不良家

駄文好む 無教養 くすぶり 時々漂流

家族会

2011-03-06 20:49:40 | 紗羅

3月5日、渋谷からバスに乗る。広尾のちょっとした坂道を上る。見慣れた景色をぼんやりながめると胃部にざわざわ感。あの日以来の広尾だ。

日赤医療センター緩和ケア病棟から「家族会のご案内」をいただいた。
・・・愛するご家族を当院で看取られてからしばらくの時間がたちました。その間、私たちも亡くなられた患者様のことを思い出しながら時には涙したり、時にはよい思い出に励まされたりしております。
また、ご家族お一人お一人がいまどのようなお気持ちで過ごしておられるかを思うこともあります。
そのような中でまた皆様とお会いして、故人を偲び、思い出を語りあい、共に涙し、励ましあえる会を催したいと思います・・・

ブログなるものは一種の情報共有ツールであり、個的なお知らせやら報告することも可能なマイナーなメディアと理解します。
という前提で読み流していただきたく思います。

わたしは出席しました。
理由は明瞭です。入院したその日からこの病棟の誠実なスタンスに感激しっ放しでした。

こうしたご時世では医療もサービス業の範疇とされがちです。家族会はアフターケアということになりましょう。
こんながさつな判断肢というか、よこしまな発想をどこかに抱いていた自分を恥じました。
いのちの尊厳を、その最終局面を受け持つ医療者の確かな人間愛のメッセージをそこに深く感じとったのです。

医療スタッフばかりではありません。ボランティアの皆さん{5年以上は普通で10年以上やっておられる人もいるそうです}の善意をこえた社会奉仕活動を目の当たりにして、覚醒されました。心より尊敬いたします。

どうしても出席したい、その理由は自らのわだかまりでした。
紗羅が”退院”して文字どうり病棟の皆さんに見送られてからの残心です。
「たいへんお世話になりました」御礼の一言もなかったのです。機会がなかったといえばそれまでの話ですが、忸怩たる思いを引きずっていました。
その機会を病棟が積極的に両手を広げて迎えてくれました。

まして、紗羅は95日の長逗留でした。緩和ケアの患者の”退院”は平均して18日とされています。なのに彼女は95日もの時間をいただきました。
本人のしなやかな生命力のつよさがあったでょう。
「送るより送られるほうがいいわよ」絵に描いたような従容のちからをその笑顔に見ました。

その間、家族はもちろん友人知人が引きもきらずにお見舞いに立ち寄っていただきました。
わたしの推計では延べにして300人をはるかに超えていたと思います。
花を、本を、いろんな食事を、美容師はカラーリングを、タイ・マッサージ、アロマトリートメント、仲良しの尼さんなどなど・・・

個室に移ったその瞬間には、複数の空間デザイナーがあっという間に「ギャラリー紗羅」に仕上げてくれました。
過ぎし日の舞台写真やら、人形作家・天野可淡が紗羅そのものの顔をかたどった舞台用の仮面作品・・・

そのギャラリーで紗羅は常田富士男さんのミュージカル・ファンタジー公演「ふなや」の振り付けをかってのお弟子に指示していました。最期まで表現者であり続けたのです。

はては病室ライブまで決行しました。及川耕平さんと舞台仲間が自主的に企画したもので想像もつかないイベントでした。
この時の映像はダンサー紗羅を数十年にわたって追跡撮影していたカメラマンによって、しっかり記録されています。

病室にはPCの持ち込みも許可されていたので、すこし前に亡くなったダンスのピナ・バウシュの追悼TV番組のDVDをじっくり見ていました。
「ドイツ語だぜ」
「うん、でも単語を拾っていけば、なんとなく分かるわよ」
いのちの炎が燃え尽きるまで明晰でした。

DVDを持参した先輩ダンサーは「紗羅の本名が分からなかったので、やっとこさ病室に辿りついたわよ」と苦笑する一幕もありました。何人かそんなお見舞いの人がいました。

緩和ケア、すなわちホスピスです。痛みを緩和する、治療はしない。いうなればラスト・スロー・ダウンの時間を過ごす空間です。
この病棟だからでしょうか。このような環境設定はすべてOKでした。

聞いたことですが、愛するペットと時間共有するのも許容されていて、犬がもっとも多くウサギ、亀のケースもあったようです。すべてこの病棟の確固たるヒューマニズムがつらぬかれていたのです。

ホスピスの紗羅は幸せ感の毎日をエンジョイしていました。
入院した時のドクターの所見は「週単位」でした。それが95日になりました。こんなに時間をいただいたのは、こんなホスピス環境をバックアップしてくれた病棟のポリシーと、友人知人のふだんと変わらない笑顔の交流があったからこそと確信しています。
「cafe 紗羅」でもありました。

印象に残るワンシーンがあります。
入院して50日くらい経過したあたりだったでしょうか。ドクターがいいました。
「医療当事者として週単位は誤診でした」ドクターと紗羅、そしてわたしの三者はこの場面で無言でニッタニッタ笑いあう。ニッタニッタ・・・しばらくそんな穏やかな時間が続きました。

家族会に参加します、と返事すると病棟の部長さんから電話があり、遺族としてスピーチをするようオファーがありました。
スピーチが苦手なわたしはメモ書きを用意して、病棟の皆さんに感謝の気持ちを言葉にしました。

「ここには彼女が生涯のテーマにしていた透明なやさしさが満ち溢れていました」
「ふたりでこんなことを話しました。ここは”天国にいちばん近い、天国のようなところ”だね、と」

つましい談笑の会合でした。
ボランティアの多くはパートナーを失った人たちです。わたしは”後輩”として彼らにたくさんの励ましをいただきました。善意という潮風をいっぱいいっぱい浴びました。

帰路は歩いた。紗羅が大好きだった150円焼きそばの{彼女自身も車椅子で一度お会いした}やさしいおばあちゃんの店をのぞく。おばあちゃんの姿はなかった。
ありがとう、広尾。
早春のおだやかな坂道をゆっくりゆっくり歩いた。
つたない歩調ながら、ひとつ坂を越えて、いま下っている。ありがとう、皆々さま。