不良家

駄文好む 無教養 くすぶり 時々漂流

ビエンチャンで見た僧衣、辻正信

2005-10-25 21:54:53 | 
うんざり雨がどうしても止まない。軒下に落ちる雨音に、ポトンポトンとした単調な弦の音色もほしい・・・。
ラオスの首都・ビエンチャン滞在は一週間が過ぎた。24時間40円ほどのレンタル自転車は借りっぱなしだ。首都といっても独立記念塔を中心にした小さな町だ。舗装されていない裏町に入り込み、地元の人たちにまざって飲み食い、僧院でシャワーを借りた。孤立した旅人は奔放だ。

ラオスの表通りはタイ語が通じる。小ホテルのレセプションのきれいな女性に、いわくありげにタイ語で、この街には地獄みたいな天国はあるのかい、と聞いてみた。首を横にふった。
翌日、同じ質問をしてみた。タイ紙幣を何枚かそこらにあったパンフレットに忍ばせて渡した。
「メコン川岸の一番大きな木の下の屋台」。地獄みたいな天国行きのヒントをもらった。

ぱらぱら雨、が降り続く。民家にもう一階分を付け足したホテルの三階の部屋では、天井のファンが回り続ける。止めようにもスイッチが見当たらない。壁面には遠慮なくやもりが運動会をやっている。

ホテルの食堂で「元日本人」に出会った。「ニホンゴ、ワスレタヨ」」タイ北部に住む原籍台湾人。旧帝国陸軍兵。敗戦後はタイにとどまって、そのまま定住した老人と、そのワイフだった。もっと話したかったのだが、その日はラオス観光を終えて帰国する朝だった。
この国のアジア侵略史の傷跡と、一瞬交差した。

明るいうちに自転車で見つけておいた場末のBAR。客になった。
ホステスは例外なく「今晩、ハネムーンをしよう」と誘ってくる。「明日にしよう」こんな毎日では退屈する。まして雨。
ホテルのおねえさんに聞いたポイントに、重たい自転車を走らせた。

メコン川沿いの大樹の下、川風が通り抜ける屋台は店じまいをしていた。西日の残照を受けた川面に、ひかりの波紋がきらきら流れる。
「ここでビールを飲めたらなあ」残念そうなゼスチュアをすると、片付けに忙しいおばさんはいってくれた。
「わたしの家で飲む?」もちろん。椅子、テーブルを樹木にくくり付けて、飲み物類を自宅に運ぶ手伝いをする。全身好奇心の旅人は、こんなところで点数を稼ぐ。

おばさんの家は無造作な二階建ての家屋。急な階段をのぼった台所兼居間。階下では豚がきーきーわめいている。天然肥料とお香の匂いが充満する。おばさんが出してくれた豚の血漿を固めた具入りの春雨、ニワトリの足などをいただく。
「ラオスのウイスキー」各種を賞味した。強いのか甘いのか判断しにくい飲み物だ。

「あの人たち、なに?」と聞く。「わからない・・・」おっさんたちが、こそこそと目の前を往来するのだ。みんな無言だ。もしかして天国?地獄?
気配でわかった。匂いでわかった。二階の奥の間はオピューム・ルームだった。そこら中に漂う妖しいけむりにほろ酔い気分になる。
とても静かだ。確かに視線の先に魔界がある。
おばさんに目で合図する。「ラオス・ブッダ?」うなずく。そのまま沈んだ。
霧雨の町を、自転車をこいでホテルに戻ったのは、その二日後だ。

長大なメコン川にかかる唯一の橋、国境の橋。ニホンで使いきった中古のバスを乗り継いで、タイに向かう。座席の隣りではメガネをかけた老僧が、煙草をゆったりとたしなんでいた。

この国の戦中、戦後に奇怪な男がいた。辻正信。元帝国陸軍の大本営参謀。後年「虹色のトロッキー」と呼ばれた連戦連敗の、狂信的で犯罪的な軍人。むちゃくちゃな戦略立案者だった。数万人の自国兵士を犬死させた張本人。A級戦犯は避けて通れない。
ところが、敗戦となると、この男は降伏より逃走を選んだ。さっさと僧に変身してインドシナで沈殿する。どうやら昨日の敵、蒋介石軍の参謀として、インドシナから中国大陸を転々としていたらしい。

この男、ただものではない。三年後にはこっそり帰国して戦犯免除となる。どうもアメリカ軍に情報提供することで、司法取引きを果たしたようだ。そのうちに、単行本「潜行三千里」を書き、一躍ベストセラーの著者。はては国会議員にまでなってしまう。
「わしの体内には、五か国の弾丸が入っている」
「智者は説き、愚者はアジれ」などと吹きまくっていた。
ところが、現役の国会議員であった1961年、忽然とその姿を消してしまったのだ。民主国家に舵をとったこの国に、安住したくなかったのか。
「インドシナ情勢を探りに行く」僧衣をまとったメガネ老人が、タイからラオス・ビエンチャンに潜入したことは確認されている。以来、消息不明。
奥アジアの秘境、深いジャングルに消えた元参謀。映画化してもおかしくない異界の人物である。

ー何度も僧衣をまとった辻正信の幻影を見た。そればかりではない。いろいろと話した。実をいえば、あんたに会えるかも知れないとビエンチャンに来た・・。
「発想はよし。しかしながら、わしはこうして貴公の眼前におるようで、まぼろしのようでもある。ま、この地でアジアの20世紀を俯瞰してきた」

よく、いうよ。興味があるのは、あんたの最期を見た、知っているという証言だけだ。ちょっとした原稿料稼ぎ。最高はあんたが書き遺した日誌発見。メモでもいい。
「貴公も阿呆だねえ。わしほどの見識と実行力があれば、末期にアリバイは決して残さない。東南アジアの赤い大地ににじんで消え果てた。ざまーみろ」
ところで、あんたの実相は何なんだ。正確にいえば、敗戦後になってなお狂い続けた帝国軍士の残滓。かっこつけて評価するなら、アジアの夜明けを夢想した老残ロマンチスト。

こらぁ、元参謀とやら。またまた潜行記のネタ探しに来たのか。それとも、ベトナム戦争の仕掛け人はわしだなどと広言したいのかい。一体偽坊主のあんたは・・・闇の時空間。

バスは国境の橋を渡る。雨季のメコンの大河は、赤茶けてくすんだ色の大奔流だ。もやった上流から、悠然と森が流れてくる。樹木が寄り添って森を作り、それらが集合体になって迫ってくる。木造の家屋が原型をとどめたまま流れる。水牛の死骸も。戦乱期には、人間のそれも大量にあったはずだ。
橋がなかった時代、船による雨季のメコン渡河は無理だったような気がする。川に真ん中あたりは、そんな激流だった。

あっけなく対岸のタイに着く。バスの乗客は全員パスポート・チェックの列に並ぶ。隣りにいた老僧は、そんな光景に目もくれなかった。ゴムぞうりですたすた歩いて行く。後姿にまたしても辻正信。
ふり向けば霞んで見えるラオスの地平。

どどーん 「とうちゃんの、発破が聞こえる」

2005-10-16 04:12:25 | 家族
時刻はきまって正午数分前。露天掘りの現場にいる父親が仕掛けた発破が聞こえる。
どどーん、どどーん。二階の教室から、1キロ先の山の斜面を見る。白煙が噴きあがる。しばらくして、どどーん。
「勉強がんばれ、カズオ」とやんわりいう合図に聞こえた。
勉強は好きではなかったが、和んだ気分になった。<とうちゃんのどどーん>だった。

発破音のことは生徒、先生は知っている。作業の昼休みになった時報。
間もなく授業おしまいのベルが鳴る。みんな待った。弁当だ。

鉱山町の中学校。生徒の9割が従業員の鼻ったらしだ。時々、サイレンがこだまする。よく鳴った。よく聞こえる。
坑内の切羽で何かが起きた。落盤、ガス発生、出水、ケージ{昇降機}・・・事故だ。
とたんに、教室は沈黙の空間になる。
―うちのおやじは朝番。いまカンテラを持って坑内にいる。もしかして。
―うちのとうちゃんは三の番。朝7時にはオカに上がって、いまは家で寝ている。だいじょうぶ。

各教室には、ひとりはいた。鉱山の事故で父を失った母子家庭の子。
中学2年で母親になった同級生は、採鉱員の亭主の無事を願った。
教室はサイレンが鳴るたびに、無口な祈りの時間になった。
学校ばかりではない。町中の人がサイレン音におののいた。「戦争が終わったけど、ヤマの仕事は戦地みたいだな」戦艦信濃の水兵で、撃沈地獄から奇跡的に生還した叔父は、こういってため息をついた。

NHKのプロジェクトX「黒四ダム」を見た。「復興に命を張った男たちの壮絶な戦いは・・・」つられて、すでにこの世を去った父親を思い重ねて、涙がじわり。

わたしは、生まれも育ちも鉱山、「ヤマの子」で、そのことに関して何ひとつネガティブに考えたことはない。むしろ生きてきた、強力なバネになったと結論を出している。
父親は尊敬の対象で、誇らしく思う。酒は一滴も飲まず、タバコは吸わず、生真面目で、愚直に84年の一生をつらぬいた。

斉藤正三郎。1913年生まれ、秋田北境の農家の三男坊、高等小学校卒。歩いて30秒の尋常小の分校では、有史以来最初の高等小学校進学だった。親戚一同が旧制中学への進学をすすめたが、実家の経済事情を知っていた。すすんで十代から、鉱山勤務。
といえばそれなりの格好はつくが、ようするに地底で鉱塵で真っ黒になって採鉱夫「穴掘り」。地下足袋、ふんどし一丁で働く。
黒もぐらにカンテラのあかりがかすかな陰影を作る。

先輩鉱夫の長女テイと結婚して子供が生まれた。婿養子で姓は若松となった。その子を大館中に。自分が断念した学校に進学させるのが、願望であり、夢だった。信念として、二代目鉱夫にはさせない。

実現した。長男坊が旧制大館中、大館鳳鳴高校に進んだ。本当に喜んでくれた。入学式には、まるで似合わない、サイズも違う借りた背広で来た。おまけに東京の私立大学まで進学させたくれた。
―わたしである。自称不良家などとブログでほざいている当人。父子はまるで別人格である。しかし根っこ、アイデンティティーは共有している。確信している。

子供の頃は誰でも父親にじゃれつく。カタカナ英語でいえばハグ。決して、してくれなかった。しようとしても、決して受けとめようとはしなかった。おふざけの腕相撲さえも。
十代からの「ヤマの男」。カネ掘り、力仕事の採鉱夫だ。身体、特に手は武骨で、「子供と接触すると、怪我をさせてしまうことになる」。
これが理由。ほかの親のように殴ったら、殺してしまう。本気でそう思っていた。
80代になって、よたよた歩きに手を貸した。
初めて手を握った。・・・たぶん、そうだ。

軍人様の時代だ。二度、帝国陸軍に召集されて兵役に就いている。この国の敗戦末期は、父親に鉄砲を担がせるより産業兵士、地底で発破のスペシャリスト。このほうが得策と判断したらしい。敗戦一年前、三度目の召集を受けた。おだやかな表情でいった。
「心配するな。ちょっと仙台の先、塩釜に行く。戦地ではない」軍機で細かくはいえない。

1945・6・30 花岡事件。父親不在。心細かった。
中学校の目前を流れる花岡川は、鹿島組が中国人捕虜を、食事も満足に与えないで、虐待して掘らせた慟哭の川であった。よく無邪気に水遊びをさせてもらった。

敗戦、やはり不在。町は連合軍で占領、支配された。米英兵の捕虜収容所があったのだ。観音堂というその地点に、空が見えない、そのぐらいパラシュートの雨が降ってきた。最初に武器弾薬、たちまち町は、先日まで捕虜だったアメリカ兵のマシンガンで包囲された。

大人たちは無抵抗、呆然。
・・・本土でアメリカ兵にガムやチョコレートをもらったのは、わたしたちが最初かも知れない。無心のガキどもだった。
開放された中国人から「まんとん」をねだって、もらってがっついた。
その数日後、父親が当時は貴重品だった毛布をかついで、狭い玄関に立っていた。帰ってきた。抱きつこうとすると、ごつい手で制した。

酒を飲まない家庭だから、もっぱら夜はラジオ。愚痴はいわない。ときたま冗談はいう。亡くなる寸前まで、冗談好きのわたしと冗談口を叩いた。無意味に看護婦さんを叱ったりもした。

わたしが少年時代、とりわけ楽しそうに語ってくれたのは、塩釜にいた頃の話題。内陸の「ヤマの男」だから、海辺暮らしが珍しく、別天地に出かけた気分だったのだろう。
「海釣りをして、見たことのない魚を釣ってよ。死ぬ思いで食ってみた。まあまあの味だったなあ」・・・ところで、塩釜で何をしてたの?釣りに出かけた?

後年、せがんで聞いた。取材!した。軍機の時代はすべて過去形だ。
太平洋に面した塩釜の海っ辺りで洞窟を掘っていた。海上からの特攻攻撃、特殊潜航艇の秘密基地をつくる作業要員として徴用された。
鉄器で力づくで岩盤に穴をあけ、そこにダイナマイトを仕掛けて爆破。砕け散った岩を除去して、さらに掘り進む。
「身分は海軍軍属だったけど、おれらは民間人。ほかの民間人は誰ひとりいなかった」秘密基地だから地元の人は立ち入り禁止。隔離と同じ。

父親はしっかり見抜いていた。そこの基地で一番優遇されていたのが、特攻命令を受けて待機している若い兵士だった。少年兵もいた。
人間魚雷として。死を約束された彼らが最後に求めていたのは、軍隊組織ではないことを、わかっていた。

訓練が終了すると、彼らは父親たちの宿舎にやってくる。民間人のおじさんたちと遠慮のない談笑をした。家族の話、故郷の話、初恋の話・・・。
特攻隊員にとって、気のおけない田舎のおじさんたち、ふるさとだったのだ。つかの間の安らぎの時間である。
「顔には出さないが、不憫だったなあ」。父親の、その表情はつらそうだった。

55歳で定年退職するまで露天掘り。魚釣りは決してしない。リタイア後は旅行が好きで、あちこちに忙しく出かけていた。塩釜再訪には「それだけは嫌だ。絶対に行かない」。
人間魚雷として、蒼い海原に散り果てた少年兵たちに思いはせる過去帳を捨てきれなかったのか。

とうちゃん、あなたの長男は離婚して子供ふたりを引き取った。その三か月後には会社をやめた。ずいぶん心配をかけたね。何とかひとりで切り抜けたよ。それから世界をふらふら漂流をしたよ。じぃっと見守ってくれてありがとう。
よく将棋を指したね。負けると不機嫌、勝つと「手を抜いたな」と文句をつけたよな。たまに緩手を指した。ばれた。

とうちゃん、二代目婿養子やったよ。佐倉姓になっちゃった。再婚したパートナーと、野暮用で塩釜に一度行ったぜ。松島の観光船に乗って海岸を見わたして、父親の残影を感じたよ。長い物語になるので、紗羅には何もいわなかった。


戦後復興のかけ声は、第一次産業の鉱山町を活気づかせた。朝鮮戦争の特需もあった。会社はパワー・ショベルとダンプ・トラックで露天掘りにも着手した。町のすぐ近くの山側。中学校の地平にあった。だから生徒のわたしたちには毎日聞こえたし、硝煙が見えた。

父親は決断した。地底から地上へ、坑内からオカ。発破のスペシャリストは露天掘り担当の転属に手をあげた。

好景気にさんざめく鉱山町は、「ヤマの男」たちの酒量を増やした。一日24時間三交代制だから、いつの時間でも酒乱のわめき声が聞こえた。こころが荒廃した町である。
会社は安全管理より増産第一、男たちはノルマ達成でいくら、それ以上掘り進んだら給料に上乗せした特別手当。請負方式。金稼ぎに狂奔した。心身ともにすさんでいた。

事故を知らせるサイレンが鳴る。「どこ?」「何人!」。
加えて、鉱塵で肺機能をやられた。ばったばったと病院へ。「じん肺病」。「廃人同然」の患者が続出した。愚直一直線の父親は地獄絵を見る思いだったのだろう。

特別手当を稼ぐ産業戦士の修羅場。実直人間の父親にとって精神的に過酷だった。酒を喰らいながら、カネのために、カネ掘りに舞い上がる仲間たち。
こんな状況にいる自分に強い抵抗感があった。地上勤務、露天掘りを選んだ。家族のため、の選択だ。・・・家族の将来のために。
「隣り近所と違って、これからうちは貧乏になるからな」
両親に強い語調でいわれた。

露天掘りは地上に大きな広いすりばち状の穴を広げて、ダンプがぐるぐる回りながら採鉱現場に行く。直径2キロ。東京でいうと、皇居一帯が巨大な穴。そんなスケールだ。
そこは地表そのものだから、雨や雪解けの水が自然にたまる。排水しないとすぐにダムになってしまう。父親は発破に加えて、水処理のスペシャリストにもなっていた。大事故には遭遇していない。ただし、大雨になると時間構わず現場に走った。声を聞くまで、家族は無言で待った。

鉱山が廃鉱になって三十年ほどになる。わたしは不祝儀で故郷に二、三度帰った。地形が大きく変わっている。地底から、露天掘りから掘った大量の非鉱石、不用な岩石、土砂{ジリといった}が、丘になり山になって、まるで知らない町、未知の盆地になっていた。
だからといって特別な感情はない。生まれ育ったのは鉱山町だ。いつかはそうなると、子供の目から想像できた。その頃すでに地形変容が進行していたのだ。

ー町を見下ろしていた山の中腹。選鉱場、排水ダム、山神社、そしてなつかしいスキー・ジャンプ台。みんな埋まってしまった。どこにあったのか、それすらわからない。すべて幻の荒野。
わたしが生まれたエリアは、いま地下約100メートルに位置する。地下にあった幾層もの坑道を、すべて陥没させ、さらにジリが積まれて底上げされた。いまこの台地に雑木林が広がる。

廃山になってみんな町を離れた。中学の同期生260人。残っているのは、理髪師、桜田ハゲ剛史ひとりだけになってしまった。

いつか尋ねたことがある、。戦前、戦中、敗戦、戦後と激動の時代をくぐり抜けてきて、どうだった?と。むすっとこういい捨てた。
「おれらの時代だけでいい。繰り返すな!」。

どどーん。正午数分前に教室で聞く発破音。「今日のは強いぞ。あー、腹へった」教室が小揺れして、みんな笑顔。
「お前のとうちゃんに、学校を落盤させるな、といえよな」ある生徒の声に、みんながガハハと笑った。
わたしには「とうちゃんは、元気だよう」というメッセージに聞こえる。
いくらサイレンがうなっても、わたしはたじろがない鉱山町の中学生だった。
どどーん。とうちゃんの発破は10,11,12発・・・。いつもカウントした。