パーソナリティーとはキリスト教の神から与えられるもので、
その日本語訳は「人格」や「個性」ではなく、
該当する日本語は存在しない。
パーソナリティーとは「神から与えられた存在」という意味であり、
日本人の人格や個性は神から与えられるものではない。
キリスト教の世界観を理解できなければ
パーソナリティーの意味も理解できないのである。
心理学の背景にはキリスト教の世界観がある。
つまり心理学はキリスト教徒によって作られたもので
キリスト教徒にしか適用できないのだ。
キリスト教徒の心理と仏教徒の心理は違う。
つまり日本人に心理学は当てはまらないのである。
エリック・クラプトンが4歳で亡くなった息子に捧げた歌
「ティアーズ・イン・ヘヴン」の歌詞の意味は
キリスト教の世界観を知らなければ理解することはできない。
無論、訳詩も無理だ。
キリスト教の概念における死は「神の元に戻る」ということなのだ。
当然だが、神の元に戻ったら、
生きていた時のパーソナリティではなくなる。
天国で家族に再会したとしても既に家族ではなくなっているのだ。
クラプトンが息子に天国で再会したとしても、
息子は彼を父親だった人とは認識できない。
「ティアーズ・イン・ヘヴン」が切ないのはそこにある。
日本人は「あの世でまた家族に会える」と本気で考えるが
キリスト教徒はそのようには考えない。
天国に行って再会できても、家族ではないのだ。
だからとても残酷な歌だ。
日本人が考えるような生易しい歌ではない。
歌詞の中で「see」ではなく「saw」と言っているのは
再会することはあり得ないからだ。
絶対にあり得ないと分かっているから「saw」を使っているのである。
クラプトンは天国で息子に会い、謝りたいと願っている。
日本人ならそれは可能だが、
キリスト教徒には不可能なのだ。
つまり謝ることさえ許されないのである。
歌詞には「もしお前が私の名前を知っていたら」とあるが、
日本人なら「もしお前が私を覚えているのなら」とするはずだ。
二人の関係は天国では親子ではないのだ。
日本人ならあの世でも親子のままでいられる。
クラプトンは天国で息子に出会えたとしても、
もはや親子の関係はないのだ。
何と残酷な話だろうか?
私はこのような残酷な歌を他に知らない。
ある心理学者は「ガンの発生原因と人間の性格には関係がある」と説くが、
いかにも西洋人らしい発想である。
キリスト教徒にとっては人間のパーソナリティーは一つしかない。
「一人の人間に対して一つの性格が神から与えられる」というのがキリスト教の基本的な考え方であるからだ。
東洋思想はキリスト教の教え方とは異なる。
「一人の人間には複数のパーソナリティーが存在する」という考え方なのである。
人間の性格も含めあらゆるものは諸行無常なのだ。
時と場合によって変化する生き物が人間である。
ところが現在の日本人というのは明治維新以来西洋思想に侵され
物事の発想方法が西洋人と同等になってしまったので
「一人の人間の性格は一つしかない」と考えている。
だから西洋から伝達された心理学を簡単に受け入れてしまう。
心理学はキリスト教の世界観が根底にある。
人間の行動には合理的な理由がなくてはいけない。
その理由を探すのが心理学である。
けれども私はそうは思わない。
人間の行動すべてに合理的な理由があるとは限らないからだ。
何年か前、鴻上尚史のコラムに面白いことが書いてあった。
インフルエンザが流行した時、欧米人がマスクをしなかった理由はキリスト教にあるのだそうだ。
だがそうやって人間の行動に合理的説明を求めることこそがキリスト教的発想なのである。
欧米人だろうが中国人だろうがマスクなどしない。
ただ単純に鬱陶しいからで特別な理由はない。
人間は不快に感じることはしないものだ。
不快に感じることに説明など要らない。
人間の行動すべてに合理性を追い求めるからこそ、ストレスが溜まるのである。
理由を説明出来ない他人の行動を見ると
その理由を説明出来るまで納得しないのである。
殺人という行為に必ずしも合理的な理由があるとは限らない。
古代人は特に大きな理由もなく殺人をしている。
古代人も現代人も同じ人間なのだ。
つまり男性との出会いの多い場所が職場である合理的理由について考えてみたところで意味はないのである。
場所は結果に過ぎない。
その場所にいるだけで誰もが良い結果を得ることができるはずがない。
心理学に依存すると物事の本質を見失うことを知るべきだろう。