
NHKTVでチェコのビロード革命25周年のドキュメントを流していた。 マルタという名の聡明な女性シンガーが歌いあげるビートルズの 「ヘイ・ジュード」。
この歌が民主化の旗印になり、 革命の夜明け前には国歌の代わりになった。市民がこぞっていのりをこめて唱和した。音楽のちからが銃口に屈しなかった映像に感動した。チェコという国に好感するひとりだ。
ついでに。1968年、チェコスロバキアが民主化を求めて国民が反モスクワの声をあげた。「プラハの春」 は世界中から支持された。残念ながら赤い狂犬が戦車で蹂躙して結実しなかった。この一連の動きを点火したのは、同年春5月の 「プラハの春音楽会」。
ボストン交響楽団が演奏するスメタナの「わが祖国」 指揮したのはわがセイジ・オザワだった。マルタと同様の役割りを果たしたのだが。
青山表参道でフランス骨董店を経営しながら自らダンス・カンパニーを主宰していた紗羅は急展開した。平成になったあたりの時期だ。オープン予定の「箱根ガラスの森ミュージアム」 の特任バイヤーのオファーをうけてOKした。もとよりダンサーでは生業は難しい。
オーナー社長が「出張の合い間のダンサー活動よし」 「専用のスタジジオもこしらえましょう」 この条件に紗羅は乗った。実際には忙務で公演活動はほとんどできなかった。
バイヤービジネスには乗ったものの、 自転車に乗れなかった。水泳はカナズチという軟弱者がクルマの免許を取って八王子の山奥に通い、大半はせっせとヨーロッパに買い付けに通うことになる。
ガラス・アート作品、ガラスのミュージアムグッズの買い付けでイタリアのヴェネツアン・グラス、そしてチェコのボヘミアン・グラスがメイン・ターゲットだった。
パートナーのわたしはとんちきな風来坊、もとより旅好きだ。 「どう?赤帽さん、やってくんない」 やさしくやんわり強制された。断る理由は0%以下だ。当時はネット新聞で毎日コラムを書いていた。ヘボ記事を早く仕上げる、それだけが取り柄だ。ヒマをもらって参戦した。 そうしてチェコなる国をノックした。 「ドブリーデン」=こんにちは 「ジェクェバーム」=ありがとう、 なんてチェコ語まで忘れていない。
ふたり連れで、ヨーロッパにアメリカと10年ほど転々と移動するのが日常になった。お気楽な立場の旅人のわたしにとっていちばん印象深いのは、やっとのことで銃火のないビロード革命を勝ち取り。 民主化にこぎつけたチェコだった。1993年、はじめてのチェコを追想してみる。
のっけからハードな洗礼をうけた。 汽車でパリからウイーンを経由してチェコのブルノに向かうローカル国際線の乗客は数人だった。
どうやら国境を越えたらしい、そんなときに武装兵士にマシンガンを突きつけられた。下車させられた。 ていねいな荷物点検、そしてがなり声。どうやら「パスポート」といっている。「がなることねーだろ」と笑顔でがなり返した。 ついこの間まで東側にいた国の歓迎ぶりというか。
チェドックなる管理システムがあって、 これがやっかいで不自由でいつも苦笑してしまう。旅人からすれば、アクセス移動やらホテル宿泊はすべてチェドックを通さなければならない。もちろんパスポート持参。だれだって監視対象なのだ。
ブルノ・オペラ座で「蝶々夫人」の公演があった。反応してチェドックにてゲット。 円換算で500円ほどと信じがたいお値段だったが・・・ 案内されたのは指揮者の汗が襲ってくるような真ん前の特等席で実に当惑してしまった。たぶん熱烈歓迎されたのだろう。それはおくとして。
ちゃんとしたオペラだ。劇場も歌唱も音楽もすばらしい。けれども大道具、小道具、衣裳が無残、ひどすぎた。背景の富士山は銭湯の壁絵のようだし、 衣裳は貧相な浴衣らしきもの、ちゃんちゃんこ風で頭にはベトナムらしいトンガリ帽子。
蝶々ではなくてガチョーだ、カマキリだ、マダム・バタフライではなくバター犬だ。 見るに耐えないとあって、ふたりで幕間にそおーっと脱け出した。2幕目の開演のブザーが鳴って客がロビーからいなくなったすきにそーっと。
「蝶々夫人」 ゆかりの国から来たからといって特等席を用意されたのに裏切ってしまった。「目立つとこに座ってたから、全館のみなさんにバレバレだわよねえ」 紗羅がニヤった。
バスで首都プラハに向かう。はるか地平線にぼんやりと尖塔が浮かんだ。 なるほどの百塔の街だ。着いてあたりを見渡すと、その光景はまるでビュッフエの絵画の世界だった。
いかつい建造物はすべて黒い。 真っ黒の濃淡がすべての色彩であった。文字通り暗黒支配したモスクワ体制のおかげだろう。まるで石炭でおもいきり燻られたモノトーンの化石の町並みだった。
プラハには2年おきにぐらいに通った。 するとどうだろう、そのたびに街は色彩を取り戻していく。数十年にわたって放置された重厚な地球遺産の街が、 民主化によってだんだんと生き返る。みんなして建物をモップでゴシゴシしたのだろう。
21世紀になってからはすべての景色はピッカピカ、光り輝いていた。 尖塔が金色に見事な光彩を放っていた。
それと同時に市民の顔や表情は、明らかにかつてのそれと比べて明るい。 押し黙った顔に笑顔が戻るようになった。
紗羅と熱心に街歩きをした。 目当てはストリート・ミュージシャンだ。カレル橋や聖フランチェスク、天文時計塔がある旧市街あたり。 路地裏で演奏しているミュージシャンたちの音色は素人耳でも超一流なことがわかる。 毎夜毎夜街頭コンサートをたのしんだ。 彼らはみんな国を代表する音楽家だった。
旧体制支持だった音楽家は民主化によって放逐されて失職の身だったのだ。 紗羅は「音楽には政治は関係ないもんね」 といって投げ銭をはずんだ。
はじめてモルダウ河{ブルダバ}を前にした衝撃は忘れない。思わず歌ってしまったのだ。 スメタナ作曲 「わが祖国」の一節・・・
♪ 水上(みなかみ)は遠く 遙か
豊かなる河 モルダウよ
舟人の歌は 星青く たゆとう波間に浮かびつつ
遠き夢の 君がもとに 還りゆけ~~
。。。思い入れがとことんだった。わたしにだって感受性がやわな時代があった。
中3のとき小雪が散る12月のことだ。 担任の教師が職員室でブロバリン130錠を飲んで服毒自殺。後追い心中だった。 モルダウを目前にして、あの日の悪夢がよみがえったのだ。
純情青年だった小林先生。 生まれ育った秋田の鉱山町は全国から流れてきた荒くれが支配する町だった。 あんなピュアなオトナにはじめて出会った。心底、リスペクトしていたた。
29歳。戦死をまぬがれた復員兵士だった。敗戦後は腕っこきの大工だった。向学心に燃えた青年は、教師になりたくて大工を8年、 カネを貯めて2年間の短期教員課程を経て、悲願がかなったその年の暮れの悲劇だ。
永いこと彼を慕う恋人がいた。 「きっと一緒になる。でも待ってくれ。やっとのことでセンセイになれたんだ。頼む」 待ちきれなかった事情があった彼女は自死してしまう。
担任の教師はそのあとを追ったという図式。 たぶん彼は童貞だった。 修学旅行の青函連絡船のよる、「男全員集まれ」 彼としては性教育をするつもりだった。わたしたちはその程度の性知識ははるか前から知っていて無関心だった。むしろ教師の表情に注目していた。
彼は顔面やら耳たぶを真っ赤にしてしどろもどろ。童貞だったことは明白だ。 そのあとに「さ、気分を変えよう、みんなして歌おう」 それが「モルダウ」だった。
♪遠き夢の、 君がもとに 還りゆけ~~
「モルダウ」は後追い心中教師の鎮魂歌にしていた。自分で禁断の音楽にしていた。現実のモルダウ河岸に立って無意識のまま歌ってしまったのだ。モルダウを肉眼で見て、感じた積年の思いがこもった惜別であった。 数年前には離婚した前妻が病没していた。
これでも当時はいっぱしの早熟な文学少年だった。 生意気にも仙台の文芸同人誌の会員にも名をつらねたりしていた。 こんなあんなで後追い心中はとてもとても精神感応的衝動、 ハードな、 ハート・ビーティックなショック。オトナの、それも愛の悲壮な結末と直面した。
男と女の間には暗くて深い河がある。 その河のイメージがモルダウ。純愛をつらぬいて愛するひとのもとに追って散ったおとこ。 わたしのメンタルの屈折反動はずっとひきずったままだった。
ある映画監督が泥酔してうそぶいた。 「男は悔しがって生きる。女はかなしがって生きるんだ」 こんなセリフにをシラフで聞き流せない性分だ。
校内で担任の自死に痛撃にダウンしたのはわたしばかりではない。 3年C組の誰それが打ちのめされた。 大館市にある墓標に日参する同級生はとりわけ女子だったが4,5人はいた。 たぶん後遺症だったのだろう。 その数年後、成人になってから2人の女子同級生が自死している。 それぞれが愛のもつれが原因だったと聞いた。
「なーんも死ぬことはなかったんだ」と床屋がいった。 「悩みぬいた結果、先生の愛の完結のことが浮かんで、それが引き金になったんだろうね」 わたしは彼女たちのためにも思いをはせて、 深くて暗いモルダウのよどんだ風に乗せて歌った。 惜別のラストソングに紗羅はもらい泣きした。
プラハのホテルで朝食をとっていると、 直立した巨大な熊に話しかけられた。ネーティブな日本語で、聞くと父親が元駐日チェコ大使、大相撲の優勝者に手わたすクリスタルガラスのプレゼンターだった。 ひげもじゃの巨熊は日本育ちだった。
「東京の広尾の丘の上にチェコ大使館があるでしょ」 「そう、ビザを取りに行った」 「あそこはつい先日までチェコスロバキア大使館だったんだ」 「分離したんだよな」 「そうなんだ。スロバキアは建物の右側で、左はチェコと仲良く折半したんだ。 問題は・・・」
「なんだ。ケンカになったか」 「じゃないよ。裏庭には池があってさ。鯉がたくさん泳いでいる。その鯉がどっちのものなのか、果たして」 「魚が帰属権を争う投票したのかい」 こんな軽快な話で打ちとけてヤンという彼とは仲良しになった。 通訳として助けてもらったりした。
ヤンにアテンドしてもらって、ポーランド国境に近いガラスの国営会社を商談に訪れた。運転手は固い表情のいかにも軍人に見えた。 ヤンがこっそりいった。 「彼、秘密警察のトップクラスにいた男。現体制から追い出されたんだ。こんな仕事やるなんて夢にもみなかっただろ。おれたちだって・・・」
ヤンの家族も旧外務官僚だった父親の失脚のおかげでおろおろしながら生きているのだという。 体制崩壊の悲喜劇をうかがい知る。しかし秘密警察とはけっして同情したくない。 「殴ってやろうか」 「おれだってそうしたいさ」 国営会社で珍しい昇降機を見た。 こいつの説明をブログ「紗羅のアトリエ」から引用しよう。
記憶の中の、止まらないエレベーター。
二台のエレベーターが並んでいます。
右側が上り。左が下り。
ドアはありません。
止まることなく
ゆっくりと動き続けているのです。
空いている床が上昇してきたら
上に行く人が乗り込みます。
降りるべきフロアに着いたら
ばらばらと降りていきます。
下がるときも同じ。
観覧車のようなシステム。
ごく日常の風景。
目にしたのはチェコの大会社の従業員フロア。スロバキアと分離したばかりの1993年。
そうなんです。観覧車、そしてスキー場やお山にあるリフトと同じように、タイミングを見計らって乗り込み、降りる。止まらずに動き続けているエレベーター。
驚いた。そして楽しくなった。なーんだ、エレベーターってこれでいいんじゃない☆と、楽しく乗り降りさせていただきました。・・・遊園地気分♪
手動の重たい回転ドアも好きです。人間の体感で把握出来る装置。
理解を超えるものがどんどん増える世の中。便利かつ安全が当たり前。事故が起きるとマスコミ総出で大騒ぎ。いいのだろうかこれで・・・と、アナログ原始人は思うのでした・・・
・・・・・・・・・・・・・・
昼どきだったので、ひとまず案内されたのは社員食堂だった。 ヤンが説明する。「食堂は4段階でさ。てっぺんは社長や役員専用。でもって、いまわれわれがいるところで管理職レベルの食堂さ。みんなメニューまではっきり違う」
その下は一般的なヒラ従業員用。 「で・・・?」 地下にある食堂は、解雇できない旧体制にいた人たちの食堂となっているそうだ。 共産党なのか、 社会主義っていうのか、 ようするに区別システムがビロード革命後でも厳然として残っていた。 旅というより20世紀の世界地図を実感させられた。 東側はあきらかに周回遅れのランナーだった。
ヤンに聞いた話で記憶の停車場にとどまっているのは、 ヨーロッパに厳然とある難題、 ジプシー、圧迫され続けている流浪の民。 紗羅はワールド・ミュージックとされる音楽を好んだ。とりわけジプシーの,生活感のなかにある愛を音楽をつよく支持していた。 ニホンで差別問題の教育をうけているヤンの表情はくぐもった。
この国はさ。 せっかく民主化になった、自由を得た。ベーシックな問題が片付いたとなったら、 市民は新しい不平不満のはけ口をジプシー、ロマに向かったんだ。 彼らは教育がない無知な連中だから、 近親相姦でぼこぼこ子どもを産む。 行政が住まいを与えても、 家財を焚き木にして燃やしてしまう。
といった極端なケースをとらえて、攻撃する。おぞましい差別の現実が起きているんだ」 ヨーロッパでも知的レベルが高いとされるチェコ。 それから間もなくEUに加盟を果たした国でさえ・・・痛感した。
1993年のチェコ。ホテルのベッドはお子様用のようなちんまりしている。 横幅はまさしく病院の手術台。 この国の男女は「あに考えてんだ」 と仰ぎ見るほどでかいのに。 ふむふむ、 いろいろ考察してみる。 共産党体制下では移動は不自由だった。 宿泊は人民の招待所と命名された合宿所で、 これは1985年の中国旅で体験している。 なるほど、 意味不明ながら納得する。
チェコの食い物は、まずジャガイモをごてっと煮た付き合せプラス肉かソーセージが定番。 腹に折り合いをつけるために食う。 体調はいつも通りなのだが、 どうしても少食になってしまう。 ならどうだ、チャイナ・レストランに出没する。まず視覚的に怪しい。 フォーク・ナイフでおそるおそる味見する。 なんと大胆にデフォルメされた「怪奇中華風」よ。
街でラーメン屋を見つけた。日本製の生ラーメンを調理しただけだからとても納得した。納得がいかない問題点があった。割り箸は有料なのだ。つまりフォーク使用。む。
お楽しみは、毎夜レストランでオーダーするハウス・ワイン1本。 これがとてもとても渋くてえぐい。 紗羅と毎晩ワイン・ソムリエをやった。「本日のこれも☆5個ってとこかね」 「いや、もっと高得点を差し上げたい」 「ほんと。☆7つってとこで」 「納得だわさ」 評価基準は逆算方式だ。こいつをいかにも「美味なり」 のポーズでいただく。目はけっして笑わない。
プラハ旧市街広場のヤン・フス像。一角はテント小屋のバザールが常設されている。ひやかし歩きをしていると、赤毛の派手派手な20代の女性が「寄ってけ」という。
予定としては、この女性は狂女で、 粘土の人形を作るユーゴの不法難民たちを隷属していた。彼らユーゴ難民の青年たちの悲哀。 それから、プラハ城の教会で巡礼団のアカペラ賛美歌。プラハの中世風地下酒場・・・などなど。
あー、しばらく休載ス。




あー、某国のコンビニのねーちゃんに聞いた。「口がひん曲がるほどスっ辛いカップ・ラーメンはどれあるか」 軽ろやかに購入して帰国しやした。