フィールドワーク通信

広島を拠点にフィールドワーク。カンボジア、インドネシア、市民まちづくり

インドネシアの都市問題1231

2006-03-07 18:39:22 | インドネシア通信
 朝グラナダホテルを出て、8時半にバリ着。マデさんに再会。3日ぶりである。1時間ほどお茶を飲みながら、別れを惜しむ。白石とはここでお別れである。何かあれば白石を頼むと言い残した。少なくとも車はお世話になったほうがいい。いまどき1日10万ルピアは安い。空港からウブドゥまでだけでも、普通車で8万ルピアである。キジャンクラスだと10万ルピアが相場ではないか。

 かつてつきあっていたバヤンの友の一人が34歳で村長になったという話をしながら、村長選出の方法などについて話をした。3名候補を出して選挙で選ぶということだったが、その話の中で、マデさん自身が副村長だと知らされた。30代で村長や副村長は特にめずらしくはないそうだ。

 副村長なら村のための仕事も様々あるはずである。我々の滞在時、葬式もあった。手伝ってないから、葬式の現場に近づきにくいとマデさんが言っていたのを思い出した。副村長ならなおさらだ。そのことを指摘すると、我々が来ているのを村のみんなが知っているので、OKだそうだ。それぞれのなりわいを尊重しながら儀礼を維持するということか。

 ジャカルタについた。タクシーの運転手とのやりとりに消耗した。コタ地区へ行くには、高速を時計回りにいくとすぐなのだが、タクシーは反時計回りに一周した。時間と料金が多分にかかったわけだが、それなりに車内の話は面白かった。彼はジャカルタのいまどきの若者という感じの、タクシーに乗りはじめて2ヶ月の男性である。名前は忘れたが、21歳か2歳のある女優のファンだという。しばしばテレビでドラマを見たが、ハイスクールでの出来事を題材にとった「愛に何があったのか?Apa ada cinta?」が大人気で、そこに出てくる男優・女優たちは、日本人の目から見てだが、十分に洗練された容姿である。ユディスティラ・アルディ・ヌグラハの『アルジュナは愛を求める』を読んだとき、そのポップさや同時代性を感じたが(おどろくべきことに1977年の作品だという)、そういう流れが文学の分野だけでなく、テレビで多くの人々に流布されるようになったのである。バヤン村でもテレビをもつ家があったという話をしたが、個々の家で見るだけでなく、道ばたのワルンで、夜20名30名の人々がたむろしてテレビを見ている光景も目をした。ジャカルタ発のそういった洗練された都市的なファッションが、バヤンの地までダイレクトに届く時代になったのである。

 待ち合わせはコタ地区の跳ね橋。早くついたので、橋のたもとで道行く人を眺めていた。目の前には鉄道が走り、橋の上には物乞いがいた。鉄道の周辺にはスクウォターが住み着いていた。スクウォッターエリアに入ろうとしたが、そう気軽には入れない仕掛けになっている。道端のワルンの中を抜けないと入れない。自然とチェックが入るのである。人々は列車の走らない時間を見計らって、鉄道を道代わりに使っている。眺めている間、スクウォッターエリアに住み着いている人が出てきて、橋の上から小便をしていた。なかなか気持ちよさそうだ。

 一方、橋の上の物乞いは、ずっと座ったまま動かない。目が見えないようだ。手を出してしゃがんでいる。私が見ている間でも、2名の人が硬貨を与えていた。貧しい人に対して施しを与えるのは、イスラームの教えの一つである。私も近寄って、1000ルピアほど渡した。1000ルピアという額は、おそらく多い。インドネシアの物乞いにお金を渡すという行為は初めてである。いや、物乞い自体にお金を与えるという行為自体初めてかもしれない。しかし今回の旅行でもそうだが、運転手に相場以上のお金を払うケースは多い。言ってみれば正当な額以上の余剰のお金を払っているわけである。とはいえ何かの労働があって、それに対してお金を払っているといえば払っているのである。だから物乞いであっても、例えば、楽器を演奏するとか、歌を歌うとかしてくれれば、お金を与える側も理由づけができる。しかし何もせず手をさしのべているだけの人にお金を与えるという行為には戸惑いを覚えるのである。正直に言えば、資本主義の世の中になじんでしまった私には、働かずしてお金を得ようとする意志を認められない。障害者だからお金になる技術を身につけることができないので、物乞いをするという主張にも首肯できない。バヤンの村では、足に障害をもった男性は散髪屋を営んでいた。あまり動かずにコミュニティに貢献できる仕事をしているわけである。日本でも視覚に障害をもった人があんまや針に従事するのは昔からおこなわれているところである。言いたいのは、障害も多様だが、障害者であっても社会に貢献することはたくさんできるし、お金をみずから稼ぐこともできるということである。とはいえ物乞いもそれで食えていけば立派な職業の一つであり、物乞いは労働であるとも言える。言ってみれば、自虐性で笑いをとるコメディアンも、物乞いのようなものである。自らをおとしめることでそれをお金につなげるという点では、いっしょである。
いわゆる身体障害者にとって、インドネシアの都市は生活しにくい、と想像する。バリアフリーなどという発想は、まだ徹底されていない。マニラを歩いたとき、歩道のいたるところに車椅子用のスロープを見つけたが、傾斜が急だったり、その前後で通り抜けが不可能になっていたりして、快適な歩行環境が形成されていなかった。スロープを取り付けることだけが意図され、ルートの連続性など考慮されていない。まあ、そのレベルではないといえばそうで、健常者にとっても快適な歩行環境は形成されているとはいえない。舗装の施工性が悪いためでこぼこだらけであったり、暗渠へ抜ける穴がいきなり歩道中にあったり、電柱などの路上構造物が多数歩道中に配置されている。

 その後、コタ地区を歩いた。といっても数日前の大雨のため、水没している道路があちこちにあって、目的の一部しか達成できなかった。が、水没のまちを歩くというのもなかなか楽しいものである。いつもとは風景が一変する。車は水しぶきを上げて走り、子どもはみちで裸になってみず遊びをしている。困るのはみちに面する家であり店である。足元は水につかったままである。だいたい歩いたところでは、10cm程度つかっていた。10cmといえばたいしたことないように思えるが、車道はすべて水没し、人が道を歩くには、レベルの少し上がった路側帯を歩くしかない。我々が歩いた地域は、歩道も十分に整備されていなかったので、幅15cm程度の車止めの上をあるいた。これもまたそばを車が走ればその勢いで水につかってしまう。靴を濡らさずに道を歩くことができないのである。とは言え、であれば、裸足であるけばいいわけであって、靴をもって裸足で道を歩いている人々をしばしば目にした。

 しかしこれはれっきとした都市問題であり、毎回毎回大雨が降るたびに水に浸かっていたのでは困るわけで、早急な排水設備の整備やごみ問題の処理が望まれる。正確に要因は知りえていないが、一つはごみである。路上に散らばっているごみが、雨によっていっきょに排水溝に流れ込み、詰まってしまう。コタ地区の川でも、水が増し、橋のところに大量のごみがたまっている風景を目にした。

 ごみが問題であるのならば、これは解決可能なのかどうか少々心配である。今回訪れたインドネシアやフィリピンでは、やはり個人の中で公の領域よりも私の領域の方が大きい。それが一番よくわかるのが、交通事情である。車はわれ先にと前を急ぎ、他の車を押しのけようと必死である。2車線であるはずの道路が実質上3車線になることもしばしばである。こういった私の欲望の増大が結局全体の不利益につながっているといえる。つまり交通事情でいえば、交通ルールをみなが守り規則に従った運転をするほうが、個人にとっても目的地に早く快適につけるはずであるが、そうはならないのである。この問題をどう解決するのか。ルールの遵守の徹底という方向で問題を解決するのか、それとも私の領域に傾倒することは避けられないとして問題を解決する方向を探るのか、方向性を決める必要がある。ジャカルタで、時間帯を区切って、1人乗りの車の進入を禁止する制度を導入していた。近年日本でも都心部の交通渋滞を解消するために導入が検討されている手法であるが、これがフィリピンやインドネシアで成功するとは到底私には思えない。実際ジャカルタのこの導入が、成功しているのかしていないのかはわからないが、成功するには、意識の変えること、管理システムを徹底すること、罰則を強化する必要性が指摘できる。それよりは、やはり多大な交通容量をさばける道路をつくっていくことが有効だと思うし、規制をもうけるとしても、もっと風上で設ける必要があると思う。例えば車の生産量を制限するとか、個人あるいは団体の車の所有量を制限するなどの上からの規制が必要がある。

 今日は大晦日であり、年始にあわせてジャカルタ中の人がまちに出て、まちは大騒ぎになると空港のトランジットホテルの人に言われた。あまり信用していなかったが、9時すぎた辺りから町にはバイクや車が大量に走り出した。タクシーを捕まえるのも一大事である。なんとかサリナデパートからタクシーを捕まえて、コタ地区へ向かったが、交通渋滞のため1時間30分もかかった。大量のバイク、大量の車がモナス広場に向かっていた。0時の年明けとともに新年をみんなで祝うという。バイクには、2人~4人が乗っている。家族総出である。この1日だけでも大気の汚染量はかなりのものである。かつてはみんな歩いて出向いていたようだが近年はバイクが主な足に変わったらしい。環境負荷という観点から見ると、かつてのように歩いて出向くほうがいいのは当然である。なんとかならないものかと思う。

 1時間半かけてついたのは、コタ地区のカフェ・バタビアである。10時半から3時までをここで過ごした。93年にできたというが、かつてはオランダの植民地建築である。2階のカウンターで飲んだが、天井が高く、雰囲気がいい。植民地建築の再生は今後の重要なテーマである。観光によって外貨を稼ごうと思えば、なおさらである。いまだジャカルタ市内、特にコタ地区には植民地建築が残っている。これらの中には十分に活用されていないものも多い。この地区の面的整備と建築再生によって地域の魅力を高め観光資源として活用していくことが必要だと思う。

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