3年生のゼミ配属に向けた説明会を開催した。
年に1度、こういう機会が巡ってくる。
研究室活動を進めていく上で、こういう「振り返り」の機会は貴重だ。
どうしても、次から次へと湧いて出てくる仕事に振り回されてしまうのだ。説明会は、やってきたことを位置づけ体系化する機会になる。
今日は、設計志望の学生である。
うちの研究室は、実際に設計活動を行っているわけではないので、研究室活動と設計指導との関係をどううまく説明するかが課題であった。
「フツウの建築」が、一つのキーワードである。
ちまたにあふれる「フツウの建築」を変えること、それが、この醜い日本の風景を変える方法の一つだ。
いいかげんな設計能力のいいかげんな建築士がいいかげんな建築をつくり続けているから、日本のまちは醜い。ごみを増産するような、いい加減な建築士を育てることの罪は大きい。
この醜い風景の下支えをしているのが、すべて建築士であり、その建築士になることをワカモノたちが夢見ているとしたら、なんと救いのない世界であろうか。
ん、また暴走してしまった。
でも、極端に言えばそういうことを考えながら、設計について学生たちと考えていきたいと思っている。
年に1度、こういう機会が巡ってくる。
研究室活動を進めていく上で、こういう「振り返り」の機会は貴重だ。
どうしても、次から次へと湧いて出てくる仕事に振り回されてしまうのだ。説明会は、やってきたことを位置づけ体系化する機会になる。
今日は、設計志望の学生である。
うちの研究室は、実際に設計活動を行っているわけではないので、研究室活動と設計指導との関係をどううまく説明するかが課題であった。
「フツウの建築」が、一つのキーワードである。
ちまたにあふれる「フツウの建築」を変えること、それが、この醜い日本の風景を変える方法の一つだ。
いいかげんな設計能力のいいかげんな建築士がいいかげんな建築をつくり続けているから、日本のまちは醜い。ごみを増産するような、いい加減な建築士を育てることの罪は大きい。
この醜い風景の下支えをしているのが、すべて建築士であり、その建築士になることをワカモノたちが夢見ているとしたら、なんと救いのない世界であろうか。
ん、また暴走してしまった。
でも、極端に言えばそういうことを考えながら、設計について学生たちと考えていきたいと思っている。