テロを防ぐためには、IS勢力拡大の背景を探ることが重要課題だ。
フランスはシリアなど多くの国を植民地にし、
第二次世界大戦やインドシナ戦争では植民地の兵隊を利用している。
現在のフランスの地位は植民地の兵隊のおかげといえる。
もしフランスに植民地がなければ今の国連常任理事国の地位はあり得ない。
植民地の人々を利用した結果、現在のフランスという国が存在するのである。
しかし、植民地からの移民は尊敬されず不遇で、不満が溜まっている。
彼らにとってISは共感できる存在なのだ。
第二次世界大戦やインドシナ戦争で戦った植民地の兵隊は士気が上がらずすぐに投降した。
なぜフランス軍があれほど弱かったのか、それには理由がある。
植民地の兵隊(外人部隊)はフランスのために命を懸けたりしない。
当然だ。
だからすぐに投降してしまう。
しかし多くの犠牲者を出してフランスのために貢献している。
戦争は「血を流した」 という事実が重要なのである。
現在、ISは奴隷貿易を行っているが、
フランス人は日本軍の仏印進駐まで奴隷貿易を行っていた。
それを禁止したのは日本軍だ。
ISが行っていることは実はかつてフランス人が植民地で行っていたことだ。
フランスはシリアを含めた北アフリカやインドシナなどを占領し、
アヘンでぼろ儲けし、現地人に重税を課している。
結婚税を払えない者は正式に結婚することさえできなかった。
客観的に見れば、フランスには攻撃される要素があるのは明白で、
ISに参加を希望する者は増えることはあっても減ることはないだろう。
1975年ディープパープルの日本公演はバンド最大の汚点を残した。
リッチー・ブラックモアに代わるギタリストとしてトミー・ボーリンが加入した
パープル最後の来日公演は散々の出来だった。
何しろボーリンは日本に来る前インドネシアに寄って質の悪い麻薬に手を出し、
指が言うことを利かなくなっていたのだった。
今もその公演の模様はライブ音源として残っているが聞くに堪えられない。
インドネシアといえばソ連がアフガニスタンに侵攻した時、
多くの義勇兵を送り込んだ国として今も語り継がれている。
義勇兵たちはアフガニスタンから麻薬を持ち帰ったのかも知れない。
戦争と麻薬は切っても切れない関係にあるからだ。
おびえた兵士に麻薬を与え、恐怖心を排除することは軍の常套手段だ。
1998年のインドネシア騒乱でも反体制派は民衆に麻薬を与え
常軌を失わせてから暴動に参加させている。
ちなみにソ連のアフガニスタン侵攻はイスラム世界を一変させるエポックメイキングである。
イスラム世界を親米派と親ソ派に二分。
その後の911テロに繋がる大きな事件なのだ。
シリアは親ソ派の代表でサリンの製造技術はロシア伝来である。
私がバリ島を初めて訪れたのは1989年だ。
その頃はまだメジャーな観光地ではなかったが、
その数年前まではビーチにヒッピーたちが集まって白昼堂々とマリファナを吸っていたという話はよく聞いた。
インドネシアはかつてオランダの植民地であったから
麻薬に寛容な旧宗主国の影響があったのかも知れない。
グループサウンズのスパイダースが1960年代バリ島で映画を撮って以来
日本のミュージシャンの間で「バリに行けばマリファナがやりたい放題」という噂が広まり、
たくさんのミュージシャンがバリに渡っている。
その頃のことを知っている人は今でも過ぎ去りし日々を懐かしんでいることだろう。
そしてソ連がアフガニスタンに侵攻したことを憶えている人は
シリアがサリンを使用したことを疑うことはないはずだ。
職業軍人であった伯母の亭主はいわゆる「南方ボケ」になって復員した。
「南方ボケ」とは敗戦後、武装解除し、捕虜収容所に入れられ
現地で特にやることもなく、ボーッとして過ごし、帰国後に魂の抜け殻になってしまい、
何も手がつかず周囲の人たちから
「ボケて帰って来た」と揶揄された兵隊のことだ。
たしかに南方(伯母の亭主の場合はタイ)にいて、
戦争が終わった安堵感も手伝って脱力感からボケてしまったとしても不思議ではない。
戦争というとマスコミは最前線で戦った悲惨な体験をした兵隊にスポットライトを浴びせるが、
実際には激戦地ではない場所で終戦を迎えた部隊もいるのだ。
インドネシアから独立した東ティモールはその典型だ。
東ティモールはポルトガル領で、ポルトガルは中立国だった。
といってもかなり枢軸国に近かったが。
そこに駐留していた兵隊はオーストラリア軍の侵攻を待ち構えていたが、
待ち続けている間に終戦になり、戦わずして捕虜になった。
そんな部隊もあったが、当時無傷で帰国した兵隊たちに対する風当たりが強く、
無事だった彼らは口を閉ざした。
伯母の亭主も戦争体験についてはほとんど何も話さなかったらしい。
彼は職業軍人だった。
つまり志願兵だ。
それでいて無傷で帰って来たのだから、かなり風当たりが強かったはずだ。
兵隊はどの部隊に配属されるかで、全く別の運命を背負うことになる。
祖父(母の父親)は徴兵され、同じ町から出征した兵隊たちの中の唯一の戦死者になった。
母はよく「父は本当に運が悪かった」とこぼしたものである。
兵隊の運命なんてものは成り行きでしかないのだ。
毎年8月15日、中国政府は日本軍に勝利した日として国民に共産党の正当性を示し、
「歴史を鑑に」と日本政府に訴える。
しかし、戦艦ミズーリで日本の降伏文書に、
勝利者として署名したのは蒋介石であって毛沢東ではない。
中国共産党が支配する現在の中国は戦勝国ではないのだ。
アメリカが台湾を見捨てたおかげで「幸運な戦勝国」になったつもりでいるだけだ。
1942年、蘭領東インドのジャワに日本軍が上陸した時、
ほとんどのオランダ兵は逃亡した後だった。
しかし米軍の援護によって戦況が激変、「幸運な戦勝国」になる。
私はジャワ島中部の町シドアルジョで北海道生まれの石井さんという残留日本兵に会ったことがある。
1995年のことだからおそらく亡なくなられただろう。
捕虜になった時に受けたオランダ兵からの仕打ちはひどいものだったと彼は言った。
帰国のために用意した船を岸壁に着けず、
海に丸太を浮かべて「これに乗って船まで行け」と嫌がらせをして
日本兵が海に落ちるのをみて笑い転げていたという。
シドアルジョではたくさんのインドネシア人に会った。
友人宅に居候させていただいたのだが、
「日本人が近くにいる」という噂を聞いて数人の老人が私を訪ねて来た。
そして私に日本の軍歌を唄ってくれた。
オランダ兵が日本兵の捕虜をいじめているのを目撃していて、
「オランダ野郎は日本人にひどいことしやがった。日本人が可哀そうだった」と言った。
オランダ兵は戦わず逃げたことが悔しかったのだろう。
インドネシア人は見ていたのだ。
強いはずのオランダ兵が血相を変えて逃げて行く姿を。
蒋介石の国民党とオランダ政府はアメリカと同盟したおかげで戦争に勝利することができた。
日本政府はドイツと同盟したおかげで、「廃墟の国」になった。
パートナー選びを間違えると、破滅への道を歩むことになるのだ。
あの戦争の最大の教訓がそれだ。
日本人の考え方は独特だといわれ、「結果」よりも「過程」に目を向けたがる。
茶道や華道、柔道、武士道などにはいずれも「道」という言葉がある。
「物事を極める」は「道に従う」ということだ。
日本人は「結果」よりも「過程」が重要だと考えるのだ。
これは独特の考え方だ。
日本では「結果」が良くても「過程」が悪いと評価されない。
日本人はそれを「ケッカオーライ」と呼ぶ。
間際らしい言葉だ。
意味は「結果のみはオールライト」ということだ。
外国人が聞けばきっと正しい「結果」のことだと思うだろう。
日本人は「結果」が正しくても「過程」が正しくなければ納得しないのである。
だから時に重要なサインを見落とすことがある。
「太平洋戦争は日本軍の真珠湾攻撃で幕を開いた」といわれているが
実はそれよりも先に日本軍はマレー半島で英国軍を攻撃している。
その時日本軍は戦闘機だけで英国の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈させている。
当時、戦闘機といえば偵察に使うのが一般的で、
戦闘機を主体にした戦法は確立されていなかった。
つまり初めて戦闘機だけで戦艦を撃沈させた大変重大な意味をもつ戦闘なのだ。
正しく戦史に残る大きな出来事である。
それまでの戦闘といえば戦艦と戦艦が攻撃し合うスタイルで、
戦闘機は相手の戦艦を探す役割くらいしか与えられていなかったのだ。
ちなみに私はマレー沖海戦が行われたとされるマレーシアのクアンタンに出かけ、
町を散策したことがある。
どこにでもあるような普通の町で、特に新しい発見がなかったことは残念だった。
日本軍はこの成功(正しい結果)を「ケッカオーライ」と判断し、
大艦巨砲主義に執着して戦艦主体の戦法にこだわった。
つまり「結果」よりも「過程」にこだわったのである。
やられた方の英国軍・連合国軍の方がこの「結果」を重要視し、
大艦巨砲主義を捨て、戦闘機主体の戦法に変えるのだった。
ちなみに真珠湾攻撃はアメリカの陰謀だという説があるが、私は同意しない。
真珠湾攻撃だけならそれもあり得るが
日本軍はマレー半島でも同じことをしているのだ。
マレー半島を攻撃したのは山本五十六ではない。
日本人はとにかく「過程」に執着する民族である。
「過程」と「結果」ふたつ揃わなければ納得しない。
「結果」だけいいのは「運が良かっただけだ」というのである。
けれどもそれは日本人独特の考え方であり「運が良かったことを認めたくない」という願望がある。
日本人は運で片付けることを拒否したい心裡が働くのだ。
だから太平洋戦争で戦死した兵士の遺骨収集にこだわる。
「運が悪かった」と片付けたくはないのだ。
外国人であればおそらく「運が悪かった、諦めるしかない」と思うだろうが、日本人は違う。
諦めきれないのである。
真珠湾攻撃だけが脚光を浴びるが、
実はマレー沖海戦は重要な課題に日本人を向き合わせる。
「過程」と「結果」はどちらも同じくらい重要な意味を持つ。
どちらかひとつにだけ目を向けると重要なサインを見落とすことを忘れてはいけないだろう。