フィールドワーク通信

広島を拠点にフィールドワーク。カンボジア、インドネシア、市民まちづくり

ロンボク島バヤン村の人々1229

2006-03-07 18:41:48 | インドネシア通信
 スナルの手前のレストランで、カンチに声をかけられた。10年ぶりの出会いなのに、すれ違っただけで、名前がわかるなんて。10年前の滞在のとき、近くに住んでいたこともあって、しばしばいっしょに遊んだ。あの時11歳。小学校5年生だった。そう言われれば面影を感じたが、私はまったくわからなかった。11歳の子どもが覚えていてくれるとは、と驚いた。リンジャニ山のなだらかな斜面をなにげなく眺めながら、一人で感動していた。

 バヤンでも、ものすごい歓迎を受けた。村の中をあるけば、いたるところからワキタ!と声がかかった。10年という月日は長い。10年前に一瞬だけ出会った人を自分は覚えていられるだろうか。覚えているだろうか、と思うとき、彼らの思いを強く感じた。

 夜は、ブルムの飲み会である。ブルムとは、バヤンの地酒で米からつくる。黄色く濁ったお酒で、どぶろくに似ているのだろうか。発酵や酸化の度合いによって味はそれぞれ異なる。少しすっぱく、アルコールは日本酒ほど高くはない。最初のブルガで2本。次にはスガティのブルガで2本。最後にジャナに相手され1本飲んだ。女の子とは早々に退散。白石は調子よく飲んで、カンフーファイターとして名を馳せたが、途中で吐いて脱落。平川も調子悪く、脱落した。最後に私だけが残ったが、マンディして寝るといって、会を閉じた。かつては、ワキタが村の酒を全部のんだ、といわれるぐらいに飲んでいたが、そうそう飲めるものではない。といっても結構飲んだか。

 シンガトリア村長は、1ヶ月前に亡くなったという。2003年11月25日のことだ。村の片隅に立派な墓が作られていた。村長の長男スガティは、村長になった。隣に住んでいたシガティは、バリのカランガセムで働いている。マンベーは、妻を2人もち子どもも2人いるという。カンチも結婚して子どももいる。スナルでガイドをやっている。10年分みんな年をとったわけだが、このバヤンの地から離れず多くの人々が生活している。素晴らしいことだと思った。

 バヤンの村を一通り見て回った。変わっていると言えば変わっているし、変わっていないと言えば変わっていない。バヤン・バラットやカラン・バジョはほとんど変わっていなかった。カンプも変化はない。モスクは94年に整備されたが、あわせてマカムの整備もあった。しかしマカムは、その多くが、屋根が落ち、壁が壊れ、打ち捨てられた状態にあった。手入れがされていないからなのか、わざとそうしているのか、疑問である。一番大きく変わったのは、やはりこの村の中心であるバヤン・ティモールである。新しい家が増えた。2階建ての住宅も出現した。かつては1つしかなかったマンディ場が、15棟近くに増えている。朝、マンディ場の前でトイレ待ちをしたのをなつかしく思い出した。テレビをもつ家が出現し、村の真ん中に直径3mはあるかと思う巨大なアンテナが出現した。新しく建つ家は、レンガ造で、瓦屋根を架け、ルアン・タムと個々の寝室からなる。カンプの茅葺屋根にはそぐわない風景が周辺に生まれつつある。とはいえ、そういった新しい家を建てるという欲求を、何らかの力で抑えることができるのだろうか。10年前1ヶ月滞在したとき、調査に様々なかたちで協力してもらった村長の息子スガティもジャナも、ピカピカの真っ白い新しい家をもった。それは彼らの富の象徴である。きれいで、明るく、大きい家。住居内にイナン・バレとよばれる蔵をもつ伝統的住居は、暗くて汚く古いものだと認識されているように思える。一方で伝統を守ろうとする力は強く、カンプの伝統的住居はかたちを一切変えないし、儀礼時以外は中に入ることすらできない。

 伝統に対する認識と住居との関係は面白いテーマだと思う。個々の民族にとってそのアイデンティティを確認するため「伝統」というものは重要なファクターであり、どういったかたちで「伝統」を維持していくかは、いずれの民族においても中心的な課題の一つだと思う。伝統の認識が、儀礼のみに向かうケースと、住居そのものへ向かいケースがある。具体的に言えば、バドゥイなどでは、住居の形式を決して変えようとしない。材料や構法など近年の変化は見受けられない。一方、バヤンでは、カンプの住居を除いて、一般的な住居では、新しい材料、新しい構法がなんのためらいもなく導入されているし、逆にステイタスにもなりえている。その理由として一つ考えられるのは、一般の住居が儀礼の場として重視されていないからではないかと思う。個々の家族の儀礼は住居に付属してあるブルガで行なわれる。なのでブルガは存続するが、伝統的住居であるイナン・バレをもつ住居は、急激にそのかたちを変えていく。トラジャなどでは、住居そのもののもつ意味が重視されているためか、鞍型屋根の住居トンコナンは消えることがない。10年近く前にトラジャを訪れた時には、それぞれのトンコナンの後方にブギス族が建てるような高床式の住居が付設している例をしばしば目にした。ここらへんの関係はきちんと整理すると面白いと思う。

 今日の最後に、バヤン村の人々の紹介を少々。

 シンガトリア元村長。1930年生まれ。享年73歳。私がバヤン村の調査が自由にできたのも、彼の承認を最初にもらったからだと、いまさらながらに思う。そもそもは、その前にバリのカランガセム王宮で、アナック・アグン・グデ・クトゥットゥライ氏に紹介状を書いてもらったことから始まっている。彼にバヤンでの調査の概要を話し、調査の主旨などをシンガトリア村長に伝えていただいた。村長の許可があって、その息子たちと親しくしていたからこそ、村の中での私の居場所もそれなりにあったんだと思う。

 スガティ。36歳。バヤン村の村長。シンガトリア元村長の長男。シンガトリア氏は儀礼をつかさどる長であり、スガティは、行政村長だと思う。だからここでの村長という語の意味は異なる。とはいえ、儀礼長の長男だけに、村の中でのポジションも高く、だから34歳で村長になれたんだと思う。いいとこの子だけに、勢いがあって強引、一人でつっぱしるタイプだと勝手に読んでいる。いずれにしても、親しい間柄の人間が村長になったということは、もろもろやりやすいということであり、いい関係を続けたいと思う。

 ジャナ。31歳。シンガトリア元村長の次男。10年前の滞在時の私の担当(?)。ずっと一緒にいて、いろいろ面倒を見てもらった。なんどか日本へ手紙をもらっている。次男だけに、ちょっとおっとりしていて、長男の勢いにのまれている感がある。

 マンベー。19歳。19歳だといっていたが、ほんとに19歳だか不明。後述のカンチより年上だと思っていたが、そうでないらしい。モジェと呼ばれるバイク配送業を行なっている。配送業といってもモノを運ぶわけではなく、人を運ぶ。つまり2人乗り(時には3人乗り)をして人を輸送するのである。今回もスナルまで往復で連れて行ってもらった。往復2万ルピア。ちゃっかりお金を取られた。性格的にも荒く、少しだけすさんでいる感じがある。親しく接してくれるが、ひとなつこい感じというより、一歩引いた感じがある(うまく表現できない)。2人の妻と、2人の子どもをもつ。初めて知ったが、バヤンでも2人の妻を持つことが許されるらしい。

 カンチ。21歳。スナルで観光ガイドをしている。子どものころよく遊んだ。ひとなつこく、かわいい男の子だった。マンベーとともに一緒に遊んでいて、イナン・バレの歌を教えてもらった。イナン・バレの周りを5回回ろうという内容だったと思う。子どもの時2人でとった写真があったと思うが、どこに行ったかわからない。

 プトラ。小学校の先生。バヤン・ティムールの上のほうに住む。会うといつもカメラマンの松田修一氏のことを言う。松田氏は何度もバヤンに通っているという。93年に訪れた時も紹介してもらったように思うが、そのころはインターネットは普及しておらず、HP検索などできなかったが、今ならヤフーででも検索すればヒットするかもしれない。彼の住んでいるところは一応ジャナたちの住むグブック・テンガに位置するが、頻繁に交流があるわけではないようだ。彼の周辺にいる人たちにも魅力的な人は多い。93年に調査した時、血縁関係を全部調べたが、今は記憶が定かでない。プトラはやたらとボディタッチが多く、それだけがたまにキズだ。

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