお坊さんが2人から数人でハモれば、EXILEもCHEMISTRYもゴスペラーズも及ばない法悦の讃美歌となる。


浄土を讃え、阿弥陀佛の本願に感謝し、生かされていることを悦び、仏法に出会えたことに歓喜する歌であり、お経である。。



法悦と歓喜のラのピークを過ぎると、ソの締めコーラスがあり、


最後は「回向」と言うepiloguesongをレのキーで 厳かに合唱する。


口先で唱えるのはお経ではなく、


ツィートで呪い(まじない)で呪文だ。



本来、お経は腹の底から高らかに歌い上げるもんだ。

ベートーベンの第九、よろこびのうたと同じだ。



本堂で一人第九状態でお勤めして メロディーの変化に富む第三楽章にさしかかった時、一羽の小鳥が境内にやって来て、しきりに拙僧のお経に絡んでくる。



間違いなく こっちを向いてしきりにさえずり、鳴いている。



こっちを向いて。



なんやねん、ウルサいやっちゃなーと思いつつお経してると、こっちが息継ぎしてると その小鳥も息継ぎしている。



はは~ん



小鳥がお経に 歌合わせをしにきてんのかー



拙僧「しょうじょう、こおおうみょおう、ならびなしいぃいぃ~♪」と唄えば

小鳥「peapeapea、piropiropirororo、peapea」と掛け合ってくる


試しに お経を止めると小鳥もさえずりをやめる。


息継ぎも、休符も、わかって 絡んでくる。


なんか



楽しくなった



マムシを供養し、マムシの解毒に感謝して、お勤めしていたお経は



いつしか、小鳥と拙僧のかけ合いになり、デュエットとなった。



山寺から流れ出す拙僧のホーミーっぽいお経と小鳥のさえずりデュエットは、しばし山あいにこだまする讃美歌となった。



人間だけで、幸せになれると思うなよ!


ヘビも小鳥も稲もスイカもあって、人間は生きて、悦び、幸せになるんやで!



坊さんも一人で修行してんちゃうで、苦行してんちゃうで、


地球の生きとし生きるもの全てが関わって、支え合って生きとんやで



死んでまで、坊さんの毒を食らったマムシにも感謝。


って、さえずりラップして


回向の部分では 小鳥は飛び立って行った。



循環、輪廻、転生、



お盆の最後の最後に



生きとし生けるものに諭された



山あいでは蜩(日暮らし)が涼やかに鳴いている



カナカナカナカナー



かな?

南無不可思議光

2012-08-17 14:57:09 | 日記

不可思議のマムシ


昨夜、玄関にいたマムシを殺した。


マムシは毒蛇だ。


幼児や老人、ましてや赤ちゃんが もし咬まれたら死に至る場合もある。


近くの草むらなら深追いせずに、見逃したかも知れないが 玄関だと見逃せない。


見逃しても また顔を出す。


家人や長女はヘビが大嫌いだ。拙僧も嫌いだが、むやみに殺生は出来ない。



しかし、マムシだと違う。


「マムシは見つけたら殺しておけ」と里人は言う。


血清が名張の病院にあるとは言え、手当てが遅れると細胞組織が壊疽してしまう。


だから 殺した。



だが、昨夜の拙僧は それだけの理由で殺したのだろうか?



自分でも 狂ってるんじゃないか?と思うほど、何かに憑かれたように、必死の形相でスコップ二本を使ってマムシを切断していた。


「くそーっ、くそーっ」



拙僧の中にある、憎悪や、悲しみや、苦しさや、我慢し続けてる怒りや捻れた思いが、一挙に爆発した。



たった一匹のマムシに向かって。


「毒蛇は殺しておく」と言う里の大義名分を理由に一挙に何かが爆発した。



それは「毒」だったと思う。私のこころに積み重なった「毒」だった。



毒蛇を殺しながら、自分の中の毒が一気に吹き出した。


ブログに「鬱陶しい夏の苦行」としたが、考えると「毒」が沈澱していたのだ。


アタマと胴体を、さらに胴体を2つに分断して小川に流した。


アタマとココロの毒が、マムシの死とともに霧のように消えて行った。



毒蛇を殺したが


毒蛇が殺してくれたのは 拙僧の中につもりつもった、溜まりに溜まった「毒」
だった。



「殺生」殺して生きる。毒蛇は拙僧の中の「毒」を殺してくれた。



生き物を殺さずには 生きられない「業・ごう・カルマ」



今朝 小川に行ってみるとマムシの死骸があったらしきとこれに沢ガニが集まっていた。


マムシは沢ガニに食べられた。


昨夜から今朝にかけて、いのちの循環が行われた。



マムシに申し訳なくて、マムシを殺した玄関先で手を合わせ、沢ガニが集まった所に念仏した。



朝から一度、昼前にも一度、本堂で読経した。



業と無常と不条理がアタマとココロとカラダを駆け巡る拙僧の「生」



毒蛇のマムシが教えてくれたのは拙僧のうちにある「毒」だった。



マムシの供養をしながら、マムシの命に感謝した。



ごめんなさい。



ありがとう。



そして、南無不可思議光・南無阿弥陀佛。