フィールドワーク通信

広島を拠点にフィールドワーク。カンボジア、インドネシア、市民まちづくり

人類の学へ向けて0101

2006-03-07 18:37:52 | インドネシア通信
 今回フィリピンでは英語、インドネシアではインドネシア語を使って基本的にコミュニケーションをとったわけだが、インドネシア語はしゃべれないとしても、英語はしゃべれないはずはない。中学・高校と6年間も勉強しているわけで、少なくとも中学英語は理解できるはずだし、それならば自分の意志を伝えようと思えば伝えられるはずである。しかし学生たちは、コミュニケーションをとろうとしない。勝手に自分は英語ができないと思い込んで、しゃべろうとしないし、それだけでなくコミュニケーションもとろうとしないのである。

 コミュニケーションとは、言葉だけでとるものではない。正確なパーセンテージはわからないが、言葉がしめる割合は、せいぜい1割である。1割にも満たないかもしれない。コミュニケーションとは意志の産物である。意志があれば、絵をかいたり身振り手振りでなんとかなるものだと思う。言葉が通じないことを、阻害要因にしてしまうのは間違いである。
 これは何の問題なのだろうか。美しい英語、正しい英語をしゃべらないといけないという強迫観念が形成されているんだと思う。これはどこで植えつけられたものなのだろうか。大きな要因はやはり学校教育にあるのだろう。英語を教科として教え、成績の対象とし、そこまではいいのだが、その成績のつけ方に問題があるのである。成績の基準を見ながら学生たちは学ぶ。いい成績をとれるような習得法をとる。それはしゃべれることではなく、正しさなのだ。文法的に正しい、語法的に正しい英語をしゃべることを強いられてしまった学生たちは、しゃべりだすことに臆病になってしまう。

 しかし学生時代を終えてわかるのは、語学というものは、コミュニケーションをとりたいというモチベーションがなければ使えるようにはならない。一番大切なのは、そのモチベーションであり、しゃべる機会である。伝えたいことがあって、伝えたい相手がいて、それを伝えようとするところからすべてがはじまるのである。目の前にその状況があるのに、しゃべろうとしないのはどう考えても本末転倒なのである。

 関連して、いつも頭を悩ますのが、通訳の問題である。フィールドワークの中で、インタビュー調査を行う際に通訳を介すべきかどうかという問題である。基本的に私は通訳を用いない。地域の人々とコミュニケーションをとることが、フィールドワークの第一の目的だと考えるからである。地域に入るときに通訳を連れて行くと、それだけで受け入れ側は距離をおいてしまう。話をするにも、いちいち通訳を介さないといけない。それだけ人間的な交流が阻害されてしまうのである。ただ、詳細な踏み込んだ話を聞こうとする場合には、語学力に不安を感じることがあり、通訳が必要だと感じることがある。実際そう感じて、通訳をお願いしたことがある。その時は、確か3日程度の付き合いだったと思う。結果は失敗であった。そのとき対象としていたのは、バドゥイ地方だった。閉鎖的な地域で閉鎖的な民族である。インドネシア人の通訳であっても、たった3日間の付き合いで、彼らが心を開くわけはない。通訳にしても私が意図していたことをどこまで本当に理解できたかどうかわからない。ヒアリングといっても簡単ではないのである。そこには共通認識が必要である。共通の土台があるからこそ、そこでの疑問が共有されるのである。共通の土台がなければ、言葉が通じたとしても、意思の疎通には至らないのである。

もう一つ、地球の歩き方について。

 地球の歩き方は、我々の思考を停止させる。今回の調査にも、地球の歩き方や個人旅行といったガイドブックを学生たちは持ってきていた。私はロンリープラネットを持参した。既にこれまでの旅で地球の歩き方は何度か活用したし、基本的事項についてはすでにわかっているので、少し違った視点から編集されているロンリープラネットを利用したわけである。後者は前者に比べ、幾分生活情報が豊富である。たとえば我々がしばしば活用する本屋の情報は、前者にはない。文化的背景等に関する基礎知識も豊富だと思う。ヴィジュアルを排除し文字を増やすことで情報量を増やしているし、執筆者のレベルも明らかに違う。ユニークな執筆者、顔の見える執筆者を用意し、情報を精査、深化しているのがロンリープラネットである。ロンリープラネットなら思考停止しないというわけではない。結局は、そういった情報に対する我々のスタンスである。対象を深く知ろうとすれば、様々な情報が必要である。様々な視点から掘り下げられた情報が必要である。例えば地球の歩き方では、その多面性を獲得するために、読者からの情報を掲載している。しかし様々な読者からの情報を掲載することで本当に多面性が確保できているのだろうか。手元にあるわけではないので、それを逐一検証できる状態にはない。しかし懸念するのは、日本人という一種独特の人種から見た一面的な情報しか載ってないのではないかということである。様々な日本人がいたとしても、外から見たら同じ日本人である。結局は、自分の眼で自分の足で確かめなければわからないということが原点である。わかったつもりになるために旅などしているのではない。わかったつもりになるのであれば、日本にいて本を読めばなれる。我々は現実のリアリティに圧倒されたいのだ。圧倒されるためにその地に赴くのだ。知識として入ってくる情報を否定しながら、目の前を現実を理解するための仮説を構築しては壊し、壊しては構築するの繰り返しが他者へ対するまなざしとしては重要ではないか。


マニラの空港では、大阪便ということもあって、多くの日本人に囲まれた。子どもたちはベンチの上に靴であがり、飲みかけのジュースを床に置く。親は何もいわない。それが間違いであることも気づかないように。

いきなりだ。これは日本だからなのか、インドネシアやフィリピンでは、そんなイライラした思い、したこともなかった。

 人間は、立つ。座るときにはそこに場所を設定する。日本人は、床の上に場所をもうけ、そこに座る。地面に座らず床の上に座るのが日本人だ。場所を設定せず、どこにでも座ってしまうのは、人間のすることではない。人間は、場所に意味を与える動物だ。ベンチは座るところであって、立ち上がる場所ではない。食べ物や飲み物は地面には置かない。それが人間の証だ。

 逆に言えば、今、人間であることが我々に問われているのだ。多様な価値観が認められる時代である。地面に座ろうが、床の上に座ろうが、どちらでもよいではないかという意見が存在する。しかしそんな意見は存在してはいけないのだ。人間であることを放棄するような選択肢は、人間には用意されていない。人間であることとはどういうことなのかという、問わなくてもよい設問を設定しなければならない時代なのである。

 なぜ人を殺してはいけないのか、という設問もそうだ。もしそう問われたならば、こう答えるのが正解だ。人間はそういう問いは設定しない。人間の世界にはそういう問いは存在しない。そういう思考も存在しないし、その答えもない。それが人間だ。

 人類学というと、アジアやアフリカの辺境の地にいって、我々が慣れ親しんでいる近代的知とは異なる知のあり様を「発見」する学問だと思いがちだが、英語でいうアンソロポロジーでもアンソロは人間を意味することから人間についての学問である。日本語で言うところの人類学も、その言葉通り考えれば、人類とは何かを問う学問とは言えないか。確かに辺境の地の知の発見を積み重なることによって人類とは何かを問うことにつながるのだが、アジア、アフリカだけでなく、ヨーロッパやアメリカなど近代世界における人類の仕業も含めて人類を語ることはほとんどされていないように思う。人類と空間、人類と場について真摯に考えなければならない時が訪れていると実感する。

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