日本人の職業に対する意識というのは極めて珍しい。
建前ではあっても「職業に貴賎はない」ということになっているし
大学を卒業した人でも汚れる仕事をする場合だってある。
現場の仕事に対して蔑む意識を持ってはいない。
インドネシアは長い間オランダの植民地であった。
オランダ人はインドネシア人を召使にして飼い犬よりも低い地位に置いた。
だから犬が食べ残した肉が「ご馳走」だった。
オランダ人のご主人様は先に犬に肉を与えたのだった。
そしてインドネシア人は後からやってきた華人よりも地位が低かった。
今も完全な階級社会を形成している国なのである。
だから大卒エリートは介護福祉の仕事はしない。
オランダに介護福祉の仕事に行く人に勿論大卒エリートはいない。
日本人が一体どのレベルのインドネシア人を要求しているのか、
それがハッキリしない。
介護福祉士の資格試験にパスするには国立大学の日本語学科を卒業し、
尚且つ文部省の日本語能力試験1級合格者でなければ厳しい。
だがそれに該当するインドネシア人は普通介護福祉の仕事はしないものだ。
私にはインドネシア人の古い友人がいてもう20年近くの付き合いになる。
彼女はバンドン市のパジャジャラン大学(メガワティ前大統領の出身大学)の日本語学科を卒業し、
その後カネボウ繊維に就職した後、静岡県の新居町で仕事していたが
カネボウが繊維部門を手放したのでインドネシアに帰り
今現在ジャカルタ市の日系企業で秘書をしている。
日本語能力試験2級を既に取り昨年末1級の試験を受験した。
まだ私に連絡が来ていないがおそらく合格したであろう。
彼女なら介護福祉の仕事するのに必要な日本語能力は備わっているし
勉強すれば資格試験にも合格するかも知れない。
だがそんな才女であるインドネシア人が介護福祉の仕事をするとは到底思えない。
まずインドネシア人の介護福祉士を使う目的は何か、ハッキリさせないといけない。
日本人介護福祉士の補助が中心であまり頭を使わない仕事をさせるのか?
それとも全く日本人と同じ仕事をさせるのか?
日本人と同じ仕事をさせるのであれば大卒でないとかなり厳しいだろう。
インドネシア人の能力は人によってまちまちだ。
ガルーダ航空の搭乗手続きカウンターの職員たちの能力の差は大きい。
出来る人はてテキパキとこなしていくがトロい人はとてもノロい。
どのカウンターに並ぶかで時間がずいぶんと違うものだ。
おそらくこれから日本で仕事するインドネシア人たちの能力もまちまちだろう。
だから人によって評価もまちまちになる。
何とか使えるかも知れない、と思わせる者がいる一方
これじゃどうにもならんと思わせる者もいるだろう。
受け入れ先の施設によってかなり評価が分かれると思う。
平均的インドネシア人というのは存在しないのだ。
日本人は求めるものが多すぎる。
「お客様は神様」という意識が日本人にある限り
インドネシア人介護福祉士の受け入れは成功しないだろう。
中世の日本に「南蛮人」が渡来した。
オランダ人である。
オランダ人なのになぜ南から来たのか?
それは東インド会社のオランダ人がインドネシアから長崎にやって来たためだった。
その頃は勿論インドネシアという名前の統一国家はまだ無い。
多くの王国が存在する地域をまとめて一部のオランダ人が勝手にそう呼んでいた。
1942年の新春、破竹の勢いで日本軍がシンガポールを陥落させた直後に
あっという間にジャワは制圧されてしまう。
オランダ兵はただただ敗走するのみ。
この光景を見たインドネシア人はすっかり日本軍に惚れ込み
先を争って「ぺタ」と呼ばれる義勇軍に入隊する。
しかし次第に戦局は悪化。
義勇軍の指導者スカルノとハッタは幾度も日本軍から独立の承認を求めた挙句
終戦間際にやっとのこと独立の承認を受ける。
だが日本軍は連合国軍に降伏。
独立はチャラにされてしまう。
このままでは永久にオランダ人の奴隷のままだと奮起したぺタ(義勇軍)は
独立のための戦争をすることになる。
ここで重要な役割を果たすのが残留日本兵だ。
彼ら自ら戦闘に参加し、義勇軍を率いた。
実は私は石井さんという北海道出身の残留日本兵にお会いしたことがある。
その出会いは偶然からだった。
ジャカルタからスラバヤまで列車で移動した時、車内で突然激痛に襲われた。
冗談なしに死ぬかも知れない、と感じた。
おそらく尿管結石ではないかと思う。
私の顔色が真っ白だったのを見たある女性が私に声をかけてくれた。
彼女は愛子さんといい亡父が残留日本兵であったという。
愛子さんが紹介してくれたのが同じ残留日本兵の石井さんだった。
彼は当時芋からこんにゃくを作る工場を経営していた。
彼は自分の思いを私に話してくれた。
「残留日本兵のことは逃亡兵といわれています。逃亡したのだから軍人恩給はもらえない。私は当然だと思っています。
仲間の中には逃亡兵であったことを否定し恩給をもらおうとする者がいるが私は賛成できない。
理由は何であれ自分の意思で軍隊から脱走したのだから逃亡兵に間違いない。
恩給など当てにしないで自分で食っていかなければならない」
彼は立派な軍人だと思った。
今の日本人より何倍も立派な人だと思った。
彼に会ったのはもう十数年前だからもう亡くなられているだろう。
彼みたいな立派な人が日本軍の中にもいたことがとても嬉しかった。
そして大変に誇らしく思った。
スラバヤ行きの列車であんなに辛い思いをしたことも
彼との出会いのためであったとしたら何のことはない。
もしも彼に会えるならあの激痛にも耐えることが出来るだろう。
いわゆる「ロス疑惑」の三浦和義が登場する。
彼がバリ島から帰国することを聞きつけたマスコミが
成田空港に殺到するシーンが収められているのだが
1986年には既にバリ島が有名観光地であったことが分かる。
ザ・スパイダースの映画「バリ島珍道中」は1960年代に公開されたものだが
それを見れば既に大型ホテルがありリゾート地として開発されていたことが窺い知れる。
当時はサヌールが開発の中心だった。
この映画にはかまやつひろしが作った曲「メラメラ」をバンドが
演奏するシーンがあるが「メラ」とはインドネシア語で赤の意味で
「メラメラと燃える」という言いまわしは
おそらくかまやつが作った曲が起因していると思われる。
1980年頃の雑誌には坂本龍一がバリに旅行した記事が掲載されている。
当時バリは麻薬天国でありヒッピーたちの楽園であった。
おそらくスパイダースが音楽仲間にバリ情報を提供して
それから日本のミュージシャンたちがバリに注目するようになったのだろう。
インドネシアはオランダの植民地であったためか比較的麻薬には寛容である。
マレーシアやシンガポールとはここが大きく違う。
かつてディープパープルが日本で最後のライブをやった時の演奏を収めたレコードが日本だけで発売された。
それは二代目ギタリスト、トミー・ボーリンの最後のライブアルバムとなったが全くひどい内容だった。
ろくにギターを弾くことが出来なかったからだ。
何故かというと日本に来る前バリを訪れそこで悪いクスリに手を出し
指を思うように動かすことが出来なかったからである。
そして彼はその1年後クスリのやり過ぎで帰らぬ人となる。
私が初めてバリを旅行したのは1980年代のことでもう既にバリは知られた存在だった。
とはいってもクタのレギャン通りは舗装されていなくて
車が通れば砂煙が舞うような有様だった。
さすがにもうバリのビーチにはヒッピーはいなかったが
隣のレンボンガン島にはまだ彼らがいた。
クスリをやっていたかどうかは分からなかったが
やっていたとしても不思議ではなかった。
そんな雰囲気が歴然と残っていた。
既にジゴロは存在していて現地の男と付き合っている日本の女を結構見たものだ。
結婚した女もいた少なくなかった。
あれから20数年経ってもまだ現地の男と付き合う日本の女がいるらしい。
いや、まだというか増えているようだ。
何故かというと彼らが優しいからである。
何故優しいのかといえば彼らが子供で決して責任を取らないからだ。
責任を取るつもりがないので口からはいい加減な優しい言葉だけが出て来る。
言葉だけの優しさを求める日本の女を見つけたら
バリの男は幸福になれるのである。
時に言葉はクスリよりもマジカルになるものだ。
圧倒的に女性の方が多いのはインドネシアの民法が原因だ。
インドネシアは賄賂の国として大変有名である。
ありとあらゆる行政サービスは「有料」なのだ。
インドネシアの永住ヴィザ取得は困難を極め、
賄賂で何とかなるがその金額は航空運賃よりも高い。
だから観光目的で入国し、近隣のマレーシアやシンガポールに一度出国し、
再び入国するということを繰り返して生活する日本人が多い。
インドネシア人男性と結婚すれば長期の滞在が許可されるケースは多くても、
インドネシア人女性と結婚すれば長期の滞在が許可されるケースは少ない。
つまり、日本人女性がインドネシア人と結婚すれば
インドネシアで長期滞在することは容易いが
日本人男性がインドネシア人と結婚した場合でも
インドネシアに滞在する「理由」が必要になる。
インドネシアで個人が労働ヴィザを取得することは極めて困難だ。
物凄い額の賄賂が必要となる。
バリに住む日本人女性のほとんどがインドネシア人と結婚している。
中にはバリに住むために政略結婚した人もいる。
私の知り合いの日本人カップルはバリでレストランを経営していたが
ヴィザの問題があったので結局女性は現地人と結婚する道を選んだ。
彼女の場合最初から金持ちと結婚するつもりだったので
うまくレストランの経営ができたようだ。
だがバリに住みたいばかりに急いで貧乏人(バリ人のほとんどは貧乏人だが)を結婚相手に選ぶと後悔することになる。
バリ人がカネを必要とする場合最初に考えることは
「一体誰がカネをくれるのか?」である。
働く、という選択肢は金策が尽きた時にしぶしぶ取るものだ。
食べたいと思ったら
「どこの家に行けば食べさせてもらえるか?」を考える。
それが見つからない時、ようやくなけなしのカネを取り出して
ナシ・ゴレン(焼き飯)を買う。
だからバリ人と結婚した日本人女性の家に行くといろんな珍客が待っている。
勝手に冷蔵庫から食べ物を取り出して来て
「ホラ、これやるから、食べな」と振舞うが
その食べ物は決して彼の物ではない。
テレビを見ていると突然、彼がチャンネルを換える。
何を見るべきかを選択をするのは彼らしい。
一体彼は誰なのか?
実はその日本人もよく知らない。
旦那の遠い親戚らしい。
子供のおもちゃや食器などはその珍客が帰った後必ずなくなっている。
この習慣に慣れないとバリで生きていけない。
旦那は珍客を追い出す度胸がないからだ。
日本人が建てた豪邸は忽ち珍客の溜まり場になってしまい、
珍客がまた別の珍客を連れてきては、日々、チンチンキャクキャクの大合唱が始まる。
今日も何処かで大合唱が始まっているはずだ。
そうやって寄生して一生を送れたらどんなにか楽でいいだろう。
彼らにとって日本人の人生ほどバカバカしいものなどない。
オラン・チナ(中国人もしくは中国系住民の意味)がいる。
かつての明王朝が崩壊し、清の支配に抵抗して破れた中国人が、
外国に逃げ出して現地に定住したからだ。
中には長崎にやって来た者もいてチャイナ・タウンを建設している。
だが大半は東南アジアへと向かった。
マレーシアのマラッカに渡った者たちは原住民と婚姻し、混血していったが、
そのケースは珍しく、ほとんどは原住民と混じらずに中国文化を堅持し、中国語での生活を維持している。
英国人やオランダ人は要領のいい中国人に目をつけ、彼らを利用して植民地統治を行った。
その支配は間接統治だ。
植民地を統治する場合、間接統治が賢明なやり方だ。
怒りの矛先を変えさせるためである。
原住民に不満が溜まった時、英国人やオランダ人に対して不満をぶつけることを阻止し、中国人に怒りを吸収させるのだ。
日本が何故、台湾統治に成功し、朝鮮統治に失敗したのかといえば
台湾は琉球人を利用して間接統治をしたから成功し、
朝鮮は日本人が直接統治をしたから失敗したのである。
台湾の老人は今でも沖縄人を憎んでいる。
世界中の国々において民族問題が起きているが
その原因の多くが英国などのかつての西洋列強の植民地における間接統治にある。
インドネシアでプリ・ブミ(原住民)とオラン・チナとの対立の原因を作ったのも当然オランダである。
スハルト元大統領はアメリカの支援を受けたガチガチの反共主義者であった。
彼は中国共産党とつるんでいたオラン・チナを弾圧し、
中国語教育と公共の場での中国語使用を非合法にした。
だからスハルト政権時代に教育を受けたオラン・チナは中国語を話すことができない。
彼らは一見するとプリ・ブミと同化したように見える。
しかし近年日本の対インドネシアODAの額が減り、それと同時に日本の影響力も低下している。
反対にインドネシアで影響力を強めているのが中国である。
スハルト政権が倒れてから中国語教育が合法化され
中国語の看板を掲げることも自由になった。
現政権はかなり中国に擦り寄っているといわれる。
北朝鮮による拉致被害者が家族と再会した場所がインドネシアだったことは
インドネシア政府のポリシーに大きな変化があったことを如実に示している。
スハルト政権であったならあり得ないことだ。
インドネシア政府の思惑は国力を増した中国に擦り寄り援助を引き出したい、というものであるが
一般大衆に刻み込まれた反中国人感情を解消させることは非常に困難であるといえる。
オラン・チナは未だに不満を吸収するショック・アブソーバーなのである。