人は若い時は自己分析ができない。
そして希望的観測があるからいくらでも努力することができるのだ。
つまり自分の可能性について分からないからこそ
自分を発見しようとどんなことにも挑戦することができるのである。
若い時は自信過剰に陥るが、この自信過剰が思わぬパワーを生み出すのだ。
「無知の強み」を発揮すると期待以上の結果を生む。
だから若い時は少々自信過剰なくらいがちょうどいいといえる。
しかし失敗した時の挫折感も
自信が大きかった分だけ大きなものになるだろう。
自信とは文字通り自分を信じることだが
自分に対して盲目的な信頼を持てる時機は限定的だ。
その時機を過ぎても尚自分に対し盲目的であれば、必ず代償を払わなければならないだろう。
だから若い時の挫折は価値が高いのである。
エリック・クラプトンはクリームというバンドで一世を風靡した後、
スティービー・ウィンウッドと「ブラインド・フェイス」というバンドを結成する。
クリームで成功したクラプトンは鼻高々だった。
自分に対するブラインド・フェイス(盲目的信頼)を持っていたが
ウインウッドに見事に打ち砕かれてしまう。
音楽的才能でクラプトンは彼よりも若いウィンウッドに全く歯が立たなかったのだ。
その挫折感は言葉に言い尽くせない程ですっかり自信を喪失してしまう。
しかしクラプトンは立ち直ることができた。
自分を理解できたからである。
そして、才能の面ではウィンウッドに負けても、評価の面では勝つことができたのだ。
自分を知らなくてもいい時は知らない方がいい。
しかしその時を過ぎても、盲目的ならば
道化師への道へ一直線だ。
ギタリストのサンタナは牧師になり宣教活動をしているという。
音楽家から宗教家になった例は少なくないが、
最も記憶に残っているのはゴスペル・シンガーのアル・グリーンのケースだ。
アルは恋人から熱湯をかけられて大やけどをし、
後悔した恋人は自殺してしまう。
失意のアルは牧師になる決心をする。
その後、音楽界に復帰し、今も現役だ。
恋人や妻に殺される音楽家もいる。
最も残念なケースはフェリックス・パッパラルディだ。
リッチー・ブラックモアが大きく影響を受けたロックバンド「マウンテン」のベーシスト兼ヴォーカリストで
日本のロックバンド「クリエーション」とアルバムを制作したこともある大変有能なミュージシャンだった。
しかしある日、妻に銃殺されこの世を去る。
妻にとっては一人の男性であったかも知れないが
音楽界にとっては大きな損失であった。
音楽と宗教(主にキリスト教)は非常に関係が深い。
それには「誰でも努力すれば望みは叶う」というメッセージがある。
しかし、悲しいかな人の才能は平等ではない。
音楽が素晴らしければ素晴らしいほど
才能のない人は努力が空しく感じてしまうのは皮肉な結果といえるだろう。
そんな人にとっての音楽は決して癒しの原因にはならないのだ。
矢沢永吉は著書「成り上がり」で
「高校を卒業し、東京を目指して列車に乗ったが、途中の横浜でホームのアナウンスを聞き
急に横浜に行きたくなって列車から降りた」と書いている。
それは作り話だろう。
矢沢は初めから横浜を目指していたはずだ。
1960年代の音楽シーンを引っ張っていたのは東京ではなく横浜だった。
横浜は音楽の最先端の地であったのだ。
昔はアメリカのミュージシャンがレコードをリリースしても
日本で発売されるまでには半年以上かかったものだ。
1年以上遅れて発売されるのが一般的で販売されないレコードも多かったのだ。
海外でセカンドアルバムがヒットし、それが日本で発売され
その後にファーストアルバムが発売される、なんてことはごく普通だった。
そこで日本のミュージシャンたちは米兵に目を付けて彼らからレコードを譲ってもらっていた。
それを真っ先にコピーしていたのが「ゴールデン・カップス」というバンドだった。
ジミヘンなんて知らなかった日本人はカップスの演奏を聴いてぶっ飛び、
「なんてすごいバンドだ!」と驚嘆した。
もちろん矢沢もカップスに影響を受けている。
キャロルの解散コンサートにはカップスのリーダーだったデーブ平尾を招いている。
矢沢の憧れの存在だったのだ。
おそらく矢沢はカップスを見たくて横浜に行ったはずだ。
デーブ平尾は5年前の11月10日に亡くなっている。
彼は今天国でどんな歌を唄っているのだろう?
ポール・バターフィールドの「絶望の人生」だろうか?
それともスリー・ドッグ・ナイトの「喜びの世界」なのか?
中国製品は粗悪品で世界中の人々から「安かろう悪かろう」と思われている。
日本製品といえば高品質の代名詞になっている。
しかしそんな風にいわれ始めたのはほんの30年前のことだ。
70年代までは日本製品の評価は低かったのである。
おまけに「パクリ」を指摘されることも多かった。
ディープパープルの不朽の名作として名高いアルバムのタイトルは「メイド・イン・ジャパン」である。
レコーディングされたのは1972年だ。
当時、武道館でのライブ録音は困難を極め、高いクオリティのレコードを製作することはできなかった。
しかし内容は大変すばらしくバンドのメンバーは気に入ったのだが、
録音技術は低くて必ずしも納得のいくものではなかった。
それでもリリースすることが決まり、
バンドのメンバーは低い録音技術を皮肉って「メイド・イン・ジャパン」と名付けたのである。
今では考えられないことではあるが当時は日本の技術力に対する評価は低かったのだ。
ちなみにパープルはブレークする前、フェイセズの前座を務めている。
フェイセズのベーシストは山内テツで元サムライズのギタリストだ。
当時、南アフリカでは白人優遇政策が行われていて、
日本人に対してヴィザを出さずフェイセズは南アフリカでコンサートをすることができなかった。
それから40年。
日本人の地位も上がった。
今では御伽噺のようである。
ところが「メイド・イン・ジャパン神話」が崩壊しつつあるという。
一部の識者の指摘ではあるが、看過できないことだ。
「歴史は繰り返す」という。
それが正しいかどうか、それは歴史が回答するだろう。
1975年、「8.8ロックデイ」に紫が登場し、
観客はその卓越された演奏力に圧倒される。
他のバンドとは比べ物にならなかったのだ。
紫は沖縄に配属された米兵相手にクラブ「タイガー」で演奏してしているところを
大手レコード会社にスカウトされデビューすることが決まり、
本土での初めての公式ライブが「8.8ロックデイ」だった。
そのライブが大きな反響を呼び、
デビューアルバムは日本のロックバンドのレコードとしてはセールス的成功を収める。
77年にはチャー、バウワウを従えてツアーに出るが、メインアクトは紫だった。
ミュージックライフ誌の人気投票でも堂々の一位に輝く。
順風満帆に見えたが翌年、突然解散を発表する。
これには誰もが驚いた。
解散の理由は明らかにされなかったが、後年はっきりした。
その理由は何と「のんびりしたかった」というものだった。
彼らは見事な沖縄人である。
独立独歩で制約を嫌う。
絵に描いたようなアジア人だ。
紫を見るために「タイガー」に通った米兵たちはベトナムの戦場へと向かう若者たちであった。
彼らの命は短い。
だから「せめて好きなことをやってから死にたい」と願った。
紫は人気絶頂期に解散し、好きなことをやる道を選んだ。
それは米兵たちの遺言だったのかも知れない。
紫が残した唯一の30cmシングルレコードのタイトルは「DO WHAT YOU WANT」だ。
それは戦場へ旅立った米兵たちのメッセージでもある。