日本人は他人の目を非常に気にする民族だ。
つまり見栄っ張りである。
カッコ悪いことが嫌いなのは羞恥心が強いためで、
世間体のために生きているといってもいいくらいだ。
だが、羞恥心の概念というのは民族によって異なる。
インドネシア人は店に入って値段を訊いただけで、何も買わずに店を出ることは
とても恥ずかしい、と感じる。
そして人前で鼻をかむ行為はマナー違反だと思っているが、
人前で鼻をほじる行為は何とも思っていない。
何が恥ずかしいことかは民族によって異なるのだ。
中国人にとっては身分が低いことが一番恥ずかしいことだ。
儒教の影響が残っているからだ。
恥ずかしい、と感じることの概念が観念的で、
他の民族とは大きくかけ離れている
その代表例が「ニーハオトイレ」だ。
用を足している姿を他人に見られても羞恥心を感じない、というのは特徴的である。
文明社会では用を足す姿を見られる行為は非常に恥ずかしいことである。
文明社会共通の羞恥心がない、というのは
単純に人口が多くて、トイレの数が足りていなかったからなのか?
それとも用を足すという行為が自然現象で
何ら恥じるべきことではない、という合理性からなのか?
いずれにせよ世界共通の羞恥心を持ち合わせていない、というのは中国人の最大の特徴だ。
中国人を知るためには先ず中国人にとっての羞恥心とは何か、それを知るべきである。
それを知らなければ、他のあらゆることを知っても
中国人を知ることにはならないのである。
中国紙の学習時報は「社会主義を堅持しないと中華民族の優れた伝統は失われる」と警告している。
それは人民の人権に対する意識向上に共産党が危惧を抱いていることの表れだ。
引き締めを強くすればするほど反発が強くなることを理解するべきだろう。
共産党が口を酸っぱく「社会主義を守れ」とか
「伝統を守れ」といったところで中国人は自分の権利しか頭にはない。
ほとんどの中国人が社会よりも自分が大切と思っている限り
中華民族の「優れた伝統」は失われていくのだ。
歪んだ愛国教育を行ってきた代償を払わなければならない。
無論、中国人は「伝統を守るべきだ」と考える。
しかし中国の伝統は文革によってほとんど消えている。
残っているのは中華料理だけだ。
得るものがあれば失うものがある。
それがこの世の中の掟で、条理を理解するべきなのだ。
近年、中国人が得たものは外国の模倣だけだ。
自力で得たものではない。
それを失ったところでどうということもない。
自分の力で何かを得る。
それならばそれを守ろうと必死になる。
模倣をやめなければ決して尊敬を得ることはない。
中国人が本当に得たいものとは尊敬のはずだ。
尊敬を得たらそれを守りたいと思うだろう。
中国人が今欲しいものこそが中国の将来にとって欠かせないものである
尊敬を得るにはどうすればいいか?
日本人の子どもを救った留学生に教えてもらえばいい。
中国人のマナーが悪いことは世界中に知れ渡っているが
最も大胆な振る舞いは中国の百貨店での店員の態度だろう。
ダイアナ妃が生前、中国の百貨店で買い物をし、
代金を受け取った店員がつり銭を投げて返したのだ。
これにはさすがのダイアナ妃もフリーズしてしまったそうだ。
中国人は何でも投げて人に渡すのである。
商品も投げて渡す。
壊れやすいものだろうが関係ない。
それは普通の行動で、習慣なのだからどうしようもない。
そんな悪しき習慣は数え切れないくらいある。
スマホや携帯電話などが普及しているが、使い方は自己中心的で、
飛行機の中だろうが映画館の中だろうがお構いなしの状態だ。
しかも話し声が大きい。
大声で何時間も話すというのは大量のエネルギーを消耗する。
しかし中国人は疲れを知らない。
まったくタフである。
「そのエネルギーを他に使えばいいのに」と考えるのは私が日本人だからか?
仮に一時間でも大声で話し続けたら、普通の日本人ならダウンしてしまうだろう。
なぜ無駄なエネルギーを消耗させるのか?
日本人にとって些細なことでも中国人には重大なことなのだろうか?
騒音に強いのも中国人の特徴だ。
騒々しい場所でも平気で眠りこけている。
その精神力と集中力はすごい。
生まれた時から騒音の中で暮らしてきたので騒音など屁の河童なのだろう。
だから騒音に関して無頓着である。
中国人の話し声が日本人の数倍大きいとは理解できないに違いない。
そしてその話し声が理由で日本人が眠れない、なんていうことは想像もできないのだろう。
ダイアナ妃はプライバシーを傷つけられることから身を守るためにこの世を去った。
中国人には「プライバシーの侵害」という概念はない。
ダイアナ妃は中国人の無神経さを学んでいたなら、
あの世に行くことなどなかっただろう。
内閣府が発表した「外交に関する世論調査」によると、
中国に親しみを感じないと答えた日本人が80.7%に達し過去最高を更新した、という。
それは日本人と中国人に距離感が大きいことが最大の原因だ。
日本人と中国人が違うのは当然であるが
中国に利権を持つ者や、
その昔毛沢東に憧れを持っていた者、
または自虐的な歴史観から中国に対して深い同情を持つ者などの存在が
中国人に美しい衣を着せ、裸の中国人を見せないようにしてきた歴史を忘れるべきではない。
つまり「化けの皮」が剥がれただけのことだ。
日本人と中国人は人種的に極めて近いため、一見すると似ているように見えるが
内実はまったく違うからややこしいのである。
典型的な例は漢字だろう。
20年前のことだがマレーシアのクアラルンプールから列車でシンガポールまで移動したことがある。
隣の席には中国系マレーシア人の女性が座り、彼女と「筆談」をしたことがある。
彼女はマレー語、英語、福建語、北京語ができる。
それで私は自分の言いたいことを日本の常用漢字で紙に書いて彼女に見せたが、
彼女は意味をほとんど理解しなかった。
英語で意味を説明すると
今度は彼女がその意味を中国語で書いて見せたが
私にはほとんど意味が分からなかった。
親しくなった私たち二人はクアラルンプールで再会し、アメリカ映画を見ることになった。
スクリーンに中国語とマレー語の二つの字幕が表示されたが
中国語の漢字を見てもサッパリ意味が分からなかった。
中国語の漢字と日本語の漢字では意味が大きく違う。
しかも中国語は漢字しか使わないのでアメリカ人の名前もアメリカの町の名前も漢字を当てはめる。
発音が近い漢字を当てはめるだけでその単語に意味はない。
だから漢字に意味があるのかどうか、それすら分からない。
中国語の新聞を読んでも意味はほとんど分からないだろう。
「分かる」という人はいるが、おそらく勝手に解釈しているだけだろう。
だから勘違いが起きるのである。
勝手に解釈してしまうと、大きな問題の原因になってしまうだけだ。
しかも日本人の中にはインドの凡語(サンスクリット語)と中国の言葉とを混同している人もいる。
中国ではすっかり仏教は廃れてしまい、中国人は仏教用語をまったく知らない。
中国人に「油断大敵」とか「一期一会」などと紙に書いて読ませても知るわけがない。
それはサンスクリット語であって決して中国語ではない。
勝手に中国語と思って漢字で書いて見せても意味が通じるはずがないのである。
中国語でトイレット・ペーパーは「手紙」と書く。
便箋で尻を拭くからではない。
便箋なんかで拭いたら痔になってしまうだろう。
「日本人は手紙の意味を知らず便箋で尻を拭き痔になってしまった」と
中国人が勘違いしても仕方がないことだ。
親しみを感じない理由は距離感が大きいからだ。
その距離感をなくす方法は漢字の意味の統一しかないだろう。
自由とは一体何を意味するのか?
秩序を保つためには自由を捨てるべきなのか?
世界中の全ての人が好き勝手なことをやり始めたらどうなるだろうか?
そうなったら地球はたちまち滅亡してしまう。
そんなことは子供にでも理解出来る。
もしも理解出来なければ人間をやめた方がいい。
フランス人は革命よりも先に秩序を作った。
秩序を作った上で、革命を起こして王制を廃止したのだ。
つまり秩序があって初めて民主主義が誕生したのである。
人間は秩序を作る能力があり、それに従う能力がある。
だからこそ動物とは違う道を歩むことが出来たのである。
秩序を失くしてしまえば動物と同じ生き物になってしまうだろう。
中国にも秩序はあるにはある。
だが国民は自由を捨てることが出来ない。
その上、秩序を乱すものを取り締まる者がいない。
いや、いることはいるのだが、その方法に合理性がなく
取り締まる者に権力はあっても、良心がないため
秩序が正常に保たれていないのだ。
そんな中国ではあるが政治の自由はなく、政治犯は迫害される。
共産党政権を転覆させようと試みる者こそが「秩序を乱す者」と断罪されるのだ。
中国には政治的言論の自由はないが、それ以外の自由は満ち溢れている。
小便をしたければ、どこでもそれをする。
痰を吐きたければ、どこでもそれをする。
大声で叫びたければ、どこでもそれをする。
邪魔者を殴りたければ、どこでもそれをする。
中国人の自由は街に溢れ返っている。
威嚇運転、暴走運転、飲酒運転など秩序を乱す行為などやりたい放題であり、
事大主義が通用する社会だ。
買い物にもルールなどない。
好き勝手に行動する。
商品は手にとって見て、気に入らなければポイと投げ捨てる。
子供が商品を手で握り潰すのを見ても、注意しないし、
カートに子供を乗せ、一緒に店内をグルグル回って遊ぶ。
レジの列に並ぶかどうかも自由だ。
並びたくなければ弱そうな客を見つけて割り込む。
皆が自由を謳歌すると収拾がつかなくなる。
中国のスーパーマーケットは自由市場なのだ。
だから皆が自由に発言すれば中国は方向性を失い、迷路に入ってしまうだろう。
だからこそ言論統制を行うのだ。
中国政府は国民から政治的発言の自由を奪うために
それ以外のすべての自由を与えるのである。
中国人の民度が低いのには理由があるのだ。