とうとう山崎が引退を発表した。
中日での最後の2年間の成績は芳しいものではなく、
楽天で選手生命を終えた方がよかったのかも知れない。
山崎はドラフト2位で名電高から中日に入団する。
1位指名は近藤真一だった。
高校時代は捕手であったが入団してすぐにアメリカ留学する。
その時は主に3塁を守るが、帰国しまた捕手に戻る。
1年後輩の立浪は高卒で入団し、すぐにレギュラーを与えられたが
山崎にはなかなかチャンスが廻って来なかった。
89年1軍に昇格するもあまりの肩の弱さに捕手失格の烙印を押される。
93年は開幕からしばらくスタメンで起用されるが、
チャンスに打てず短気な高木監督はスタメンから外してしまう。
それから数年間スタメンと控えの「行ったり来たり」の状態が続く。
レギュラーに定着するのが96年で、
この年松井秀樹とホームラン王争いを演じ、星野監督の温情でタイトルを獲得する。
中日の投手は松井と勝負しなかったのだ。
2001年のシーズン・オフにFA権を得て横浜への移籍を考えるが、思い留まり
名古屋に新居を建てる。
だがその1年後にオリックスへ電撃トレードされる。
山田監督と馬が合わなかったからである。
せっかく新居が完成したと思ったらトレードされるという不運だった。
これには山崎もかなり腹が立ったらしい。
「トレードは嫌がらせだと思った」と心境を告白している。
オリックスでは全くやる気をなくしてしまう。
実は山井と山崎の1対1のトレードが検討されていたが、何故か水に流れている。
その後の山井の活躍を見ればトレードが成立しなくてよかったといえるだろう。
そしてオリックスと近鉄が合併する時、山崎はプロテクトされずに自由契約となる。
この時山崎はメディアで中日復帰を訴えるが、
楽天の監督に就任した田尾氏が山崎を招聘し、楽天への入団を決める。
山崎にバッティングを指導したのは野村氏といわれているけれど、
実は田尾氏の熱心な指導によって復活したのだ。
山崎は中日関係者にそのことを話しているし、
本人も名古屋のテレビ番組に出た時に認めている。
「ようやく落ち着いて野球をやれる環境を与えられた」と思ったのもつかの間、
わずか1年で田尾監督は解任される。
そして野村監督が楽天にやって来る。
その時山崎は「ああ、もうこれでおしまいだな」と思ったらしい。
キャンプで初めて野村監督と会話した時にこう言われたという。
「お前、嫌われ者やろ。俺には分かるぞ、俺も嫌われ者だからな」
その会話で監督と打ち解けたそうだ。
「二千本安打も打てず、成績としては一つも二つも足りない男だな」というが
山崎は1軍に定着する前、火事の現場に遭遇し、
いても立ってもいられず燃えている家の中に飛び込み子供を救出したことがある。
これこそ誇りにしていい。
そんな野球選手は名球界にはいない。
山崎は二千本のヒットを打った選手より立派なことをしたのである。
二千本安打より価値がある1833本安打を達成した選手は山崎ただ一人だ。
記録に執着しない生き方がどんなに素晴らしいものか、
思ったことを口にすることがいかに苦しいか、
それは山崎が教えてくれる。