フィールドワーク通信

広島を拠点にフィールドワーク。カンボジア、インドネシア、市民まちづくり

興味をもったことだけやる人生なんて貧しい0828

2006-01-22 21:42:41 | インドネシア通信
 トゥルニャンへ向かう日。12時にトゥルニャンの隣の村で、待ち合わせをしていた。午前中バトゥール湖湖畔のバリ・アガ村であるソアンガン村を訪れた。車の通る道の両側に集落が形成されている。数本の細い道が車道と垂直に走り、家々はそれと平行に建てられている。多くが新しく建てかえられたものだが、古い家が数軒みられる。分棟式ではなく、単棟で、近隣で採れる赤い石で周囲を囲む形式や3方を石の壁とし前面のみを木でかたちづくる形式がある。これらの形式は規模の大きいものは、12本柱の家と呼ばれ、小さいものは6本柱の家と呼ばれるという。内部は前後に2分割、左右に3分割され、バトゥール湖側の奥がお祈りの部屋として確保されており、私たちは入ることを許されなかった。

 先日訪れたトルニャンの雰囲気とは異なり、和やかな空気が流れ、みんなで「ここに泊まりたいね」と言っていた。というのも、今回のトルニャン行きには反対意見が多かったのである。

 集落研究の意味がわからないという声を聞いた。意味がわからないというのは言い過ぎにしても、基礎研究の色合いが強く、現実との関係がわかりにくいという。私は大学院に入りたてのころ、都市研究には興味をもてないでいたが、集落には大きな関心を寄せていた。それは、人間が家を構えて住むということの原型がみられると思ったからだし、また人間が集まってすむ時の空間のあり方を考える材料になると思ったからである。原さんの集落研究が、集落と実際の設計との関係を示すという意味ではわかりやすいモデルだし、その他にも興味深い例はいくつもある。今ふと吉阪隆正を思い出した。彼は確かモンゴルの住居集落研究を卒論だか修論で書いていたと思う。途中コルビジエとの交流を経ながら、最終的には有形学へとつながっていくが、彼の記した『住居論』からもわかるように、世界各地のバナキュラーな集落から学ぶという視線は欠かせなかったと思う。彼の編み出す有機的なかたちは、まさに集落のそれである。とはいえ、ある一つの集落に対する研究が、それほどに意味をもつのかという議論はあると思う。まあ、事例研究のひとつだと割り切れば問題ないが、なかなかそうもいかなくて、その集落そのものがもつ魅力や位置づけが問題になる。トゥルニャンは、バリ・アガ集落の一つで、バリ島東部に位置するテンガナンやブグブグとは異なる住居集落形式をもち、またロンボク島のササック族の住居集落との類似性を感じさせる。また北部のいくつかのバリ・アガ集落の報告が実際されているのに対し、トゥルニャンに関する報告は近年まったくされていない。とはいえ、ここらへんの話はアカデミックな話なので、知識の蓄積がなければわからない話であり、わかりにくいといえばわかりにくい。

 話は少しずれるが、それよりも問題にしたいのは、発想の問題である。興味がわかないことをやりたくないという発想である。個性や自由を尊重してきた最近の教育制度のつけを押し付けられているようで不快である。ゼロからは何も生まれない。持ち牌が与えられる必要がある。興味を持ったことだけをやる人生なんて貧しい。自分の領域を拡張するには、自分の興味の世界に閉じるべきではない。

 まあ、といってもトゥルニャンに行きたくないのは、先日行った時にカネをせびる村人に出会ったからという単純な理由からだと思う。確かにあいつにまた会うかと思うと気分が悪い。しかし気分が悪いながらも行く理由は2つある。もっともっと崇高な目的に突き動かされているということと、たった数人のつまらない奴らのせいで、村人全員をつまらないと思ってしまう間違いを犯したくないということである。前者は既に書いたことに含まれているので、後者についてここでは書こう。それは部分と全体との話である。我々は全体を知ることはできない。我々が経験するのは常に部分であり、部分から全体を憶測するしかない。部分は全体をそのまま縮小したものではない。トゥルニャンは、土地に乏しく、十分に耕作ができないし、湖に面しているからといって、魚が十分に採れるわけではない。だから観光にやってくる人々からカネをせびるという選択肢を安易に選んでしまうのかもしれない。とはいえ、全員がそうではないと信じたいという想いはあった。これまでの経験から言えば、どこにいこうが日本人よりはましだし、相対的に田舎は都会よりあったかい。

 船乗り場をどこにするかや、ボート代でもめたりしたが、とりあえず、トゥルニャンに着いた。今回はマデさんの忠告もあり、村長にまず会ってから行動することにしていた。前回の彼にあってしまうと、彼の言っていることが、さも一般的であるかのように受け取ってしまうからだ。正しさの基準はなかなか難しく、基本的には「郷に入っては郷に従え」なので、こちらの正しさをただ単に押し付ければいいというものではないことは確かである。とにかく村長にまず会った。なかなか穏やかな人物で、年は40歳、高校生の子どもがいるという。我々がここに来た目的を告げ、1泊することの許可を得た。泊まる場所も用意してもらうことにした。

 さっそく調査を開始しようとした時、彼がやってきた。学生たちに調査を任せ、私は彼の対応をすることにした。ごちゃごちゃ文句を言っていたが、基本的にはのらりくらりと受け流すことにしたが、なかなかしつこかった。だが村長の家の前に行くと、なぜか彼もおとなしくなった。村の中を歩いていると何度か彼はアプローチしてきたが、その度、村長の家の前のテラスに逃げ込むことにした。ついてはくるが、しばらくするとおとなしく去っていくことがわかった。村長の力は偉大である。

 これまでちゃんと意識したことはなかったが、インドネシアのように共同体がしっかりしたところでは、筋を通すことは重要である。短期の場合は、国の調査許可まで取る必要はないと思うが、町や村レベルで調査をする場合は、そこのコミュニティの長に話をしておいたほうがいい。とはいえ、調査というとなかなか話がややこしくなるので、興味があるのでとか、絵を描きたいというようにしている。調査といってしまうと、開発との関連が懸念され、村や町の人々がナイーブになるケースを経験したことがある。

 28日の調査では、集落全体の配置図を採ろうと試み、作業を開始した。しかし作業速度が遅く、到底無理だということがわかった。学生に図面を採らせるのはなかなか難しい。日本でトレーニングしておけばいいのだが、毎回ぶっつけ本番である。正確にとることは大切であるが、最終的な成果物の表現を意識しながらとらないと、無駄が多くなる。常に時間との勝負なので、限られた時間の中で、どの精度で実測するのかを判断しないといけない。

 集落は、湖から山へ向かう傾斜に沿った4本の道を中心に構成され、住居は数棟が4m前後の空き地を挟み込むかたちで向かい合わせに配置され、1世帯が1つの住居に住むのが基本である。先祖を祀る祠は、住居から離れて山側にまとめて配置されている。村の寺は、山に向かって左手の位置に配置されている。

 それぞれの世帯に所有される住居を、所有のあいまいな中庭のようなスペースを介して向かい合わせにかつ平行に配置したものを単位としながら、それぞれの単位が、山海方向つまり上下方向に走る道を介して連結するという集合形式を持つといえる。確認していないが、住居の棟木の方向と村の寺院のヒエラルキーの高い方向とが同じなので、彼らの方位観に規定されて、寺院、サンガ、住居の配置方向が決定され、それと中庭を介する住棟形式とがあいまって、集落形態が決定されていると考えられる。

 ロンボクとの比較を思い描きながら今思ったが、稲作を行う地域とそうでない地域とでは、住居形式が異なることは考えられるのではないかと思う。つまりササックのバヤン村の住居は穀倉の形態との関係を強く感じさせるが、トゥルニャンでは、そういう穀倉の高床の存在をあまり感じさせない。
 ロンボクで調査していたころは、毎日のように車をチャーターして集落をまわっていたので、毎日車のチャーター代を巡って喧嘩していたのを思い出す。あのころは本当に毎日毎日喧嘩をしていた。比較すると喧嘩の回数は格段に減ったし、皆無と言ってもいいかもしれない。それは、こだわりを捨てたからかもしれないし、あきらめたからかもしれない。しかし今自分の中では、以下のように整理している。それは規範主義と交渉主義の違いではないかということだ。明確な規範をつくってその中で行動する我々と、状況にあわせて規範を自由に変えながら交渉の中で決定を行っていこうとするスタンスの違いである。モノの値段がまさにそのいい例で、我々の社会では、すべてに定価があり、その値段をみて買うか買わないかを判断する。お金が少し足らなくても、値切って安くしてもらおうとは考えない。あるときは1万5000ルピアあるときは2万ルピアと、タクシー代が変わるこことは異なる。最初言ったことと後で言うこととが違うことがしばしばある。話が違うじゃないか、となるわけだが、それも状況を見ながら判断するという体質のなせるわざではないだろうか。飛躍があるかもしれないが、産業革命以降の機械の世界では、定期的に決まった量や質のモノを生産可能だが、農業や漁業に依存する社会では、自然との対応の中で生活を築いていかなければならない。例えば、毎回支払う額が決まっていれば、状況によっては支払えない場合がある。そういうケースに柔軟に対応するという経験の中で、交渉主義の土壌ができあがっていったのではないか。生産性の高さからいうと、おそらく規範主義が上であり、インドネシアでも進展しつつある近代化の流れの中で、徐々に規範主義に変化しつつあるが、完全に変わってしまうことはないだろう。

 旅行の途中で時々登場するトランプが気に障っていた。学生たちはトゥルニャンでもトランプを始めたが、子どもたちはさして関心を示すようすもなく、大人たちには、邪魔してごめんと言われたり、ゲームを遮って用件を話終えると、悪かったさあ続けてくれ、と言われる始末。日本でもできるトランプをトゥルニャンでする意味はない。これは調査の根幹にかかわる話だ。理解へのベクトルの問題でもある。私たちは、異文化を理解するためにその地にいる。完全に理解することは到底できないが、理解しようとするベクトルをもつことが大切である。限られた滞在時間の中で、どれだけ彼らの世界に肉薄できるかが我々に課せられている。自分たちで円陣を組んでトランプをする意味など微塵もない。それが一つ。もう一つは、異文化交流の話である。バリの世界に、西欧起源のトランプを持ち込むことにセンシティブにならないといけない。これは昨年帰国後にも松波さんと話した話である。相手の文化を壊してしまいかねない我々の行為について意見交換したのだが、その時のとりあえずの到着点は、バリは文化の強度が強くしたたかであるので、こっちが揺さぶったぐらいでは、こっちよりに変化することはなく、彼らは彼らのやり方で我々の文化を摂取しバリ化してしまうんじゃないかという仮説だった。バリ(ここではバリ・アガのことはあまり想定しておらず、バリ・マジャパイトを想定しているが)ではそうだが、それが果たして、例えばロンボクでもあてはまるだろうかという問いかけを私はしたと思う。文化の固有性の度合いというか、深化の度合いというか、洗練の度合いはそれぞれの文化によって異なっており、その度合いが高ければ、バリのような現象が想定されるが、そうでないところでは、画一的な西欧近代化や、あるいはインドネシアであればジャワ化を受け入れてしまうのではないかという話である。それは世界の豊かさ(「世界はもっと豊かで、人はもっとやさしい」のあれ)を減じる方向に働くのではないか。その方向に我々自身が手を下してしまう危険性をもっているという話である。この文脈でいえば、ヨーロッパやアメリカ、日本は強者であり、以上の話だとバリも強者かもしれない。ロンボクは弱者だ。で、トゥルニャンも弱者だと想定しているんだと思う。この議論はまたどこかで決着をつけたいと思うが、別の問題設定の仕方として、花札ならどうかという話もあると思う。日本の文化的資源の一つ花札である。花札ならこれはれっきとした異文化交流ではないかという議論である。これもなかなか違和感のある問題設定であるが、日本人がその文化的背景もしらずトランプを手にするより、月の美しさを知る日本人が花札を手にしたほうが文化の伝達度は高いという話である。少なくとも学生たちに期待したのは、センシティブであること、悩まないやつはいつまでたってもバカなままだ。

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