goo blog サービス終了のお知らせ 

不良家

駄文好む 無教養 くすぶり 時々漂流

吉左エ門の末裔 PART②

2006-06-09 21:05:58 | 家族
1944年11月、浜名湖沖。戦艦信濃が撃沈沈没した。アメリカ海軍の潜水艦による魚雷攻撃で太平洋の海底に果てた。戦艦大和クラスの戦艦で航空母艦に改造された直後であった。
当時としては世界最大の航空母艦だった。
戦時中はその存在はもちろん、沈没された事実を含めてにマル秘扱いで、敗戦後になってやっと明らかになった。巨大なまぼろしの空母だった。
荒海に投げ出された乗組員2515人、救助されて命拾いをしたのは30%。
・・・海兵・斉藤定雄は、地獄絵のなか懸命に泳ぎ、奇跡の生還を果たしたひとりだった。

「キッジャム」の家は狂喜した。
「定雄が生きて帰ってきたぞー」村中がお祭り騒ぎとなった。
定雄にとっての曽祖父富松がまだいろり番をしていた。祖父富五郎は「ひと冬の炭焼き」の儀式をすませて家督はその長男の助松が継いでいた。
助松のひとり息子が定雄である。ひとりっ子で、弟や姉妹はいない。
キッジャム王国の唯一の<皇太子>だ。

叔父にあたるわたしの父は、激怒して怒鳴った。「なんでなんだ!」
「無事に帰ったのはうれしい。しかし、なんでなんだ。山奥の農家のひとり息子がどうして徴兵されなきゃならなかったんだ。しかも海軍だ。定雄は海を見たこともない。なんで帝国海軍なんだよ。なんで九死に一生なんだよ」
生還に喜んでいたキッジャムの一同は、無言でうなずいた。ガキのわたしにはその怒声が耳に残っている。

まだまだ健在で、車を乗り回している定雄は、わたしが戦艦信濃の話題にふれると「忘れた、いや努力して忘れることにした。戦争はだめだ。これだけだ。あとは聞くな」とそっけない。「お前たちは、そんなことにならないようにけっぱれ。それでいい」。

キッジャムでは三男坊ではある父は相当の発言力があった。
仮定の話になる。定雄があえなく戦死という事態になったら・・どんな流れになったんだろう。
くどいようだが仮定の話だ。当時は悪たれ坊主だったわたしが養子に入ってキッジャムの跡取りになる可能性があった・・・いまごろは秋田の農家の当主で、こんな駄文なんぞ書いてない。
冬山の炭焼きコースだった・・・。

「サダオォ、ちゃんと種付けやってっか?」わたしが居候していた当時は新婚ほやほやだった。
「心配だぁ。ベテランのおらが代わりに仕込んでやっか」あはははは、ふぉっふぉふぉっ。
でっかい笑い声が土間に響く。新婚の定雄夫婦は顔を赤らめて逃げ去る。その背中に「ただいまから一発コキノスケかぁ」
「敬礼!」といいつつでかい屁を放つ。「進軍ラッパだぁ、はっはっはっ」

少年のわたしには不思議な光景だった。
キッジャムは家系、家訓として酒は飲まない。しかし酒はいつでも置いてある。
訪れた客人には茶碗で酒をふるまう家でもあった。
それでもって毎晩近所のおっさんたちが飲みにやってくる。家には上がることはなく、いつも二、三人が土間の横板に腰を掛けておだをあげている。

山盛りの漬け物がサカナの無料居酒屋。
客人の土間の茶碗酒は、酒を飲まない家に対する礼儀だったのかもしれない。
キッジャムの家族全員はお茶をすすりながら、ユーモアたっぷりに酔客に応対していた。会話を楽しんでいた。
自分たちは飲まないものの、飲んべえには実に実に寛大だった。
いいかえれば調子コキ。わたしはこのキッジャムの血統を受け継いでいる。ただし、家訓を汚した。背徳の飲んべえとなった。

父は採鉱夫だった。ニホンの敗戦後、鉱山町は圧倒的な好景気となった。復興に地下資源の需要は無限にあった。朝鮮戦争の特需も加勢して「ゴールドラッシュ」状態となった。

例をあげると、毎年一度か二度は大相撲の地方巡業がやってきた。旅館なんて1,2軒だけだったので、相撲取りはみんな民泊だ。わたしたちガキ仲間の家に泊ることになる。
ガキどもは目を輝かして機敏にせこせこ走り回った。相撲取りの入浴をこそこそとのぞき、報告し合った。ちんぽこ少年探偵団。

「照国のちんちんは鶏小屋のウンチまみれのタマゴぐらいだったぞ」
「羽黒山なんて干からびた松ぼっくり」
体はでっかいがちんちんは小さい。これがガキどもの統一結論だった。
相撲取りはいつもまわしで<男の部分>をきっちり締めているから、縮小するのは事実。

青年になって外国人プロレスラーのそれを数十本単位で拝謁!した。
敵はシャワーの行き帰りに見せつける。で、でかい。
棒状の生サラミ、肉尺八、それ以上のボリューム感があった。
そいつを収納する女性はエライ。・・もっとも彼らの30%はホモなので「もったいない」を痛感。

ー悪ガキは巡業のサーカス団のテントにも忍びこんだ。厚化粧年増の着替えシーンをのぞき、口紅を寸借して塗りっこしたりした。

ゴールドラッシュの町だから全国からよそものが集まる。当然のようにあっという間に飲み屋があちこちに開店した。
小さないなか町は酒臭い町に急変する。ガラの悪い流れ鉱夫たちがいた。彼らが一番恐れていたのが地元の「特攻崩れ」。
特攻隊員として一度は死ぬ覚悟をきめた若者たちだった。

戦争で死ねなかった彼らは自暴自棄になって暴れた。死ぬことさえいとわない怖いもの知らずの喧嘩騒動は絶え間ない。何度か乱闘の修羅場を見たが、彼らの気合いは鬼気迫るものがあった。

ある夕刻、酔った彼らは丘のてっぺんにあった忠魂碑を押し倒した。その勢いで丘の下に突き落としてしまう快挙!をやってのけた。
この現場も目撃している。かなり年長のいとこが「特攻崩れ」の仲間で、「見にこい」と誘われた。

聖戦とされたシンボルの忠魂碑を破壊しようという若者たちの意思表示だった。ガキとしてはまだその意味は把握できていなかった。
ただただ彼らのエネルギーに圧倒された。巨大な石碑である。

ここで四年前になくなったノブ叔母についても書いておきたい。
ノブ叔母は戦争未亡人だった。最愛の夫を激戦地ガタルカナル島で失った。はるかニューギニアの東、ソロモン諸島の戦略ポイントだった。夫はそこからものいわぬ亡兵となって「靖国に戻ってきた」のだった。あえていう。なにが靖国だってんだ。
勝気な叔母はそれにめげずに優秀な看護婦として遺児である順子とともに敗戦を迎えた。
当時は「一家で数人」が戦争の犠牲者になった。当たり前のことだった。これからの先、未来では決してあってはならぬ狂気の時代である。

敗戦後に叔母はとんでもない夫の死に際を聞くことになる。
ガタルカナル島で米軍の捕虜になった夫の戦友の報告だった。戦友は隣町のクリーニング屋の次男坊だ。復員して生々しく証言したのだ。
この話は叔母の姉であるわたしの母に聞いた。
「ノブは、亭主が泥棒をやってアメリカに殺されたって周囲の人にいじめられたんだよ、可哀そうなことに」。

帝国陸軍はガタルカナルを捨てた。ということは武器弾薬に以前に必要な食糧の補給までしなかった。勝手に死ね、である。
戦争指導者たちはぬくぬくとうまいめしを食って、最前線の兵士の生死なんぞ一顧だにしない。「必然的消耗」と片付けてしまう。政治家、官僚の発想はいまだに変わっていない。
こういう連中が愛国心を強制している。小市民の天敵だ。

ガタルカナルは無数の餓死者が出たことで「餓島」といわれた。生還したのは10%以下である。無残な生き地獄から強運を得て生き延びて帰郷したクリーニング屋の次男坊がこう報告した。

「戦うにも弾薬はなく、それ以前に食うもんがなにひとつなかった。だから、深夜ふたりで米軍の基地に忍びこんだ。標的は敵の缶詰。こっちは何か一口でも食えればいい、捕虜になっても構わないと丸腰だった。でもって缶詰をしこたま持ち帰ろうとしたその時、敵に見つかってしまい・・」
クリーニング屋は逃げのびた。ノブ叔母の夫はそこで射殺され即死。

この証言が周辺の人たちに揶揄されてしまった。
何だ、名誉の戦死じゃないじゃないか。
泥棒をやって見つかって殺されたってわけだ。
こそこそ、ひそひそ。
・・「靖国の妻」はいわれなき中傷ですっかり落ちこんでしまった。
しかし、しかしである。勝気でバイタリティにあふれた叔母は開き直った。持ち前のパワー全開を見せつけた。

あ、そう。だからどうしたの?がたがたいうんだったら軍人恩給をもらわなければいいんでしょう?それ以上の文句があるのかい?

さっさと朝鮮の人と再婚して、鉱山町で密造酒を作って稼ぎまくった。
男の子をひとりもうけたのだが、数年後には再婚相手がその子を連れて北朝鮮に戻った。以来音信ゼロ。昭雄という名の男の子はいま、どこでどうしているのやら。

再々婚したノブ叔母のその後は穏やかな人生だった。わたしはこの叔母さんに過剰なほど可愛がれた。仲良しだった。わたしも大好きで、よく冗談話の花を咲かせて笑い合った。
母方の係累で、キッジャムではなかったが・・・。


辺境・東北のこんな環境で育ったガキとしては屈折しないほうがおかしい。すべて成長期の劣悪な環境のせいにしてしまいたいところだ。

叔母の密造酒はガキだったので、試飲には間に合わなかった。だが中学生ころになると同学年のワル系の幼なじみはみんな酒の味を知っていた。
高校生になるとバラックのコリアン集落でどぶろくを飲んだ。いろりで車座になり、あぶったスルメに唐辛子をまぶしてかじりつきながら、オトナ気分にひたっていた。

わたしは誇り高いキッジャム候である。遺伝子としては「酒は飲まない!」。
しかし。
このさい「酒は飲まない」系列と「酒が飲めない」系列があることを強調したい。この二分化された疑問符を個人的にはっきりさせたい。

現実にキッジャム一族は一滴も「飲まない」系列。
だから前者なのだろう。だろう、と推定形になるのはなぜか。

飲酒は一家が破綻させてしまう。
フィジカル面ではアルコールは受けつけるものの、うまいとか楽しいということを信じない。
つまり酒による弊害部分だけがメンタルに刷りこまれて、口にはしない。酒はてんからダメという拒否反応保菌者。
無神論をもじっていえば、この場合はバッカス無神論ということになる。

一方の「酒は飲めない」系列。
体がアルコール類をまったく受けつけない体質の持ち主がいる。
アセトアルデヒドの分解がマイナス作用になる人にとっては、酒はまさに有害どころか毒そのものだ。「百毒百害」「断乎たる肉体拒酒派」。

白状するとわたしはむしろ後者だった。・・飲めなかった。
とっぽい高校生だった。不良少年っぽく、なで肩を斜めにして、飲み会には堂々と参加する。粋がって一丁前の顔をしてぐびっとやる。するとどうだ。
すぐに全身全能が急変する。ひどい頭痛、意識もうろう。顔が極紅潮、全身のほてり、食道から胃がパニック。
情けないことに、いつもいつも嘔吐した。

ワル仲間からはニックネームを頂戴した。
「へど」である。わたしの通称になった。来る日も来る日も「おい、へど」。屈辱的な「へど」呼ばわりに耐え忍ばなければならなかった。
つまり酒を受けつけない体質だった。「拒酒派」だったのだ。

キッジャムの飲まないDNAと、実際に飲めないDNAの二重苦。この苦境からどうやって脱出したのだろうか。
波乱に富んだわたしの飲んだくれ人生は、これからよたよたと歩むことになる。   (つづく)

あー、くたびれた。こんな大河ブログは許されるんだろうか。もうすぐTVでワールドカップ開幕。だからやめよう。あ~


吉左エ門の末裔 PART①

2006-06-07 16:07:53 | 家族
亡父は「キッジャム」の三男坊だった。東北の山奥だから吉左エ門が訛ってこうなる。
そこそこの田畑、山林を持っていた土着の農家で、代々「キッジャム」で通用している。屋号だ。
わたしは小二のころ、その家に預けられて隣りにある分校に通っていた。戦後の混乱期だ。腹いっぱい食えるということで本家に居候となった。

地元衆の、絵に描いたような善良な人たちに「キッジャムのさぶのてっぺん」と呼ばれて可愛がってもらった。
吉左エ門とこの三男坊の長男ということである。

果樹園に囲まれた萱葺きの典型的な古いでっかい農家で、玄関の土間の左手にはだだっ広い馬小屋まであった。納屋もいっぱい。
いろりには、足が弱って坐ったまんまの曽祖父がいろり奉行をしていた。
わたしがいたずらをすると火かき棒を振り回した。悪ガキは叩かれないような距離を置いて悪さを繰り返した。
後年、父がいった。「うちのじっちゃは子どものころ、戊辰戦争の官軍の行進を見たんだよ」と教えてくれた。幕末時代を身近に感じた。

「キッジャム」の家訓のひとつに家督相続の儀式がある。これも後年になって聞いたのだが、末裔としてはこころに深く響くものがあった。
・ ・加齢期になって、あとはすべて跡継ぎに任せよう、その代わりに老後のことは頼んだぞという儀式である。

死んでしまうかもしれない厳寒豪雪の冬期、ひとりだけで山にこもり炭焼きをする。
燃えつきようとする体力の限界に挑むのだ。楽隠居の座をかけていのちをかける。
歴代の「キッジャム」が伝承してきた儀式であり、一家の責任をまっとうしきった「男気」をすべての人に示した。家督を譲った残りの人生ではいくらわがままをいっても許される。
寡黙というより無駄口ひとつもなしの祖父・富五郎も儀式をやり遂げた。世襲として酒は飲まない。

わたしは「下戸の遺伝子」を継いだ末裔だ。
そんなわたしが、なにゆえにおばかをわめき散らしながら酔いどれているんだろう。BARで朝までグラスを片手にゆらゆらしているんだろう。
家訓はどうしちゃったんだろう。DNAはどうした。
このところ突発性反省シンドローム!苦悩する日々。

禁酒の家系だから父方は見事なほど全員飲まない。わたしの知る範囲で飲んべぇはわたしと愚息、愚娘ぐらいのものだ。
愚息は飲んだくれで、愚娘は自宅にアルコール類は置かない。「あると全部飲んじゃう」こうした汚点も大いに気になる。
ご先祖さま~許してちょんまげ。

「キッジャム」の禁酒家訓の源流は六、七代以前にさかのぼる。前例に確かにあつた。
当時の婿養子はとんでもない不良であったらしい。飲みまくる博打にはまりまくる。結果として借金が重なってかなりの田畑、山林を失った。

親の背中をしっかと見すえた実直な跡継ぎが「キッジャム」を再興させた。当然のように家訓は確立された。
おらの一族は後世末代まで禁酒、博打ともにご法度!当然のように借金も含まれる。

考えてみれば、いや別に考えなくても人間社会の常識である。真理である。
酒に博打とくれば当然のように借金がついてくる。
このような悪行に染まってしまう輩は、天が許しても「キッジャム」は許さない。それはそれは崇高な掟であった。

基本線は「清貧」である。ここんところはしっかと伝承している。わたしは確かにビンボーの血を引き継いでいる。

父は剛直な「キッジャム」であった。
酒は一滴もやらずパチンコだって興味を示すことがなかった。こよなく妻を愛し、家族を愛して人生を終えた。
ひと冬の孤高な炭焼きは通過することはなかったが、わたしからすると立派な「キッジャム」をつらぬいた生涯だった。

父はいなかの山林を遺産相続しないかと長兄に持ちかけられたことがあった。
あっさりと放棄している。サイタマ在住数十年になっていた父の判断は100%正しいが、晩年には「炭を焼いてみたかったぁ」とポツリもらしたのを小耳で聞いた。
ところが、だ。立派なDNAの持ち主であるわたしはどうなんだ。

・・ええー突然ですが、謎かけをひとつ。最近のニュースからお題をいただきやした。
 よっ、いつ聴いてもいいねぇ、マイルス・デベソ・・おおっと、ちろり間違えたかな。まぁ、お気楽に。
さて問題。でもって「死刑台のエレベーター」とかけて、何ととく?
はいはい。えーと「シンドラーのリフト」と、ときます。
おかしいな。ありゃぁ、リストじゃぁなかったかな。リフトってのは昇降機じゃないか。それはそうと、そのこころは?
あのー、「危険がいっぱい」・・どちらも映画なんすけどね・・いくら落ちたってオチになんない、なーんてねぇ。
おあとがよろしいようで。

てなあんばいでぐだぐだと駄文を書きこねているものの、血族としては「キッジャム」である。戸籍面では屈折してはいるが、由緒正しいといえる末裔だ。

なのになのに、有り様はいつもジョージ秋山のマンガ「浮浪雲」状態だ。
「おねえさん、あちきと遊ばない?」ばーか。
こっちは秋山じゃねえ。冬山だ。冬山にこもって丹念に炭焼きをクリアする宿命の星を背負っていたはずなのに・・・。

「キッジャム」として、酒は飲まない!
博打に手を染めない!
真面目のお手本!「清貧ブランド」のサンプル!
嘘こけ・・      (つづく)

どどーん 「とうちゃんの、発破が聞こえる」

2005-10-16 04:12:25 | 家族
時刻はきまって正午数分前。露天掘りの現場にいる父親が仕掛けた発破が聞こえる。
どどーん、どどーん。二階の教室から、1キロ先の山の斜面を見る。白煙が噴きあがる。しばらくして、どどーん。
「勉強がんばれ、カズオ」とやんわりいう合図に聞こえた。
勉強は好きではなかったが、和んだ気分になった。<とうちゃんのどどーん>だった。

発破音のことは生徒、先生は知っている。作業の昼休みになった時報。
間もなく授業おしまいのベルが鳴る。みんな待った。弁当だ。

鉱山町の中学校。生徒の9割が従業員の鼻ったらしだ。時々、サイレンがこだまする。よく鳴った。よく聞こえる。
坑内の切羽で何かが起きた。落盤、ガス発生、出水、ケージ{昇降機}・・・事故だ。
とたんに、教室は沈黙の空間になる。
―うちのおやじは朝番。いまカンテラを持って坑内にいる。もしかして。
―うちのとうちゃんは三の番。朝7時にはオカに上がって、いまは家で寝ている。だいじょうぶ。

各教室には、ひとりはいた。鉱山の事故で父を失った母子家庭の子。
中学2年で母親になった同級生は、採鉱員の亭主の無事を願った。
教室はサイレンが鳴るたびに、無口な祈りの時間になった。
学校ばかりではない。町中の人がサイレン音におののいた。「戦争が終わったけど、ヤマの仕事は戦地みたいだな」戦艦信濃の水兵で、撃沈地獄から奇跡的に生還した叔父は、こういってため息をついた。

NHKのプロジェクトX「黒四ダム」を見た。「復興に命を張った男たちの壮絶な戦いは・・・」つられて、すでにこの世を去った父親を思い重ねて、涙がじわり。

わたしは、生まれも育ちも鉱山、「ヤマの子」で、そのことに関して何ひとつネガティブに考えたことはない。むしろ生きてきた、強力なバネになったと結論を出している。
父親は尊敬の対象で、誇らしく思う。酒は一滴も飲まず、タバコは吸わず、生真面目で、愚直に84年の一生をつらぬいた。

斉藤正三郎。1913年生まれ、秋田北境の農家の三男坊、高等小学校卒。歩いて30秒の尋常小の分校では、有史以来最初の高等小学校進学だった。親戚一同が旧制中学への進学をすすめたが、実家の経済事情を知っていた。すすんで十代から、鉱山勤務。
といえばそれなりの格好はつくが、ようするに地底で鉱塵で真っ黒になって採鉱夫「穴掘り」。地下足袋、ふんどし一丁で働く。
黒もぐらにカンテラのあかりがかすかな陰影を作る。

先輩鉱夫の長女テイと結婚して子供が生まれた。婿養子で姓は若松となった。その子を大館中に。自分が断念した学校に進学させるのが、願望であり、夢だった。信念として、二代目鉱夫にはさせない。

実現した。長男坊が旧制大館中、大館鳳鳴高校に進んだ。本当に喜んでくれた。入学式には、まるで似合わない、サイズも違う借りた背広で来た。おまけに東京の私立大学まで進学させたくれた。
―わたしである。自称不良家などとブログでほざいている当人。父子はまるで別人格である。しかし根っこ、アイデンティティーは共有している。確信している。

子供の頃は誰でも父親にじゃれつく。カタカナ英語でいえばハグ。決して、してくれなかった。しようとしても、決して受けとめようとはしなかった。おふざけの腕相撲さえも。
十代からの「ヤマの男」。カネ掘り、力仕事の採鉱夫だ。身体、特に手は武骨で、「子供と接触すると、怪我をさせてしまうことになる」。
これが理由。ほかの親のように殴ったら、殺してしまう。本気でそう思っていた。
80代になって、よたよた歩きに手を貸した。
初めて手を握った。・・・たぶん、そうだ。

軍人様の時代だ。二度、帝国陸軍に召集されて兵役に就いている。この国の敗戦末期は、父親に鉄砲を担がせるより産業兵士、地底で発破のスペシャリスト。このほうが得策と判断したらしい。敗戦一年前、三度目の召集を受けた。おだやかな表情でいった。
「心配するな。ちょっと仙台の先、塩釜に行く。戦地ではない」軍機で細かくはいえない。

1945・6・30 花岡事件。父親不在。心細かった。
中学校の目前を流れる花岡川は、鹿島組が中国人捕虜を、食事も満足に与えないで、虐待して掘らせた慟哭の川であった。よく無邪気に水遊びをさせてもらった。

敗戦、やはり不在。町は連合軍で占領、支配された。米英兵の捕虜収容所があったのだ。観音堂というその地点に、空が見えない、そのぐらいパラシュートの雨が降ってきた。最初に武器弾薬、たちまち町は、先日まで捕虜だったアメリカ兵のマシンガンで包囲された。

大人たちは無抵抗、呆然。
・・・本土でアメリカ兵にガムやチョコレートをもらったのは、わたしたちが最初かも知れない。無心のガキどもだった。
開放された中国人から「まんとん」をねだって、もらってがっついた。
その数日後、父親が当時は貴重品だった毛布をかついで、狭い玄関に立っていた。帰ってきた。抱きつこうとすると、ごつい手で制した。

酒を飲まない家庭だから、もっぱら夜はラジオ。愚痴はいわない。ときたま冗談はいう。亡くなる寸前まで、冗談好きのわたしと冗談口を叩いた。無意味に看護婦さんを叱ったりもした。

わたしが少年時代、とりわけ楽しそうに語ってくれたのは、塩釜にいた頃の話題。内陸の「ヤマの男」だから、海辺暮らしが珍しく、別天地に出かけた気分だったのだろう。
「海釣りをして、見たことのない魚を釣ってよ。死ぬ思いで食ってみた。まあまあの味だったなあ」・・・ところで、塩釜で何をしてたの?釣りに出かけた?

後年、せがんで聞いた。取材!した。軍機の時代はすべて過去形だ。
太平洋に面した塩釜の海っ辺りで洞窟を掘っていた。海上からの特攻攻撃、特殊潜航艇の秘密基地をつくる作業要員として徴用された。
鉄器で力づくで岩盤に穴をあけ、そこにダイナマイトを仕掛けて爆破。砕け散った岩を除去して、さらに掘り進む。
「身分は海軍軍属だったけど、おれらは民間人。ほかの民間人は誰ひとりいなかった」秘密基地だから地元の人は立ち入り禁止。隔離と同じ。

父親はしっかり見抜いていた。そこの基地で一番優遇されていたのが、特攻命令を受けて待機している若い兵士だった。少年兵もいた。
人間魚雷として。死を約束された彼らが最後に求めていたのは、軍隊組織ではないことを、わかっていた。

訓練が終了すると、彼らは父親たちの宿舎にやってくる。民間人のおじさんたちと遠慮のない談笑をした。家族の話、故郷の話、初恋の話・・・。
特攻隊員にとって、気のおけない田舎のおじさんたち、ふるさとだったのだ。つかの間の安らぎの時間である。
「顔には出さないが、不憫だったなあ」。父親の、その表情はつらそうだった。

55歳で定年退職するまで露天掘り。魚釣りは決してしない。リタイア後は旅行が好きで、あちこちに忙しく出かけていた。塩釜再訪には「それだけは嫌だ。絶対に行かない」。
人間魚雷として、蒼い海原に散り果てた少年兵たちに思いはせる過去帳を捨てきれなかったのか。

とうちゃん、あなたの長男は離婚して子供ふたりを引き取った。その三か月後には会社をやめた。ずいぶん心配をかけたね。何とかひとりで切り抜けたよ。それから世界をふらふら漂流をしたよ。じぃっと見守ってくれてありがとう。
よく将棋を指したね。負けると不機嫌、勝つと「手を抜いたな」と文句をつけたよな。たまに緩手を指した。ばれた。

とうちゃん、二代目婿養子やったよ。佐倉姓になっちゃった。再婚したパートナーと、野暮用で塩釜に一度行ったぜ。松島の観光船に乗って海岸を見わたして、父親の残影を感じたよ。長い物語になるので、紗羅には何もいわなかった。


戦後復興のかけ声は、第一次産業の鉱山町を活気づかせた。朝鮮戦争の特需もあった。会社はパワー・ショベルとダンプ・トラックで露天掘りにも着手した。町のすぐ近くの山側。中学校の地平にあった。だから生徒のわたしたちには毎日聞こえたし、硝煙が見えた。

父親は決断した。地底から地上へ、坑内からオカ。発破のスペシャリストは露天掘り担当の転属に手をあげた。

好景気にさんざめく鉱山町は、「ヤマの男」たちの酒量を増やした。一日24時間三交代制だから、いつの時間でも酒乱のわめき声が聞こえた。こころが荒廃した町である。
会社は安全管理より増産第一、男たちはノルマ達成でいくら、それ以上掘り進んだら給料に上乗せした特別手当。請負方式。金稼ぎに狂奔した。心身ともにすさんでいた。

事故を知らせるサイレンが鳴る。「どこ?」「何人!」。
加えて、鉱塵で肺機能をやられた。ばったばったと病院へ。「じん肺病」。「廃人同然」の患者が続出した。愚直一直線の父親は地獄絵を見る思いだったのだろう。

特別手当を稼ぐ産業戦士の修羅場。実直人間の父親にとって精神的に過酷だった。酒を喰らいながら、カネのために、カネ掘りに舞い上がる仲間たち。
こんな状況にいる自分に強い抵抗感があった。地上勤務、露天掘りを選んだ。家族のため、の選択だ。・・・家族の将来のために。
「隣り近所と違って、これからうちは貧乏になるからな」
両親に強い語調でいわれた。

露天掘りは地上に大きな広いすりばち状の穴を広げて、ダンプがぐるぐる回りながら採鉱現場に行く。直径2キロ。東京でいうと、皇居一帯が巨大な穴。そんなスケールだ。
そこは地表そのものだから、雨や雪解けの水が自然にたまる。排水しないとすぐにダムになってしまう。父親は発破に加えて、水処理のスペシャリストにもなっていた。大事故には遭遇していない。ただし、大雨になると時間構わず現場に走った。声を聞くまで、家族は無言で待った。

鉱山が廃鉱になって三十年ほどになる。わたしは不祝儀で故郷に二、三度帰った。地形が大きく変わっている。地底から、露天掘りから掘った大量の非鉱石、不用な岩石、土砂{ジリといった}が、丘になり山になって、まるで知らない町、未知の盆地になっていた。
だからといって特別な感情はない。生まれ育ったのは鉱山町だ。いつかはそうなると、子供の目から想像できた。その頃すでに地形変容が進行していたのだ。

ー町を見下ろしていた山の中腹。選鉱場、排水ダム、山神社、そしてなつかしいスキー・ジャンプ台。みんな埋まってしまった。どこにあったのか、それすらわからない。すべて幻の荒野。
わたしが生まれたエリアは、いま地下約100メートルに位置する。地下にあった幾層もの坑道を、すべて陥没させ、さらにジリが積まれて底上げされた。いまこの台地に雑木林が広がる。

廃山になってみんな町を離れた。中学の同期生260人。残っているのは、理髪師、桜田ハゲ剛史ひとりだけになってしまった。

いつか尋ねたことがある、。戦前、戦中、敗戦、戦後と激動の時代をくぐり抜けてきて、どうだった?と。むすっとこういい捨てた。
「おれらの時代だけでいい。繰り返すな!」。

どどーん。正午数分前に教室で聞く発破音。「今日のは強いぞ。あー、腹へった」教室が小揺れして、みんな笑顔。
「お前のとうちゃんに、学校を落盤させるな、といえよな」ある生徒の声に、みんながガハハと笑った。
わたしには「とうちゃんは、元気だよう」というメッセージに聞こえる。
いくらサイレンがうなっても、わたしはたじろがない鉱山町の中学生だった。
どどーん。とうちゃんの発破は10,11,12発・・・。いつもカウントした。
    

慶祝 PC一か月記念日

2005-06-04 10:02:09 | 家族
たかがパソコン、されどPC。よそさまに対してどうかは知らないけど、義母とそのパートナー(婿養子)にはやけに気配りをしてくれる愚息陽介どんが、この新品ノート・パソコンをプレゼントしてくれた。先月の5月5日、こどもの日。ボケ対策に、だと。む。
ふん。将棋ソフトでも買ってきて、遊んでやるか。ー丁もんでやろうか。、たかだかおもちゃじゃねーか。・・だが待てよ。ふと思った。将棋のソフトは高い。こっちはビンボーだ、だったらちょっくらいじってみるか。どーせタダだし。この姿勢、このスタンスから始まった。基本的に横柄な性分だ。
本日、東京はどよらんとした曇り空だけど、晴れて一か月記念日。われながら思う。見事という以外に言葉はない。長足、快速、いや特急並みの進歩をたどったのである。世の中には天才は存在する。
スタートは、(いまでもそうだが)右手の指二本でぎこちなくぽちぽち、たちまちにして相手のとまどいなんぞ念頭になく、あちらこちらにメールしまくり、こうなってしまえばハイテンション、ハイペース。世にいうところの調子コキ、これも性分だ。
さらに余勢を駆って、新宿はゴールデン街のBAR「洗濯船」のホームページに乱入して、殴る、蹴る、わめき散らす、吠える。はた迷惑なんぞ知ったことか。そういえば陽介くん、チミのゴールデン街デビューは中学一年生だって?おやじに連れ回された?そのとき、おやじがどこかの飲んだくれとケンカしてた?やなおやじ!
かくしてブログへと、急激な深化をたどるのであった。天才とはこうしたものなのだ。しかし、しかし。人間には裏面がある。隠された真実がそこにある。イロハのイからコーチをしてくれた影武者がいたのだ。おこらない主義者である嫁御。的確なアドバイスをしてくれていたのである。頼りのロープだった。これで天才宣言なんぞ不遜です。わかっておる。
ワープロ、携帯なんぞに犯されないよう手書きに果てしなき忠誠を誓い、肉筆のほかに神はなし。しっかりと貞操を守ってきたわたくし、このごろ、かなり変。
このブログ内容を検証すれば、発展途上の一端をご理解いただけるかと存じます。けしかけた嫁と愚息・陽介に一言。けしかけられた犬だったのか、この、わたくしが!「そうだよ、タダめし、タダ飲みの犬」。ため息まじりでいわれそうでこわい。

パソコン始めから25日

2005-05-31 12:24:46 | 家族
 愚息が5・5こどもの日のプレゼントとしてノートパソコンをくれた。ボケ対策ということらしい。それから面白がってポチポチとキーを叩いてすぐEメール、掲示板に投稿と、いい年コキのわりには有効活用。さらに25日後にはプログにまで発展と飛躍的成長を遂げた。天才とは自分のような人間だろうと豪語していると、「ハイ、サポーター代!」手をさしだす嫁がいた。犯罪の背後に女あり、「経堂ラーメン」650円をおごらされた。ここの店主は同じマンションの住人だが、スマイル充実だけでまけてくれない。せめてチャシュー1枚だけでもとぶつぶつ。
 かくしてわたしは堂々とパソコンと向きあって、非清貧系ビンボーではあるが嫁のほかには怖いものなし。と同時に「モノを書く」本来の自分のこだわり部分に訣別した負い目を感じている。
 原稿用紙のマスメをペンで埋める。この時、ペンは紙の表面をなぞるのではなく、紙に刻みこむ。書くということは、ペンを凶器にして紙の断面を切り裂く。そのなかに自分の全エネルギーを投入して表現となる。つまり筆圧が、これこそが書くこと根本原則ではないだろうか。過激的な筆圧原理主義者のわたしが、パソコンという筆圧ゼロの世界に堕落してしまった。ああ・・・