その夏の甲子園のヒーローは、ハンサムな混血の快速球投手だった。
決勝戦で延長18回をひとりで投げ抜いて0-0の引き分け。翌日の再試合も全イニングを投げたが2-4で敗れた。
1969年夏、東北の無名の高校が準優勝、決勝の相手は名門松山商。そんな惜敗のドラマがあって悲運の「幸ちゃん」はその夏のスーパーヒーローになった。
青森・三沢高校のエース太田幸司。
焦げるようなクソ暑いニッポンの夏は甲子園球児たちの青春の汗と涙が天下を取る。メディアは彼らの泣ける話、つまり美談を探しまくる。
{純!な高校生だから恋人との別離は考えにくいが、肉親との死別などは活字メディアにとってごちそうだ。来年には「パパ球児出現」のニュースを期待!}
大田幸司はおいしい話の無限の宝庫だった。
母親のタマラさんの存在だ。
戦時中、タマラさんはソビエトで太田さんと熱愛の仲だった。
戦後になって彼女がやっとのことで海を越えて青森駅にたどり着いた。
<青森出身・太田>ヒントはそれだけだった。愛する人に再会したい一途な乙女心。
駅頭で途方にくれる、言葉もままならない異国人に県紙東奥日報が反応してくれた。
尋ね人・・・記事が出て間もなく愛する男性と劇的な再会。
国境を越えた愛。しかも日ソの間には深い溝が背景にあった時代だ。
その結晶の大田幸司。晴れて甲子園のヒーローという図式だ。
たしかに風貌は色白のハンサムな外国人であって、アイドル人気は沸点に達した。
個人的に野球は嫌いだ。暑苦しい高校野球を見るのは拷問だとうそぶいている。
青いガキのころ野球記者なんぞをやって、毎日毎日の仕事が野球を見る。うんざりだった。
試合が9回裏に同点になって延長戦となると、記者席全体が「あ~あ、ばっきゃろー」絶望のため息になる。
その発声が人一倍でかかったので、先輩記者にいつもにらまれた。
こと仕事となると、ゲームが勝った負けたはどうでもいい。頼むからさっさと終わってくれ。
甲子園にも出張した。美談探しがテーマであったから、試合なんかはどうでもよかった。
とりわけ1日に4試合。地獄で業火もんで、その朝は「死んでもいのちがありますように」と神仏に祈りたかった。
よく隣りの甲子園プールで息抜きをした。派手めの柄パンツのままでシカとして泳いだ。やんちゃな悪童記者だったと総括する。
太田幸司の持つ物語は破格のおいしい話だった。
こいつをふくらませるともっと泣ける記事にな。確信して甲子園から青森に直行した。
三沢に行ってタマラさんに詳しく話を聞こう。
当時は飛行機移動なんて時代ではないから鉄路、急行でのたのた。
タマラさんは不在だった。周辺取材をする。
と、近所のおばさんのさりげない土地言葉の証言にヒクっとした。
「幸ちゃんのことだべ。なに、新聞もテレビもタマラさんの子どもになって・・・そんなことはねーし。タマラさんに子どもが出来なかったはんで、はあ」
ほう。
「幸ちゃんは養子だはんで。あの子はしな。アメリカの軍人が浅虫温泉の芸者に産ませたワラシだ。ソ連人の混血でねーてば。アメリカ人の子だ」
事実だとすれば、真夏の鉄路移動は大漁旗だ。複数の人から同じ話を聞いたから間違いない。
ならば実父の米兵と実母をえぐりだすか。
とりあえず記事にした。現地に出かけただけで苦労はまったくしていないが、ちょっとした泣かせスクープだった。
そのころは、とことん野球に醒めていた。週刊誌や本のゴースト、ラジオの台本書きとアルバイト原稿に忙殺されていた。他社の文化部からオファーもあった。
おれはやめる。居直っていた。
太田幸司の出生のことも知り合いの週刊誌に売りこんでやろうとした性悪だ。
でもなあ。三沢までの出張費は新聞社が出したからなあ。自分なりの仁義を守った!ブン生意気なガキ。
その後まもなく野球から開放された。
数世紀前の「その夏、の物語」・・・タイトルは思わせぶりなのだが、この程度のセコイ昔日の雑件1だ。
ことしは甲子園の記念大会ということで、ジサマ風情になった太田幸司がニュース番組に出演していたから思い出した。
にしても。ことしは乱暴な暑さだ。
野球は嫌いだから、せめてサッカーを好きになろう。こう自らをいい聞かせてテレビで東アジアのチャンピオンシップを眺める。
男女とも沈没した。
ふんだ、こうなると腹いせするしかない。敗因はテレビ中継しているフジテレビにある。
貧乏神のフジテレビが放映したからサムライ、なでしこが惨敗した。こう強調したい。
だったらどのテレビ局にやってもらいたいのか悩む局面だが、さーて。どうでもいいけどさあ~。
決勝戦で延長18回をひとりで投げ抜いて0-0の引き分け。翌日の再試合も全イニングを投げたが2-4で敗れた。
1969年夏、東北の無名の高校が準優勝、決勝の相手は名門松山商。そんな惜敗のドラマがあって悲運の「幸ちゃん」はその夏のスーパーヒーローになった。
青森・三沢高校のエース太田幸司。
焦げるようなクソ暑いニッポンの夏は甲子園球児たちの青春の汗と涙が天下を取る。メディアは彼らの泣ける話、つまり美談を探しまくる。
{純!な高校生だから恋人との別離は考えにくいが、肉親との死別などは活字メディアにとってごちそうだ。来年には「パパ球児出現」のニュースを期待!}
大田幸司はおいしい話の無限の宝庫だった。
母親のタマラさんの存在だ。
戦時中、タマラさんはソビエトで太田さんと熱愛の仲だった。
戦後になって彼女がやっとのことで海を越えて青森駅にたどり着いた。
<青森出身・太田>ヒントはそれだけだった。愛する人に再会したい一途な乙女心。
駅頭で途方にくれる、言葉もままならない異国人に県紙東奥日報が反応してくれた。
尋ね人・・・記事が出て間もなく愛する男性と劇的な再会。
国境を越えた愛。しかも日ソの間には深い溝が背景にあった時代だ。
その結晶の大田幸司。晴れて甲子園のヒーローという図式だ。
たしかに風貌は色白のハンサムな外国人であって、アイドル人気は沸点に達した。
個人的に野球は嫌いだ。暑苦しい高校野球を見るのは拷問だとうそぶいている。
青いガキのころ野球記者なんぞをやって、毎日毎日の仕事が野球を見る。うんざりだった。
試合が9回裏に同点になって延長戦となると、記者席全体が「あ~あ、ばっきゃろー」絶望のため息になる。
その発声が人一倍でかかったので、先輩記者にいつもにらまれた。
こと仕事となると、ゲームが勝った負けたはどうでもいい。頼むからさっさと終わってくれ。
甲子園にも出張した。美談探しがテーマであったから、試合なんかはどうでもよかった。
とりわけ1日に4試合。地獄で業火もんで、その朝は「死んでもいのちがありますように」と神仏に祈りたかった。
よく隣りの甲子園プールで息抜きをした。派手めの柄パンツのままでシカとして泳いだ。やんちゃな悪童記者だったと総括する。
太田幸司の持つ物語は破格のおいしい話だった。
こいつをふくらませるともっと泣ける記事にな。確信して甲子園から青森に直行した。
三沢に行ってタマラさんに詳しく話を聞こう。
当時は飛行機移動なんて時代ではないから鉄路、急行でのたのた。
タマラさんは不在だった。周辺取材をする。
と、近所のおばさんのさりげない土地言葉の証言にヒクっとした。
「幸ちゃんのことだべ。なに、新聞もテレビもタマラさんの子どもになって・・・そんなことはねーし。タマラさんに子どもが出来なかったはんで、はあ」
ほう。
「幸ちゃんは養子だはんで。あの子はしな。アメリカの軍人が浅虫温泉の芸者に産ませたワラシだ。ソ連人の混血でねーてば。アメリカ人の子だ」
事実だとすれば、真夏の鉄路移動は大漁旗だ。複数の人から同じ話を聞いたから間違いない。
ならば実父の米兵と実母をえぐりだすか。
とりあえず記事にした。現地に出かけただけで苦労はまったくしていないが、ちょっとした泣かせスクープだった。
そのころは、とことん野球に醒めていた。週刊誌や本のゴースト、ラジオの台本書きとアルバイト原稿に忙殺されていた。他社の文化部からオファーもあった。
おれはやめる。居直っていた。
太田幸司の出生のことも知り合いの週刊誌に売りこんでやろうとした性悪だ。
でもなあ。三沢までの出張費は新聞社が出したからなあ。自分なりの仁義を守った!ブン生意気なガキ。
その後まもなく野球から開放された。
数世紀前の「その夏、の物語」・・・タイトルは思わせぶりなのだが、この程度のセコイ昔日の雑件1だ。
ことしは甲子園の記念大会ということで、ジサマ風情になった太田幸司がニュース番組に出演していたから思い出した。
にしても。ことしは乱暴な暑さだ。
野球は嫌いだから、せめてサッカーを好きになろう。こう自らをいい聞かせてテレビで東アジアのチャンピオンシップを眺める。
男女とも沈没した。
ふんだ、こうなると腹いせするしかない。敗因はテレビ中継しているフジテレビにある。
貧乏神のフジテレビが放映したからサムライ、なでしこが惨敗した。こう強調したい。
だったらどのテレビ局にやってもらいたいのか悩む局面だが、さーて。どうでもいいけどさあ~。