1944年11月、浜名湖沖。戦艦信濃が撃沈沈没した。アメリカ海軍の潜水艦による魚雷攻撃で太平洋の海底に果てた。戦艦大和クラスの戦艦で航空母艦に改造された直後であった。
当時としては世界最大の航空母艦だった。
戦時中はその存在はもちろん、沈没された事実を含めてにマル秘扱いで、敗戦後になってやっと明らかになった。巨大なまぼろしの空母だった。
荒海に投げ出された乗組員2515人、救助されて命拾いをしたのは30%。
・・・海兵・斉藤定雄は、地獄絵のなか懸命に泳ぎ、奇跡の生還を果たしたひとりだった。
「キッジャム」の家は狂喜した。
「定雄が生きて帰ってきたぞー」村中がお祭り騒ぎとなった。
定雄にとっての曽祖父富松がまだいろり番をしていた。祖父富五郎は「ひと冬の炭焼き」の儀式をすませて家督はその長男の助松が継いでいた。
助松のひとり息子が定雄である。ひとりっ子で、弟や姉妹はいない。
キッジャム王国の唯一の<皇太子>だ。
叔父にあたるわたしの父は、激怒して怒鳴った。「なんでなんだ!」
「無事に帰ったのはうれしい。しかし、なんでなんだ。山奥の農家のひとり息子がどうして徴兵されなきゃならなかったんだ。しかも海軍だ。定雄は海を見たこともない。なんで帝国海軍なんだよ。なんで九死に一生なんだよ」
生還に喜んでいたキッジャムの一同は、無言でうなずいた。ガキのわたしにはその怒声が耳に残っている。
まだまだ健在で、車を乗り回している定雄は、わたしが戦艦信濃の話題にふれると「忘れた、いや努力して忘れることにした。戦争はだめだ。これだけだ。あとは聞くな」とそっけない。「お前たちは、そんなことにならないようにけっぱれ。それでいい」。
キッジャムでは三男坊ではある父は相当の発言力があった。
仮定の話になる。定雄があえなく戦死という事態になったら・・どんな流れになったんだろう。
くどいようだが仮定の話だ。当時は悪たれ坊主だったわたしが養子に入ってキッジャムの跡取りになる可能性があった・・・いまごろは秋田の農家の当主で、こんな駄文なんぞ書いてない。
冬山の炭焼きコースだった・・・。
「サダオォ、ちゃんと種付けやってっか?」わたしが居候していた当時は新婚ほやほやだった。
「心配だぁ。ベテランのおらが代わりに仕込んでやっか」あはははは、ふぉっふぉふぉっ。
でっかい笑い声が土間に響く。新婚の定雄夫婦は顔を赤らめて逃げ去る。その背中に「ただいまから一発コキノスケかぁ」
「敬礼!」といいつつでかい屁を放つ。「進軍ラッパだぁ、はっはっはっ」
少年のわたしには不思議な光景だった。
キッジャムは家系、家訓として酒は飲まない。しかし酒はいつでも置いてある。
訪れた客人には茶碗で酒をふるまう家でもあった。
それでもって毎晩近所のおっさんたちが飲みにやってくる。家には上がることはなく、いつも二、三人が土間の横板に腰を掛けておだをあげている。
山盛りの漬け物がサカナの無料居酒屋。
客人の土間の茶碗酒は、酒を飲まない家に対する礼儀だったのかもしれない。
キッジャムの家族全員はお茶をすすりながら、ユーモアたっぷりに酔客に応対していた。会話を楽しんでいた。
自分たちは飲まないものの、飲んべえには実に実に寛大だった。
いいかえれば調子コキ。わたしはこのキッジャムの血統を受け継いでいる。ただし、家訓を汚した。背徳の飲んべえとなった。
父は採鉱夫だった。ニホンの敗戦後、鉱山町は圧倒的な好景気となった。復興に地下資源の需要は無限にあった。朝鮮戦争の特需も加勢して「ゴールドラッシュ」状態となった。
例をあげると、毎年一度か二度は大相撲の地方巡業がやってきた。旅館なんて1,2軒だけだったので、相撲取りはみんな民泊だ。わたしたちガキ仲間の家に泊ることになる。
ガキどもは目を輝かして機敏にせこせこ走り回った。相撲取りの入浴をこそこそとのぞき、報告し合った。ちんぽこ少年探偵団。
「照国のちんちんは鶏小屋のウンチまみれのタマゴぐらいだったぞ」
「羽黒山なんて干からびた松ぼっくり」
体はでっかいがちんちんは小さい。これがガキどもの統一結論だった。
相撲取りはいつもまわしで<男の部分>をきっちり締めているから、縮小するのは事実。
青年になって外国人プロレスラーのそれを数十本単位で拝謁!した。
敵はシャワーの行き帰りに見せつける。で、でかい。
棒状の生サラミ、肉尺八、それ以上のボリューム感があった。
そいつを収納する女性はエライ。・・もっとも彼らの30%はホモなので「もったいない」を痛感。
ー悪ガキは巡業のサーカス団のテントにも忍びこんだ。厚化粧年増の着替えシーンをのぞき、口紅を寸借して塗りっこしたりした。
ゴールドラッシュの町だから全国からよそものが集まる。当然のようにあっという間に飲み屋があちこちに開店した。
小さないなか町は酒臭い町に急変する。ガラの悪い流れ鉱夫たちがいた。彼らが一番恐れていたのが地元の「特攻崩れ」。
特攻隊員として一度は死ぬ覚悟をきめた若者たちだった。
戦争で死ねなかった彼らは自暴自棄になって暴れた。死ぬことさえいとわない怖いもの知らずの喧嘩騒動は絶え間ない。何度か乱闘の修羅場を見たが、彼らの気合いは鬼気迫るものがあった。
ある夕刻、酔った彼らは丘のてっぺんにあった忠魂碑を押し倒した。その勢いで丘の下に突き落としてしまう快挙!をやってのけた。
この現場も目撃している。かなり年長のいとこが「特攻崩れ」の仲間で、「見にこい」と誘われた。
聖戦とされたシンボルの忠魂碑を破壊しようという若者たちの意思表示だった。ガキとしてはまだその意味は把握できていなかった。
ただただ彼らのエネルギーに圧倒された。巨大な石碑である。
ここで四年前になくなったノブ叔母についても書いておきたい。
ノブ叔母は戦争未亡人だった。最愛の夫を激戦地ガタルカナル島で失った。はるかニューギニアの東、ソロモン諸島の戦略ポイントだった。夫はそこからものいわぬ亡兵となって「靖国に戻ってきた」のだった。あえていう。なにが靖国だってんだ。
勝気な叔母はそれにめげずに優秀な看護婦として遺児である順子とともに敗戦を迎えた。
当時は「一家で数人」が戦争の犠牲者になった。当たり前のことだった。これからの先、未来では決してあってはならぬ狂気の時代である。
敗戦後に叔母はとんでもない夫の死に際を聞くことになる。
ガタルカナル島で米軍の捕虜になった夫の戦友の報告だった。戦友は隣町のクリーニング屋の次男坊だ。復員して生々しく証言したのだ。
この話は叔母の姉であるわたしの母に聞いた。
「ノブは、亭主が泥棒をやってアメリカに殺されたって周囲の人にいじめられたんだよ、可哀そうなことに」。
帝国陸軍はガタルカナルを捨てた。ということは武器弾薬に以前に必要な食糧の補給までしなかった。勝手に死ね、である。
戦争指導者たちはぬくぬくとうまいめしを食って、最前線の兵士の生死なんぞ一顧だにしない。「必然的消耗」と片付けてしまう。政治家、官僚の発想はいまだに変わっていない。
こういう連中が愛国心を強制している。小市民の天敵だ。
ガタルカナルは無数の餓死者が出たことで「餓島」といわれた。生還したのは10%以下である。無残な生き地獄から強運を得て生き延びて帰郷したクリーニング屋の次男坊がこう報告した。
「戦うにも弾薬はなく、それ以前に食うもんがなにひとつなかった。だから、深夜ふたりで米軍の基地に忍びこんだ。標的は敵の缶詰。こっちは何か一口でも食えればいい、捕虜になっても構わないと丸腰だった。でもって缶詰をしこたま持ち帰ろうとしたその時、敵に見つかってしまい・・」
クリーニング屋は逃げのびた。ノブ叔母の夫はそこで射殺され即死。
この証言が周辺の人たちに揶揄されてしまった。
何だ、名誉の戦死じゃないじゃないか。
泥棒をやって見つかって殺されたってわけだ。
こそこそ、ひそひそ。
・・「靖国の妻」はいわれなき中傷ですっかり落ちこんでしまった。
しかし、しかしである。勝気でバイタリティにあふれた叔母は開き直った。持ち前のパワー全開を見せつけた。
あ、そう。だからどうしたの?がたがたいうんだったら軍人恩給をもらわなければいいんでしょう?それ以上の文句があるのかい?
さっさと朝鮮の人と再婚して、鉱山町で密造酒を作って稼ぎまくった。
男の子をひとりもうけたのだが、数年後には再婚相手がその子を連れて北朝鮮に戻った。以来音信ゼロ。昭雄という名の男の子はいま、どこでどうしているのやら。
再々婚したノブ叔母のその後は穏やかな人生だった。わたしはこの叔母さんに過剰なほど可愛がれた。仲良しだった。わたしも大好きで、よく冗談話の花を咲かせて笑い合った。
母方の係累で、キッジャムではなかったが・・・。
辺境・東北のこんな環境で育ったガキとしては屈折しないほうがおかしい。すべて成長期の劣悪な環境のせいにしてしまいたいところだ。
叔母の密造酒はガキだったので、試飲には間に合わなかった。だが中学生ころになると同学年のワル系の幼なじみはみんな酒の味を知っていた。
高校生になるとバラックのコリアン集落でどぶろくを飲んだ。いろりで車座になり、あぶったスルメに唐辛子をまぶしてかじりつきながら、オトナ気分にひたっていた。
わたしは誇り高いキッジャム候である。遺伝子としては「酒は飲まない!」。
しかし。
このさい「酒は飲まない」系列と「酒が飲めない」系列があることを強調したい。この二分化された疑問符を個人的にはっきりさせたい。
現実にキッジャム一族は一滴も「飲まない」系列。
だから前者なのだろう。だろう、と推定形になるのはなぜか。
飲酒は一家が破綻させてしまう。
フィジカル面ではアルコールは受けつけるものの、うまいとか楽しいということを信じない。
つまり酒による弊害部分だけがメンタルに刷りこまれて、口にはしない。酒はてんからダメという拒否反応保菌者。
無神論をもじっていえば、この場合はバッカス無神論ということになる。
一方の「酒は飲めない」系列。
体がアルコール類をまったく受けつけない体質の持ち主がいる。
アセトアルデヒドの分解がマイナス作用になる人にとっては、酒はまさに有害どころか毒そのものだ。「百毒百害」「断乎たる肉体拒酒派」。
白状するとわたしはむしろ後者だった。・・飲めなかった。
とっぽい高校生だった。不良少年っぽく、なで肩を斜めにして、飲み会には堂々と参加する。粋がって一丁前の顔をしてぐびっとやる。するとどうだ。
すぐに全身全能が急変する。ひどい頭痛、意識もうろう。顔が極紅潮、全身のほてり、食道から胃がパニック。
情けないことに、いつもいつも嘔吐した。
ワル仲間からはニックネームを頂戴した。
「へど」である。わたしの通称になった。来る日も来る日も「おい、へど」。屈辱的な「へど」呼ばわりに耐え忍ばなければならなかった。
つまり酒を受けつけない体質だった。「拒酒派」だったのだ。
キッジャムの飲まないDNAと、実際に飲めないDNAの二重苦。この苦境からどうやって脱出したのだろうか。
波乱に富んだわたしの飲んだくれ人生は、これからよたよたと歩むことになる。 (つづく)
あー、くたびれた。こんな大河ブログは許されるんだろうか。もうすぐTVでワールドカップ開幕。だからやめよう。あ~
当時としては世界最大の航空母艦だった。
戦時中はその存在はもちろん、沈没された事実を含めてにマル秘扱いで、敗戦後になってやっと明らかになった。巨大なまぼろしの空母だった。
荒海に投げ出された乗組員2515人、救助されて命拾いをしたのは30%。
・・・海兵・斉藤定雄は、地獄絵のなか懸命に泳ぎ、奇跡の生還を果たしたひとりだった。
「キッジャム」の家は狂喜した。
「定雄が生きて帰ってきたぞー」村中がお祭り騒ぎとなった。
定雄にとっての曽祖父富松がまだいろり番をしていた。祖父富五郎は「ひと冬の炭焼き」の儀式をすませて家督はその長男の助松が継いでいた。
助松のひとり息子が定雄である。ひとりっ子で、弟や姉妹はいない。
キッジャム王国の唯一の<皇太子>だ。
叔父にあたるわたしの父は、激怒して怒鳴った。「なんでなんだ!」
「無事に帰ったのはうれしい。しかし、なんでなんだ。山奥の農家のひとり息子がどうして徴兵されなきゃならなかったんだ。しかも海軍だ。定雄は海を見たこともない。なんで帝国海軍なんだよ。なんで九死に一生なんだよ」
生還に喜んでいたキッジャムの一同は、無言でうなずいた。ガキのわたしにはその怒声が耳に残っている。
まだまだ健在で、車を乗り回している定雄は、わたしが戦艦信濃の話題にふれると「忘れた、いや努力して忘れることにした。戦争はだめだ。これだけだ。あとは聞くな」とそっけない。「お前たちは、そんなことにならないようにけっぱれ。それでいい」。
キッジャムでは三男坊ではある父は相当の発言力があった。
仮定の話になる。定雄があえなく戦死という事態になったら・・どんな流れになったんだろう。
くどいようだが仮定の話だ。当時は悪たれ坊主だったわたしが養子に入ってキッジャムの跡取りになる可能性があった・・・いまごろは秋田の農家の当主で、こんな駄文なんぞ書いてない。
冬山の炭焼きコースだった・・・。
「サダオォ、ちゃんと種付けやってっか?」わたしが居候していた当時は新婚ほやほやだった。
「心配だぁ。ベテランのおらが代わりに仕込んでやっか」あはははは、ふぉっふぉふぉっ。
でっかい笑い声が土間に響く。新婚の定雄夫婦は顔を赤らめて逃げ去る。その背中に「ただいまから一発コキノスケかぁ」
「敬礼!」といいつつでかい屁を放つ。「進軍ラッパだぁ、はっはっはっ」
少年のわたしには不思議な光景だった。
キッジャムは家系、家訓として酒は飲まない。しかし酒はいつでも置いてある。
訪れた客人には茶碗で酒をふるまう家でもあった。
それでもって毎晩近所のおっさんたちが飲みにやってくる。家には上がることはなく、いつも二、三人が土間の横板に腰を掛けておだをあげている。
山盛りの漬け物がサカナの無料居酒屋。
客人の土間の茶碗酒は、酒を飲まない家に対する礼儀だったのかもしれない。
キッジャムの家族全員はお茶をすすりながら、ユーモアたっぷりに酔客に応対していた。会話を楽しんでいた。
自分たちは飲まないものの、飲んべえには実に実に寛大だった。
いいかえれば調子コキ。わたしはこのキッジャムの血統を受け継いでいる。ただし、家訓を汚した。背徳の飲んべえとなった。
父は採鉱夫だった。ニホンの敗戦後、鉱山町は圧倒的な好景気となった。復興に地下資源の需要は無限にあった。朝鮮戦争の特需も加勢して「ゴールドラッシュ」状態となった。
例をあげると、毎年一度か二度は大相撲の地方巡業がやってきた。旅館なんて1,2軒だけだったので、相撲取りはみんな民泊だ。わたしたちガキ仲間の家に泊ることになる。
ガキどもは目を輝かして機敏にせこせこ走り回った。相撲取りの入浴をこそこそとのぞき、報告し合った。ちんぽこ少年探偵団。
「照国のちんちんは鶏小屋のウンチまみれのタマゴぐらいだったぞ」
「羽黒山なんて干からびた松ぼっくり」
体はでっかいがちんちんは小さい。これがガキどもの統一結論だった。
相撲取りはいつもまわしで<男の部分>をきっちり締めているから、縮小するのは事実。
青年になって外国人プロレスラーのそれを数十本単位で拝謁!した。
敵はシャワーの行き帰りに見せつける。で、でかい。
棒状の生サラミ、肉尺八、それ以上のボリューム感があった。
そいつを収納する女性はエライ。・・もっとも彼らの30%はホモなので「もったいない」を痛感。
ー悪ガキは巡業のサーカス団のテントにも忍びこんだ。厚化粧年増の着替えシーンをのぞき、口紅を寸借して塗りっこしたりした。
ゴールドラッシュの町だから全国からよそものが集まる。当然のようにあっという間に飲み屋があちこちに開店した。
小さないなか町は酒臭い町に急変する。ガラの悪い流れ鉱夫たちがいた。彼らが一番恐れていたのが地元の「特攻崩れ」。
特攻隊員として一度は死ぬ覚悟をきめた若者たちだった。
戦争で死ねなかった彼らは自暴自棄になって暴れた。死ぬことさえいとわない怖いもの知らずの喧嘩騒動は絶え間ない。何度か乱闘の修羅場を見たが、彼らの気合いは鬼気迫るものがあった。
ある夕刻、酔った彼らは丘のてっぺんにあった忠魂碑を押し倒した。その勢いで丘の下に突き落としてしまう快挙!をやってのけた。
この現場も目撃している。かなり年長のいとこが「特攻崩れ」の仲間で、「見にこい」と誘われた。
聖戦とされたシンボルの忠魂碑を破壊しようという若者たちの意思表示だった。ガキとしてはまだその意味は把握できていなかった。
ただただ彼らのエネルギーに圧倒された。巨大な石碑である。
ここで四年前になくなったノブ叔母についても書いておきたい。
ノブ叔母は戦争未亡人だった。最愛の夫を激戦地ガタルカナル島で失った。はるかニューギニアの東、ソロモン諸島の戦略ポイントだった。夫はそこからものいわぬ亡兵となって「靖国に戻ってきた」のだった。あえていう。なにが靖国だってんだ。
勝気な叔母はそれにめげずに優秀な看護婦として遺児である順子とともに敗戦を迎えた。
当時は「一家で数人」が戦争の犠牲者になった。当たり前のことだった。これからの先、未来では決してあってはならぬ狂気の時代である。
敗戦後に叔母はとんでもない夫の死に際を聞くことになる。
ガタルカナル島で米軍の捕虜になった夫の戦友の報告だった。戦友は隣町のクリーニング屋の次男坊だ。復員して生々しく証言したのだ。
この話は叔母の姉であるわたしの母に聞いた。
「ノブは、亭主が泥棒をやってアメリカに殺されたって周囲の人にいじめられたんだよ、可哀そうなことに」。
帝国陸軍はガタルカナルを捨てた。ということは武器弾薬に以前に必要な食糧の補給までしなかった。勝手に死ね、である。
戦争指導者たちはぬくぬくとうまいめしを食って、最前線の兵士の生死なんぞ一顧だにしない。「必然的消耗」と片付けてしまう。政治家、官僚の発想はいまだに変わっていない。
こういう連中が愛国心を強制している。小市民の天敵だ。
ガタルカナルは無数の餓死者が出たことで「餓島」といわれた。生還したのは10%以下である。無残な生き地獄から強運を得て生き延びて帰郷したクリーニング屋の次男坊がこう報告した。
「戦うにも弾薬はなく、それ以前に食うもんがなにひとつなかった。だから、深夜ふたりで米軍の基地に忍びこんだ。標的は敵の缶詰。こっちは何か一口でも食えればいい、捕虜になっても構わないと丸腰だった。でもって缶詰をしこたま持ち帰ろうとしたその時、敵に見つかってしまい・・」
クリーニング屋は逃げのびた。ノブ叔母の夫はそこで射殺され即死。
この証言が周辺の人たちに揶揄されてしまった。
何だ、名誉の戦死じゃないじゃないか。
泥棒をやって見つかって殺されたってわけだ。
こそこそ、ひそひそ。
・・「靖国の妻」はいわれなき中傷ですっかり落ちこんでしまった。
しかし、しかしである。勝気でバイタリティにあふれた叔母は開き直った。持ち前のパワー全開を見せつけた。
あ、そう。だからどうしたの?がたがたいうんだったら軍人恩給をもらわなければいいんでしょう?それ以上の文句があるのかい?
さっさと朝鮮の人と再婚して、鉱山町で密造酒を作って稼ぎまくった。
男の子をひとりもうけたのだが、数年後には再婚相手がその子を連れて北朝鮮に戻った。以来音信ゼロ。昭雄という名の男の子はいま、どこでどうしているのやら。
再々婚したノブ叔母のその後は穏やかな人生だった。わたしはこの叔母さんに過剰なほど可愛がれた。仲良しだった。わたしも大好きで、よく冗談話の花を咲かせて笑い合った。
母方の係累で、キッジャムではなかったが・・・。
辺境・東北のこんな環境で育ったガキとしては屈折しないほうがおかしい。すべて成長期の劣悪な環境のせいにしてしまいたいところだ。
叔母の密造酒はガキだったので、試飲には間に合わなかった。だが中学生ころになると同学年のワル系の幼なじみはみんな酒の味を知っていた。
高校生になるとバラックのコリアン集落でどぶろくを飲んだ。いろりで車座になり、あぶったスルメに唐辛子をまぶしてかじりつきながら、オトナ気分にひたっていた。
わたしは誇り高いキッジャム候である。遺伝子としては「酒は飲まない!」。
しかし。
このさい「酒は飲まない」系列と「酒が飲めない」系列があることを強調したい。この二分化された疑問符を個人的にはっきりさせたい。
現実にキッジャム一族は一滴も「飲まない」系列。
だから前者なのだろう。だろう、と推定形になるのはなぜか。
飲酒は一家が破綻させてしまう。
フィジカル面ではアルコールは受けつけるものの、うまいとか楽しいということを信じない。
つまり酒による弊害部分だけがメンタルに刷りこまれて、口にはしない。酒はてんからダメという拒否反応保菌者。
無神論をもじっていえば、この場合はバッカス無神論ということになる。
一方の「酒は飲めない」系列。
体がアルコール類をまったく受けつけない体質の持ち主がいる。
アセトアルデヒドの分解がマイナス作用になる人にとっては、酒はまさに有害どころか毒そのものだ。「百毒百害」「断乎たる肉体拒酒派」。
白状するとわたしはむしろ後者だった。・・飲めなかった。
とっぽい高校生だった。不良少年っぽく、なで肩を斜めにして、飲み会には堂々と参加する。粋がって一丁前の顔をしてぐびっとやる。するとどうだ。
すぐに全身全能が急変する。ひどい頭痛、意識もうろう。顔が極紅潮、全身のほてり、食道から胃がパニック。
情けないことに、いつもいつも嘔吐した。
ワル仲間からはニックネームを頂戴した。
「へど」である。わたしの通称になった。来る日も来る日も「おい、へど」。屈辱的な「へど」呼ばわりに耐え忍ばなければならなかった。
つまり酒を受けつけない体質だった。「拒酒派」だったのだ。
キッジャムの飲まないDNAと、実際に飲めないDNAの二重苦。この苦境からどうやって脱出したのだろうか。
波乱に富んだわたしの飲んだくれ人生は、これからよたよたと歩むことになる。 (つづく)
あー、くたびれた。こんな大河ブログは許されるんだろうか。もうすぐTVでワールドカップ開幕。だからやめよう。あ~